第2話:二人の朝ごはんと、夫婦みたいな距離感
「はあ……やっぱり、紬のごはんを食べないと一日が始まらない気がする」
私の部屋のダイニングテーブルで、錬は心底幸せそうな溜め息をついた。
目の前に並んでいるのは、炊きたてのご飯に、豆腐と油揚げのお味噌汁。甘めの出汁巻き卵に、作り置きのきんぴらごぼう、それと鮭の塩焼き。
ごくごく普通の和朝食だけれど、錬はまるで高級料亭のご馳走でも食べるかのように、一口一口を愛おしそうに口に運んでいる。
「大袈裟だなあ。一人暮らしなんだから、自分でも少しは料理覚えなよ? 朝ごはんくらいなら、目玉焼きと食パンでパパッと作れるでしょ」
「無理。一人で作っても味気ないし、そもそも紬の作るお味噌汁の味は紬にしか出せない」
淡々と、けれど一切の迷いなく言い切られ、私はお箸を動かす手をぴたっと止めた。
(……そういうことをサラッと言うから、心臓に悪いんだよ)
幼馴染の立場を利用して、昔からこういう殺し文句を無自覚(?)に投げてくるのが、橘錬という男の恐ろしいところだ。
実家が隣同士だった私たちは、親同士が仲良かったこともあって、幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた。
大学進学を機に地元を離れ、一人暮らしを始めるとなった時も、なぜか錬が「防犯的にも近くがいいでしょ」と言って隣の部屋を契約したのだ。
結果として、私の毎朝の仕事は「隣の寝坊助を起こして一緒に朝ごはんを食べること」になっている。
「ほら、錬。ご飯粒ついてる」
「ん……取って」
そう言って、錬は素直に顔をこちらへ差し出してくる。
自分の手で取ればいいのにと思いつつも、昔からの癖で、私はティッシュを取って彼の頬についたご飯粒をちょんと拭ってあげた。
「はい、取れた。もう十九歳なんだから、自分のことくらい自分でやりなさい」
「紬がやってくれるからいい」
「甘えないの」
口では小言を言いながらも、彼のお世話をする時間はどこか心地よくて、私自身もこの日常を気に入っているのは否定できない。
「ごちそうさま。今日も美味しかった」
手を合わせた錬は、お皿をまとめて立ち上がり、自然な動作でシンクへと運んで洗いはじめた。
「あ、私が洗うのに」
「起こしてもらって、ご飯まで作ってもらったんだから。これくらいは俺にやらせて」
水音とともに、洗剤の泡を器用に流していく長くて綺麗な指先。
細身に見えて、背中や肩幅はしっかり「大人の男の人」の厚みがある。
ふと、エプロン姿の錬の背中を見つめていると、頭の中に『夫婦』なんて言葉が浮かんできて、慌てて頭を振った。
(な、何を考えてるの私! ただの幼馴染なんだから!)
洗顔と後片付けを終えた錬は、私の部屋のソファに当然のような顔で腰掛け、私の履修登録の紙を眺めている。
「そういえば紬、金曜の三限って空いてる?」
「うん、空いてるけど……なんで?」
「学食で新商品のパフェが出るらしい。一緒に行こう」
「えっ、あの限定パフェ? 行く!」
甘いもの好きな私としては見逃せないお誘いだ。パッと顔を輝かせると、錬は満足そうに口元をゆるめた。
「じゃあ、金曜の三限終わりに講義棟の前で待ち合わせね。……他の男と約束入れちゃダメだよ?」
「入れるわけないでしょ。パフェが最優先なんだから」
笑って答えると、錬は少しだけ複雑そうな顔をして「……パフェが理由かあ」と小声で呟いた。
「え? 何か言った?」
「ううん、なんでもない。……じゃあ、俺そろそろ行くね」
鞄を持ち上げた錬は、玄関に向かう途中でふ立ち止まり、振り返った。
朝の寝ぼけ眼とは違う、どこか熱を帯びた瞳がまっすぐに私を見つめる。
「紬」
「ん?」
「……今日も、気をつけて行ってきてね」
そう言って、錬は私の頭にそっと手を置き、優しく撫でた。
大きな手のひらの温度が髪越しに伝わってきて、胸の奥がキュッと締め付けられる。
「う、うん。錬も講義頑張ってね」
「うん。……行ってきます」
カチャリとドアが閉まり、静かになった部屋で、私は自分の赤くなった頬を両手で押さえた。
(……昔から知ってる幼馴染のはずなのに。最近、なんでこんなにドキドキしちゃうんだろう)
大学での冷酷な「氷の王子様」と、私だけにしか見せない無防備な甘え顔。
そして時折見せる、男の人らしい視線と仕草。
変わらないはずの二人の関係が、少しずつ、でも確実に動き始めていることに、私はまだ気づかない振りをしていた。




