20.乱
打つ手がない。
ロイの頬を汗が伝っていく。
短く息を吐いて、両手の斧を握り直す。
降りかかってくる巨大な拳を紙一重でかわし、その隙に斧を叩きこむ。
しかし、βと呼ばれていた男の巨躯は一切の揺らぎを見せなかった。
何度も斧を叩きこまれた腕はもう骨まで見えているというのに、動きに躊躇いが生まれない。
鼻を突くうっとうしい程の血の匂いに、嫌気が差す。
あまりに変わらぬ状況に、ロイは息が詰まるような感覚を覚えた。
それを振り払うように、軽く首を鳴らした。
押しつぶすように降ってきた拳を上に飛んで避けると、ロイは腕を登り、肩口からうなじへ向けて刃を食い込ませた。
うなじの肉がごっそりと抉れる。
しかし、βの動きは止まらない。
腕に薙ぎ払われ、ロイは再び吹き飛ばされ、地面を転がった。叩きつけられた壁にひびが入り、欠片が崩れる。
横腹を押さえながら体を起こした。ぽろぽろと、ロイの背に刺さった石片が落ちる。
肋骨をやられただろうか。動くたびに刺すような痛みがロイを襲った。
手元の斧に目をやると、柄がぽっきりと折れていた。
「…しょうがない。拳でやりあうしかなさそうだな」
ロイはジャケットを脱ぎ半分に引き裂くと、それぞれを両手に巻き付けた。
呼吸を整え、ゆっくりと歩いて距離を詰めるβに向けて、拳を構える。
「かかって来いよ、木偶。本気の力勝負といこうじゃねえか」
その言葉に応えるように、βは歩を速め、ロイに向けて拳を握り直した。
一方、その頃。
龍之介はひめこに致命傷を与えた。
筈だった。
その刃は、数ミリ届かず。右足は地面に埋まっていた。
代わりに、龍之介の腹部にナイフが突き刺さっている。
「阿良汰、くん…っ、どう、してっ」
龍之介は後方へナイフを薙ぎ払い、阿良汰を遠ざける。
前方へ発砲しひめこを牽制すると、強引に右足を引き抜いた。
その拍子に、腹部から血が噴き出る。
「まずいっすね…っ、これはっ…」
ひめこから距離を取り、そう言って笑う龍之介の顔には、冷や汗が浮き上がり、心なしか顔色も悪くなっていた。
乱れる息を何とか整えようと、痛みをこらえて深呼吸をする。
阿良汰に目を向けると、ナイフを手放し、膝をついて両手で顔を覆っていた。
ひめこは、そんな様子の二人を前に、舌なめずりをする。
「阿良汰。わたしを手伝ってちょうだい」
ひめこの言葉に、阿良汰の肩がぴくりと反応する。
「…だめ。だめ、だよ。…っ、おかあ、さん」
阿良汰の口から、そう言葉が零れた。
息は乱れ、肩が上下する。
阿良汰を包む甘い香りが、一層濃くなった。
離れているはずの龍之介さえ、濃密な甘い香りにむせた。
「どうして駄目なの?」
ひめこは阿良汰に近寄り、そう問いかけた。
「だって、りゅう、の…すけは、味方、だか…ら」
「それは、お母さんよりも大事なの?」
「それ、は…」
ひめこは阿良汰の正面にしゃがみ、顔を覗き込んだ。
「お母さんが、阿良汰を守ってあげる。だから、阿良汰もお母さんを守って」
「…もう、ひとりにしない?」
「もちろん。ずっと、一緒よ。死ぬまでね」
ひめこはそう言って、阿良汰の頬に手を当てる。
阿良汰はそのぬくもりに安心したように、頬をすり寄せた。
「阿良汰くん…!!」
龍之介の言葉は届かない。
体から血の気が引いていくのを感じた。耳鳴りが頭につんざく。
息をするたび、腹から体が引き裂かれていくような感覚に襲われる。
中から、血の味が込み上げてくる。
ロイはβにかかりきりで頼れない。
自分が、何とかしなければ。
でも、どうすれば。
その時、建物を縦に貫くように音が辺りに轟く。
そして、大量の瓦礫と共に、何かが龍之介の近くへ降ってきた。
瓦礫が龍之介を襲う。
