第十二話:火葬
俺は立ち上がるなり、一羽を蹴り飛ばした。
黒い鳥は地面を二度ほど転がり、翼をばたつかせて飛び上がった。ほかの二羽も甲高く鳴きながら逃げていく。
カイルは目を覚まさなかった。
俺は膝をつき、頬を軽く叩いた。
「カイル」
返事はない。
もう一度、少し強く叩く。
「起きろ」
耳がかすかに動いた。
眉間に皺が寄り、やがて薄く目が開く。
「……朝か?」
「たぶんな」
「雨?」
「ああ」
「肉、濡れてないか?」
目を覚まして最初に心配するのが、それか。
俺は小さく息を吐いた。
「全部は濡れてない。鳥に先に味見されるところだったけどな」
カイルは俺を見て、それから肉包みへ目を向けた。
「それは困る」
身体を起こそうとする。
だが、半分ほど起きたところで動きが止まった。
俺は腕を貸した。
「無理するな」
「してない」
「今、顔が真っ白だったぞ」
「雨のせいだ」
言ってから、自分でも苦しい言い訳だと思ったらしい。
カイルは目を逸らし、自分の包帯を見下ろした。
俺は傷を一つずつ確かめた。
思っていたより、ずっと治りが早い。
肩の裂傷はかなり塞がっていた。脇腹の最も深い傷も縁がくっつき、暗赤色の筋を残すだけになっている。
足首はまだ腫れていたが、昨夜よりはましだった。
折れた肋骨までは一晩で治らない。それでも、呼吸に混じっていた掠れた音は、いくらか小さくなっている。
魔狼族の身体は、本当にしぶとい。
食べて、眠れば、傷が塞がる。
死んでさえいなければ、眠っているあいだにも肉をつなぎ、骨を元へ戻そうとする。
張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。
その直後、カイルの額に触れた。
熱い。
カイルが俺の顔を見る。
「どうした?」
「熱がある」
「傷のせいだろ」
彼はすぐに答えた。
「これだけ切れてたんだ。熱くらい出る」
筋は通っていた。
昨夜は清潔な水も、まともな薬も、安全な寝床もなかった。
睨獣の血。
塩混じりの泥。
汗。
そんなものが傷口に入り込んでいる。
魔狼族の回復力が高いとはいえ、身体が鉄でできているわけではない。
熱が出ても、不思議ではなかった。
少なくとも、そのときはそう思った。
「歩けるか?」
「歩ける」
「強がるなよ」
「本当に歩ける」
カイルは俺の腕を掴み、ゆっくりと立ち上がった。
左足を地面につけた瞬間、口元が引きつる。
それでも、倒れはしなかった。
肋骨もまだ痛むのだろう。胸を大きく動かさないよう、浅く息をしている。
「ほら」
カイルが言った。
「今日は地面が平らだ」
「昨日は不平らだって言ってただろ」
「雨で均されたんだ」
相手にしないことにした。
俺たちは荷をまとめた。
焚き火はもう使えない。
雨は血や肉の匂いを薄めてくれる一方で、地面を滑りやすくする。塩の浮いた荒れ地は水を吸い、少し急いだだけでも足を取られそうだった。
黒い鳥は、まだ周囲にいた。
睨獣の死体へ戻るもの。
石の上からこちらを窺うもの。
低い空を音もなく旋回するもの。
身体はさほど大きくない。
だが翼は広く、飛ぶときにもほとんど音を立てなかった。
何羽かへ意識を向けると、視界の端にシステムの表示が浮かんだ。
レベル8。
11。
12。
中には6しかない個体もいる。
一羽なら、爪の一振りで殺せる。
問題は数だった。
それに、普通の獣とは様子が違う。
こちらが強いとわかれば、一度は退く。
だが、すぐに戻ってくる。
恐怖より飢えが勝っているようにも見えた。
いや。
飢えとは別の何かに、背中を押されているようにも見えた。
「行くぞ」
カイルが最も小さな肉包みを背負った。
俺はそれを見る。
「それも俺が持つ」
「嫌だ」
「熱があるだろ」
「熱があるからって、荷物まで全部任せられるか。これは俺の分だ」
「背負えば足が遅くなる」
「なら、お前が少しゆっくり歩け」
当然のように言う。
俺は二秒ほど彼を見た。
カイルも見返してくる。
雨水が前髪を伝い、頬へ落ちていた。
結局、荷紐を短くして腰へ固定し、歩いても揺れにくいよう結び直した。
「無理なら言え」
「わかった」
