第九話:喰い裂く
俺たちは、東へ十日歩いた。
正確に言えば、黒雪山脈の方角へ十日歩いた。
それが正しい道なのかは、わからない。
ただ、西には人間がいる。
南には、燃えた草原がある。
北も草原だ。
そして東には、山がある。
黒い山。
焦げた獣の骨みたいに、地平線の果てへ横たわっている山。
だから、俺たちは東へ歩いた。
地図はない。
案内人もいない。
食料もない。
最初の三日、カイルはほとんど歩けなかった。
肋骨が何本折れていたのか、俺にはわからない。
左腕の骨も一度ずれて、俺が無理やり押し戻した。枝と獣の腱で固定して、どうにか形だけは保たせた。
息をするたび、肺の中に砕けた石を詰め込まれているみたいな音がした。
夜、眠っている途中で突然咳き込み、口の端から血を流す。
それを自分で拭って、また目を閉じる。
俺は、彼が死ぬと思っていた。
だが、死ななかった。
魔狼族の身体は、人間よりずっと頑丈だ。
回復力も、気味が悪いほど高い。
それに加えて、この十日、俺たちはずっと魔物に襲われ続けた。
襲われて、殺して、また襲われて、また殺した。
そのたびに、システム欄の冷たい数字が少しずつ上がっていった。
十日後。
俺は、レベル二十四になっていた。
この調子なら、勇者だったころのレベルにも、すぐ追いつくのかもしれない。
経験値を得るうえで、最も効率のいい方法。
そして、ほとんど唯一の方法。
それは、殺すことだ。
人間を殺しても、同じように経験値が入るのだろうか。
わからない。
あまり考えたくもなかった。
カイルもレベルが上がった。
顔色はまだ悪い。
左腕には完全に力が入らない。
歩くときも、無意識に肋のあたりを押さえている。
それでも、彼は笑えるようになった。
笑えるなら、まだ壊れきってはいない。
この十日で、俺は一つのことを学んだ。
魔狼族の身体は、人間の身体ではない。
人間は剣を握る。
弓を引く。
呪文を唱え、杖を使い、魔力を自分たちに理解できる形へ編み上げる。
魔狼族は違う。
魔狼族の武器は、最初から身体に生えている。
牙。
爪。
脚。
腰。
尾。
そして骨の間を流れる、本能に近い魔力。
最初、俺はただ手で掴み、牙で噛んでいただけだった。
追い詰められた野犬みたいに。
だが、違った。
指先に魔力を集めれば、爪が硬くなる。
牙の根元へ魔力を通せば、噛みついた瞬間、楔のように肉へ食い込む。
脚に集めれば、ただ速く走れるわけではない。
地面を踏んだ一瞬、身体そのものを弾き飛ばせる。
スキル欄に新しく灯ったものではなかった。
システムは何も教えてくれない。
『魔狼爪撃を習得しました』
『牙強化を習得しました』
そんな親切な表示は出ない。
これはただの本能だった。
あるいは、この身体が最初から知っていたこと。
俺がようやく、自分はもう人間ではないと認め始めてから、少しずつ触れられるようになったものだった。
カイルは、それが普通だと言った。
「お前、前もできてたぞ」
「前の俺が?」
「ああ。まあ、下手だったけどな」
そのとき、彼は小型の魔物の死骸のそばにしゃがみ込んでいた。
匕首で厚い皮を割いている。
動作は遅い。
左腕がまだ使えないから、膝で魔物の脚を押さえ、右手だけで少しずつ剥いでいた。
それから、顔を上げて俺を見る。
「今も下手だけどな。どっちにしろ、魔化で記憶がぼやけてるって言うなら、ちゃんと全部思い出せ」
俺は反論しなかった。
彼の言う通りだった。
俺は、まだ下手だ。
だから、あの獣が低い斜面の向こうから立ち上がったとき。
俺の最初の反応は、戦うことではなかった。
逃げることだった。
睨獣。
それには、四つの目があった。
二つは正面。
残り二つは、少し側面寄りの上にある。
濁った黄白色の眼球がいっせいに動く様子は、水に浸かって腐った石が四つ、ぐるりと向きを変えたように見えた。
俺たちがこの十日で見たどの魔物よりも大きい。
肩の高さだけで、人間二人分に近い。
背中は灰褐色の厚皮に覆われ、その下の肉は節くれ立って盛り上がっていた。絡まり合った木の根のようだった。
口は左右へ大きく裂け、上下の顎から獣牙が交互に伸びている。
牙の根元には、古い肉片が暗赤色にこびりついていた。
