第二話 手折られた花
クラーク家の屋敷は、魔物の棲む森に最も近い東の境界に建っている。
結界が効いていた今までは感じたことがなかったけれど、今夜ばかりはその事実に身震いしそうになる。
夜の庭へ出た途端、甘ったるい薔薇の香りがした。
ラヴェリアが咲いていた花畑には、白い蕾をつけた薔薇が整然と並んでいる。周囲には、踏みにじられた紫の花が、片づけられないまま散らばっていた。
「そんな……」
あまりの光景に血の気が引き、ドレスの裾をつかんで、畑の中へ駆け込んだ。
白薔薇の苗の間へ膝をつき、素手で土を掘る。
表面の土は新しく入れ替えられていた。その下から出てきたラヴェリアの根は、無残に切断され、乾き始めている。
根の断面に触れてみても、いつも感じていたかすかな温もりがない。切られた断面に魔力を注ぐが、吸収される感覚はなかった。
「アデル」
追いついたセドリック様が、私の隣へ膝をついた。
「母株はどこにありますか」
「この根は、東の丘の母株へつながっていました。けれど、これだけ深く切られては……」
この畑は、母株と領内各地の根をつなぐ要所だった。
ラヴェリアは、辺境の地下で根をつなぎ、境界石へ力を送っている。
地上に咲く花が枯れただけなら、また育て直せるけれど、何年もかけて広がった根を切られれば、結界そのものが途切れてしまう。
「わあ、私のお花畑がもうこんなに整ったのね」
遅れて庭へ来たロザリーが、嬉しそうな顔で白薔薇の蕾へ触れた。
「紫の花より、こちらの方がきれいでしょう? 明日には一斉に咲かせる予定なの」
「いいえ、ロザリー。あなたには悪いけど、いますぐこの薔薇を撤去しないと……」
「ええ? 嫌よ。だって、これは私のお庭だもの」
ロザリーの背後で、父と母も困った顔をしている。
けれど、妹を止めようとはしない。
「駄目よ。こんなことをしては、領地に魔物が……」
そう言いかけたとき、土の奥で、低い音がした。
地鳴りのような、何かが裂けていく音だった。
「きゃあっ」
「アデル!」
振動で身体が傾いだ私を、セドリック様が抱き寄せる。
次の瞬間、白薔薇の苗を引き裂くように、地面に黒い亀裂が走った。
屋敷の向こうから、鐘の音がカンカンカンと三度鳴り響く。
魔物が結界を越えたときにしか鳴らされない、辺境の警鐘だった。
冷たい夜風が、森の方角から吹きつける。
「──グオオオオオッ」
この領地では二十年以上、誰も聞いたことのない魔物の咆哮だった。
白薔薇の蕾が、風とは逆の方向へ一斉に揺れる。
「アデル、私の後ろへ」
セドリック様が私を背にかばい、腰に提げていた剣を抜いた。
次の瞬間、庭を囲む生垣が大きく揺れた。黒い影が飛び出し、白薔薇の苗を踏み荒らしながら、こちらへ向かってくる。
「きゃあああっ」
「うわ、なんだっ」
両親とロザリーが、身をかばうようにその場にしゃがみ込む。
向かってきた魔物は狼によく似ていたが、牛ほどの大きさがあった。裂けた口からのぞく牙は黒く、全身に煤のような瘴気をまとっていた。
「……左です!」
私は叫んだ。
ラヴェリアの根が引きちぎられる感覚が、左側から伝わってくる。
セドリック様が迷わず身体の向きを変えた。
魔物が跳びかかったのと、彼の剣が振り下ろされたのは、ほとんど同時だった。
黒い巨体が地面へ落ちる。
駆けつけた騎士たちが魔物を取り囲み、とどめを刺した。
「東の境界を確認しろ。近隣の村には警戒を伝え、住民を屋内へ避難させるんだ」
セドリック様は剣についた黒い血を払いながら、騎士たちへ指示を出した。
「発見した魔物は一頭でも逃すな。ただし、森の中へ深追いする必要はない」
「承知しました」
騎士たちが走り去る。
父は倒れた魔物を遠巻きに眺めながら、青ざめた顔でつぶやいた。
「花守のお前がついていながら、なぜ魔物の侵入を許した!」
「……お父様が、ラヴェリアを抜く許可を出したのでしょう」
