第十話:勇者の茶会
ヴィランディル王都の茶には、血の匂いがしなかった。
白磁のカップは薄い。
陽光がその壁を透かすと、中の茶が淡い金色に揺れているのが見えた。宮廷侍女は銀のポットを少しも揺らさずに傾け、茶は雨のように静かな音を立ててカップへ落ちる。底に、一滴の飛沫も跳ねない。
卓布は白い。
砂糖壺は銀。
焼き菓子は一口で食べられる大きさに切り分けられ、表面には蜂蜜が塗られ、中には南方の果実で作ったジャムが挟まれていた。
皿に並べた者は、宮廷の美意識というものをよく心得ていたのだろう。
菓子と菓子の間隔まで、ほとんど同じだった。
オルフェン・ルクレシウスは、卓のそばに腰かけ、訓練服の首元のボタンを二つ外していた。
陽光が彼の金髪に落ちる。
神殿の壁画に描かれた英雄の頭上へ、光輪が差しているようだった。
かつて人類を率いてエルフ族を討ち破り、文明を南方へもたらした偉大なる英雄。
その姿を思わせる、と言う者もいる。
ルクレシウス家こそ、その神意を継いだ英雄王の血脈の一枝であり、ゆえにヴィランディル王国でも最も強盛な貴族門閥となったのだ――そんな噂も、王都では珍しくなかった。
彼は今朝、地下訓練場から戻ったばかりだった。
宮廷教官の言い方を借りれば、あれはあくまで「軽度の実戦調整」にすぎない。
だが地下闘技場では、中型の魔物が三体死んだ。
世界樹の根に広がる大迷宮の浅層も、一部が掃討された。
だから、全員が当然のように思っていた。
休息は必要だ、と。
勇者も人間なのだから。
少なくとも、茶会の席では。
「昨日より薄いわね」
ジュリエッタ・ヴァレリオはカップを受け皿へ戻し、眉先をかすかに上げた。
声は大きくない。
だが茶を淹れた侍女の顔色を白くするには、それで十分だった。
フラヴィア・メリッサが微笑む。
「昨日の茶は、少し濃く淹れてありましたから。今日のものは、南苑から届いた春摘みの葉でしょう。香りを軽く立たせる茶ですわ」
「軽すぎて水みたい」
「ですから、ゆっくり味わうのです。宮廷作法において、お茶は喉を潤すためのものではありませんもの」
「じゃあ、何のために飲むの?」
フラヴィアの笑みは変わらなかった。
「喉の渇きを満たすためではない、と周囲に示すためですわ」
ゴドウィン・ドレイクは、口の中の菓子を吹き出しかけた。
どうにか咳でごまかし、手の甲で口元を隠す。肩が少し震えていた。
「貴族ってのは、本当に面倒くせえな」
ジュリエッタが横目で彼を見る。
「あなたも今は勇者でしょう。少なくとも人目のある場所では、街角でパンを盗んでいる小悪党みたいな真似はやめなさい」
ゴドウィンは両手を上げた。
「パンなんか盗んだことねえよ」
「では、何を盗んだの?」
「それは、どの人生の話かによるな」
その一言が落ちると、空気が一瞬だけ軽くなった。
重くなったのではない。
気まずくなったのでもない。
ただ、卓を囲む数人が、同じことを思い出しただけだった。
彼らは、この世界の人間ではない。
別の世界から召喚された勇者だ。
本来ならば、魔王を討つために来た。
人類を救うために来た。
その言葉は、目覚めた日からずっと、神官に、教師に、騎士に、侍女に、王女に、何度も何度も聞かされてきた。
あまりに聞かされすぎると、それはもう言葉ではなくなる。
部屋に焚かれた香のようなものになる。
ずっとそこにある。
嗅ぎ続けているうちに、その存在を意識しなくなる。
リン・ノクスは、オルフェンの右隣に座り、ずっと黙っていた。
両手でカップを包み込んでいる。
茶の湯気が銀灰色の睫毛の前へ立ちのぼり、すぐにほどけて消えた。
菓子には手をつけない。
会話にも加わらない。
ただ時折、視線だけをオルフェンへ向ける。
オルフェンはカップを持ち上げ、軽く息を吹きかけた。
「宮廷作法も、すべてが面倒というわけではないよ。少なくとも、力だけが大切なのではないと、思い出させてくれる」
フラヴィアがすぐに笑った。
「オルフェン様らしいお言葉ですわ」
ジュリエッタは目を逸らす。
「教科書みたいね」
「教科書が正しいこともある」
オルフェンは穏やかに返した。
