第八話:崩壊
その夜、風はなかった。
草原は、不自然なほど静かだった。
いつもなら虫が鳴いている。
丘陵の上を夜鳥がかすめる羽音がある。
遠くの草むらで、何か小さな獣がかさかさと動く音もする。
だが、その夜は何もなかった。
空気そのものに布をかぶせられたみたいに、すべての音がどこかでくぐもっていた。
カイルは、雨が来るからだと言った。
草原の虫は、俺たちより先に天気を知る。雨の前には、いっせいに黙るのだ、と。
いつ覚えたんだ、と訊くと、彼は言った。
「今、適当に言った」
そして、尻尾で俺の膝を叩いた。
俺たちは野営地の端、灌木の陰で見張りについていた。
俺は三番目の番。
カイルは四番目の番だった。
本当なら、彼は天幕で眠っているはずだった。
だが、行かなかった。
眠くない、と言う。
俺が、魔狼族はあまり眠らなくても平気だろうと言うと、彼は「お前はな。俺は寝る」と返した。
それなのに結局、隣の石にもたれて座り、匕首を抜いては、親指で刃を確かめている。
それを、百回くらい繰り返していた。
「そんなに試したら、刃がなくなるぞ」
「なくなったら研ぐ」
カイルは匕首を鞘へ戻した。
しばらくすると、また抜いた。
彼が眠りに行かない理由はわかっていた。
族長が、まだ交渉から戻っていない。
予定では、今日が最後の交渉のはずだった。
うまくいけば、契約が結ばれる。
うまくいかなければ――
カイルは、その先を口にしなかった。
ただ、何度も何度も、匕首の刃を確かめていた。
野営地の連中も似たようなものだった。
表向き、誰も何も言わない。
だが、焚き火の周りにいる者の数は、普段の倍に増えていた。
誰も歌わない。
誰も追いかけ合って遊ばない。
いちばん小さな子どもたちでさえ静かだった。母親の膝元に縮こまり、尻尾を自分の足首に巻きつけている。
俺は、人間のことを考えていた。
もし契約が本当に結ばれたら、俺たちはここでどれくらい暮らすのだろう。
数か月。
数年。
それとも、一生。
もし一生だとしたら、俺はこのまま生きていけるのだろうか。
ガルムとして。
族長の息子として。
カイルの兄弟として。
リリの兄として。
毎日、見張りをして、狩りをして、干し肉を分け合って。
全部、土の下に埋めて。
ずっと期待していた異世界冒険もない。
ハーレムもない。
ゲーム機もない。
それでも、ここで普通の魔狼族として生きることはできるのかもしれない。
誰も、俺の前世が偽物の勇者だったかどうかなんて気にしない。
誰も、あの目で俺を見ない。
族長は、俺の目の色がなぜ変わったのかを訊かない。
カイルは、俺が何を考えているのかを訊かない。
リリは、黒い目もきれいだと言って笑うだけだ。
その考えが浮かぶたび、胸の奥に妙な温かさが生まれた。
冬に、焼けた石へ手を押し当てたときのような温かさだ。
だが、石はいつか冷える。
わかっている。
これはただの自己欺瞞だ。
勇者システムはまだ光っている。
《火球》は、まだスキル欄に残っている。
神は俺をゴミだと言った。
そして、ゴミは土に埋めてもゴミのままだ。
それでも、せめて今夜だけは。
風のないこの夜だけは。
カイルが隣で匕首の刃を確かめ続けている間だけは。
俺は、自分がただのガルムなのだと、そう思っていたかった。
「なあ」
カイルがふいに言った。
「うん」
「族長、うまくやれると思うか」
「お前はどう思うんだ」
「俺は」
カイルは匕首を鞘に戻した。
今度は、すぐには抜かなかった。
「人間は信用できないと思う。でも、族長は強い。族長で駄目なら、誰が行っても駄目だ」
