第三話 白薔薇がすべて咲く前に
「違うわ、ロザリー」
私は蕾が膨らみかけた白薔薇を見渡した。
白薔薇の茎を、紫色の光が血管のように走っている。
「白薔薇では結界を作れない。ラヴェリアの種に蓄えられた魔力を、吸い上げているだけよ」
「お姉さま、なにを言っているの? こんなに美しい白薔薇に言いがかりはよして」
ひとつ、またひとつと蕾が開くたび、土の中からラヴェリアの力が失われていく。
「アデル、これを止める方法は?」
「花が咲き切る前に、薔薇を土ごと取り除きます。すでに吸われた魔力は戻りませんが、残っている種は回収できるかもしれません」
セドリック様はすぐに振り返った。
「庭師と騎士を集めろ。白薔薇を根元の土ごと掘り出すんだ」
「そんな! 絶対に駄目よ! いくらセドリック様でも、私の薔薇をめちゃくちゃにしたら許さないわっ」
ロザリーは白薔薇を守るように、両腕を広げた。
「そこをどきなさい、ロザリー!」
私の大きな声に、ロザリーが水色の瞳を瞬かせる。
「お姉さま……?」
「その花が咲くたびに、ラヴェリアを再生させるための力が失われているの。もう、あなたのわがままを聞いている場合ではないわ」
「わがままじゃないもの。お父様が、この庭は私にくださると──」
「いいえ。あなたの庭じゃない」
私はロザリーをまっすぐに見つめた。
「ここは、ラヴェリアの庭。私には、花守としてこの庭を死守する責任があるの。ここで暮らす人たちのために」
両親が遅れて庭へやってきた。
父は掘り返され始めた白薔薇を見て、顔色を変えた。
「待ちなさい、アデル。明日は王都から商会の者が来る。この薔薇を見せる約束なんだ」
「そのために、ラヴェリアの種を使わせたのですか?」
「少し花の生育をよくするだけだと聞いていた。まさか、こんなことになるとは──」
「危険だと、何度もお伝えしました」
父の顔から目をそらさずに告げた。
「この土地が魔物に襲われれば、香油を作ることも、王都へ運ぶこともできなくなります。白薔薇は撤去します」
「アデル、親に向かってその言い草はなんだ!」
「今の私は娘ではなく、花守として話をしています」
これまでなら、ここで引き下がっていた。
けれど、父の機嫌と引き換えに、守るべきものを手放すつもりはなかった。
セドリック様が、私の隣に立った。
「先ほど命じたとおり、この畑は私の管理下にあります。作業を妨げることは許しません」
父は口をつぐんだ。
セドリック様は庭師たちへ向き直った。
「作業を続けろ」
命じられた庭師と騎士たちは、一斉に白薔薇を掘り始めた。
「嫌よ! やめて!」
ロザリーの悲鳴を聞きながら、私も土へ膝をついた。
白薔薇を根元から持ち上げると、土の中に紫色に輝く粒がいくつも埋まっていた。
ラヴェリアの種だ。
大半は色を失い、灰色に変わっている。
それでも、淡い光を残している種を見つけては、ひとつずつ拾い集めた。
「こちらの土は、まだ魔力が残っています。布の上へ移してください」
「わかりました」
セドリック様が、白薔薇の根に絡みついた土を崩さないよう持ち上げる。
薔薇が引き抜かれるたび、花びらを透かしていた紫の光が消え、白い花はそのまま力なく萎れていった。
「ひどいっ……私の薔薇が……」
ロザリーがその場にしゃがみ込み、泣き始める。
母はそんな妹を抱きしめ、私を責めるような目で見た。
「アデル。ロザリーのためにせめて、一角だけでも残してあげられないの? 姉として、妹をもっと労ってあげてちょうだい」
私は手を止めずに答えた。
「お母様には、この状況が見えていらっしゃらないの? いまはロザリーの機嫌を取っている場合ではありません」
母が息を呑む。
そんな言葉を私が返すとは、思ってもみなかったのだろう。
「回収できるのは、これだけのようです」
布の上に集められた種は、両手ですくえるほどしかなかった。
そのうち、まだ魔力を残しているものは半分にも満たない。
「残りの種はどこですか」
セドリック様に尋ねられても、ロザリーはそっぽを向いた。
「知らないわ」
「庭師は、あなたが運ばせたと言っていました」
「教えたら、温室の薔薇まで抜くのでしょう?」
ロザリーは涙の残る目で私を睨んだ。
「お姉さまはセドリック様も庭も、何もかも私から奪うのね」
「……奪っているのは、あなたよ」
私の声は、もう震えなかった。
「でも、いまはそんな話をしている場合ではないわ。人の命がかかっているの。残りの種はどこ?」
「……古い温室よ」
「温室?」
「白薔薇を育てている、南側の温室。明日使う分は、そこへ運ばせたわ」
