#12 魂が弾きたがってるんだ
※本作は全話に挿絵があります。
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また、たまにイメージソングも記載しています。
よければ楽曲とあわせてお楽しみください。
放課後、4人はスタジオ棟へ続く渡り廊下を歩いていた。傾き始めた日差しが、窓枠の形を長く床へ落としている。廊下には運動部の掛け声や、管楽器の途切れ途切れのロングトーンが混ざり、授業中とは違う学校の顔が広がっていた。
その中を先頭で進むユイだけが、遠足へ向かう小学生のように何度も振り返る。
「聞いて! 今日、たまたまスタジオのキャンセルが出たんだって! しかも、アタシが予約ページ開いた瞬間!」
「それ、教室でも3回聞いた」
「何回聞いても運命は運命でしょ! 壁越しに出会った天才ギタリストと、その次の日には4人でスタジオ! ここまで揃ったら、もう偶然の方が言い訳できないよ!」
「偶然を追い詰めるな」
呆れながらも、リョウヘイの口元には笑みが浮かんでいた。
「でも、これだけ偶然が続くと、本当に運命ってあるのかもな」
「リョウヘイくんまで……」
ハルナが困ったように笑う。その隣では、ヒナがギターケースの持ち手を両手で握り、少し遅れて歩いていた。
昼休みより顔色は硬い。教室まで迎えに来た3人を見た瞬間には、机ごと窓の外へ逃げそうな目をしていた。それでも、帰るとは言わなかった。
ハルナが歩幅を落とすと、ヒナもそれに合わせて1歩ずつ足を運ぶ。時折、2人の手の甲が触れそうになるほど近づいても、今度は逃げなかった。
廊下に伸びる4人の影は、まだ綺麗には重ならない。ヒナの影だけが少し後ろに離れ、それでも曲がり角のたびに3人を追いかけてきた。
「ヒナちゃん、大丈夫?」
「だ、大丈夫……です」
返事はしたものの、ヒナ自身、何が大丈夫なのか分かっていなかった。
昼休みに頷いた時は、リョウヘイとまた演奏できることしか考えていなかった。あのドラムを、今度は壁越しではなく、同じ部屋で聴ける。その想像だけで指が熱くなり、怖さより先に身体が返事をしてしまった。
けれど、スタジオ棟へ近づくほど、胸の奥へ沈めていた記憶が輪郭を取り戻していく。
防音扉。
アンプの電源が入る音。
自分以外の誰かが楽器を構え、こちらを見る時間。
1度だけ、同じ場所へ立ったことがあった。
スタジオの前へ着くと、ユイが取っ手へ手を掛ける。力を込めて引くと、分厚い扉がゆっくり開いた。
「さあ、運命の初セッション――!」
「勝手に開幕するな。まず準備」
リョウヘイに頭を押さえられ、ユイが「髪崩れる!」と騒ぎながら中へ入っていく。
そのくだらないやり取りに笑えたのは、扉をくぐるまでだった。
部屋へ1歩入った途端、空気が変わった。壁一面に貼られた吸音材。床を這う黒いケーブル。アンプと機材が微かに放つ、温められた金属の匂い。
外の部活の声は、扉が閉まると同時に綺麗に消えた。
逃げ場のない静けさだった。
「ヒナちゃんのアンプ、マーシャルでいいかな?」
ハルナの声に頷き、ヒナはケースを開いた。黒いギターを持ち上げ、ストラップを肩へ掛ける。
いつもなら、それだけで呼吸が整う。
シールドを挿し、アンプのつまみを家と近い位置へ合わせ、6本の弦を順番に鳴らす。チューニングにも狂いはない。指は動いていた。手順も間違えていない。
それなのに、準備を終えた3人がそれぞれの楽器の前へ立つと、指先から急に血の気が引いた。
ユイがベースを肩へ掛け、ハルナが鍵盤の前へ座る。リョウヘイは椅子の高さを直し、スネアの位置を数ミリだけ手前へ寄せた。
誰もヒナを急かしていない。
誰も笑っていない。
だからこそ、怖かった。
「みんな、いけるか?」
「うん」
「オッケー!」
2人の返事のあと、リョウヘイがヒナを見た。
