9.そして幕が上がる
翌日の朝、誰よりも早く目を覚ましたのは、響也に飲みすぎだと散々心配されていた好宗だった。
「やっぱり俺、テンション上がってんだな」
一人でそう呟く。在学時代も、前日がどんなコンディションでも本番の日は無駄に早起きをしたものだった。子どもの頃の遠足やらのイベントのときと同じなのだろう。この本番前の高揚感。高校まで運動部だったので、その時の試合前も味わってはいたが、演劇はまた一味違う感じがして、それがたまらなく好きだった。
新菜の指示を受けながら役者陣が舞台のセッティング、響也は音響とビデオカメラの準備をしている。新菜は記録を残すつもりはないと言っていたが、折角だからと灯里たちに説得されたのだ。当の灯里は買い物で出かけているらしく、本番までには戻ると言っていた。
「ちょっといいか?」
準備が終わった頃、千帆と一緒に誠に呼ばれた。そこがちょうど舞台の出はけ口(リビングの隅っこ)だったので、本番直前によく役者陣で舞台袖に集まり、円陣を組んでいたのを思い出した。
「円陣か?よーし、やろうぜ!」
好宗は誠と千帆の肩をぎゅっと抱き寄せた
「痛たっ!なにすんのよ」
千帆が怪訝な顔を見せる。誠は二人のやりとりにハハっと笑っていた。そんな誠から激励の一言があるかと思いきや、出てきたのは思わぬ言葉だった…。
灯里が早めに戻ってきたので、予定時間より巻きでスタートすることになった。
役者陣が舞台袖にスタンバイすると、響也が客入れ用のBGMを流し始めた。ノートパソコンのスピーカーからの音なので小さく、そもそもお客さんはいないので必要ないはずだが、「このほうがテンション上がるだろ?」と、響也が用意してくれたのだ。確かにそうだった。ここはただのリビングのはずなのに、段々とあの頃の舞台の景色、匂い、会場に入るお客さんの声、色々な記憶が蘇ってくる。誠は一人、あの頃とは似て非なる緊張感を抱えていた。ちらりと音響席のすぐそばに立つ新菜を見る。そして手に持つ台本をきゅっと握った。
間もなく、新菜が指で合図をすると、BGMも音量が上がり、灯里が照明を暗くした。いよいよ、幕が上がる。
出だしをいきなり好宗がトチったが、千帆と誠でうまくカバーした。手に台本を持ってはいるが、大事な台詞は顔を上げて、相手の役者や客席側を見ながら演じていた。誠は今、エディとして生きている。ストーリーが進むにつれて、どんどんのめり込んでいく感覚がする。やっぱり演劇って楽しい。
「ジェニー、君はまだ、暗闇の中にいるんだね」
「何言ってるの?見ての通り、ちゃんと外にいるわ」
「身体的にはね。でも心はまだ闇の中だ」
「どういうこと?」
「希望という光がまだ見えないんだ。いや、もっと正確に言うと、この先に光があるんだって、信じられていない。今まで宇宙工学を信じられなかった君だから、無理もないと思う。でも、それでも信じてほしい。僕たち仲間を。一緒に頑張ってきた日々を」
舞台上の二人を見つめながら、灯里は、千帆がこのシーンをとても大切に演じているのが伝わって、胸が熱くなった。もうすぐクライマックスだ。灯里は役者の気持ちに寄り添うような気持ちで、照明をゆっくり切り替えた。
いよいよラストシーンに差し掛かった。
「メインエンジンが限界。もうダメ。このままじゃ、壊れる」
「ジェニー、何弱気なこと言ってんだ。エディの言葉を忘れたのか?」
「…そうね、マックごめん。私は信じる、自分を、そして仲間を」
「いくぞおおお!」
SE、ロケット上昇の音。響也は台本通り滞りなく音響操作を進めた。舞台中央に立つ誠。スポット照明は無いが、全員の目には、暗いステージの中で一人全身を照らされる誠の姿が見えた。誠が天を仰ぐのを、新菜は噛みしめるように見届ける。これで終わるんだな、私の演劇人生が。そう思いながら、
「オーケー、キョン、エンディング流して」
と、小声で指示を出した。しかし響也は動かなかった。