父が険しい顔でロザリーを振り返る。
「すべて使うつもりだったのか?」
「だって、庭だけじゃなくて、温室の薔薇も一斉に咲いた方がきれいでしょう?」
何が悪いのかわからないという顔のロザリーを見て、父は初めて言葉を失った。
「温室の鍵を渡してください」
私が手を差し出すと、父は迷うように上着の内側へ手を当てた。
「しかし、あそこにある白薔薇は、新しい香油のために──」
「お父様」
私はもう一度、はっきりと言った。
「鍵を渡してください」
父はしばらく私を見ていたが、やがて諦めたように鍵を取り出した。
受け取った鍵を握りしめ、南の温室へ走る。
セドリック様も、当然のように一緒に向かった。
◇
温室の中には、まだ花をつけていない白薔薇が鉢に植えられ、隙間なく並んでいた。湿った土と青い葉の匂いが、温室の空気にこもっていた。
奥の作業台に、見覚えのある木箱が置かれていた。
「あれです!」
蓋を開けると、中にはラヴェリアの種を入れた瓶が並んでいた。残っているものは、すべて封を切られていない。
「よかった……」
思わず、その場へ座り込みそうになった。
「足りますか?」
「はい。回収した種と合わせれば、結界の根をつなぐ分は足りると思います。東の丘の母株が生きていれば、ですが」
「では、すぐに丘へ運びましょう」
セドリック様が木箱を運ばせようとしたとき、温室の外から馬の蹄の音が聞こえた。
「辺境伯様!」
泥に汚れた騎士が、馬から飛び降りて駆け込んでくる。
「東の村から知らせです! 複数の魔物が村へ侵入しました。現在、村人たちが礼拝堂へ避難しています!」
「数は?」
「確認できただけで五頭。森には、まだ複数の気配があります」
セドリック様の表情が変わった。
「第二騎士隊を東の村へ向かわせろ。第三騎士隊は街道を封鎖し、ほかの村へ避難を伝えろ」
「はっ!」
騎士が走り去る。
セドリック様は木箱を別の騎士へ預けた。
「種を東の丘まで運んでください。途中で何があっても、決して箱を手放さないように。魔力を通す水も用意し、母株のそばで待機してください」
「承知しました」
「アデル。あなたはこの者たちと丘へ向かってください。私は村へ──」
「待ってください」
私は目を閉じ、土の下へ意識を集中させた。
切断された根の向こうから、かすかな震えが伝わってくる。
東の村へつながっていた根が、次々と引きちぎられている。
魔物が地面を踏むたび、その衝撃が残った根を通して届いているのだ。
「魔物は、村の北側から入っています。おそらく古い水路の近くです」
「わかるのですか?」
「ラヴェリアの根が残っている場所なら、ある程度は。それに、東の村には足の悪い方や幼い子どもたちがいます。礼拝堂まで逃げられていない人がいるかもしれません」
母株で根をつなぐには、まず傷んだ部分を除き、水を行き渡らせなければならない。その準備を待つあいだにも、村では人が襲われている。
迷いを断ち切るようにセドリック様の目をまっすぐに見た。
「私は村へ向かいます」
「駄目だ。危険すぎる!」
「それでも、行かせてください」
セドリック様の手を取ると、彼ははっとしたように目を見開いた。
「ラヴェリアを再生させるのは、そこに暮らす人たちを守るためです。いま助けを待っている人を置き去りにして、花だけを救うことはできません」
セドリック様は何も言わず、私の顔を見つめていた。
「お願いします。私なら、根を通して魔物が近づく方向を探れます。きっと、お役に立てます」
「……わかりました」
やがてセドリック様は、自分の外套を外すと、泥だらけになった私の肩へかけた。
「丘の準備が整うまでに、取り残された人を救出します。長引くようなら、あなたは護衛と先に丘へ向かってください」
「はい」
温室を出ると、すでに馬が用意されていた。
傷ついた手を庇いながら馬へ近づいた私を、セドリック様が軽々と抱き上げた。
「急いでいるので、失礼します」
「きゃっ」
鞍へ座らされた私の後ろに、セドリック様が跨がった。
身体を支えるように腕が回され、手綱が引かれる。そんな場合ではないのに、心臓の鼓動が騒ぎ立てる。だが、それは束の間のことだった。
「道を教えてください、アデル」
セドリック様の緊迫した声に、すぐに私は意識を切り替える。
「東の街道から、途中で古い水路へ入ってください。そちらの方が村まで早く着きます」
「わかりました」
馬が夜の街道を駆け出す。
遠くに見える東の空が、赤く染まり始めていた。
朝焼けではない。
魔物に襲われた村から上がる、炎の色だった。