彼はいつも、そういう話し方をした。
急がない。
重くしない。
よく磨かれた剣のように、鞘から抜かれていなくても、錆びていないことだけはわかる。
ゴドウィンは二つ目の菓子を口へ放り込んだ。
「俺が知ってるのは、宮廷作法じゃ地下闘技場の魔物の爪は避けられないってことくらいだな」
「だから今朝、肩を食いちぎられかけたのでしょう?」ジュリエッタが言う。
「あれは誘いだよ、誘い」
「誘っている最中に、どうして叫んでいたの?」
「本気で怖がってるって信じ込ませるためだ」
「信じたの?」
「かなり信じてたと思うぜ」
フラヴィアが指先で唇を押さえ、軽く笑った。
リンもゴドウィンを見たようだった。
あるいは、見ていなかったのかもしれない。
彼女の目は淡すぎて、誰を見ているのか判じにくい。
オルフェンも笑った。
その笑い声で、茶卓の周囲の空気がふたたび柔らかくなる。
それが、彼の得意なことだった。
彼が笑うだけで、多くの尖ったものは丸くなる。
侍女が新しい茶を運んできた。
遠くで白き尖塔の鐘が、十二回鳴る。
昼の休息は、まだ一時間ほど残っていた。
一時間後、彼らは第三訓練場へ向かう。
午後の指導を担当するのは、宮廷魔導師だった。
セレーネ・ルカが処刑されてから、彼らの訓練予定はずっと安定したものになった。
そして、皮肉なほど快適になった。
急な中断はない。
無意味な待機もない。
誰か一人がついてこられないせいで、全体の進行が滞ることもない。
教師たちは、より集中するようになった。
教官たちは厳しくなったが、そのぶん効率も上がった。
王女派は、より多くの資源を彼らに開放した。
上質な薬剤。
高階の魔法教材。
実戦用の魔物。
より安全な回復設備。
誰もが、自分たちの成長速度が上がっていると感じていた。
システム欄の数字は正直だ。
大半の勇者は、すでにレベル五十に近い。
オルフェンとシグルーンに至っては、六十に達していた。
勇者の成長速度は、そもそもこの世界の人間とは違う。
王国はその速度を、あらゆる手段で限界まで絞り出そうとしていた。
「そういやさ」
ゴドウィンが匙で茶をかき混ぜながら、ふと思い出したように言った。
「あいつがまだいたら、今ごろ何レベルくらいだったんだろうな」
誰もすぐには答えなかった。
茶匙がカップの縁に触れ、小さな音を立てる。
ちん、と。
最初に眉を寄せたのは、ジュリエッタだった。
フラヴィアの笑みは消えなかった。
ただ、目だけが少し静かになる。
リンは茶の水面を見つめていた。
オルフェンがカップを置く。
「ルカのことか?」
セレーネ・ルカ。
すでに処刑された第七の勇者。
かつて同じ訓練名簿に名を連ねながら、いつも最後尾にいた者。
ゴドウィンは肩をすくめた。
「何となく聞いただけだ」
「もし彼がまだいたとしても」
オルフェンは少し黙った。
「僕たちより、かなり低かっただろうね」
その言葉は温かかった。
死者を傷つけまいと、慎重に布をかけるような温かさだった。
しかしジュリエッタは、小さく鼻を鳴らす。
「生きていたときも同じでしょう」
「ジュリエッタ」
フラヴィアが柔らかくたしなめる。
「私、間違ったことを言った?」ジュリエッタは彼女を見る。「訓練は遅れる。魔力量は少ない。反応は鈍い。基礎隊形すら覚えきれない。ああいう人が勇者の隊列にいること自体、危険だったわ」
「彼はもう死んだ」
オルフェンが言った。
ジュリエッタの唇が少し動いたが、それ以上は続けなかった。
オルフェンはカップの中の茶を見つめ、声をわずかに落とす。
「彼が何をしたにせよ。最後に何が起きたにせよ。彼もまた、僕たちと同じようにこの世界へ召喚された一人だった。そのことに対してくらいは、僕たちは悼むべきだと思う」
フラヴィアはオルフェンを見た。
その眼差しは、ちょうどよく優しい。
「あなたは、いつもそうですね」
「そう?」
「たとえ相手があなたの足を引っ張り、最後にはあのような罪を犯したとしても。それでも、ほんの少しの憐れみを残しておこうとなさる」
オルフェンは首を振った。
「憐れむことと、赦すことは違う」
