#17 対バンってなんですか?
6月29日。ADAMASとの2マンライブを翌日に控えた最後の練習は、窓の外が橙色へ変わるまで続いた。ヒナのギターが長く伸び、ハルナの鍵盤がその下へ淡い和音を重ねる。ユイのベースが最後の1音を支え、リョウヘイがシンバルの余韻を残したまま両腕を止めた。音が消えても、誰もすぐには動かなかった。
1か月前なら、曲を終えるたびに誰かが顔色を窺っていた。ユイはリョウヘイへ、ハルナはユイへ、ヒナは全員に。けれど今は、4人とも同じところで息を吐き、同じ熱の中に立っている。新歓ライブで演奏した曲も、ヒナのギターが加わったことで、もう3人だった頃と同じ形には戻れなくなっていた。リョウヘイは耳の奥に残った演奏を確かめてから、スティックを膝へ置いた。
「今日はここまでにしよう。明日が本番だしな」
「もう1回だけやらない?」
ユイが言う。額には汗が滲んでいるのに、目だけはまだ帰る気がなかった。
「お前の『もう1回』は信用してない。昨日、そこから5回やった」
「今日は本当に1回」
「昨日もそう言ってた」
「昨日のアタシと今日のアタシを一緒にしないで」
「24時間で人間性は変わんないんだよ」
ハルナが譜面台の陰で笑い、ヒナも俯きながら小さく口元を緩めた。
まだ詰めたい箇所はある。演奏に完成などないと、リョウヘイは嫌というほど知っていた。直そうと思えば朝まで直せるし、朝になれば別の粗が見つかる。
だからこそ、本番前には止める判断が要る。最後に鳴らした音が4人とも気持ちよかったなら、今日はそれを身体へ残して帰る方がいい。
「足りない分は、明日のステージで出せばいい。練習室で全力を使い切るな」
「それ、初日に言ってよ!アタシは毎日全力で生きてるの!」
「素晴らしい、もうお前は一生そのままでいい」
ユイは不満そうにしながらも、素直にベースのシールドを抜いた。ハルナは楽譜を順番どおりファイルへ戻し、ヒナはアンプの電源を落とす前に、名残惜しそうに1度だけ弦を鳴らす。片づけが終わる頃、窓の外には夜の青が混じり始めていた。
「せっかくだし、帰る前に決起会しない?」
ベースケースを背負ったユイが提案する。
「駅前のファミレス。明日に向けて、ちょっと贅沢しようよ」
「ファミレスで贅沢って、何を頼むの?」
「ポテトを2皿」
「思ったより慎ましかった…!」
ハルナが笑いながら、ヒナへ目を向ける。
「ヒナちゃんも行ける?」
「はい。行きたい、です」
返事まで、ほとんど間がなかった。以前のヒナなら、誘われただけで何度も周囲の顔を見て、自分が混ざっていいのか確かめていたはずだ。今も人の多い場所が得意になったわけではない。それでも、4人でどこかへ行くことを『迷惑かもしれない』より先に『行きたい』と思えるようになった。
その変化に気づいたのはリョウヘイだけではなかったらしい。ユイとハルナが一瞬だけ顔を見合わせ、何も言わずに嬉しそうに笑った。
学校近くのファミレスは、部活帰りの生徒や仕事を終えた大人たちで賑わっていた。楽器ケースを壁際へ寄せ、4人は窓辺の席へ収まる。注文を終えると、ユイはドリンクバーで入れた炭酸を高く掲げた。
「よし。明日に向けて、バイブス上げてこ!」
「バイブス言いたいだけだろ」
「バイ…ブス…?」
「気にしなくていいよヒナちゃん」
リョウヘイもアイスコーヒーのグラスを持ち上げ、ハルナとヒナもそれに続く。4つのグラスが触れ、軽い音を立てた。
「明日か。楽しみだな」
口に出すと、胸の奥にあった高揚が改めて形になった。
前世では、数え切れないほど対バンをしてきた。客のほとんどいない平日のライブハウスも、袖まで人で埋まるイベントも知っている。出演順を巡って揉めた夜もあれば、初対面のバンドと朝まで飲み、次のツアーを一緒に回ったこともあった。
それでも、明日はそのどれとも違う。
今の身体になってから初めて立つ本格的なライブハウス。そして、ユイ、ハルナ、ヒナと初めて臨む対バンだ。過去の経験で落ち着いている自分と、15歳の身体で浮き足立っている自分が同居している。油断すれば、今夜は遠足前の子供より眠れないかもしれなかった。
「ふふ」
正面のハルナが笑った。
「なんだよ」
「リョウヘイくん、この前からずっと嬉しそうだから。ワクワクした子供みたい」
「そう見える?」
「うん。練習中も、普段よりよく笑ってた」
自分では隠していたつもりだった。リョウヘイが居心地悪そうに頬をかくと、ユイが横から覗き込む。
「へえ。ハルナ、よく見てるね」
「えっ? み、見てたというか、同じ部屋にいたら分かるよ」
「アタシは分からなかった」