視界の端で、システム欄が光る。
レベル五十前後。
正確な数字ではない。
俺の鑑定能力では、ぼんやりとした範囲しか見えない。
だが、それで十分だった。
差が大きすぎる。
これが、いわゆる草原深部の上位捕食者なのだろう。
あるいは、雑魚を一定数狩ったあと当然のように出てくる、小型のボスだ。
俺とカイルを足しても、あいつの前脚一本に踏み潰される。
カイルは俺の隣に立っていた。
匕首を逆手に握り、耳を低く伏せている。
「逃げるか?」
彼が訊いた。
俺は背後を見た。
背後は塩の浮いた荒地だった。
灰白色の硬い土が、見渡す限り続いている。
木はない。
斜面もない。
回り込める場所もない。
あの睨獣の脚は太い。
だが、短くはない。
逃げきれない。
「無理だ」
「じゃあ、やるか」
彼はひどく軽く言った。
今夜、何を食べるか決めるみたいに。
次の瞬間、睨獣が口を開いた。
すぐに飛びかかってきたわけではない。
ただ、吼えた。
空気が歪んだ。
音は耳から入ってこなかった。
胸骨と、胃と、首の後ろを同時に殴りつけるように、身体の内側へ叩き込まれた。
膝が先に崩れかける。
尾が勝手に張り詰める。
喉の奥に、冷たい泥を押し込まれたようだった。
システム欄に、一行の文字が浮かぶ。
『状態異常:恐怖』
赤い字。
目に痛い。
カイルの身体も、一瞬だけ固まった。
そこから、感電したみたいな震えが来る。
吐き気がした。
胃酸が胃の底で暴れ、食道と喉を焼きながら上がってくる。
涙が出そうだった。
だが涙は出ず、目の奥に酸っぱい痛みだけが残った。
膝をつきたい。
そう思った。
けれどカイルは、自分の手の甲に噛みついた。
牙の隙間から血が滲む。
彼はその手を下ろし、灰色の目で睨獣を睨んだ。
「目を見るな」
「お前も見てるだろ」
「俺が賢いとは言ってない」
睨獣が動いた。
体格と釣り合わない動きだった。
速すぎる。
前脚が振り下ろされた瞬間、俺とカイルは同時に左右へ跳んだ。
土が爆ぜる。
砕けた石が弩の矢みたいに飛び散った。
一つが俺の肩に当たり、半身が痺れる。
先に動いたのはカイルだった。
正面には行かない。
左側へ回り込み、睨獣の前脚の内側を匕首で切りつける。
刃は皮を一枚裂いただけだった。
浅い。
乾いた木に、白い筋を一本つけた程度。
睨獣が脚を払う。
カイルは地面すれすれに転がって避けた。
だが、わずかに遅い。
背中を掠められ、二歩分吹き飛ぶ。
それでもすぐに起き上がった。
俺は反対側から飛びかかる。
右手の五指へ魔力を集める。
爪が硬くなる。
右前脚の外側を狙って振り下ろした。
指先は確かに食い込んだ。
だが、少しだけだ。
その下の肉が、恐ろしく厚い。
油を染み込ませた革みたいに、硬く、しぶとい。
力任せに引き裂いても、剥がれたのは細い肉片一つだった。
睨獣が痛みに反応し、四つの目を同時にこちらへ向ける。
俺はすぐに手を離した。
一瞬、遅かった。
獣牙が横から薙ぎ払ってくる。
噛みつきではない。
衝突だった。
俺は脚に魔力を押し込み、後ろへ弾ける。
それでも牙の先が腹の側面を掠めた。
肉が裂ける。
血が、一気に熱くなる。
着地したとき、足元が抜けた。
カイルが背後から飛びついた。
睨獣の後脚に残る古傷へ噛みつく。
匕首ではない。
牙だ。
牙の根元に、淡い魔力の光がある。
彼は食い込み、肉を一片引きちぎると、すぐに離れた。
睨獣の後脚が蹴り上がる。
カイルは吹き飛ばされ、地面を何度も転がった。
立ち上がったとき、口の中は血まみれだった。
彼の血なのか。
睨獣の血なのか。
わからない。
俺たちは交互に仕掛けた。
カイルが切る。
俺が裂く。
俺が噛む。
カイルが別の角度からもう一度入る。
殺すことは求めない。
まずは傷を増やす。
痛ませる。
血を流させる。
向きを変えさせる。
一人だけを見続けさせない。
それは、本来なら正しいやり方だった。
相手がレベル三十程度の魔物なら、このまま削れば、いずれ殺せる。
だが、こいつは違う。
皮が厚すぎる。
肉が硬すぎる。
俺たちの攻撃は、岩壁を爪で少しずつ削っているようなものだった。
対して、あいつは一度触れるだけで、こちらの骨を鳴らせる。
カイルの肋がまた裂けた。
古傷だ。