「けれど、そこがあなたの尊いところですわ」
ジュリエッタは何も言わなかった。
だが、否定もしなかった。
リンが小さく言う。
「オルフェンは、正しい」
その声は軽く、水滴が杯へ落ちるようだった。
ゴドウィンは彼女を見て、それからフラヴィアを見て、最後に茶へ視線を落とした。
話題は、そうして押し沈められた。
誰も、セレーネ・ルカのことをそれ以上語らなかった。
死者について話しても意味はない。
まして、すでに王国によって罪人と定められた死者ならば。
遠くの庭園で、白い鳩が噴水の上を横切った。
水音は細く、澄んでいる。
ゴドウィンはふと、その音が耳障りだと思った。
彼はセレーネが好きではなかった。
前世でも、ああいうやつは嫌いだった。
この世界でも、やはり嫌いだった。
だが、あいつの死に方は胸糞が悪すぎた。
ゴドウィンはカップを置き、もう一つ菓子を取った。
……胸糞悪い。
甘いものは、喉の奥に上がってくるものを押し戻してくれる。
少なくとも、一時的には。
「訓練といえば」
フラヴィアが、ごく自然に話題を変えた。
「先日のゴーレム、なかなか厄介でしたわね」
「あれは“なかなか”って程度じゃねえだろ」
ゴドウィンがすぐに乗る。
「あいつ、地下闘技場の鉄扉より硬かったぞ」
ジュリエッタはカップを持ち上げた。
「レベル六十のゴーレムにすぎないわ」
「“すぎない”って言うわりに、手首、まだ腫れが引いてないだろ」
ジュリエッタの目が冷える。
ゴドウィンは即座に笑って付け加えた。
「もちろん、怪我してても貴族らしかったけどな」
「黙りなさい」
数日前、彼らは世界樹の根に広がる大迷宮の第四層で、巨大なゴーレムと遭遇した。
レベル六十。
石質の外殻を持ち、核は胸部の奥深くに隠されていた。
動きは鈍い。
だが攻撃の一つ一つは、通路の半分を崩しかねない威力を持っていた。
教官の後の説明によれば、あの種のゴーレムは本来、第四層に現れるはずがない。
迷宮の根系に軽微な変動があり、より深い階層の魔物が浅層へ迷い込んだのだという。
報告書では、そういうことになっている。
だが実際には、彼らは最初、あのゴーレムを脅威として見ていなかった。
勇者たちは、勝利に慣れ始めていた。
訓練場の魔物が放たれる。
咆哮する。
突進する。
そして自分たちの華やかな技能によって倒される。
その流れに慣れていた。
観客の感嘆にも、慣れていた。
だから、ゴーレムが根の陰から立ち上がったとき、彼らはすぐには退かなかった。
ゴドウィンが最初に斬り込んだ。
剣は石殻に弾かれ、火花を散らし、腕に痺れを残した。
ジュリエッタの雷撃はわずかに逸れ、関節の隙間を捉えられず、石殻の表面に焦げ跡を残しただけだった。
フラヴィアの拘束術は、力任せに引き千切られた。
リンの氷槍は命中したが、半歩だけ動きを止めるに留まった。
シグルーンは正面から一撃を受けた。
受け止めた。
だが、両膝が激しく落ち、砕けた床板の中へ食い込んだ。
そして次の瞬間、ゴドウィンが殴り飛ばされた。
壁へ叩きつけられ、石粉が舞った。
あれは苦戦だった。
少なくとも、記録にはそう書かれるだろう。
誰も、あのゴーレムを本気で自分たちを殺し得る敵だとは考えていなかった。
それが実際に、誰かを殺しかけるまでは。
最後に戦闘を終わらせたのは、オルフェンだった。
崩れかけた通路で砕石を踏み、シグルーンが正面で引きつけた一瞬に切り込む。
ヴィランディル宮廷剣術。
剣術の天才であるオルフェンは、システム欄に表示される剣術技能も、すでに上級の熟練域まで伸ばしていた。
剣光はゴーレムの胸元に走った亀裂へ入り込む。
細く圧縮された月光のように、石層の奥に隠れた核を正確に貫いた。
ゴーレムが動きを止めたとき、片腕はまだ空中に持ち上がったままだった。
やがて、その身体が内側から割れる。
石塊が床へ落ちた。
塵が晴れたとき、オルフェンは砕けた石の中央に立っていた。
剣先を下げ、金髪に白い粉をまとって。
その光景は、確かに美しかった。
それまでの狼狽をすべて忘れさせるほどに。
「オルフェン様のあの一閃、本当に見事でしたわ」