「本当に駄目なら言え」
「わかったって」
「倒れてからじゃ遅いからな」
カイルがこちらを見る。
「今日のお前、やけにうるさいな」
否定はしなかった。
俺たちは睨獣の死体を離れ、東へ向かった。
黒雪山までは、まだ遠い。
雨と霧のせいで、さらに遠く見えた。
灰色の空が低く垂れ込めている。
雨に沈んだ山影は、端の見えない鉄の塊のようだった。
道はない。
塩の殻。
砕けた石。
まばらな草。
雨を吸って柔らかくなった獣骨。
それだけだった。
鳥がついてきた。
最初は十数羽。
頭上を旋回し、ときどき低く降りてくる。俺が石を投げると、一度は距離を取った。
やがて、さらに数が増えた。
どこから現れているのかわからない。
雨霧の向こうに黒い網が張られていて、俺たちが進むたび、少しずつ絞られていくようだった。
一羽が横から急降下してきた。
狙いは俺ではない。
カイルの腰に結んだ肉包みだ。
俺は腕を振り、平手で叩き落とした。
驚くほど軽い。
鳥はそのまま泥へ突っ込み、二度ほど翼を震わせて動かなくなった。
視界の隅で通知が瞬いた。
見なかった。
カイルは短剣を抜き、肩へ近づいた別の一羽を薙いだ。
刃が羽を裂き、黒い翼の先が落ちる。
鳥は甲高い悲鳴を上げ、空へ逃げた。
「多すぎる」
カイルが言う。
「肉のせいだろ」
「捨てるか?」
俺はすぐには答えなかった。
肉は必要だった。
これから数日、食べられるものが見つかる保証はない。
睨獣の肉は不味い。
だが、命は繋げる。
今捨てれば、明日になって後悔するかもしれない。
一方で、鳥の数は増え続けている。
俺は端肉を一つ外し、進行方向とは逆へ投げた。
七、八羽が即座に群がる。
だが、残りは俺たちの頭上を離れなかった。
カイルも気づいた。
「肉だけが目当てじゃないな」
「ああ」
俺は背負った荷を上へずらした。
「先へ行く。止まるな」
鳥の攻撃そのものは弱かった。
爪も細い。
嘴も細い。
正面からぶつかられても、魔狼族の皮膚と筋肉を深く傷つけられるほどではない。
厄介なのは、目。
耳。
開いた傷口。
そして数だった。
ずっと空を見上げてはいられない。
絶え間なく腕を振り続けることもできない。
死角から一羽入り込み、包帯の端を啄む。
それだけで、身体は反射的に足を止めてしまう。
カイルは何度か躓きかけた。
俺は近づく鳥を叩き落とし、引き裂き、蹴り飛ばした。
カイルも数羽を仕留める。
だが、動きは昨夜より明らかに鈍かった。
傷は塞がっているのに、体力だけが抜け落ちていく。
熱のせいで反応が遅れ、視線にも焦点が合わなくなり始めていた。
雨脚が強くなった。
濡れた黒鳥は、地面へ落ちると丸めた布の塊のように見えた。
歩く。
殺す。
また歩く。
気づけば、後ろには何十羽もの死骸が散らばっていた。
システムの通知が何度か視界の端に現れた。
経験値か。
レベルか。
技能の熟練度か。
どうでもよかった。
カイルが突然、足を止めた。
俺は振り返る。
片手で胸を押さえ、もう片方を膝についている。
耳先から雨水が滴っていた。
「どうした」
「平気だ」
息を整えながら答える。
「少し休む」
「歩けるって言っただろ」
「だから今、休むって言ってる」
笑おうとした。
だが、うまく笑えていなかった。
俺は近づき、後ろ首を狙っていた鳥を払い落とす。
「座れ」
「座ったら、立ちたくなくなる」
「なら黙ってろ」
肩へ手を伸ばした。
触れた身体は、さらに熱くなっていた。
額だけではない。
首。
肩。
鎖骨の下。
どこも異常な熱を持っている。
俺は眉を寄せ、肩の包帯を外した。
傷は治っていた。
昨夜裂けていた皮膚はすでに閉じ、細い赤みを残すだけになっている。
傷の治りだけを見れば、順調すぎるほどだった。
だが、その縁に黒い線があった。
細い。
肉の内側から墨が滲み出し、皮膚の下を這っているように見えた。
最初は汚れだと思った。
雨。
血。
灰。
鳥の羽。
何がついていてもおかしくない。
指で擦った。
落ちない。
さらに力を入れる。
カイルが小さく息を呑んだ。
「痛い」
「我慢しろ」
顔を近づける。
汚れではない。
黒は、皮膚の下にあった。