ただ確認されただけだ。それでも、3人分の意識が自分へ向いた気がした瞬間、左手がネックの上で固まった。
息が吸えない。
心臓ばかりが速くなり、アンプの小さなノイズまで自分を責める声のように聞こえる。
「……わたし……やっぱり、無理です……」
やっと出た声は、自分のものとは思えないほど細く震えていた。
「ごめんなさい……」
リョウヘイはスティックを下ろした。
「どうした?」
責める響きはない。
優しくされるほど、自分がこれから3人を失望させることが苦しくなった。
「昔……1回だけ、中学でバンドに入ったことがあります……」
言葉にすると、忘れたふりをしていた光景が蘇る。
一緒にやろうと言ってもらえたことが嬉しくて、何度も練習した。家では、どんな難しいフレーズも弾けた。合わせる曲も全部覚え、相手のパートまで頭へ入れた。けれど、スタジオでメンバーに見られた瞬間、何もできなくなった。
最初の音を外した。
弾き直そうとして、また外した。
頭では次のコードが分かっているのに、指が自分のものではないように動かない。止まるたびに演奏も止まり、待たせていると思うほど、さらに身体が固まった。
「みんな、優しい人たちでした……。最初は、大丈夫って言ってくれて……何回も、待ってくれて……」
だから、誰かを悪者にすることもできなかった。
「でも私、人前では全然ギターが弾けなくて……練習しても、次に会うと、また手が動かなくて……」
ストラップの下で肩が震える。爪を立てても、右手の震えは止まらない。
「最後に、もう来なくていいって……言われました」
その言葉だけは、今も耳のすぐ近くで聞こえる。
それでも、配信なら弾けた。顔を映さず、誰の視線もない部屋でなら、何度失敗しても撮り直せる。少しずつ見てくれる人が増え、『ピナ』の演奏を待ってくれる人もできた。
けれど、朝比奈ヒナのまま誰かと音を出すことは、2度とできないと思っていた。
「昨日は……壁があったから、弾けただけです。顔も、見えなかったから……。同じ部屋なら、また……絶対……」
その先は声にならなかった。
スタジオへ、アンプのノイズだけが残る。防音材が4人の呼吸まで吸い込み、沈黙を重たくしていた。
最初に動いたのは、ユイだった。
ベースを抱えたまま1歩前へ出て、真っ直ぐヒナを見る。同情している顔でも、無理に励まそうとする顔でもない。
ライブの直前に「絶対できる」と言い切った時と同じ、根拠があるのかないのか分からない目だった。
「関係ないよ」
「……え?」
「だって、ヒナはもうアタシたちと弾いたじゃん」
「でも、あれは……」
「壁があっただけでしょ?」
ユイは吸音材を指で軽く叩いた。
「壁1枚なくなったくらいで、昨日のギターが消えるわけないじゃん。ヒナの指、ちゃんとそこにあるし。音は嘘をつけない」
あまりに単純な理屈だった。
昔の失敗も、積み重なった恐怖も、何1つ解決していない。
それなのに、ユイは疑わなかった。
ヒナ自身よりずっと強く、ヒナの音を信じていた。
「これで弾けないわけないでしょ!」
ユイが、リョウヘイへ合図を出した。
それだけで何かが伝わった。
リョウヘイは問い返さず、スティックを振り上げた。言葉で大丈夫だと伝えても、今のヒナには届かない。それが分かっているような目だった。
「待っ――」
ヒナの声を掻き消すように、1小節のシンプルで強烈なドラムイントロをネジ込む。
直後、バスドラムがスタジオの空気を押し出しシンバルが空間を切り裂いた。1拍目の重さを身体が覚えていた。スネアが2拍目を切り開き、細く閉じたハイハットが、その先へ続く道を作る。
たったそれだけで、昨日の曲が目の前へ現れた。
ユイのベースが低い位置から飛び込み、ハルナの鍵盤がその輪郭へ淡い色を重ねる。2人ともヒナを見ていない。自分の楽器だけを見て、当たり前のように曲を始めている。
次に入る音を、ヒナは知っていた。
(ひ、弾かなきゃ……!)