「…キョン?」
響也はいつもの冷静な目で、舞台を見つめていた。その視線の先を新菜が辿った瞬間、バサッと音がした。誠が台本を落としたのだ。
「えっ?」
その瞬間、誠は力いっぱい叫んだ。
「飛べ!飛べーー!やった、やったぞ!見てみろ。俺たちがやってきたことは、決して無駄じゃなかった。それが今、証明されたんだ。…ニーナ、君の目には、今何が映っている?まだ暗闇の中を一人で歩いているのか?…確かに今は、光にはまだほど遠いかもしれない。でも忘れないでほしい。君は一人じゃないこと。どんなに離れていても仲間がいること。未来には希望が溢れていること。君ならやれる。大丈夫だ。がんばれー!」
誠は拳を突き上げる。新菜はぼうっとその台詞を聞いていた。それはかつて、新菜が誠に届けたかった言葉だったのだ…。
「…最悪だ」
しばらくの沈黙を破ったのは、響也だった。皮肉めいた言葉とは裏腹に、どこか楽しそうな声をしていた。
「最後の最後で、役の名前を間違えるんじゃねえよ、誠」
「ほんと、失礼しちゃうわ。ニーナじゃなくて、ジェニーでしょ、ジェニー」
「え、間違えてた?全然気づかなかった」
千帆と好宗も次々に話し出し、笑いが起こる。新菜は状況が呑み込めず、立ち尽くしていた。
「ニーナ」
呼ばれたほうを振り向くと、灯里が花束を持って立っていた。
「今まで、お疲れ様でした」
笑顔で花束を差し出され、新菜は戸惑った。
「…どうして?」
「ごめん、皆に話しちゃった」
ようやく口を開いた誠は、本当に申し訳なさそうに言った。
「でも、辛い気持ち、一人で抱えるのがどんなにしんどいか、分かるからさ…。伝えたかったんだ。その…、えっと……」
なかなか言葉が出てこない誠に、
「おいおい、なんで急に口下手になるんだよ」
と、好宗が助け舟を出した。
「役だとあんなにスラスラ言えるのにね」
千帆も笑いながらそう続けた。
「まぁ、さっきの台詞が全てだよな」
「そうだね。私たちも誠と同じ気持ちだよ」
響也と灯里も優しく微笑んでいる。不意に新菜の頬を涙がつたった。思わず拭いながら、
「…みんな…ありがとう」
と、ぽつりと言った。在学時代、一度も見たこと無かった新菜の涙。それを誰一人ちゃかすことなく、優しく見守った。千帆はポケットからハンカチを取り出して、新菜に渡した。穏やかな空気がリビングを包みこむ。
「あぁっ!」
突然、好宗が大声を上げた。
「びっくりしたぁ、何よ突然」
千帆が睨む。
「みんな、大事なこと忘れてるじゃん」
「忘れてる?何を」
誠は見当もつかず、尋ねた。
「カーテンコール!」
あぁ、と全員が納得の声を漏らした。
「観客いないからすっかり忘れてた」
誠が頭を軽く搔きながら言った。
「俺、カーテンコールの時間が一番好きだったんだよ。やろうぜ」
好宗が役者陣の肩を叩き、意気揚々と舞台上へ足を運ぼうとすると、
「ねぇ、折角だから、みんなでやらない?」
と、千帆が提案した。
「私たちも?いいの?」
灯里が嬉しそうに言った。
「いや、俺は遠慮しとく」
響也は逃げ出そうとするが、
「えー、キョウちゃんもやろうよ。ニーナもいいよね」
「もちろん。キョン、演出指示だ。舞台上に立ちなさい」
と、強制的に参加させられた。新菜はまだ目が赤かったが、心から楽しそうに笑っていた。
「演出と主演は真ん中だよ」
千帆は自分と誠の間に新菜を入れ、二人が真ん中に並ぶように誘導した。それぞれが隣同士を確認して、横一列に並ぶ。新菜が誠に耳打ちする。
「きっかけ、誠ね」
「了解」
誠がスッと息を整える。
「本日は、ご来場いただきまして、ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」
全員で一礼をする。観客はいない。でも誠たちの耳にはあの頃と同じ、鳴りやまぬ拍手がいつまでも、いつまでも響いていた——。




