11話 消して、消そうと、消えない、
よろしくお願いします。
ルシアが魔術師として一人立ちできるほどの力を身につけた頃。
シャレルドはルシアの手首にある「娼婦の焼き印」を完全に消し去るための術式を完成させた。
「娼婦の焼き印」は、ただの焼き印ではない。普通に外科手術で焼かれた皮膚を削いだとしても、何度でも皮膚の表面に浮かび上がってくるものだ。
娼婦の逃亡を阻止するためのもの。女を「従順な良い商品」にするため、国の承認を受けた娼館が、娼婦に堕ちた女たちに強制的に施す悪魔の仕掛け。
シャレルドは、ルシアを書斎に呼んだ。ルシアの手首の焼き印に触れて言った。
「これから、これを消す。動くなよ」
信じられない顔をして、ルシアはシャレルドを見た。
シャレルドは無言でルシアを座らせた。
自分もルシアの前に座る。
ルシアの皮膚の奥深く、体内の骨格にまで入り込んで、浮かび上がっている、焼き印。
その魔術を取り除く――それは、国家最高の魔術師にしか成し得ない、極めて複雑で緻密な魔法手術の開始だった。
シャレルドはルシアの細い手首を自分の左手にそっと乗せた。
そして右手で丁寧に、じっくりと時間をかけて、自身の繊細な魔力の糸を焼き印に滑り込ませていく。
ルシアの焼き印を構成するいくつもの歪んだ魔術の癖を、一つずつ根気強く解きほぐし、消滅させていく。
ルシアに少しの痛みも感じさせず、肌を傷つけないように。
集中するシャレルドの額に、じんわりと汗が浮かび、頬を伝って流れていく。
ルシアは、シャレルドの見たこともないほど真剣な横顔と、自分の手首の焼き印が、ぽうっと淡く光りながら、少しずつ、少しずつ滲んでその形を崩し、ゆっくりとほどけて消えていくのをじっと見つめていた。
やがて全ての光が消えると、ルシアの手首から、あの忌まわしい印が完全に消え去っていた。
シャレルドが、ふうっと深く息をついた。
「これで、ルシアはもう何者にも縛られない。
全部消したよ。普通の娘に戻れる」
シャレルドは、ルシアの手首をそっと離した。
その胸の内で、彼はルシアにも言えない覚悟を固めていた。
(これからルシアは、彼女の過去を知らない男と出会い、恋をして、真っ当で幸福な結婚をするだろう。
……それが、自分とでなくても、ルシアが本当に幸せになるなら、それでいい。
ルシアは、過去を知っている俺といたら、いつまでも忘れられないから。きっと、苦しむから。
……だから、ルシアを手放そう。
あいつは、最初に酷い娼婦扱いをした俺のことなんて、好きではないんだから)
綺麗な肌に戻った手首を呆然と見つめ、ルシアは寂しそうに微笑んだ。
(これは、シャレルド様の私への餞なんだわ。一人立ちへの。
……焼き印が消えても、過去が消えた訳じゃない。
私の汚れた身体が、村娘だった頃の、何も知らなかった以前の綺麗な身体に戻った訳じゃない。
元娼婦だったという事実は、一生、消えない……。
でも、……シャレルド様は、私に魔術を教えてくれた。
娼婦の焼き印まで、必死になって消してくれた。
貴族の出で、高貴な王宮魔術師のシャレルド様は、本当に立派な方だ。
いずれ、どこかの素敵なご令嬢と結婚されるだろう。
元娼婦の私は、いつまでもシャレルド様のそばにいてはダメだ。
私はもう、一人で生きていける力を頂いたんだから)
ルシアは深く、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます。
焼き印を消していただいて。
私に、魔術を教えてくださって。
どれだけ感謝しても足りないくらいの、大きな恩を、ご温情を頂きました。
……明日、ここを出ていきます」
「……うん。そうか」
シャレルドは喉の奥を詰まらせながら、なんとか声を絞り出した。
「……俺がお前に渡したもの、全部持っていけ。
この屋敷に、お前のものは何も残すな」
そう言ったシャレルドの心は、張り裂けんばかりに痛んでいた。
ルシアが愛しくてたまらない。
行くなと言いそうだった。
強く抱き締め、行かないでくれと縋りたくなる自分を、抑えられそうになかった。
だからシャレルドはおもむろに、ガタンと乱暴に椅子から立ち上がった。
そして、ルシアを見ずに、一人残したまま、逃げるようにその場を去った。
◇◇
翌朝、ルシアはもう屋敷にいなかった。
ルシアがいなくなった屋敷は、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。
「……元の生活に戻るだけだ。あいつが来る前だって、俺は一人で平気で生活していただろう」
シャレルドは自分に言い聞かせるように、再び魔法の研究に没頭する日々に身を投じた。
ルシアの残像を思い出さないために、脳のすべてを魔術の構築へ向けようとした。
けれど。
「……おい、ルシア。お茶を入れてくれ……」
無意識にその名前を口にしてから、シャレルドは息を止めた。
誰もいない静かな書斎。
「……バカだな、俺は。自分でいれよう」
自嘲気味に呟き、台所へと向かう。
ルシアが台所に立つ時、シャレルドが「手伝ってやる」とぶっきらぼうに言いながら、魔術でお湯を沸かすのがいつの間にか二人の習慣になっていた。
シャレルドは無意識のまま、コンロに向かって魔術を放ち、お湯を沸かす。
……しかし、出来上がったのは「ふたりぶん」の、シャレルド1人には多いお湯だった。
「……ルシアは、もういないんだ。慣れろ。忘れ……られるわけ、ないか」
ぽつりと呟いた声が、冷たい壁に虚しく響く。
家のあちこちに、ルシアの面影が残っていた。
磨かれた廊下。
棚に並ぶ、2人で毎日使っていた食器。
リビングに置かれた、ルシアがよく座っていた椅子。
ルシアが丁寧に刺繍を施した、柔らかなクッション。
そして庭を見れば、彼女のために植えた花々が、皮肉なほど美しく咲き誇っている。
「全部持っていけと言ったのにな……。庭は無理だが」
そう言いながら、シャレルドはそのどれ一つとして片付けることができなかった。
見るのは胸が抉られるほど辛い。
けれど、ルシアのいた痕跡を捨てるなんて、シャレルドにはありえない。
夜の闇は益々シャレルドを孤独にした。
やっと寝付けても、夢にはルシアが出てくる。それに歓喜する夢の中の自分。
屋敷の扉を開けると、ルシアが立っていて笑顔でシャレルドに抱きついてくる。妄想のような夢だ。
「ルシア……!」
愛おしさに胸を熱くして必死に手を伸ばした瞬間、シャレルドはパッと目が覚めた。
視界に飛び込んできたのは、冷たい月明かりが照らす、誰もいない薄暗い寝室。
「夢、か……」
シャレルドは頭を抱え、ベッドの上で打ちのめされた。
「早く、慣れろ、俺……」
1人呟く。
恋心を捨て去れない只の男が、そこにいた。
言葉遊びの章タイトル。
(焼き印を)消して、(恋心を)消そうと(しても想いは)消えない。
決して(決意して)、消そうと(しても)、消えない(恋心)。




