四話 ねえ、どうして?
一歩後退りし、体が壁にぶつかる。一歩下がった分、ユウハが一歩前に進んだ。
ほっそりした腕が伸びてきて、顔の横に勢いよく叩きつけられる。壁ドンというものをここで経験するとは思わなかった。
目には生気がなく、綺麗な肌が空気にくっついて、繋ぎ合わさって、ユウハという人間を作っているだけ。ユウハという人間の入れ物を作っただけのよう。
マネキン、蝋人形、仮面、亡霊。
瞳を見つめていると、魂が吸い取られそうで、見られたくない心の奥ですら見透かすようだ。同時に、心臓をひんやりとした手で撫でられるような寒気がした。
唇が開き、吐き出された言葉が、棘を纏い、私の手足や首に絡みつく。
「ねえ、マツリ。誰と話してたの? 約束ってなあに? トイレの中で、誰とどんな事してたの? えっちなことしてたの? 「マゾ」って言葉が聞こえたんだけど」
ユウハの髪がさらりと揺れる。顔が近づいてきて、丸い瞳が確実に私の瞳を捕らえた。美人故に、その無表情が更に怖く感じる。
無表情で、動く唇が不気味だ。
ユウハから視線をそらして、弱々しく呟く。
「ユウハ、待って、落ち着いて……」
「ねえ、マツリ。答えて。約束って何? 誰と約束したの? どんな約束? トイレで誰と何してたの? あたしに言えないことなの?
ずっとあたし達一緒だったのに、あたしはマツリが好きなのに、マツリはあたしに隠し事するの?」
淡々とした言葉が私の体を押さえつけていく。
ユウハに今ほどの恐怖を感じたことがあるだろうか。いや、ない。
私の知っているユウハは、いつもニコニコしていて、可愛くて、怒っても頬を膨らます程度だった。ユウハがこんな感情を抱いていたなんて初めて知った。
確かに、私達は幼いときからずっと一緒だった。でも、ユウハが私のことを好きで、だからって私がユウハに隠し事するのがだめなことなの?
ずっと一緒だったけど、一緒だったからこそ言いたくないことだってあるのに?
それはユウハの意見でしょ? 私の気持ちは無視なの?
ねえ。
ユウハ、お前、何いってんの?
私の意識はどこか遠くにあるようで、ユウハの言葉もぼんやりと聞こえてきた。第三者の視点から私とユウハを見つめているような。映画館で映画を見ているような。
ユウハの目をまっすぐ見つめて、言葉をユウハの体に突き刺した。
「ふざけんな!」
嫌な空気を裂く、ユウハの目を覚まさせた言葉。
ユウハを押し倒して、覆いかぶさった。
「ふざけんなよ。勝手にぐちぐちいいやがって。私だってユウハが好きだよ。でもね、好きなユウハにも言えないことだってあるの。悪いけど、今は言えないの。分かって」
ユウハの瞳が潤む。
「ねえ、ユウハ。私達は死ぬまで一緒にいられるわけじゃない。だから、私から離れる努力もしたほうが良いよ」
ユウハの瞳が更に潤み、目の端から涙がこぼれる。いやだ、いやだと首を振る。
「ユウハが私を好きなのはわかってる。でも、私達は恋人じゃないんだから。恋人でも、一生一緒にいるなんてわからないんだから」
正直胸が苦しい。
私だって本当はこんな事言いたくない。でも、事実だから。いつまでも私がいないとだめなユウハは、将来私がいなくなった時、生きていけなくなるから。
ユウハは、ひっくひっくと嗚咽して、嫌だと何度も首を振る。前髪が乱れて、左右に分かれて、涙に濡れて額に張り付く。
「いや……マツリと一緒がいい。マツリが好きなの」
「でもそれは、友達として、でしょ?」
涙をいっぱいためた目を開いて、私の目を見つめた。ハの字に下がった眉と、微かに震えている唇、潤んだ目、紅潮した頬。
艶っぽく、そして、つらい。
濡れた唇が開いて、ユウハの指が私の腕を力強く掴んだ。制服に皺が寄り、指が食い込む。
「ちがう、ちがうっ……。マツリと付き合いたい、ぎゅーしたい、ちゅーしたい、えっちしたい。デートしたい、一生一緒にいたいっ!」
慟哭。
私は、つい腕の力を抜いてしまった。その瞬間、天と地が逆転し、ユウハの涙が私の頬を滑る。
足の間に膝が置かれ、逃げようにも逃げられない状態だ。
「ねえ、マツリ。あたしと付き合ってほしい……」
「ユウ――」
返事をしようとした時、思考が停止する。やわらかな唇が、わたしの唇を塞ぎ、言葉を止めた。
心臓が高鳴り、ドクドクという音がユウハにも聞こえてしまいそうだ。全身の血が熱を運び、駆け巡る。
我を取り戻した私は、ユウハを思いっきり押しのけた。
「ごめん、ユウハ。ちょっと考えさせて……」
ユウハの顔に衝撃が浮かび、人差し指の背中で涙を拭うと、「わかった」と笑った。
今にもユウハが崩れてしまいそうで、消えてしまいそうで、どこかに行ってしまいそうな気さえした。
私は鞄を乱暴につかみ、逃げるように階段を駆けおりる。階段を降りて、私は、その場にへたりこんでしまった。
鞄を抱きしめ、顔を埋める。
ああ、これからどうしよう。
ユウハになんて返事すれば良いのだろう。
私は、しばらくその場から動けなかった。