「それでも被害を防ぐのがお前の役目ではないのか!」
「責任を負うべきは、花守の忠告を無視して根を切らせた方です」
セドリック様の冷たい声に、父は口をつぐんだ。
「この畑は、これより辺境伯家の管理下に置きます。私の許可なく、何者も土や植物に触れてはなりません」
「そんな!」
ロザリーが声を上げる。
「私の白薔薇はどうなるの!?」
「……領民の命より、自分の庭が大切ですか?」
問われたロザリーは言葉に詰まり、唇を震わせた。
けれど、セドリック様が私をかばうように立っているのを見ると、その瞳に恐怖とは別の色が浮かんだ。
「……お姉さまばっかり」
その言葉にはっとしてロザリーを見つめると、母が彼女の背中をやさしく撫でた。
「ロザリーも、まさかこのようなことになるとは知らなかったのです。どうか責めないでやってくださいませ」
「領民が魔物に襲われたとき、あなたの言い訳が通るといいですね」
その冷たい声に、父も母も何も言い返せず黙り込む。
「三人は屋敷へ戻ってください。アデルには花守として、ここに残っていただきます」
ロザリーは不満そうにしていたが、母に連れられて屋敷へ戻っていった。
その後ろ姿が見えなくなってから、私は再び畑へ膝をついた。
まだ生きている根がないか、一本ずつ土を掘って確かめる。
婚約祝いのために久しぶりにあつらえたドレスが泥ですっかり汚れたが、そんなことに構っている時間がない。
切断された根の中から、かすかな温もりを残しているものを見つけ、傷つけないよう土から取り出した。魔力を注ぐと、息を吹き返したように色が戻る。
「……まだ、すべてが死んだわけではないようです! 温もりが残っている根なら、再生できるかもしれません」
「わかりました。探してみます」
セドリック様が、土の中から細い根を掘り返しては持ち上げる。
上等な夜会服の裾には、私と同じように泥がついていた。
「アデル。これはどうでしょう?」
「ええ、その根はまだ生きています。こちらへお願いします」
私は畑の端に布を広げ、生きている根を並べていった。
「セドリック様にこのようなことをさせて、申し訳ありません……」
「私には、どの根が生きているのか判断できません。ですが、あなたが示した根を集めることならできます」
そう言って、彼はまた土へ手を伸ばした。
辺境伯である彼が、婚約祝いの夜に土へ膝をつき、泥だらけになってラヴェリアの根を探している。
私の両親でさえ、一度も手伝ってくれたことはないのに。
「あ! この根なら、もしかして……」
土の深いところに、他のものより太い根が残っていた。
触れた指先に、弱々しいが確かな温もりが伝わってくる。
弱った根に、一度に魔力を注いではいけない。吸い上げる速さを確かめながら、少しずつ流し込む。
「……おそらく、東の丘にある母株はまだ生きています」
私がそう伝えると、セドリック様が顔を上げた。
「結界を戻せるのですか?」
「切れた根をつなぎ直し、種から新しい芽を育てれば、あるいは。ただ、地上へ出た根は急速に乾いています。完全に枯れる前に、母株へつながなければなりません」
「必要なものを教えてください。何としても用意します」
「ラヴェリアの種と、魔力を通すための水。それから、母株まで根を運ぶ人手が必要です」
「すぐに手配しましょう」
立ち上がろうと地面へ手をついたとき、手のひらに鋭い痛みが走った。
見ると、土を掘るうちに傷ついた指先から血がにじんでいる。
「手を見せてください」
「いえ、これくらい、大丈夫です」
「大丈夫な人は、そのような痛そうな顔はしません」
セドリック様は私の手を取り、水魔法を使って傷口を洗うと、自分のハンカチを細く裂いた。
白い布が、傷ついた指へ丁寧に巻かれていく。
「申し訳ありません。私がロザリーを止められなかったために……」
「あなたは何度も説明したのでしょう?」
「それでも、守れませんでした」