閉じた傷口から外へ伸び、蔓のように枝分かれしている。
分岐の先は細く裂け、羽毛を思わせる紋様を作りながら皮下へ広がっていた。
ほかの包帯も外す。
脇腹。
腿。
背。
閉じかけた傷の周囲すべてに、同じ黒い紋様が浮かんでいた。
まだ点のようなものもある。
すでに指一本分ほどの幅まで広がっているものもある。
どれも筋肉に沿って這い上がっていた。
向かう先は、同じだった。
首だ。
カイルも自分の身体を見下ろした。
顔色が変わる。
「何だ、これ」
「わからない」
答えた自分の喉が、妙に狭く感じた。
短剣を抜く。
カイルが俺を見る。
「何するんだ」
「確かめる」
黒い線の最も細い箇所を横切るように、刃先を浅く入れた。
血が滲む。
雨に薄まり、赤い筋となって流れた。
だが、黒い線は途切れなかった。
表面についたものではない。
普通の血管でもない。
何かがすでに肉の奥へ根を張り、その影だけが皮膚に浮かんでいる。
カイルが切り口を見つめる。
「傷口が化膿したんじゃないな」
「ああ」
俺たちは同時に空を見上げた。
黒い鳥が雨の中を旋回している。
数は、先ほどよりさらに増えていた。
今朝、カイルの身体にとまっていた鳥。
昨夜、闇の向こうで響いていた羽音。
あの鳥たちには、魔狼族の喉を引き裂く力はない。
正面から俺たちを殺す力もない。
だから、急がない。
殺せないなら、死ぬまで待つ。
そういう生き物なのかもしれない。
毒か。
魔化か。
寄生か。
呪いか。
何をされたのかはわからない。
だが、黒い紋様は今も広がっている。
「行くぞ」
俺はカイルの腕を掴んだ。
彼は抵抗しなかった。
それが、かえって怖かった。
「どこへ?」
「ここを離れる」
「こいつら、ずっとついてきてるぞ」
「振り切る」
馬鹿げた答えだった。
カイルもわかっている。
俺もわかっている。
それでも、ほかに手がない。
立ち止まれば、黒は伸びる。
ゆっくり歩けば、鳥に囲まれる。
引き返せば、睨獣の死体と、さらに多くの鳥がいる。
ここに残れば、次に骨まで啄まれるのは俺たちだ。
前へ行くしかなかった。
肉包みを一つ捨てた。
鳥の一部がそちらへ群がる。
もう一つ投げる。
さらに何羽かが降りた。
だが空には、まだ大きな黒い群れが残っている。
カイルがそれを見る。
「こいつら、腹が減ってるわけじゃない」
「ああ」
「少なくとも、それだけじゃない」
「喋るな。息を残せ」
カイルは一度だけ頷いた。
俺たちは走り出した。
正確には、俺がカイルを引きずるように走った。
腫れた足首は走ることに耐えられない。
肋骨も同じだ。
カイルは必死についてきた。
最初は自分で足を運べていた。
だが次第に、ほとんど俺の腕へ体重を預けるようになった。
鳥の群れが急に騒がしくなる。
獲物が逃げ出したと悟り、待つのをやめたらしい。
一羽ずつ急降下してくる。
狙いはもう肉ではなかった。
カイルの首。
肩。
目。
そして黒い紋様が浮かぶ傷痕。
爪で一羽を裂く。
手の甲で別の一羽の翼を折る。
三羽目が耳元をかすめ、嘴が細い傷を残した。
火球は使わなかった。
魔力は残しておかなければならない。
前方にもっと危険なものがいれば。
カイルが完全に歩けなくなれば。
火を起こす必要があれば。
何かを脅して退かせる必要があれば。
爪より、火のほうが役に立つ。
だから耐えた。
手。
牙。
短剣。
脚。
使えるものは何でも使った。
鳥の死体が次々に落ちる。
軽すぎて、踏んでもほとんど感触がない。
ただ、濡れたものを潰す音だけがした。
カイルの呼吸が変わった。
短い。
速い。
胸の内側を、何かに締め上げられているようだった。
「カイル」
「倒れるな、だろ」
「わかってるなら倒れるな」
「うるさい」
小さく悪態をつく。
十数歩も進まないうちに、カイルの膝が折れた。
足を取られたのではない。
全身から突然、力が抜けたように真下へ崩れた。
膝が泥へ突き刺さる。
俺はすぐに振り返った。
鳥が一斉に降りてくる。
ようやく火球を放った。
炎が弾け、三羽を巻き込む。
黒い塊が燃えながら落ちた。
残りは悲鳴を上げて高く逃れ、すぐに上空で群れ直す。