考えるより先に、左手が最初のコードを押さえた。
右手を振り下ろす。
アンプから飛び出した音は、震えていなかった。
リョウヘイのハイハットが僅かに開き、ヒナのギターを迎え入れる。もう1度コードを鳴らすと、バスドラムが同じ場所へ重なった。
耳へ届くより先に、床から伝わった低音が両足を支える。
怖いはずだった。
目を上げれば3人がいる。
壁はない。逃げ込める自分の部屋でもない。
それでも、リョウヘイのドラムを追っている間だけは、誰かの視線を探さずに済んだ。
次のスネアが来る。
その直前に音を切る。
ハルナが和音を広げる。
そこでは高い弦へ移る。
ユイの歌が始まれば、言葉の隙間を空ける。
全部、知っている。
あの日、1度聴いただけの曲を、家で何度も探した。昨日の壁越しの演奏で、3人の癖まで身体へ入った。
今は、その記憶をなぞるだけでいい。
そう思っていたのは、最初の数小節だけだった。
ユイの歌声が、すぐ隣から飛んでくる。スピーカー越しに聴いた時より荒く、息遣いまで近い声だ。
その後ろでハルナの鍵盤が1音だけ形を変え、ヒナのための隙間を空けた。ハルナが伝わったか確かめるような目で見つめる。
(誘われてる…!)
一瞬できた隙間にアドリブで16分音符を乱雑に散りばめる。しまった、と思うより早く、リョウヘイのスネアが返ってくる。
間違いを隠してくれたのではない。
ヒナの音を受け取り、その先を要求する1打だった。
もう1度。
今度は、自分からフレーズの終わりを半拍早く切る。空いた場所へベースが入り、鍵盤がコードの上下を反転させた。3人の音に押され、また知らない旋律が指先から溢れる。
覚えたはずの曲が、目の前で次々と上書きされていく。けれど壊れてはいない。4人の音がぶつかるたび、それまでなかった形へ変わっていく。
(気持ちいい…!)
その言葉を思い浮かべた途端、胸の奥に閉じ込めていた何かが弾けた。
もっと弾きたい。
もっと返してほしい。
このドラムへ、届く音を出したい。
高い弦へ駆け上がり、チョーキングの頂点で音を揺らす。リョウヘイがシンバルを鳴らさず、あえて空白を残した。
その静けさに甘えるように音を伸ばし、限界まで焦らしてから、一気に低い弦へ落ちる。
次の瞬間、クラッシュシンバルとギターが同時に爆発した。
身体の奥まで震えた。
ヒナが何を弾きたいのか、言葉にするより先に分かってもらえる。
こちらも、リョウヘイが次にどこへ連れていこうとしているのか分かる。ドラムに追いつこうとするたび、自分でも知らなかった音が出る。
壁越しの昨日より近い。
音だけではない。
スティックが振り下ろされる軌道も、息を吸うタイミングも見える。そのすべてが怖さを増すのではなく、次の1音を選ぶ合図になっていた。
10年間、1人でギターへ流し込んできたものが、初めて誰かへ向かっている。自分の意思とは関係なく、手が、身体が勝手にギターを求めている。
違う、この感覚は
――魂が弾きたがってるんだ
ユイの声へ噛みつき、ハルナの和音へ潜り、リョウヘイのリズムへ何度でも飛び込む。
4人の音が部屋を駆け巡り、狭いはずのスタジオが、どこまでも広がっていくようだった。
最後のサビで、ユイとハルナがヒナの方を見ながら歌った。2人のハーモニーと言葉が全てヒナに向けられて歌っている。
目が合った。
逃げるより先に、ユイが笑う。
ハルナが微笑む。
ヒナも、笑って泣いていた。
最後の1音を4人で伸ばし、リョウヘイの合図で同時に切る。
静寂が戻った。
ヒナはギターを抱えたまま、大きく息を吸った。額から汗が流れ、左手の指先が熱を持っている。
心臓は走ったあとのように暴れていたが、演奏前の苦しい鼓動とは違っていた。
ユイもハルナも息を弾ませ、驚いた顔でヒナを見ている。リョウヘイもスティックを握ったまま、しばらく言葉を発しなかった。
壁越しに感じたものは、間違いではなかった。
ヒナは3人の曲を正確に弾いただけではない。途中から自分の音で3人を動かし、それでも全体を壊さず、昨日まで存在しなかった4人の曲へ変えてみせた。
リョウヘイが探していたのは、この音だった。
誰も、自分の失敗を探していない。
その事実に気づき、ヒナの胸へ遅れて喜びが込み上げた。
弾けた。
誰かの前で。
誰かと一緒に。
「なぁ……ヒナ」
リョウヘイの声には、演奏の熱が残っていた。普段なら1度頭の中で整えてから話す彼が、今は剥き出しの衝動をそのまま言葉にしていた。
