第一話 お姉さまの婚約者をちょうだい
「お姉さま。お願いがあるんだけど」
ロザリーがそう言ったのは、私とセドリック様の婚約を祝う晩餐の席だった。
彼女はいつもこうだ。『お願い』が断られる可能性など、微塵も考えていない顔で切り出してくる。
『あの薄紅色のドレスが欲しいわ』
『お姉さまがプレゼントされた翡翠のブレスレット、私の方が似合いそう』
『お姉さまばっかり日当たりがいい部屋でずるいわ。交換してくださる?』
けれど今日は私たちの婚約祝いの場。そこまで非常識なお願いをされることはないだろうと高を括ったのが間違いだったのかもしれない。
「……お願いって何かしら?」
そう尋ねると、ロザリーはニコニコしながら明るく返事をした。
「あのね。セドリック様を私にちょうだい」
「──え?」
聞き間違えたかと思うような自然さで、妹は私に婚約者をちょうだいと言った。
「私の方がお姉さまより、ずっとセドリック様とお似合いだと思うわ」
あまりに突拍子もない願いに、部屋の中がしんと静まり返った。
父のグラスに葡萄酒を注ぐ音だけが、場違いなほど大きく響いた。
けれど、ロザリーが冗談を言ったわけではないのは、顔を見ればわかる。
「ねえ、お姉さまもそう思うでしょう?」
白薔薇を飾った薄いピンクの巻き髪を揺らし、ロザリーは私の隣に座るセドリック様を熱っぽい瞳で見つめた。
「まあ、ロザリーったら」
母は困ったように言いながら、私の顔色をチラチラとうかがっていた。
「姉の婚約者を欲しがるなんて感心しませんよ」
「だって、お姉さまなら譲ってくださるもの」
ロザリーは悪びれもせずに答えた。
幼い頃のロザリーは、本当に身体が弱かった。
妹が泣くたび、両親は決まって私に言った。
『アデルは丈夫なのだから、我慢できるでしょう』
『あなたまで泣いたら、ロザリーがかわいそうよ』
やがてロザリーが丈夫になっても、両親の態度が変わることはなかった。
いつしか私は、何かを奪われても泣かなくなった。
最初から諦めていれば、失ったときに傷つかずに済むからだ。
だけど──セドリック様だけは奪われたくない。
セドリック様と顔を合わせたのは、今日が初めてだ。
辺境を守るセドリック様へ、私は何年も前からラヴェリアの生育報告を送ってきた。やがて報告書だけでなく、個人的な手紙も交わすようになった。私にとって、彼はただの政略結婚の相手ではなく、かけがえのない存在だった。
一度だけ、ラヴェリアが枯れかけた夜、父に助けを求めたことがある。
けれど取り合ってもらえず、私は報告書の末尾に不安を書いた。
セドリック様は、返事の最初にこう書いてくださった。
『あなたが守っているものを、私は信じます』
ロザリーがなんと言おうと、セドリック様を奪われるのだけは絶対に嫌だった。
そう思って父の顔を見ると、彼は気まずそうに私の様子をうかがった。
「アデル。ロザリーもこう言っているし、どうだろうか?」
「……どう、とはどういうことですか?」
声が震えるのを抑えられない。
けれど父は一度咳払いをすると、それが当然の提案であるかのように続けた。
「つまり、お前とセドリック様の婚約を取りやめて、ロザリーを辺境伯家へ嫁がせるのは──」
「そんな……」
「辺境伯が求めているのは我がクラーク家の娘だ。それであれば、ロザリーでも代わりは務まる」
『アデルは丈夫なのだから、我慢できるでしょう』
いつもの言葉が、頭の奥で聞こえた。
喉が固まり、うまく返事ができない。
それでも、私は膝の上で拳を握った。
「……嫌です」
部屋中の視線が、私に集まった。
父が信じられないものを見るように眉をひそめ、母は小さく息を呑んだ。
私がロザリーの願いを断ったのは、これが初めてだった。
「私は、セドリック様と結婚したいです。この婚約は、誰にも譲りません」
言い切った途端、握りしめていた指先が震えた。
けれど、不思議と後悔はなかった。
「私も同じ意見です」
セドリック様の落ち着いた声が、私の言葉を支えるように続いた。
「その願いを聞き入れることはできません」
「あら、どうして?」
ロザリーが水色の大きな瞳を瞬かせて首を傾げる。
「お姉さまならきっと、すぐにわかってくださるわ。いつもそうだもの」
「たとえアデルが妹君へ譲るとおっしゃっても、私は受け入れません。これは私自身の婚姻でもありますから」
セドリック様の温かい手が、膝の上で握りしめていた私の手に重なった。
驚いて顔を上げると、紫がかった青い瞳が、まっすぐ私を見つめていた。
ロザリーではなく、私が選ばれたことは嬉しい。けれど、なぜ彼がこれほど迷いなく私を選ぶのかわからず、呆然とその顔を見返した。
