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第十一話:星と黒鳥



 睨獣《ゴルゴン・ベヒモス》の死体は、夜になってもまだ熱を残していた。


 昼間までは、動く灰褐色の小山のようだったものだ。


 それが今は塩の浮く荒れ地の縁に倒れ、四つの眼はすべて光を失っている。焦げた皮と肉がめくれ、その下から暗い赤色の肉が覗いていた。


 匂いは悪い。


 味も悪い。


 だが、食える。


 それが何より大事だった。


 カイルは火のそばに座り、左手で肋骨を押さえたまま、右手に焼いた肉を持っていた。


 一口かじる。


 数回噛む。


 顔が、なんとも言えないものになった。


「石みたいだな」


「じゃあ食うな」


「嫌だ」


 カイルはその肉を飲み込み、少しだけ目を明るくした。


「石の中に、肉の味がする」


 俺は自分の手の中の肉を見た。


 外側は黒く焦げている。


 中は半生だ。


 血の匂いと、塩気を含んだ土の味が混ざっていた。


 それでも噛むと、熱い肉汁が滲んだ。


 まともなものを食べるのは、久しぶりだった。


 俺も一口かじる。


 カイルがこちらを見た。


「どうだ?」


「少し、肉っぽい」


 カイルは笑った。


 そしてすぐに、痛みに身を折った。


 肋骨は少なくとも二本折れている。


 左足首はひどく腫れていた。肩にも、背にも、脚にも、裂けた傷がある。


 俺の傷も少なくない。


 脇腹と腕が、まだずきずき痛んでいた。


 それでも血は止まっていた。


 浅い傷のいくつかは、もう痒みはじめている。


 魔狼族《まろうぞく》の身体はしぶとい。


 死んでさえいなければ、少しずつ、少しずつ、自分を生きている形へ引き戻そうとする。


 カイルは食べられる。


 肉が不味いと文句も言える。


 笑うこともできる。


 だから俺は、ほんの少しだけ安心した。


 早く安心しすぎるのは、だいたいよくない。


 だが、人間はずっと張り詰めたままではいられない。


 俺たちは持っていける肉を切り出し、皮と腱でいくつかに括った。


 持っていけない分は、荒れ地に残す。


 焚き火は低く抑えていた。


 夜の荒野は広すぎる。


 わずかな火の光でも、遠くの何かに見つかるかもしれない。俺たちは石で火を囲み、閉じかけた眼のように、ただ赤くくすぶらせておいた。


 遠くで鳥が鳴いた。


 かすかな声だった。


 小石で骨をこするような音。


 カイルが顔を上げる。


「肉の匂いにつられたんだろ」


 彼は小石を一つ拾い、夜の中へ投げた。


 羽音が少し乱れた。


 すぐに遠ざかる。


 俺は魔力を使わなかった。


 荒野で死体を狙うものなど、いくらでもいる。


 近づいてこないなら、今は放っておけばいい。


 夜更けになって、俺たちはようやく横になった。


 塩の荒れ地は硬い。


 ただ、睨獣の皮は厚かった。切り取って下に敷けば、少なくとも直接寝るよりはましだった。


 空には星があった。


 はっきりとは見えない。南西から雲がゆっくり押し寄せ、星空の一角を覆いはじめている。


 遠くの黒雪山《こくせつざん》は、沈黙した影だけを残していた。


 カイルがふいに言った。


「西でも、この星は見えるのか?」


「見えるだろ」


 光害なんて言葉とは、ほとんど無縁の世界だ。


 カイルはしばらく黙っていた。


 眠るのかと思った。


 だが、また口を開いた。


「俺、昔はずっと、荒野って広いんだと思ってた」


「今は?」


「今も広い」


「じゃあ何なんだよ」


 カイルは笑わなかった。


 星空を見たまま、静かに言う。


「でも、どれだけ広くても、風と、草と、石と、獣の群れと、移動と、狩りだ。ずっと歩いても、ずっと歩いても、結局そればっかりだろ」


 俺は何も言わなかった。


「荒野が嫌いなわけじゃない」


 カイルは続けた。


「ここは俺たちの場所だ。それはわかってる」


 焚き火の中で、骨が一本、細く割れる音がした。


「でも、別の場所も見てみたいんだ」


「西は人間ばかりだぞ」


「知ってる」


「城壁、兵士、貴族。お前を魔石の袋みたいに見るやつらもいる」


「それも知ってる」


 カイルの耳が小さく動いた。


「それでも、見たい」


 彼は低く言った。


「でかい橋。馬車が上を通って、下を船が通るようなやつ。塔も見たい。あと、場所から場所へ渡って、自分の見たものを歌にするやつ」


「吟遊詩人か?」


「そう、それ」


 その言葉は、少しぎこちなかった。


 ずっと昔に聞いたことはあるが、口にする機会はなかった。そんな発音だった。


「吟遊詩人になりたいってわけじゃない」


 カイルは少し考える。


「レンジャーってやつでもない。なんていうか、道をたくさん知ってるやつだ。今日はこの町、明日はあの川、明後日は誰も聞いたことのない森に入っていくような」


 そこで一度、言葉を切った。


「人間に雇われたいわけじゃない。許しをもらいに行きたいわけでもない。ただ、見てみたいだけだ」


 荒野の外の世界を。


 俺は彼を見ていた。


 その瞬間、昔の自分を思い出した。


 草野雪人も、異世界に夢を見たことがある。


 魔法、騎士、ハーレム、森、またハーレム、吟遊詩人、さらにハーレム、冒険者ギルド。


 そして結果は、ろくでもない目に遭った。


 西は、お前が思っているほど綺麗な場所じゃない。