「だから?」
「だから、きっと大丈夫だ。族長は誰より強いからな」
彼の理屈は、輪になっていた。
族長は強いから交渉はうまくいく。
交渉がうまくいくなら、人間も信じていい。
彼は頭でそれを考えているのではない。
族長への信頼で、考えている。
カイルにとってその信頼は、大きな布のようなものだった。
恐怖も。
疑いも。
全部、その下に覆い隠せる。
俺には、その布がない。
だが、彼の布を破りたいとは思わなかった。
そのとき、声が聞こえた。
交渉の方角からではない。
南。
千羊河の方角だ。
人の叫び声。
短い。
何かに不意に喉を掴まれたみたいに、途切れた。
続けて二つ目。
三つ目。
カイルの耳が、俺より半拍早くその方角を向く。
匕首は、すでに手の中にあった。
「何だ――」
地面が震えた。
魔法だ。
大規模な土属性の魔力が、足の裏から伝わってくる。
地層の奥深くで、誰かが巨大な槌を振り下ろしたような感覚だった。
足元の土が、急に柔らかくなる。
「罠だ!」
俺はカイルの襟を掴み、後ろへ引こうとした。
だが、引けなかった。
彼は自分で跳んでいた。
地面の軟化と、突き上がる棘はほとんど同時だった。
泥沼の縁から、灰白色の岩の棘が斜めに飛び出す。
腰ほどの高さ。
もし俺たちが、さっきの場所に残っていたら。
足の裏から胸まで、まとめて貫かれていた。
野営地が弾けた。
南から火矢が飛んでくる。
一斉射だった。
火球が天幕を叩き、焚き火のそばを抉り、干してあった革鎧の台を吹き飛ばす。
焚き火が散った。
火の粉が四方へ跳ね、近くの干し草へ燃え移る。
悲鳴と爆発音が混ざり合い、どれが誰の声なのか、もうわからなかった。
俺は野営地の中央へ走り出した。
後ろでカイルが俺を呼ぶ。
周囲は、走る影で埋まっていた。
魔狼族の女が、子どもを抱えて俺の横を駆け抜ける。
子どもは、母親の腕にしがみついていた。
次の瞬間、泥沼が彼女の足首を掴んだ。
下半身が沈んでいく。
彼女は子どもを持ち上げようとした。
その前に、棘が伸びた。
血が飛び散る。
俺は、それ以上見なかった。
丘陵の最も高い場所に、妖術師が立っていた。
痩せた長い影が、炎の明かりに浮かび上がる。
黒い外套が、熱風に煽られて翻っていた。
その声は拡声魔法で増幅され、丘の上から転がるように降ってくる。
燃える野営地全体を、平らに踏み潰すような声だった。
「魔狼族の部族に告げる」
語調は、ひどく平坦だった。
「指定地外への無断駐留。協定違反。族長はすでに裁定を受け、処刑された。これより、すべての魔狼族を――討伐対象とする」
族長は、すでに処刑された。
その言葉が落ちた瞬間、周囲の音が一拍だけ止まった。
静かになったのではない。
全員が、同時にいま自分がしていたことを止めたのだ。
走っていた者が足を止めた。
武器を振り上げていた者の腕が止まった。
口を開いていた者の声が、喉の奥で詰まった。
死んだ。
誰よりも強かったあの人が。
魔化した息子を片手で押さえつけ、もう片方の腕から血を流していたあの人が。
レベル八十に迫る、部族最強の戦士が。
死んだ。
カイルが、俺の横を駆け抜けた。
匕首は抜かれていた。
尻尾は棒のように強張り、耳は頭蓋に貼りついている。
俺の記憶にあるどの瞬間よりも、速かった。
燃える焚き火を飛び越える。
折れた天幕の支柱を越える。
戦っている冒険者と魔狼族の間を、すり抜けるように抜けていく。
「カイル!」
俺は追った。
足元の泥は、まだ柔らかい。
身のすぐ横で、棘が次々と突き上がる。