「ユイちゃんは鏡を見てる時間の方が長かったから」
「女子の髪型、大事でしょ!」
「俺の機嫌よりは大事だな」
助け舟を出したつもりだったが、なぜかハルナはさらに頬を赤くした。リョウヘイには理由が分からず、運ばれてきたポテトへ手を伸ばす。
「ヒナが入ってから、初めてのライブだもんな。たぶん、今までで1番すごい音になる。俺も遠慮せず叩くから、3人とも覚悟しとけよ」
「初めての……ライブ」
ヒナがストローを指先で挟んだまま、小さく繰り返した。練習では、もう3人の視線を受けても弾けるようになった。だが明日は、100人を超えるかもしれない観客の前に立つ。配信の画面越しではない。失敗しても撮り直せず、顔も名前も隠せない、朝比奈ヒナとしての最初のステージだ。
緊張が戻ってきたのかと思ったが、ヒナの表情に浮かんでいたのは、それだけではなかった。知らない場所の入口を、怖がりながらも自分から覗こうとする目だった。
「あの……1つ、聞いてもいいですか?」
「何?」
「対バンって……なんですか?」
テーブルの上で、ユイの手が止まった。
「そこから?」
「す、すみません……。ふんわり言葉は知ってるんですけど、何をするのかは……対戦相手?みたいな認識でいいんですか?」
ヒナは10年もギターを弾いている。だが、その10年のほとんどは自室で、ギターと2人きりだった。配信者『ピナ』として多くの人に演奏を見られていても、他のバンドと楽屋やステージを共有した経験はない。知らなくて当然だった。
リョウヘイはテーブルへ肘をつかないよう姿勢を直し、できるだけ簡単に説明する。
「1つのイベントに、複数のバンドが出ることだ。同じステージを順番に使って、一緒にその日のライブを作る。相手よりいい演奏をしたいって気持ちはあっていい。でも、ライバルではあっても敵じゃない」
「一緒に、作る……」
「出番が違うだけで、同じイベントの出演者だからな。片方が時間を守らなければ次が困るし、機材を雑に使えばスタッフも困る。客だって、2組とも楽しみに来る。自分たちの時間だけ良ければいいって話じゃない」
ヒナは新しいコードを覚える時のように、真剣な顔で頷いた。
「でも向こう、敵意は隠してなかったよ」
ユイがポテトをつまみながら言う。中庭でADAMASに詰め寄られたことを、まだ完全には飲み込めていないらしい。
「それでも、明日はちゃんと敬意を払え。先輩だからじゃない。対バン相手で、俺たちをステージへ呼んでくれた主催者だからだ」
「向こうが失礼でも?」
「向こうの態度は向こうの問題だろ。俺たちまで失礼になっていい許可証にはならない」
ユイは言い返しかけ、口を閉じた。納得はしたが、簡単に頷くのも悔しいという顔だった。
「リョウヘイくん、今日はずいぶん先生みたいだね」
ハルナが感心したように言う。
「普段は何に見えてるんだ」
「授業中、よく窓の外を見てる人」
「かなり正確に見られてた」
ユイが吹き出し、ヒナも緊張を忘れたように笑った。リョウヘイはポテトを1本取って、続ける。
「敬意は払う。その上で、正面から音でぶっ飛ばす。それが1番失礼がない」
「どっちなんですか……?」
ヒナが困惑する。
「両方。手を抜く方が失礼だろ」
ADAMASは、校内誌へ2か月続けて選ばれるだけの演奏を積み上げてきた。6月号の記事を奪われたと感じるほど、あの場所へ本気だった。ならばlunatiが返せるものは、言い訳でも遠慮でもない。呼んだことを後悔させるほどの演奏だけだ。
ユイが身を乗り出す。
「じゃあ、やっぱり勝つってこと?」
「勝ちたい気持ちは持ってていい。でも、バンドの良し悪しは点数にできない。明日は審査員もいないし、速く弾いた方が1ポイント、声が大きい方が2ポイント、なんて決まりもないだろ」
「あったらアタシ、声で稼げるのに」
「日常生活では減点されてるぞ」
「誰に?」
「俺たち」
「なんで審査員!?味方でしょ!」
ハルナが笑いながらも、やがて真面目な顔で尋ねた。
「でも、同じ日に演奏したら、どっちが上手かったって比べられるよね」
「比べる人はいる。俺たちだって、相手の演奏を見れば思うことはある。でも、上手い方が必ず客の心を動かすわけじゃない」
リョウヘイは店内を見渡した。近くの席では家族連れが食事をし、奥では高校生たちがスマートフォンの画面を囲んで笑っている。明日の客席にも、演奏者ばかりが集まるわけではない。
「この学校にいると、上手さの違いばかり見える。何拍子だとか、どれだけ速いとか、コードがどう動いたとか。でも、普通の客はそんな採点をしながら聴かない。すごいことをしてると分からなくても、好きか嫌いか、楽しいか退屈かは一瞬で分かる」