フラヴィアが言った。
「あなたがいらっしゃらなければ、わたくしたちはもっと時間をかけることになっていたでしょう」
ジュリエッタはカップを置いた。
「当然よ。宮廷剣術をあそこまで使える者なんて、そうはいないもの」
リンが小さく頷く。
「きれいだった」
ゴドウィンはため息をついた。
「認めるよ。確かに格好よかった。腹が立つくらいにな」
オルフェンは笑った。
「僕一人の手柄じゃない。シグルーンが正面で受け止めてくれなければ、僕も切り込めなかった」
彼は誠実に言った。
だが、その誠実さ自体が、さらに巧妙な光のようでもあった。
自分だけでなく、ついでに他人まで照らす。
そして照らされた者がふたたび彼を見れば、やはり彼こそ中央に立つべきだと思えてしまう。
シグルーン・オルドリンゲンは、卓の菓子に一度も手を伸ばしていなかった。
少し離れた席で、背筋をまっすぐ伸ばし、手袋を膝の上に置いている。
髪の色は陽光よりも冷たく、目もまた冷たい。
オルフェンの言葉を聞いて、彼女は視線を上げた。
「あれは称賛に値する戦闘ではありません」
茶卓が静まった。
ジュリエッタが眉を寄せる。
「どういう意味?」
「言葉どおりです」
シグルーンは言った。
「六人の勇者が、動きの鈍いゴーレム一体を囲みながら、油断して陣形を崩し、三人が負傷し、一人は殺されかけた。あれが訓練迷宮ではなく本物の戦場だったなら、私たちは死者を出していました」
フラヴィアの笑みが、わずかに薄くなる。
「シグルーン様。あのときは、皆さん全力を尽くしていましたわ」
「全力であることと、正しいことは別です」
「オルフェン様を責めていらっしゃるのですか?」
「全員を責めています」
シグルーンはオルフェンを見た。
「私自身も含めて」
オルフェンはすぐには返さなかった。
彼女を見ている。
その眼差しはなお穏やかだったが、先ほどのような軽さはない。
シグルーンは続けた。
「私たちはレベルが上がるのが早すぎる。技能が強くなるのも早すぎる。訓練場には、失敗を埋め合わせるものが多すぎます。教官、薬剤、神官、退避経路、予備部隊。私たちは実戦をしているつもりでいる。ですが、違う」
声は大きくなかった。
それでも、一語一語が明確に落ちる。
「私たちは、安全圏の中で傷つくことを許されているだけです」
ゴドウィンの手が、菓子皿の上で止まった。
急に、その言葉が笑えなくなった。
ジュリエッタが冷たく言う。
「まるで自分だけはその恩恵を受けていないみたいな言い方ね」
「だから、私も含めてと言いました」
シグルーンは立ち上がった。
椅子の脚が石床に小さく鳴る。
「魔王は、私たちが勇者だからといって訓練の規則に従ってはくれません。共和国も。帝国も、なおさら。王女殿下のご判断が正しいのなら、これから私たちが向き合うのは魔物だけではない」
そこで一度、言葉を切った。
視線が卓を囲む者たちを順に撫でる。
「そして今の私たちの実戦能力は、人類の希望と呼ばれるに値しません」
誰もすぐには答えなかった。
遠くから噴水の音が聞こえる。
白鳩が欄干へ降り、すぐに飛び去った。
シグルーンは手袋を取る。
「午後の魔法指導には少し遅れます。先に地下闘技場へ行きます」
「今は休息時間よ」とジュリエッタが言った。
「ですから、先に行くと言っているのです」
彼女は踵を返した。
銀白の外套が椅子の背をかすめるように通り過ぎる。
何一つ、倒さない。
侍女が頭を下げて道を開けた。
シグルーンが庭園を去っていく足音は、乱れがなかった。
何かの判決のように、まっすぐだった。
彼女が去ってから、ようやく卓の空気が少しずつ動き出した。
ゴドウィンが乾いた笑いを漏らす。
「あいつ、いつもあんな感じなのか……真面目っつうか」
誰も拾わない。
仕方なく、彼は続けた。
「いや、真面目なのはいいことだと思うぜ。どうせこの先、本当に魔王討伐なんだしさ。真面目担当、格好いい担当、可愛い担当、殴られ担当。役割分担は大事だろ」
ジュリエッタが彼を見る。
「あなたは何担当なの?」
ゴドウィンは自分を指差した。