「俺たちと組んでくれないか?」
喜びが、凍りついた。
組む。
今日だけではなく、次も。その次も。
練習して、期待されて、いつか人前へ立つ。
今できたことより、いつかまた弾けなくなる瞬間の方が鮮明に浮かぶ。
優しかった人たちの困った顔。何度も演奏を止めた時間。そして、最後に言われた言葉。
もう来なくていい。
もし、この3人にも同じ顔をさせたら。
もし、みなさんに失望されたら。
もう耐えられない。
「あ……あ……」
返事をしなければと思うほど、息が浅くなる。
ヒナは後退り、震える手でギターのボリュームを落とした。シールドを抜き、ストラップを外そうとして髪へ引っかける。
「ヒナちゃん…」
ハルナの声にも答えられない。
やっとギターをケースへ収めても、留め具を2度掛け損ねた。
「ちょっと、待って!」
ユイが急いで近づこうとした、その時だった。
「止めるな!」
リョウヘイの鋭い声が、スタジオを打った。
ユイの肩が跳ね、伸ばしかけた手が止まる。その隙に、ヒナはケースを抱えて扉へ走った。
涙で取っ手が見えず、1度手を滑らせる。
ようやく開いた扉から廊下へ飛び出し、振り返らないまま駆けていった。
重い扉が閉まる。
足音さえ、すぐに防音壁の向こうへ消えた。
4人で鳴らした音の熱だけが残る部屋で、3人は動けずにいた。リョウヘイは追いかけなかった。
今のヒナに必要なのは、逃げ切れる場所だった。ここで捕まえて返事を求めれば、今日の演奏まで怖い記憶へ変わってしまう。
そう分かっていても、扉を見たまま立ち尽くすことしかできない自分が、ひどく無力に思えた。
「ユイ」
振り向くと、ユイは先ほど手を伸ばした姿勢のまま固まっていた。
「大きい声出して、ごめんな」
その一言で緊張が切れたように、ユイが駆け寄ってきた。勢いのままリョウヘイの胸へ額をぶつけ、制服を両手で掴む。
「ぐずっ……怖かった」
いつもの強い声ではなかった。
「怒られたと思ったか?」
胸元で、小さく頷く気配がする。
「ごめんな。ユイが悪いんじゃない。止めたら、ヒナがもっと怖くなると思った」
リョウヘイは、ユイの頭をゆっくり撫でた。高い位置で結んだ髪を崩さないよう、手のひらをそっと乗せる。
「……わかってる。ビックリしただけ」
「ごめんな」
「もうちょっと優しく『止めないでね』とか言ってよ」
「あの状況でそんな保育士みたいな言い方できるか」
「できなくても努力して!」
胸へ顔を押しつけたまま言い返す声に、少しだけいつもの調子が戻っていた。
「ほんと、ごめん」
もう1度謝ると、ユイの指からようやく力が抜けた。
少し離れた鍵盤の前で、ハルナが2人を見ていた。リョウヘイの手と、その胸元へ収まるユイへ一瞬だけ視線を落としたあと、いつもの柔らかな表情へ戻る。
「ハルナも、ごめん。びっくりした?」
「ううん。私は大丈夫」
ハルナは小さく首を横へ振った。
「あれで、よかったと思う。ヒナちゃん、引き止められたら、もっと苦しくなってた」
「うん……アタシも、今なら分かる」
ユイがリョウヘイから離れ、閉じた扉を見つめる。
「でも、逃げたってことは、嫌だったってこと?」
「演奏が嫌なら、あんな音は出ない」
リョウヘイは即答した。
「音は嘘をつけない」
技術だけで弾ける音ではなかった。
ヒナは途中から、覚えた曲も、人に見られている恐怖も忘れていた。3人の音をもっと欲しがり、自分から何度も仕掛けてきた。
あれほど雄弁に弾いた人間が、言葉へ戻った途端に逃げてしまう。
それでも、音は嘘をついていない。
「誘われたのが、怖かったんだと思う」
ハルナが言った。
「今日できたからこそ、次にできなかった時が怖くなったのかも」
リョウヘイは頷いた。
演奏中、ほんの一瞬だけヒナと目が合った。
あの時の笑顔を、見間違えたとは思わない。
「明日、また話そう」
窓の外は、いつの間にか夕暮れの色へ沈んでいた。
オレンジ色の光が、床に伸びる3人の影と、ヒナが立っていた場所を同じ色に染めている。
4人で鳴らした音の余韻は、まだ壁の奥に残っているようだった。
答えは聞けなかった。
それでもリョウヘイには、もう分かっていた。
ヒナの魂は、言葉より先に返事をしていた。
イメージソング
晴レ舞台/LiSA
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