ヒナの指が、膝の上でわずかに動いた。明日弾くフレーズを、無意識に確認しているようだった。
「じゃあ……テクニックは、いらないんですか?」
「逆だよ。伝えたいものを、ちゃんと音にするために要る。テクニックは言葉みたいなものだ。知ってる言葉が多ければ、細かい気持ちまで話せる。でも、難しい言葉を並べるだけじゃ、誰にも伝わらないだろ」
「でも……もし明日、手が動かなくなったら……」
声と一緒に、ヒナの指も止まった。
「その時は、まず俺の音を聴け。全部取り戻そうとしなくていい。1音だけ入って、次にもう1音入ればいい。ユイもハルナもいる。曲は3人で進めておくから、ヒナは戻れるところで戻ってこい」
「止めないんですか……?」
「止めてほしい?」
「い、いえ……止められた方が、怖いです」
「じゃあ決まりだな」
あまりに簡単に答えられ、ヒナは何度か瞬いた。失敗しないという約束ではない。失敗しても居場所が消えないという約束だった。
「もし全員止まったら?」
ユイが余計な場合を持ち出す。
「4人で謝る。そこまで綺麗に止まれたなら、責任も綺麗に4等分だ」
「急に現実的」
「失敗した時だけ他人のせいにするバンドより健全だろ」
ハルナが笑い、ヒナの固まっていた指も再び動き始めた。
「完璧に近づけるための練習は要る。でも、本番で練習の答案を見せるわけじゃない。積み上げたものを1度忘れて、目の前の音を選べるようにするために練習するんだ」
リョウヘイはヒナを見る。
「ヒナが10年かけて身につけたものは、明日全部役に立つ。でも客に見せたいのは、10年分の練習メニューじゃない。ヒナがギターを好きで、止める理由が来るまで弾いてしまう人間だってことだ。そっちは、説明しなくても音に出る」
取材の日、自分が話した言葉を思い出したのだろう。ヒナが目を見開き、それから恥ずかしそうに視線を落とした。
「ユイの歌も、ハルナの曲も同じだ。上手さを見せるために演奏するんじゃない。曲を演じて、奏でる。だから『演奏』なんだと、俺は思ってる」
しばらく、4人の間には店内のざわめきだけが流れた。
リョウヘイが口にしたのは、前世で何百本ものライブを重ね、上手いだけでは届かない音と、不格好でも人を掴む音を見てきた末に残った答えだった。正解かどうかは分からない。ただ、明日の3人には、それを信じてステージへ立ってほしかった。
「要するに、俺たちが好きなものを、俺たちの音で思いきりぶつける。それでADAMASも同じように返してきたら、客は2組分得をする。たぶん、それが1番いい対バンだ」
ユイが最初に笑った。
「分かった。相手を嫌いになるより、その方が楽しそう」
「私も好きだよ、その考え方。相手の音まで良かったら、こっちももっと良くなれそうだし」
ハルナも頷く。
最後に、ヒナが膝の上で両手を強く握った。大勢の前へ出る恐怖は消えていない。それでも、怯えるだけだった瞳の奥に、ギターを持った時だけ現れる熱が灯っていた。
「分かりました。私も……ぶっ飛ばします!」
普段のヒナから最も遠い言葉が、最も真剣な顔で飛び出した。3人が一瞬黙り、次の瞬間、同時に笑う。
「な、なんで笑うんですか……?」
「いや、すごくいい。頼もしい」
「誰をぶっ飛ばすの?」
ハルナが尋ねると、ヒナは途端に慌てた。
「ADAMASさんを……じゃなくて、音で、その……お客さんの心を……! 物理的には、何もしません……!」
「そこまで説明しなくても、誰も通報しないよ」
ユイが肩を揺らして笑い、ヒナの肩を軽く小突く。ヒナは顔を赤くして縮こまったが、少しすると、自分でもおかしくなったように笑い始めた。
「じゃあ改めて。明日、頑張ろう」
リョウヘイがグラスを中央へ差し出す。ユイが勢いよく重ね、ハルナが優しく添え、ヒナも恐る恐る近づけた。2度目に重なった音は、最初より少しだけ強かった。
店を出ると、昼間の熱を残した夜風が4人の制服を揺らした。駅へ向かう人の流れの中、ヒナはもうギターケースを盾にせず、ユイとハルナの間を歩いている。3人の少し後ろを進みながら、リョウヘイはその背中を眺めた。
1か月前まで、ヒナは壁の向こうでしか3人と音を合わせられなかった。
明日は、その壁が客席までなくなる。
怖くないはずがない。
けれど4人なら、怖さごと演奏に変えられる。
6月30日。
ADAMASとの2マンライブ。
まだ名前を得たばかりのlunatiが、その名を音にして、初めてステージへ立つ。
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