6.邂逅ー2
燦が学校に来なくなって、約ひと月が経った。今まで、2、3日姿を見せないことはあったが、こんなことは初めてだった。
杏は今、プリントを届けるという名目で燦の家があるマンションの前に来ている。しかし、着いてから暫く経っていた。くるくると、日傘を回しながら逡巡を重ねた後、意を決して一歩を踏み出した。
エントランスでインターフォンを押す。暫く待ったが、応答がない。もう一度押すが、結果は同じだった。以前、母親は日中家にいると聞いたことがあったが、偶々不在なのだろうか。ダメ押しでもう一回押すと、少しの間の後気だるげな女性の声が聞こえた。
「…はぁい、何の御用?」
「あの、西城燦くんにプリントを届けに来たのですが」
「…あぁ、それならいらないわよ。あの子、この一か月くらい一度も帰って来てないから」
「え?」
予想外の言葉に、杏は言葉を失う。
すると、男の声が聞こえた。
「おい、いつまで待たせんだよ」
「あん、ちょっと待ってよ、ダーリン。ま、そういうことだから。じゃあね」
ぶつりと、通信は途切れてしまった。
あまりに無関心な彼女と愛人らしき男の登場に、杏は開いた口が塞がらず、ただただ立ち尽くしていた。
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杏はスマホを手に、静かに燦のトーク画面を眺めていた。空白をカーソルが点滅し続ける。
「やっぱ、ここにいた」
顔を上げると、宵が覗き込んでいた。
屋上手前の踊り場。そこは杏にとって数少ない安寧の地だった。
「顔色、良くないね」
そう言って、宵は杏の隣に座る。
杏はスマホを置くと膝を抱えた。
「何の用だよ」
「様子見に来てあげたの。はっきり言って、今のあんた何するかわかんないから」
「…余計なお世話だよ」
杏は腕に顔を埋める。
「燦の行方、いつでも追えるよ?」
「いい。僕に、そんなことする資格ない」
「…あの日、何があったか、いい加減教えてくれない?」
暫しの沈黙の後、微かに震えた声が発せられた。
「次があるって言われたんだ」
それを聞いて、宵は頭を抱えた。
「それって、もしかしなくとも愛良先輩のこと…よね」
杏は顔を上げずに頷く。首元のペンダントを静かに握りしめた。
喜多見愛良。高等部一年で杏の彼女――だった人だ。そしてどうやら、燦は彼女に関してこう言ったらしい。
「杏は女子に人気があるし、また次があるよ」
その言葉に激怒し、つい言いすぎてしまったと、杏は落ち込んでいた。
宵は開いた口が塞がらなかった。自分がいない間に、まさかそんな致命的な発言をしていたとは。杏の反応は尤もなもので、寧ろ今燦を気にかけているのが異常まであった。
約ひと月半前――五月半ばに、喜多見愛良は自らの手でこの世から旅立ったのだから。
燦にとってその言葉は、善意百パーセントの励ましの言葉だったのだろう。そして、杏もそれをわかっているから、自分が吐いた言葉を悔やんでいるのだろう。
近頃の杏は心ここに非ずといった具合で、何事にも身が入っていなかった。珍しく小テストで失点を重ねるほどに。体調も不安定になっており、休むことも増えていた。ただでさえ細い体も、更に細くなっている。
「燦のことだから、どこかで楽しくやってるわよ。ね?」
なんとか、励まそうと言葉をかけたが、返ってくるのは沈黙ばかりであった。
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一枚の紙を手に、杏は佇んでいた。
『数学 93点』
今までに取ったことのない点数だった。
期末試験。結果は散々だった。何とか学年一位になれたものの、二位とはたったの一点差。ぎりぎりの結果だった。
紙を持つ手に、力が入る。これを見た母は、一体どんな反応をするだろうか。
杏は酷く重い足取りで家路についた。
「杏、お帰りなさい」
ダイニングに、母の弾んだ声が響く。テーブルにはハンバーグが置かれ、トマトソースの香りが漂っていた。
「た、ただいま」
杏はなんとか平静を装う。
「もうできているから、すぐに食べちゃいましょう」
母に促され、杏は鞄を脇に置いて席に着いた。
「それで?期末試験はどうだったのかしら?結果、返ってきてるんでしょう?」