カイルは喉を掴んでいた。
「息が……」
声が途中で潰れる。
俺はしゃがみ込み、襟元を引き裂いた。
黒い紋様は、すでに首まで届いていた。
細く、密に。
肩と胸から這い上がり、喉の周囲へ絡みつき始めている。
まだ完全な輪にはなっていない。
それでも、皮膚の下で縄のように締まり始めていた。
カイルは口を開けている。
雨水が口の中へ落ちても、飲み込むことすらできない。
俺は黒い線へ爪を立て、引き剥がそうとした。
何も起きない。
短剣で切った。
皮膚が裂ける。
血が流れる。
それでも黒い線は残った。
途切れない。
血を流しても、広がる速度は落ちなかった。
「火で……焼けないか」
カイルが苦しそうに言う。
「喉ごと焼ける」
「……そっか」
笑おうとしたらしい。
だが、顔が歪んだだけだった。
俺はカイルを背負った。
立ち上がった瞬間、鳥が押し寄せてくる。
一羽一羽は軽い。
だが、多すぎた。
一羽が髪へ爪を立てる。
一羽が肩を啄む。
別の一羽がカイルの背中へぶつかった。
さらに多くの鳥が周囲を回り、隙を探している。
弱い。
だが今、俺たちが転べないことを知っているようだった。
腕を振り、二羽を叩き落とす。
足元の濡れた石を踏み、身体が傾いた。
カイルごと倒れかける。
肩へ爪が食い込んだ。
「下ろせ」
「嫌だ」
「これじゃ走れない」
「黙れ」
「ガルム」
「黙ってろ」
もう一発、火球を放つ。
炎が前方で弾け、鳥を押し退けた。
魔力が大きく減る。
頭が重い。
カイルの腕は、まだ俺の肩に回っていた。
だが、力は少しずつ失われている。
背中に密着した胸が激しく上下する。
一息ごとに、狭い石の隙間から無理やり空気を吸い上げているようだった。
「俺……」
一言だけ発して、止まる。
俺は前へ進んだ。
一歩。
もう一歩。
「死にたくない」
突然、声が少しだけ明瞭になった。
小さい。
まっすぐな声だった。
冗談もない。
強がりもない。
俺は足を止めた。
鳥の声。
雨の音。
自分の呼吸。
すべてが、一枚の壁の向こうへ遠ざかった気がした。
カイルの手が震えている。
痛みではない。
怖いのだ。
そこで初めて、当たり前のことに気づいた。
カイルはいつも、頼れるように振る舞っていた。
笑う。
悪態をつく。
俺が黙っていれば、代わりに話す。
深い傷も、大したことではないように扱う。
肋骨が折れていても、肉の味を気にする。
自分は強いと言う。
俺を守ると言う。
だが、大人ではない。
歴戦の戦士でもない。
平気なふりだけ、俺より少し早く覚えていた。
まだ、子供だった。
前世の俺よりも、ずっと幼かったのかもしれない。
「死なない」
俺は言った。
自分でも信じられない声だった。
カイルにもわかったのだろう。
否定はしなかった。
ただ、額を俺の肩へつける。
「俺、まだ……」
続きは出なかった。
呼吸が一度、止まる。
次の瞬間、必死に息を吸った。
だが、入らなかった。
胸は動いている。
喉も動いている。
それでも空気だけが、身体の外で塞き止められていた。
黒い紋様が首を一周した。
細い輪。
羽毛と蔓を編んだ黒い糸を、誰かが静かに喉へ巻きつけたようだった。
カイルの手から力が抜けた。
背中から滑り落ちる。
俺は振り返り、その身体を抱き止めた。
雨が顔へ落ちていた。
目は半分開いたままだった。
瞳孔も、まだ完全には開ききっていない。
何が起きたのか、理解できていないような顔だった。
頬を叩く。
「カイル」
返事はない。
胸へ手を置いた。
動かない。
鼻先に指を当てても、息は触れなかった。
頭上から一羽が降りてくる。
俺は反射的に火球を放った。
炎が鳥を吹き飛ばす。
三羽が続いた。
また撃つ。
一発。
二発。
三発。
火球が雨の中で炸裂し、赤い光が水煙に引き裂かれる。
焦げた鳥が地面へ落ちる。
音は軽かった。
それでも、まだ来る。
何羽殺したのか、もうわからない。
視界の端が何度も光る。
システムの通知が次々に現れていた。
レベル。
経験値。
熟練度。
何も見なかった。
泥水の中に横たわるカイルだけを見ていた。
雨が顔を伝い、血を洗い流していく。
だが、首の黒い輪は消えない。