龍之介はその場に蹲るしかなかった。いくつかの激しい衝撃が背を貫き、呻き声が漏れる。
共に降ってきた人影は、地面に叩きつけられた後、二、三度咳をして体を起こした。
「衛…さん?」
龍之介がそう呟いた時。
土煙の向こうから、βと酷似した男が姿を現した。
❖❖❖❖❖
「杏!!」
とっさに、燦は杏の元へ駆け寄ろうとした。
それをわかっていたかのように、燦の足元へ数発の鉛球が撃ち込まれる。
「杏。話してやれよ、このわからずやに。お前が嫌いだって」
サリオンの言葉に、杏はかすかに顔を上げる。
「そんなことないよね?ボク、ちゃんと知ってるよ、本心じゃないって」
「………れよ」
「ボクたち、親友だよね?今までだって、これからだって…」
「黙れよ…!!」
杏の酷くかすれた声が、微かに響く。
「一旦、黙ってくれよ………。お願いだから………」
「でも、」
「でもじゃねぇよ。おまえはいっつもそうだな。俺の言うことを全く聞きやしない」
「そんなことっ」
「ああ、そうだな。そんなことなくなったんだよな。よりによって、あんな言葉だけ律儀に守って姿消しやがって」
杏は泣くように笑みを浮かべた。今はもう一つしかないその瞳で、射貫くように燦を睨む。
燦は、見たことない杏の表情に酷く戸惑った。
今自分が見ているのは現実なのだろうかと、目を疑う。
「俺は、………僕は、お前が思っているような人間じゃない。酷く醜悪で、みっともなくて、ちっぽけで」
「そんなことない!」
「そんなことあるんだよっ」
「そんなことないよ!杏はいつも綺麗で、かっこよくて、頭良くて――」
「やめろ!そんな良いもんじゃない」
「杏はいつも完璧なんだ!!ボクなんかとは何もかもが違って――」
「やめろっていってんだろ!!そんなんだからお前のことが大っ嫌いなんだ!!」
杏のその言葉に、辺りが静寂に包まれる。
はくはくと、燦の口からは空気だけが漏れ出た。
「え………?」
やっと出たのは、それだけだった。
「ずっっっっと大嫌いだったよ、お前のこと!何も知らずにへらへらとうっとうしく付きまといやがって!!何言っても聞いちゃいないし、なんも見ちゃいないのに、余計なことばっか言ってくるし、余計なことばっかするし!!」
杏は、燦を蔑むように笑う。
「ずっと、後悔してた。お前をかばうなんて、馬鹿なことしなければよかったって。そんなことしなきゃ、お前に付きまとわれることもなかったし、………っ、あんな、惨めな思い、しなくて済んだのにっ」
言葉と共に、雫が地面へと落ちる。
杏の瞳からは大粒の涙が溢れ、小さな嗚咽が漏れていた。
初めてだった。
燦は初めて、杏が泣くところを目にしていた。
肩を震わせ、身を縮こまらせて泣く、弱々しい杏の姿に、燦は何を言葉にすればいいのかわからないでいた。
幼い頃のあの日。砂をかけられていた自分をかばってくれたあの背を、初めて自分に差し出されたあの手を、優しくかけてくれたあの声を、今でもありありと覚えている。
その姿は、とても美しくて、温かくて、かっこよくて、眩しくて。
それが、燦にとっての杏だった。ずっと、変わらないものだった。それは、これからもそうであった筈で。
それなのに今、目の前にいる杏は小さくて、弱々しくて、刺々しくて、痛々しくて。
知らない。こんな杏は知らない。一体いつから?………最初から?
「宵ちゃんは………宵ちゃんは、知ってるの…?」
燦の言葉に、杏は一瞬目を見開くと、憎らしげに笑った。
「当然だろ」
その言葉に、燦は金槌で殴られたかのような衝撃を覚えた。
知らない。
ボクだけが。
杏が、ボクの一番なのに。
ボクだけが、何も知らない。
今まで信じていたものが、崩れていく音がした。