「誤解されているようですが、私は、この家の娘なら誰でもよいと申し入れたのではありません。アデルと結婚したいと申し上げたのです」
セドリック様がはっきりと両親に伝えると、ロザリーの顔から笑みが消えた。
「でも……お姉さまより、私の方が辺境伯夫人にふさわしいわ。お姉さまは社交もほとんどしないし、いつも地味な服を着て、花畑で土をいじってばかりで」
「当然でしょう。彼女は花守の役割を担っているのですから」
ロザリーは頬を膨らませ、両親は気まずそうに目をそらした。
花守とは、領内に植えられたラヴェリアの花へ魔力を注ぎ、花を絶やさぬよう世話をする者のことだ。
ラヴェリアは、花守の魔力を糧に地下で根をつなぎ、結界を作る。それがあるため、辺境一帯は魔物から守られていた。根が健やかにつながっているとき、遠くの花が見ている景色が、ふと心へ届くことがある。
我が家は代々その役目を担ってきた。けれど父は、白薔薇の香油事業が成功してから、利益を生まない花守の仕事を時代遅れだと言うようになった。
結局、祖父の死後もラヴェリアを守り続けたのは、私一人だった。
「辺境を治める私には、アデルの仕事がどれほど尊いものかよくわかっています」
……ああ、そうか。
私が選ばれたのは、花守だからなのね。
あの優しい手紙も、花守の私へ宛てただけで、特別な意味はなかったのかもしれない。
嬉しいのにどこか複雑な思いで、握られていた手を離そうとした。すると、それに気づいたセドリック様が、離れかけた指先を引き止めるように包む。
思わず彼の顔を見上げると、彼はやさしく微笑んだ。
「ずるいわ!」
ロザリーが唇を尖らせ、怒った顔で私を睨んだ。
「セドリック様がこんなに素敵な方だなんて、一度も言わなかったじゃない! もっと早くに教えてくれたら、絶対にお姉さまには渡さなかったのに」
いつもの私なら、何も言わずに黙っていただろう。
けれど今度こそ、「私のものは、あなたのものではない」と伝えなければならない。
そう思って息を吸った、その瞬間だった。
胸の奥で、ぴんと張りつめていた糸が切れた。
「──っ」
鋭い痺れが全身を走り、身体から力が抜ける。
毎日、意識の片隅に感じていたラヴェリアの気配が、引き裂かれるようにばらばらに途切れていく。
「アデル、どうしました!?」
「ラヴェリアが……」
「ラヴェリアが?」
「ラヴェリアのつながりが……切れました」
その言葉とほぼ同時に、セドリック様の胸元で甲高い音が響いた。
セドリック様が胸元から取り出した小さな境界石。その淡い紫色の光が失われ、表面に細い亀裂が走っていく。
「セドリック様、それは……」
「結界の異常を知らせるものです」
セドリック様は境界石の様子を確認しながら、焦った様子で尋ねた。
「アデル。ラヴェリアに最後に魔力を注いだのはいつですか」
「昨日の夕方です。ですが、これほど急に結界が弱まるなんて……」
するとロザリーが、場違いなほど明るい声を上げた。
「ラヴェリアなんて、もうないわよ」
「ロザリー……?」
「あの花畑は、白薔薇に植え替えたの」
一瞬、彼女が何を言っているのかわからなかった。
「ほら、前に私が欲しいとお願いしたら、お姉さまが許可をくれたでしょう?」
「ち、違うわ。私は、南側の一角なら土地が空いているから使ってもよいと言っただけで……」
「だって、そこは白薔薇を植えるには狭すぎたの。お父様にお願いしたら、全部使ってよいと言ってくださったわ」
思わず父を見る。
「お父様。まさか、本当にラヴェリアを抜いたのですか」
「お前が辺境伯家に嫁げば、世話する者がいなくなる。だったら抜いた方が面倒がなくていいだろう?」
「私は嫁いだあとも、この地で花守を続けます。そう何度もお伝えしたはずです。それなのに、なんてことを──もし魔物がきたら、どうされるおつもりですか!?」
「昔から伝わる迷信だろう。ロザリーが欲しがっているのだから、それくらい譲ってやっても──」
椅子が床を擦る音がして、はっと隣を見ると、セドリック様が立ち上がっていた。
その手の中で、境界石の亀裂が音を立てて広がっていく。
「まずい! ラヴェリアの魔力が尽き、結界そのものが崩れ始めている。この亀裂の広がり方では、夜明けまでもつかどうか……」
「そんな……」
「アデル。地下の根が残っていれば、結界を張り直せますか?」
状態を確かめなければ、断言はできない。
けれど、地下の根まで完全に枯れたと決まったわけではなかった。
「根が生きているなら、もう一度魔力を注ぎ、結界をつなぎ直せます」
「では、急ぎましょう。魔物が侵入する前に」
「はい。花畑へ案内します」
震える膝に力を込めて、私は立ち上がった。
大切なものを、もう黙って奪わせはしない。