少し離れた場所へ鳥が一羽降りた。
首を傾げ、カイルを見ている。
そこへ火球を撃った。
魔力が身体から抜けていく。
指が冷たい。
頭がひどく揺れる。
それでも、続けて火を放った。
その途中で、初めて気づいた。
火球を撃つたび、腕の奥を魔力が流れていく。
その通り道の途中に、開いては閉じる何かがあった。
血管の弁に似た感触。
魔力を押し込めば開き、放った瞬間に閉じようとする。
その狭まりに押し絞られて、外へ出た魔力は球になる。
また一羽がカイルの顔へ向かって降りてきた。
俺は魔力を流し込んだ。
弁が開く。
すぐに、閉じ始める。
今度は閉じさせなかった。
さらに魔力を押し込み、閉じようとする力を内側から押さえつける。
重い。
見えない石板を、精神だけで押し返しているようだった。
魔力が指先でせき止められる。
渦を巻く。
熱くなる。
圧が高まり、逃げ場を求めて暴れ始める。
歯を食いしばった。
さらに押す。
弁が、もう少しだけ開いた。
火が噴き出した。
球ではない。
炎の奔流だった。
掌の前から爆ぜ、閉じ込められていたものが出口を見つけたように、赤い炎が雨を押し分けて扇状に広がる。
黒い鳥は散る暇もなかった。
十羽。
二十羽。
それ以上。
炎の舌がまとめて呑み込む。
羽が燃え上がる。
縮れる。
身体が空中で小さな黒い塊へ変わる。
雨水が一瞬で蒸発し、白い蒸気が視界を塞いだ。
魔力がほとんど空になった。
俺は地面へ膝をついた。
喉に鉄の味が広がっている。
めまい。
吐き気。
指が震える。
炎が消えると、周囲は少しだけ静かになった。
少しだけだった。
遠くの雨霧には、まだ黒い点が見える。
一群。
また一群。
どこかに見えない穴があり、そこから次々に鳥が溢れ出しているようだった。
俺はカイルを見下ろした。
鳥に食わせるわけにはいかない。
その考えだけが、はっきりしていた。
悲しみとも違う。
怒りとも違う。
理屈でもない。
ただ、それだけは許せなかった。
こいつらに、カイルを食わせるわけにはいかない。
背負おうと手を伸ばした。
だが、途中で止まった。
もう力がなかった。
それに、背負って連れていく先もなかった。
雨の中へ座り込み、何度か息を整えた。
少し高くなった石地まで、カイルを引きずって運ぶ。
そこには水が溜まっていなかった。
身体は軽かった。
昨夜よりも、ずっと軽く感じた。
昨夜まで、折れた肋骨を押さえながら、石みたいな肉を一片も残さず食べていたのに。
俺は睨獣の皮を、その身体へかけた。
残った肉包みの底から脂身を取り出し、皮の内側へ押し込む。
乾いた腱と、細く裂いた皮も重ねた。
雨の中で燃やすには、それでも足りないかもしれない。
だが、ほかに方法はなかった。
「悪い」
自分でも聞き取れないほどの声だった。
手を上げる。
残った魔力を絞り出した。
今度の火は弱かった。
形を保つのがやっとの、小さな炎。
雨粒が当たるたびに縮み、それを何度も押し戻す。
炎を、脂の染みた睨獣の皮へ落とした。
最初は煙だけが上がった。
やがて脂が弾け、火が広がる。
魔狼族の身体は、死んでもなお簡単には燃えなかった。
皮も。
肉も。
骨も。
どれも、最後までしぶとかった。
俺はそこに膝をついたまま、炎が少しずつカイルを覆っていくのを見ていた。
遠くで鳥が鳴く。
何羽かが近づこうとしたが、火を恐れて離れた。
雨は降り続けていた。
煙が雨と混じる。
ひどい匂いがした。
目は閉じなかった。
炎が低くなるまで。
カイルの輪郭が、もうカイルには見えなくなるまで。
視界の端が、また光った。
レベルが上がったのかもしれない。
何か新しいものが、システムへ記録されたのかもしれない。
どうでもよかった。
俺は立ち上がった。
脚に力が入らない。
空腹で胃が痛んだ。
黒い鳥が、また集まり始める。
火の残り熱には近づかない。
俺にも、すぐには襲いかかってこない。
ただ、ついてくる。
俺が倒れるのを待つ影のように。
黒雪山を見た。
灰色の雨幕の中で、昨日より近く見えた。
そして、昨日より黒かった。
俺は東へ歩き始めた。
背後で、鳥の声が増えていった。