その言葉に、杏は体を強張らせる。おそるおそる、鞄から成績表を取り出す。
それを見た瞬間、母の顔から温かみが消え去った。
「へぇ…。そう…。この点数は何なのかしら?理由を教えてくれる?」
「テ、テストに、身が入っていませんでした」
「暫くは調子よかったものねぇ。油断が出たのかしら?でも、ここ最近、調子悪かったわよねぇ?小テストなんかで失点してたでしょう?」
母の言葉に、杏はうつむく。膝に置いた手に力が入り、手汗が滲んだ。
「これじゃあ、二位との差も殆どなかったでしょう?良かったわね、二位の子が愚鈍で。でも何度も言っているでしょう?ただの一位じゃ意味がないって。あなたが目指すべきなのは、完璧な一位なの。次はもっと頑張りましょうね。まあ、一位は取れたのだし、ハンバーグは良しとしましょう。食べていいわよ」
「…いただきます」
杏は箸を手に取り、一口目を切り分ける。口に入れれば、なじみ深い、大好きな、母の味が広がった。
しかし、美味しいとは感じることができなかった。
そして下腹部では、じりじりとした違和感が静かに囁いていた。
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そんなある日の朝食。
《9月16日午後、千葉県屏風ヶ浦で「人の死体のようなものが岩場に引っかかっている」と近隣住民から警察に通報がありました。
警察によりますと、発見された遺体は15歳前後の男性とみられ、複数の外傷が確認されているとのことです。
その後の捜索で、遺体が発見された岩場の周辺から複数の荷物が見つかったほか、海岸上部の崖付近で複数の血痕が確認されました。
警察は、荷物の中から見つかった身分証などから、遺体は東京都在住の西条燦さんである可能性が高いとみて身元の確認を進めるとともに、崖から転落した可能性も含め、事件と事故の両面から詳しい経緯を調べています。》
杏の目に一つのニュースが飛び込んできた。思わず、杏は箸を落とす。目を見開き、呼吸も忘れて、そのニュースに見入っていた。
尚更、勉強が手に着くわけがなかった。ニュースのことが頭から離れない。杏の前には、まっさらな答案用紙が置かれていた。
ピピピピピッ
教室に、タイマーの音が響いた。後ろから、答案用紙が回収されていく。名前すら書かれていない紙が回収されていくのを、杏はただ眺めていることしかできなかった。
案の定、母にはどういうつもりなのかと、激怒された。ただ謝罪の言葉を口にすることしかできない。
自習を命じられ、自室に戻り、参考書を開いた。だが、手は一切動かない。
自分があんなことを言ったから、燦はその言葉に従って、身を投げたのだろうか?自分があんなことを言ったから、燦は何かしらの事件に巻き込まれて、命を落としたのだろうか?自分があんなことを言ったから。自分があんなことを言わなければ。
終わりのない、自問自答が続く。その問いかけは、次第に四六時中脳内を埋め尽くし、杏は囚われていくのだった。
「杏、これを見て」
数日後、屋上前の踊り場で宵が一つの動画を杏に見せた。
《発見された遺体は西条さん本人ではなかったことが分かりました。一方、現場から検出された血痕は西条さん本人のものと判明しており――》
「私の方でも、行方を追っているの。杏、些細なことでもいい。何か心当たりはない?」
そう問いかけられ、杏は一つの光景を思い出した。小五の夏、あの秘密基地で見た光景が脳裏をよぎる。
「…彩瘴。燦は、異能者だと思う」
「それは、異能を使うところを見たの?」
「えっと…痣らしきものを、見たことがある」
「でもそれだけじゃ、異能者かどうかは…」
「いなくなる前の燦はなんだか異様に力が強かったし…!」
宵は杏の様子に首をかしげた。異能者というには、根拠が薄い。杏らしくなかった。何かを隠している…?そう思い、探るように顔を覗き込む。杏はとっさに、顔をそむけた。宵はその様子を見て、確信する。杏は何かを知っている。
けれど、宵が追及することはなかった。今つついても杏の警戒心を高めるばかりで、収穫はないと分かっていたから。