「それは、あなたの責任ではない。ご両親や妹さんの罪まで、アデルが背負う必要はありません」
きっぱりと言われ、俯いていた顔を上げた。
「この数年間、私はあなたから送られてくる報告書や手紙を、ずっと楽しみにしていました」
「…………っ」
思いがけない言葉に、うまく返事ができなかった。
「あなたの報告書は、ラヴェリアの生育だけでなく、どの村で水が不足しているか、どこに薬が必要かまで書かれていた」
「……花の状態は、暮らしている人々の生活とつながっていますから」
「そういうところに、惹かれたのです」
セドリック様は、包帯代わりの布を結び終えても、私の手を離さなかった。
「最初は、優秀な花守だと思っていました。ですが、いつからか報告書が届く日を待つようになった。書かれている文字を見ただけで、あなたが何を考えているのかわかる気がしたのです」
どう答えていいかわからず固まってしまう私に、セドリック様がやさしく微笑んだ。
「あなたは毎年、ラヴェリアの最初の一輪が咲いた日に、そのことを手紙で知らせてくれたでしょう。いつか、その花をあなたの隣で見たいと思うようになりました」
頬が、かっと熱くなった。
「私が結婚を申し込んだのは、花守を辺境伯家へ迎えるためではありません。あなたと一緒に、この土地を守っていきたいと思ったからです」
「セドリック様……」
「そのためにも、まずはラヴェリアを救いましょう」
「……はい。必ず」
私は傷ついていない方の手でセドリック様の手を取り、種の保管庫へ急いだ。
◇
庭の裏手にある保管庫に向かい、首から下げていた鍵を取り出した。
「あら?」
保管庫の扉には鍵がかかっていなかった。庭師に問い質すと、彼は青ざめて答えた。
「どうして保管庫が開いているのです?」
「旦那様がお持ちの管理用の合鍵を、ロザリー様が……」
「冗談でしょう?」
嫌な予感を覚えながら中へ入る。
棚に並んでいたはずの種の瓶が、ほとんどなくなっていた。
「そんな……」
奥に残っていた瓶を手に取る。底にわずかな種が残っているだけで、結界を再生させるには到底足りない。
セドリック様が、後ろにいた庭師を振り返った。
「種はどこへ運んだ?」
「何時間か前に、ロザリー様から種を白薔薇の根元の土へ混ぜるよう命じられまして……」
「どうして私の許可を取らずに……!」
「ろ、ロザリー様がアデル様の許可を得たから、と……」
庭師は青ざめながら必死に弁明する。
「すべてロザリーが使ったというの?」
「い、いえ。使ったのは一瓶だけです。残りは保管庫へ戻しました。ですが、その後、ロザリー様が別の使用人たちを連れてきて、すべて運ばせたのです」
「運ばせたって、どこに!?」
「申し訳ありません。私どもは行き先までは……」
『明日には一斉に咲かせる予定なの』
先ほどのロザリーの言葉がよみがえる。
ラヴェリアの種には、次の世代の根を育てるための魔力が蓄えられている。それを肥料として白薔薇へ与えれば、確かに美しい花を咲かせるだろう。
けれど、種に残された魔力まで失えば、もうラヴェリアを再生させることはできない。
「ロザリーを探さなければ」
保管庫を飛び出したとき、東の花畑の方角に、淡い紫色の光が立ち上った。光は地面から白薔薇へ吸い上げられるように流れている。
私の隣で、セドリック様が息を呑む。
「なんてことを……」
その庭の中央には、屋敷へ戻されたはずのロザリーが立っていた。庭を見張っていた騎士は、魔物の討伐に駆り出されてここにはいない。彼女はその隙を突いて、戻ってきたのだろうか。
足元には、空になった種の瓶が一つ転がっている。
白薔薇の蕾が魔力を吸い上げ、みるみるうちに膨らんでいく。
「ロザリー!」
私が叫ぶと、彼女は驚いたようにこちらを振り返る。
「見て、セドリック様!」
ロザリーは白薔薇に囲まれながら、誇らしげに微笑んだ。
「ラヴェリアなんてなくても、私の薔薇がこの土地を守ればいいのでしょう?」