「場を和ませる担当?」
「失敗しているわ」
「俺もそう思う」
フラヴィアはカップを持ち上げたが、飲まなかった。
リンはオルフェンを見る。
結局、誰もが最後にはオルフェンを見る。
まるで、この卓の本当の中心が彼であるかのように。
オルフェンはしばらく黙っていた。
やがて、笑う。
礼儀のための笑みではなかった。
もっと軽く、少しだけ本物に近い笑みだった。
「シグルーンの言うことは正しい」
彼は言った。
ジュリエッタがすぐに口を開こうとする。
オルフェンは軽く手を上げ、それを止めた。
「僕たちは、まだ未熟だ。勇者のレベルはすぐに上がる。けれどレベルは経験そのものじゃない。先日の戦闘も、運が悪ければ誰かが死んでいた」
彼はゴドウィンを見る。
「僕も含めて」
ゴドウィンは瞬きした。
「そこで自分も入れるの、ちょっと反則じゃねえか?」
オルフェンは笑った。
「反則じゃない。事実だよ」
フラヴィアの表情が、ふたたび柔らかくなった。
「だからこそ、あなたはわたくしたちを導くにふさわしいのです」
「不足を認めるから?」
「不足を認めても、そこで皆を立ち止まらせないからですわ」
その言葉は美しかった。
最初から用意されていた花のように美しかった。
オルフェンは、ただ小さく息をつく。
「午後の講義が終わったら、僕も闘技場へ行く。来たい者は来てくれ。もちろん、来なくても構わない。休むことも大切だから」
「行く」
リンが即座に言った。
ほとんど間がなかった。
ジュリエッタが鼻を鳴らす。
「あなたがそこまで言うなら、私も行くわ」
フラヴィアは微笑む。
「では、わたくしも欠席するわけにはまいりませんね」
ゴドウィンは皿に残った最後の菓子を見つめ、少しだけ沈黙した。
それから、口へ放り込む。
「わかったよ。俺は場を和ませつつ殴られる担当で行く」
今度は、ジュリエッタでさえ彼を叱らなかった。
茶会の空気は、元に戻った。
少なくとも、表面上は。
侍女たちが新しい茶を用意する。
宮廷魔導師の助手が庭園の入口に現れ、午後の講義が半刻後に始まると恭しく告げた。
今日の内容は、高階元素構造と複合術式の安定化。
場所は、白塔東側の魔法演習室。
床一面には耐魔石が敷き詰められ、壁には緩衝用の魔法陣が刻まれている。
仮に魔法が暴走しても、三層の結界が自動的に展開する。
傍らには回復薬、鎮痛薬、そして救急を担当する神官まで控えていた。
彼らは、ここで魔物の殺し方を学ぶ。
魔王の討ち方を学ぶ。
人類の救い方を学ぶ。
庭園の外では、王都の通りに新しい噂が流れ始めていた。
共和国東部防線は、魔化波動を隠蔽している。
オストマルクの軍勢は草原で魔族を虐殺し、何らかの失策を覆い隠そうとしている。
北方帝国の密使が、共和国国境に現れたことがある。
ヴィランディルが動かなければ、人類は裏切り者に背後から刺される。
それらは、正式な布告には書かれていない。
ただ、神殿の祈りが終わったあとの低い囁きの中にあった。
貴族の晩餐会で、酒杯と酒杯の間にあった。
教官の訓示に、何気なく差し挟まれる一言の中にあった。
侍女が勇者の外套を整えるとき、声を潜めて漏らす不安の中にあった。
共和国は、そこまで邪悪ではないのかもしれない。
だが、確かに疑わしい。
王女派は、純粋ではないのかもしれない。
だが、訓練と資源と方針を与えてくれている。
保民官派にも、それなりの理由はあるのかもしれない。
だが、彼らは暗がりで動いている。
魔王は現実にいる。
魔化波動も実在する。
世界が戦へ向かっていることも、事実だ。
ならば誰が、勇者たちに一点の曇りもない選択を求められるだろう。
オルフェンは最後の一口を飲んだ。
茶は少し冷めていた。
香りは薄れ、苦味が浮いている。
飲み下し、カップを置く。
遠く、白塔の影が庭園の一角へ落ちていた。
その影は長い。
昼の休息は終わった。
勇者たちは立ち上がる。
襟を整え、武器を取り、魔法演習室へ向かった。
足元の石畳は、一粒の塵もないほど清らかだった。
そして、遥か遠い東。
同じ空の下で。
一匹の魔狼が、焦げた肉を飲み込んでいた。