 そう言いかけた。


 伝説なんてものは、表面だけ拭き上げて飾られたものだ。


 そうも言いかけた。


 だが、言わなかった。


 カイルは俺ではない。


 自分の壊れた夢を、彼の手に押しつける資格もない。


「足が治ったら、少し遠くまで行ける」


 俺は言った。


 カイルがこちらを見る。


「少しだけか?」


「肋骨も治ったら、もっと遠くまで行ける」


「その次は?」


「その次は、俺たちが十分に強くなってからだ」


「どれくらい強く?」


「睨獣に会っても、まず逃げ方を考えなくていいくらい」


 カイルは真面目な顔で考えた。


「それは、かなり強いな」


「ああ」


 彼は空を見上げ、口元を少しだけ上げた。


「そのときは、お前も一緒に来いよ」


「どこへ?」


「西だ。南でもいい。北はやめとく。寒いらしいし。東は……」


 カイルは黒雪山の方角を見た。


「今は、ちょっと向いてないな」


「確かに」


 カイルの声は、少しずつ低くなっていった。


「橋を通してもらえなかったら、下を泳げばいい。吟遊詩人が歌を教えてくれなかったら、そばで聞いてる。ずっと聞いてれば、少しくらい覚えるだろ」


「歌えるのか?」


「歌えない」


 俺は少し笑った。


 カイルがすぐにこちらを見る。


「笑った」


「笑ってない」


「笑った」


「見間違いだ」


「肋骨が折れてるだけで、目まで潰れてない」


 彼は満足したように目を閉じた。


 俺は、そのとき少しだけ話そうと思った。


 全部ではない。


 ただ、自分が本当は以前のガルムではないこと。


 子供の頃の記憶がないのは、魔化のせいでも、頭を打ったせいでもないこと。


 だが、言葉は喉の手前で止まった。


「カイル」


「ん?」


「俺、話が――」


「俺は強い」


 彼が突然言った。


 俺はしばらく黙る。


「何だって?」


「俺は強いって言った」


 カイルの瞼は、もう半分落ちていた。


 声も少しぼやけている。


「お前、昔は弱かった。今は……少しまし」


「ありがとうよ」


「だから、俺が守ってやる」


 彼はとても軽く言った。


「これからも……俺が守る」


 そのまま眠ってしまった。


 尻尾が俺の手首のそばに落ちている。


 耳が時折、小さく動く。呼吸はまだ少し乱れていたが、少なくともさっきよりは落ち着いていた。


 俺は、言いかけた言葉を飲み込んだ。


 そういうことを言うな。


 死亡フラグを立てるな。


 口には出さなかった。


 かわりに、睨獣の皮を一枚引き寄せ、カイルにかけてやる。


 夜が深くなってから、また鳥の声がした。


 俺は目を開ける。


 雲の端を、黒い点がいくつか横切っていくのが見えた。


 あまり高くは飛んでいない。


 だがすぐに、また夜の中へ上がっていった。


 俺は石を拾って投げた。


 当たらない。


 羽音が少し乱れ、黒い点が散る。


 カイルは起きなかった。


 俺はもう一度横になった。


 傷が痒くなりはじめていた。


 治りかけている証拠だ。


 雲はだんだん厚くなっていく。


 星が一つずつ隠されていった。


 湿った匂いが遠くから押し寄せてくる。焦げた肉と血の匂いに混ざって、まだ薄いが、確かにそこにあった。


 明日は雨になりそうだ。


 そう思いながら、俺はゆっくり目を閉じた。


 焚き火が最後に一度だけ赤く光る。


 それから、灰だけが残った。


 遠くでまた、鳥が鳴いた。


 ひどく小さな声だった。


   ◇


 鳥の声で目を覚ましたとき、空はもう灰色だった。


 雨が降っていた。


 強くはない。冷たい霧のような細い雨だった。顔に落ちても音はなく、ただ皮膚の熱をゆっくり奪っていく。


 焚き火はとっくに消えていた。


 灰は雨水を吸い、黒く潰れている。


 睨獣の死体は、まだそこにあった。


 ただ、昨夜とはかなり違っていた。


 俺たちが持っていけなかった肉は、ほとんどなくなっている。


 裂けた皮肉の隙間から灰褐色の骨格が覗き、関節には啄まれてぼろぼろになった腱が垂れていた。


 何十羽もの黒い鳥が死体に群がっている。


 頭を下げる。


 上げる。


 また下げる。


 その動きは速く、何かを縫っているようにも見えた。


 濡れた羽は身体に貼りつき、鳥たちをいっそう小さく、汚く見せていた。


 一羽は、睨獣の空になった眼窩の縁に立ち、頭をほとんど丸ごと突っ込んでいる。


 俺は身体を起こした。


 傷が引きつれ、脇腹に痛みが走る。


 物音に気づいた鳥たちが、一斉にこちらを向いた。


 何十もの黒い眼が、俺を見る。


 すぐには飛ばない。


 俺は眉を寄せ、そばに置いていた短刃へ手を伸ばした。


 一羽が骨格の上から跳び下りる。


 首を傾げ、こちらへ二歩近づいた。


 俺は石を投げつけた。


 石は翼をかすめ、地面を叩く。


 鳥が甲高く鳴いて飛び上がり、ほかの鳥たちも一斉に散った。


 黒い羽が雨の中に乱れる。


 だが、遠くまでは行かなかった。


 少し離れたところで、また旋回している。


 俺はカイルの方を見た。


 黒い鳥たちが、妙なほど彼の周りに集まっていた。


 何羽かは彼の体にとまり、じっと見下ろしている。


 別の一羽が、試すように彼の包帯を啄んでいた。









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