冒険者たちが、野営地へ流れ込んできていた。
南の渡河地点。
北の丘陵。
西の、町へ続く道。
すべての方角に人がいる。
すべての方角で、火球、風刃、奥術飛弾の光が閃いていた。
そして、生きたまま魔石を抉られる悲鳴。
それに混ざる、冒険者たちの下卑た笑い声。
若い魔狼族の戦士が、三人の冒険者に囲まれていた。
左腕はすでに折れている。
それでも右手で刀を握り、まだ斬りかかっていた。
冒険者の一人が背後へ回り、氷の錐をその背へ突き込む。
彼が倒れる。
冒険者たちは彼の顔を見なかった。
すぐにしゃがみ込み、腹を裂き、内臓の間を探り始めた。
カイルは、まだ前にいた。
丘陵の斜面を駆け上がっていく。
妖術師の護衛たちが、彼に気づいた。
二人の冒険者が左右から挟み、素早く剣を抜く。
カイルは速度を落とさなかった。
一人目の剣を、肋で受けた。
そのまま匕首を男の太腿へ突き立てる。
抜く。
身を返す。
次の一突きは、二人目の腹へ入った。
彼は、妖術師の前まで辿り着いた。
妖術師が振り返る。
痩せた長い顔に、最初は驚きが浮かんだ。
次に、笑み。
嫌な皺が、その顔の上で歪む。
カイルの匕首が、妖術師の腹を狙った。
刃は脇腹へ食い込む。
致命傷ではない。
妖術師の笑みが、ほんの一瞬だけ固まる。
次に、彼は右手を上げた。
至近距離で、奥術飛弾が炸裂した。
カイルの身体が、巨槌で殴られたように浮く。
奥術飛弾の余波が消えきる前に、妖術師の左手が次の魔法を放った。
爆裂魔法。
狙ったのはカイルではない。
彼が落ちる地面だった。
地面が爆ぜる。
砕けた石と泥が、カイルの身体へ叩きつけられる。
爆風に巻かれて、彼は斜面を転がった。
最後に、丘の下の砕石の山へ叩きつけられる。
俺が駆け寄ったとき、妖術師はもうこちらを見ていなかった。
他の冒険者たちへ指示を飛ばしている。
彼にとって、カイルは一瞬の横槍でしかなかったのだ。
余計に見る価値もない。
カイルの胸は上下していた。
肋骨が折れている。
左腕は、関節ではない方向へ曲がっていた。
腹には大きな裂傷がある。
奥術飛弾の衝撃で裂けたのだ。
暗い血が、そこから流れ出している。
それでも、目は開いていた。
俺を見る。
口元が、わずかに動いた。
「……刺したぞ」
声は、石の隙間から絞り出したようだった。
俺は彼を抱え起こした。
右腕を俺の肩へ回す。
左腕は垂れ下がり、指先が地面を引きずった。
重さがのしかかる。
膝が折れそうになる。
それでも、立った。
カイルの尻尾が、俺の腰にかかった。
動かない。
「お前……」
「……刺したぞ」
彼はもう一度言った。
目が、かすかに閉じる。
俺は彼を引きずり、東へ走った。
野営地はまだ燃えている。
悲鳴もまだ続いている。
背後の丘の上では、妖術師の声がまた響いていた。
戦利品の配分を読み上げている。
「リリ」
カイルが不意に言った。
俺は答えられなかった。
リリがどこにいるのか、俺にはわからない。
彼女は別の野営地にいる。
いちばん隠された場所に。
だが、どの方角にも火が見える。
すべての野営地が襲われている。
大丈夫だ、と言いたかった。
だが、口が開かなかった。
「大丈夫だ」
カイルが言った。
俺の代わりに。
この馬鹿は、肋骨が何本折れたかもわからず、左腕も使えず、腹から血を流しているのに。
それでも、俺の代わりに言葉を出した。
俺は彼を引きずり続けた。
東へ向かう道は、進むほど暗くなる。
背後の火は、少しずつ遠ざかっていった。
足元の草が高いものから低いものへ変わり、やがてまばらになっていく。