着地した瞬間、彼の身体が明らかに傾いた。
俺はそちらへ行こうとした。
睨獣の尾が薙ぎ払われる。
身体を低く伏せ、尾の下をくぐるしかなかった。
すれ違いざま、爪で腹側を裂く。
浅い。
やはり浅い。
睨獣が再び吼えた。
『状態異常:恐怖』
赤い文字がまた点滅する。
手が、一瞬だけ遅れた。
その一瞬で、睨獣の前脚はもう目の前にあった。
避けられない。
俺は両腕を頭上で交差させ、骨と皮膚へ魔力を集中させた。
衝撃が落ちる。
世界が一瞬、黒く潰れた。
俺は土の中へ叩き込まれた。
喉の奥に血の味が込み上げる。
胃が痙攣する。
顔の筋肉は、きっとひどく歪んでいるだろう。
肩が地面へ打ち込まれた杭みたいに動かない。
それでも、指はまだ、睨獣の脚についた浅い傷を掴んでいた。
浅い傷。
血。
皮。
肉。
火。
俺は、自分の指が傷の縁に食い込んでいるのを見た。
そして不意に、前世で覚えた最低級魔法の温度を思い出した。
火球を完全な厚皮にぶつけても、たいした傷にはならない。
皮が受け止めるからだ。
だが、完全な皮でなければ。
すでに裂けた肉なら。
火が外から焼くのではなく、内側から炙るのなら。
俺は指を開いた。
指先を創口へ押し当てる。
火球。
投げない。
球にもまとめない。
ただ、魔力を火に変え、掌の中の最小範囲で点火する。
血肉の間に、橙の光が一瞬灯った。
その中に、まれに白い火花が混じる。
睨獣の身体が、びくりと強張った。
焦げた匂いが鼻へ流れ込む。
肉の焦げる匂いだった。
俺の手の下で、肉が縮む。
硬くなる。
脆くなる。
睨獣が、先ほどまでとはまるで違う声を上げた。
威嚇ではない。
痛みの声だ。
睨獣は脚を振り上げ、俺を振り落とそうとした。
俺は離さなかった。
爪を、焼け焦げた肉へもう一度差し込む。
今度は入った。
深く。
焦げた肉は、生きた肉より脆い。
俺は力任せに引き裂いた。
肉が塊ごと剥がれた。
血が噴き出す。
熱い。
生臭い。
顔中に浴びた。
睨獣が狂ったように身を捩る。
俺は振り飛ばされた。
地面に叩きつけられ、転がる。
耳の奥が、ずっと鳴っていた。
遠くでカイルの声がした。
聞き取れない。
俺は起き上がった。
睨獣の右前脚に、ようやく本物の傷ができていた。
浅い切り傷ではない。
穴だ。
その奥で、赤黒い筋肉が痙攣しているのが見える。
打ち方が、わかった。
もっと大きな火球ではない。
もっと強い爪でもない。
順番だ。
裂く。
火を入れる。
焦がす。
さらに裂く。
噛む。
また火を入れる。
もともと堅牢だった身体を、一層ずつ、剥がせるものへ変えていく。
俺は走った。
睨獣も動いた。
視界の端には、まだ『恐怖』の赤い文字が残っている。
消えていない。
脚は震えている。
だが、気にしている余裕はなかった。
睨獣の右側へ滑り込み、爪をもう一度あの穴へ差し込む。
睨獣が即座に身を捻り、獣牙を横へ薙いだ。
俺は地面すれすれまで身体を沈める。
背中の毛が、牙の風圧で倒れた。
掌で火を灯す。
肉が縮む。
焦げる。
裂く。
後脚が蹴り込まれた。
俺は肩で受けた。
身体が吹き飛びかける。
それでも左手は、まだ傷の中に引っかかっている。
離せない。
離せば、もう入れない。
カイルが反対側から飛びついた。
匕首が、睨獣の目の下の皮を裂く。
刃はやはり深くない。
だが、四つの目をそちらへ向けさせるには十分だった。
「こっちだ」
声が掠れていた。
睨獣が彼へ向かう。
その隙に、俺は傷口の縁へ噛みついた。
歯が半ば焦げた肉へ食い込む。
吐きそうな味だった。
吐かなかった。
噛みしめ、後ろへ引く。
口先で、小さく火を弾けさせる。
睨獣を攻撃するためではない。
俺が噛んでいるその肉を、焼くためだ。
痛みに、睨獣の身体が一瞬だけ沈んだ。
カイルはその隙に、もう一方の前脚へ新しい切り傷を入れる。
その直後、睨獣が突然向きを変えた。
速すぎた。
俺はまだ脚にぶら下がっていて、口を離す暇がなかった。
獣牙が上から降ってくる。
それが見えた。
俺の腕より太い牙。
古い血と肉片をこびりつかせた牙。
避けられない。
そうわかった。
次の瞬間、カイルが突っ込んできた。
肩から俺へぶつかり、創口のそばから弾き飛ばす。