「とりあえず、そっちの線で探ってみる。杏、あまり気にしすぎないようにね。あいつはそんな軟じゃないって、あんたもよく知ってるでしょ?」
宵がそう言葉をかけると、「わかってるよ」と返事が返ってきたものの、その瞳は空を見つめていた。
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中間試験。言うまでもなく、結果は散々だった。全教科八十点台。テスト結果が九割を下回ったのはこれが初めてだった。
「前までできていたでしょう!?何なのこの結果は!?」
廊下に母の怒号が響く。キッチンからは、いつものトマトソースの香りが漂ってきていた。
「ごめんなさい」
杏はうつむき、謝罪する。耳元で響く母の怒声に、目をつむった。
「聞いているの!?あなたのためを思って言っているの!どうして言うことを聞けないの!?そんな子じゃなかったでしょう!?」
「う”っ、!」
突如髪を掴まれ、強引に顔を上げさせられる。
「おかあ、さ」
「こんな子の母親になった覚えはありません!!言い訳はいいから、さっさと勉強なさい!!」
杏の瞳に涙が滲む。
杏は鞄を拾い上げると、二階の自室へと足早に向かっていった。
暫くして、静かな部屋にノック音が響いた。
扉が開き、杏が振り向くと、お盆を手にした母がそこにはいた。
「杏ちゃん、さっきはごめんなさいね。少し、怒りすぎてしまったわよね」
母はいつも通りの、いや、いつもよりも甘い声で話しかける。そして、杏ちゃん――。杏はその呼び方に少しばかり眉をしかめた。
「お夜食を持ってきたの。少し、休憩した方がいいわ」
お盆には、温かいミネストローネがあった。
「ミネストローネも、大好きでしょう?一位じゃなかったからハンバーグは食べさせてあげられないけど、このくらいは許してあげるわ」
「ありがとう、母さん」
杏は机の上を片付けると、お盆を受け取る。
すると、母は杏の肩に手をまわし、そっと抱きしめた。
「ごめんなさいね、杏ちゃん。あなたが頑張っていること、お母さんは誰よりも知っているのに」
「…いいんだよ、母さん。僕のことを思ってくれてのことだって、ちゃんとわかっているから」
杏は回された腕にそっと手を添え、そう答えた。下腹部の違和感は無視できないほど大きくなっていた。
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「うぅ、ぐ、ぅ、…っ」
あくる日の晩、杏は酷くうなされていた。
『お前のせいだ。お前のせいでボクは』
よく知る手が、杏の喉元に迫る。
「っ、ぅぐ、ぅぅう”、けほっ、ひゅーっ、っ」
手は杏の細い首を包み込むと、じわりと力を込めていった。
『あなたも、同じ思いをすればいいのよ。わたしと同じ苦しみを味わって。わたしのこと、愛してくれているんでしょ?』
今度は耳元で甘い声が囁かれた。よく知っている、女性の声。もう二度と聞くことのできない、彼女の声。
「ん”ん”ぅ、う”ぅ”、げほっ、けほっ、はあっ、はあっ…はぁ…」
杏は目を覚まし、上体を起こした。喉元をさすって、一息つく。先ほどまでの感覚が、生々しく残っていた。
気分転換に水を飲もうと、階下へ降りると何やら話し声が聞こえてきた。
「ですから、お母様、もう少し見守ってはいただけませんか。杏は思春期で不安定な時期ですし…」
どうやら、母は祖母と通話しているようだった。杏はとっさに、身をひそめ聞き耳を立てる。
「あの子も頑張っているんです。どうか、もう少し猶予を…」
『――――、――――――』
「私がふがいないばかりに、ご迷惑をおかけしていることは、重々承知しています。ですが、あの子は私なんかと違って、とても優秀でいい子でしょう…!?」
改めて、母が置かれている境遇を実感する。杏は静かに洗面台へと向かった。顔を洗い、淵に手を置いてうつむいていると、下腹部の違和感が強くなる。
「なんだこれ…」
服をめくると、下腹部には錆色の痣が広がっていた。慌てて隠し、反射的に後ろを確認する。
彩瘴。その言葉が、杏の頭をよぎった。下腹部を抑え、暫しの間茫然とする。
杏は自室に戻ると、パソコンを起動させた。彩瘴について検索する。
『ストレス』『通報義務』『収容所』『異能』『暴走』