地面に、剥き出しの礫と白い塩の斑が現れ始めた。
東部荒原の縁だ。
追手は来ない。
来る必要がないのだろう。
たとえ何人か逃げ延びたところで、連中にとって今夜の戦利品は、もう十分すぎるほど転がっている。
俺は足を止め、カイルを灰色の大岩へもたせかけた。
呼吸が遅い。
目は閉じている。
口元の血は乾き、皮膚に貼りついていた。
俺はその隣に座った。
耳だけが、まだ背後の方角へ向いていた。
草原が燃えている。
火の明かりが、空の半分を照らしていた。
灰煙が高く昇っていく。
あれは、俺たちの野営地だ。
あれは、族長の部族だ。
あれは、俺の民――
違う。
ガルムの民だ。
カイルの民だ。
リリの民だ。
俺にとっては、まだ一か月にも満たない時間を共にしただけの人たちだったのかもしれない。
親切にしてくれた、ただの人たちだったのかもしれない。
仲のいい同級生と、家族の間くらい。
その程度の距離だったのかもしれない。
俺がかろうじてつなぎ合わせてきた長い人生の中で、そういう人たちは、いつも少なかった。
だから、もしかすると。
本来のガルムほど深く、彼らを愛していたわけではないのかもしれない。
それでも。
吐き気がした。
連中のしているくだらない仕事は、すでにぐしゃぐしゃに潰された俺の尊厳を、わざわざ丁寧に広げ直して、もう一度潰すだけだった。
俺は誰だ。
草野雪人。
いじめられていた高校生。
神に嘲られたゴミ。
セレーネ・ルカ。
処刑された偽勇者。
二つの派閥に使い捨てられた駒。
ガルム。
族長の息子。
カイルの兄弟。
リリの兄。
三つの名。
三つの人生。
そのどれもが、引き裂かれた。
俺は、ゴミになりたいのか。
神は俺をゴミだと言った。
皆が俺をゴミだと言った。
前世でも。
転生してからも。
死んだあとでさえ。
なら、信じるべきなのだろう。
俺はゴミなのだと。
ここでどこかに隠れて、魔化波動が来るのを待てばいい。
精鋭個体にでもなればいい。
あるいは、早めに西へ逃げて、別の場所でまた虫みたいに生き延びればいい。
けれど、さっきカイルが俺の横を駆け抜けたとき。
彼はそんなことを考えていなかった。
族長が死んだ。
高い場所で囲剿を告げた男が、まだ笑っている。
それだけだった。
勝てないことはわかっていたはずだ。
奥術飛弾が骨を砕くこともわかっていたはずだ。
それでも、彼は走った。
カイルは、ゴミではないからだ。
では、俺は。
俺は手を見下ろした。
魔狼族の手。
手の甲には、まだ魔化の名残である暗い紋様が残っている。
爪には薄く灰色が混じっていた。
この手で、何ができる。
ただ、一人ずつ死んでいくのを見ているだけか。
なぜ、俺はまだ生きている。
幼なじみは死んだ。
父は死んだ。
族長は死んだ。
部族は死んだ。
カイルは、もう長くない。
リリがどこにいるのかもわからない。
それでも、俺はまだここにいる。
なぜ、俺だけが。
俺は、ガルムではない。
俺に何ができる。
できることは、少ない。
東へ行くことだけだ。
魔化してもいい。
死んでもいい。
力が要る。
俺はカイルをもう一度抱え上げた。
彼の頭が、俺の肩に落ちる。
口が少し開いた。
だが、声は出なかった。
俺は彼を引きずるようにして、東へ歩き出した。
背後では、まだ草原が燃えている。
頭上では、星の光が薄くなり始めていた。
夜明け前の灰白色の光が、東の黒雪山脈の輪郭を淡く浮かび上がらせる。
カイルは重かった。
彼の尻尾は、まだ俺の腰にかかっている。
俺は、歩き続けた。




