第1話:朝が激弱な王子様と、私の毎朝の災難
「――錬、起きて。もう七時半だよ。今日一限からでしょ?」
慣れた手つきで合鍵を差し込み、隣の部屋へと足を踏み入れる。
遮光カーテンがぴっちりと閉められた暗闇の中、ベッドの上の大きな山に向かって声をかけた。
返事はない。代わりに聞こえてくるのは、規則正しい「すぅ……すぅ……」という寝息だけだ。
(まったく……大学に入ってもこれなんだから)
私は溜め息をつきながらベッドに近づき、上掛けの羽毛布団をえいやっと引っ張った。
「ほら、起きた起きた! 今日テストだって言って――きゃっ!?」
ぐいっ、と強い力で手首を引かれた。
視界がぐらりと揺れ、気がついた時には、私は柔らかいベッドの上へと倒れ込んでいた。
「……ん……つむぎ……?」
掠れた、熱っぽい低音ボイスが耳元で響く。
次の瞬間、背中に大きな腕が回り、ぎゅっと強い力で抱き寄せられた。
まるで大きなぬいぐるみにでもされたみたいに、完全に密着させられて動けない。
「ちょっと、錬!? 離して、抱き枕にしないで!」
「……あと、五分……」
「五分前も同じこと言ってたでしょ! ほら、起きてってば!」
抵抗しようと胸を押しても、普段からは想像もつかない男の人の体格と筋力に、まったく太打ちできない。
髪からはほんのり甘いシャンプーの香りがして、耳元にあたる温かい息に、心臓が跳ね上がる。
大学では「寄せ付けないオーラがすごい」「氷の王子様」なんて呼ばれて女子たちの憧れの的なのに。
朝の橘錬は、世界一タチの悪い、甘えん坊な幼馴染だ。
「……つむぎ、いい匂いする……」
ぼんやりとした瞳で、錬がぬくもりを確かめるように私の首筋に顔をうずめてくる。
(――あーもう! これじゃ朝ごはん冷めちゃうし、私の心臓が持たないよ……!)
「錬、ごはん。お味噌汁と出汁巻き卵つくったよ」
そう呟いた瞬間、ピクッと錬の肩が跳ねた。
「……だし、まき……?」
「そう。早く起きないと、私が全部食べちゃうからね」
人質――ならぬ人質料理を盾にすると、錬は「うぅ……」と唸りながら、名残惜しそうに腕の力を緩めてくれた。
「起きる……食べる……」
「よし、偉い! ほら、顔洗っておいで」
ベッドから這い出した錬は、ボサボサの寝癖頭のまま、寝ぼけ眼で洗面所へと向かっていく。
その後ろ姿を見送りながら、私は大きく息を吐き出して、赤くなっているであろう自分の頬を両手で叩いた。
幼馴染として一緒に育って十九年。
一人暮らしを始めたアパートがたまたま隣同士だったからと、こうして毎朝起こしに来てあげているけれど。
(最近、錬の抱きつき方がだんだん強くなってる気がする……気のせい、だよね?)
◇
「ふはぁ……生き返る……」
私の部屋のダイニングテーブルで、錬がお椀を両手で持って、出汁の効いたお味噌汁を噛みしめるように飲んでいる。
目の前でふにゃりと眉を下げて美味しそうに食べる姿は、どう見てもただの大型犬だ。
「今日の出汁巻きも完璧。紬、天才」
「大袈裟だよ。ほら、ネクタイ歪んでる。ちょっとじっとして」
立ち上がり、錬の首元に手を伸ばしてネクタイを整えてあげる。
素直に顎を上げて私に任せてくる錬との距離は、わずか十センチ。
スッと整った鼻筋や長すぎるまつ毛が間近に見えて、ふいに胸がチクリと鳴った。
「はい、できた。今日もちゃんとお大学行っておいでね」
「うん。紬も一緒でしょ? 一緒に行く」
「私は二限からなの。先に行ってて」
「えー……」
心底嫌そうに顔をしかめる錬の頭をポンポンと撫でて、玄関へと送り出す。
そして一時間後。
二限の講義を受けるために大学のキャンパスを歩いていた私は、遠くの人集りを目にして足を止めた。
「橘くん! あの、これ良かったら……」
「すみません、受け取れません」
輪の中心にいたのは、パリッとしたスーツジャケットを羽織り、冷ややかな視線で女子学生の差し入れを断る錬の姿だった。
隙のない立ち振る舞い。人を寄せ付けない冷徹なまでの美貌。
周りの女子たちが「かっこいい……」「(かっこいい)やっぱり『氷の王子様』ね……」と溜息をついている。
(……さっきまで寝癖つけて『出汁巻きおいしい』って笑ってた人と、本当に同一人物なんだろうか)
そんなことを思っていると、人集りの隙間から、錬とばっちり目が合った。
一瞬だけ、彼の冷ややかな瞳が丸くなる。
そして周りには気づかれない程度に、スッと口元を緩め、私だけに分かる小さな笑みを浮かべてみせた。
トン、と胸の奥が熱くなる。
(……だから、そういう顔を外でしないでって言ってるのに)
私が慌てて視線を逸らすと、錬は少しだけ満足そうに背を向け、講義室へと歩き去っていった。
朝が激弱な、私だけの幼馴染。
この時はまだ、彼がどれだけ本気で私を「狙っている」のか、私は何ひとつ気づいていなかったのでした。
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