どれも知っていることだったが、他人事だったそれらは、急激に自身の身に降りかかった。
ベッドに身を投げ、枕に顔を埋める。その晩、杏は静かに枕を濡らし続けた。
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「どうして言ったことができないの!?」
季節は移ろい、冬の期末テスト。言うまでもなく、杏の成績は散々であった。この頃には杏は、度重なる心労と不眠により半年前とは比べ物にならないくらい衰弱していた。それは、学校に通えているのが奇跡に見えるほどだった。
皿の割れる音が、家に響く。
杏の横をかすめていった皿が、背後の壁で砕け散った。
バチンッ
鋭い音が、杏の頬を襲った。ひりひりと、左頬が痛む。
「お母さんが悪いの!?お母さんが出来損ないだから、あなたもそうなったの!?あなたが勉強に集中できるよう、あんなにサポートしたのに!!何がいけなかったというの!?」
杏はただひたすらに、立ち尽くして黙って怒号を聞いていることしかできなかった。すると、「何か答えたらどうなの!?」と、また左頬に痛みが走る。
その衝撃で、杏はよろめき、しりもちをついた。
「んぐ!ん”ん”っ、ぐっ」
途端に、何かを口に押し込まれる。よく知っているトマトの風味――母手製のハンバーグだった。
あまりの勢いに、床に倒れこむ。抵抗しようと藻掻いたが、馬乗りになった相手に対抗するのは簡単ではなかった。
「あなたならできるはずでしょう!?この間まではできていたじゃない!なんでやらないの!?」
ハンバーグが、喉奥まで押し込まれていく。杏は嗚咽し、涙が溢れていった。
何とか顔をそむけ、ハンバーグを吐き出す。
母の手から逃れたのも束の間、今度は首に手が伸びてきた。
「お、か”あ”、さ…」
母の手首を握り、縋るように母を呼ぶ。ぽたぽたと、杏の頬に雫が落ちた。
「お母さんだって、頑張っているの。お母さんだって、苦しいの。お母さんだって、あなたを愛しているのよ」
ぼやけた視界の中で、はっきりと母の苦悶の表情だけは捉えられた。その姿に杏は酷く胸を締め付けられ、更に涙をこぼす。
首を絞める手に更に力がこもっていく。
「あなたは完璧じゃないといけないの!!お母さんのせいでそんな身体で産まれてきてしまった分、少しでも完璧でないといけないのよ!!!」
意識が遠のき始め、杏は必死に抵抗した。激しく藻掻く中で、杏は母の肩に手をかけ、勢いよく突き飛ばした。
ガシャン!と激しい音が響く。
「げほっ、っげほ、けほっ、はあっ、はあっ」
杏が起き上がると、母は床に伏して沈黙していた。一気に、血の気が引く感覚が全身を襲う。
「おかあさん…?」
母の元へ近寄り、仰向けに体勢を変える。おそるおそる頭部に触れると、生暖かい、血色の液体がべちゃりと手に付いた。
激しい動悸に、胸を抑える。
僕が、殺した…?母さんを…?僕が、母さんを、ぼくが、、、おかあさ、ん、、、
段々と呼吸が浅くなっていく。じりじりとした違和感が下から上ってきて、首元へ達しようとしていた。思考は秩序立っておらず、平衡感覚もあやふやになっていく。
訳も分からないまま、杏は家を飛び出していた。
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変なところで冷静だった杏は道中の公園で血を洗い流すと、駅へと向かった。
何の当てもなく、ただ漠然と海の方へ向かう。浜辺が見えてきたところで適当に降り、歩を進めた。
人気のない砂浜で、ただ茫然と立ちすくみ、とめどなく涙が溢れていく。
そうして、どれだけの時間がたっただろうか。
水平線の向こうがかすかに白み始めた頃、杏は海へゆっくりと歩を進めた。
杏を岸に追い返すように、波が歩を阻む。しかし杏は構わず、ゆっくりと、着実に沖へと向かった。
「もったいないと、思うよ」
水面が腰を越えた頃、後ろから声をかけられた。
杏がゆっくりと振り返ると、一人の青年が海へと足を踏み入れていた。
一章完結です…!
果たして、これから燦と杏はどうなっていくのか。
二人の行く末を温かく見守っていただけると幸いです。
(反応を頂けると励みになります…!)
それではまた、二章でお会いしましょう。