獣牙が、俺の耳を掠めて落ちた。
そして、カイルに当たった。
刺し貫いたのではない。
正面からの衝突だった。
カイルの身体が、投げ捨てられた布みたいに横へ吹き飛ぶ。
白い石に叩きつけられた。
石が割れる。
地面に落ちたカイルは、一度だけ身体を丸めた。
すぐには動かなかった。
頭の中が、一瞬空白になる。
睨獣は、俺に止まる時間をくれない。
再び前脚を上げる。
俺はその下へ飛び込んだ。
避けるためではない。
あの傷へ戻るためだ。
右前脚。
裂けた穴。
そこへ、腕ごと突っ込む。
火球。
肉が内側から燃えた。
睨獣の咆哮が頭上で弾ける。
歯が互いにぶつかるほどの振動だった。
俺は腕をかき回した。
爪で内側を掻き裂く。
焼く。
裂く。
噛む。
焼く。
裂く。
また噛む。
技などない。
美しい剣光もない。
勇者らしさもない。
追い詰められた魔狼が一匹、怪物の肉へ腕を突っ込み、焼ける場所を焼き、裂ける場所を裂いているだけだった。
睨獣の動きが乱れ始めた。
その前脚が、身体を支えられなくなっている。
後退しようとする。
カイルが立ち上がった。
どうやって立ったのか、俺にはわからない。
口の中は血まみれだ。
肋のあたりが一か所、沈んでいる。
右肩は低く垂れていた。
それでも、立っていた。
よろめきながら睨獣の左側へ走り、匕首で別の脚に新しい傷をつける。
浅い。
まだ浅い。
だが、それで足りた。
睨獣は、そちらを無視できない。
その一瞬で、俺は火をさらに深く押し込んだ。
今度は掌ではない。
五指全部だ。
火が指の隙間から肉の中へ潜り、俺が裂いた亀裂を伝って上へ這う。
睨獣の右前脚が、ついに折れた。
骨の折れる音ではない。
肉と腱が、まとめて千切れる音だった。
巨大な身体が前へ崩れる。
地面が震えた。
土埃が舞い上がる。
俺は半身を下敷きにされかけ、危うく抜け出した。
カイルは睨獣の頭側へ飛びつき、片方の目の横にある柔らかい肉へ噛みついた。
睨獣が最後に口を開く。
恐怖の咆哮が放たれるより早く、俺はその首へよじ登っていた。
そこにも傷がある。
カイルがさっきつけたものだ。
小さい。
だが、もう十分だった。
俺は手を押し当てる。
火球。
焦がす。
爪。
裂く。
牙。
噛み込む。
そして、もう一度、火球。
今度の火は、すぐには消えなかった。
喉管のそばで弾ける。
睨獣の身体が、びくりと大きく跳ねた。
四つの目が同時に見開かれる。
前脚が地面を狂ったように掻く。
一度。
二度。
三度。
そして、動かなくなった。
視界の中で、システム欄が光った。
『経験値を獲得しました』
『レベルが上昇しました』
『レベルが上昇しました』
『レベルが上昇しました』
通知が一行ずつ浮かんでくる。
数える気にはならなかった。
俺は睨獣の首から滑り落ち、そのまま地面へ倒れた。
しばらくして、ようやく最後の数字が見えた。
レベル三十一。
俺はその数字を見つめた。
それから、笑った。
声は出なかった。
口元が、少し動いただけだ。
何かを殺すという行為は、ずいぶん効率がいいらしい。
カイルは、少し離れた場所に倒れていた。
仰向けになっている。
胸の上下は浅い。
また気を失ったのかと思った。
だが、彼の目は開いていた。
空を見ている。
黒雪山脈の方角では、空がわずかに明るくなり始めていた。
「なあ」
彼の声は、とても軽かった。
「うん」
「俺、さっき格好よかったか?」
罵ってやりたかった。
だが、そんな力は残っていなかった。
だから俺も地面に倒れ込み、同じ空を見上げた。
灰白色の雲が低い。
俺たちの上に押し重なる骨灰のようだった。
「馬鹿だった」
俺は言った。
カイルは笑った。
笑いかけて、途中で血を咳き込んだ。
咳き終えると、目を閉じる。
「じゃあ、格好よかったってことだな」
俺は反論しなかった。
俺たちは睨獣の死骸のそばに転がっていた。
全身が血まみれで、指先はいまも震えている。
遠くで、黒雪山脈は沈黙したまま立っていた。
扉のように。
墓のように。
俺たちは、まだあそこへ向かわなければならない。
肉を裂き取る。
焦がす。
噛む。
少しだけ、胸の奥が楽になった気がした。
ひどく不味い。
消しゴムみたいな味がした。




