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第十三話:オーク・タイラント討伐戦(上)



 背後で、鳥の鳴き声が増えていく。


 カイルを焼いた火は、もう見えなかった。


 雨が残り火を消した。


 風が灰を攫った。


 それでも、あの黒い鳥だけは、ずっと俺のあとをついてきた。


 あれから何日歩いたのか、もう覚えていない。


 起きているあいだは、東へ歩く。


 歩けなくなれば、岩にもたれて座る。


 目を閉じる。


 また開く。


 ほんの一刻しか経っていないこともあった。


 空の色が、すっかり変わっていることもあった。


 黒い鳥は、いつも遠くにいた。


 旋回しながら、待っている。


 俺が倒れる、そのときを。


 もう、最初のように焦って襲ってはこない。


 俺がいつか必ず倒れると、知っているようだった。


 俺は、殺しながらここまで来た。


 黒い鳥。


 塩の殻の下に潜み、足首へ食らいつく白い蜥蜴。


 岩の隙間から這い出してくる、何十本もの細い脚を持つ魔物。


 腹が腐り落ちているのに、なお生き物を追い回していた六本脚の荒獣。


 食えるものは食った。


 食えないものも、殺した。


 経験値が増えた。


 冷たい数字が、何度も視界の端を横切った。


 黒雪山脈の中腹へ辿り着いたとき、システム欄の数字は五十八になっていた。


 レベル五十八。


 セレーネ・ルカが死んだときよりも高い。


 誰からも役立たずと呼ばれた、あの勇者よりも。


 ずっと高い。


 それでも、俺は少しも勇者らしくなってはいなかった。


 爪をどこへ突き立てれば、肉が裂けるのか。


 火をどこで灯せば、内側まで焼けるのか。


 そういうことに、以前より詳しくなっただけだ。


 山腹に開いた洞窟へ潜り込み、俺は岩壁に背を預けた。


 胸が激しく上下している。


 吸う。


 吐く。


 息をするたび、血の味を含んだ冷気が喉を削った。


 肺が痛い。


 肋骨も痛い。


 左脚は、膝から下の感覚が消えたかと思えば、次の瞬間には鈍い刃を骨の隙間へ差し込まれたように痛んだ。


 鼓動に合わせて。


 ゆっくりと。


 何度も。


 それでも、まだ生きている。


 魔狼族の身体とは、そういうものだった。


 完全に死んでさえいなければ、裂けた肉を勝手につなぎ直す。


 ずれた骨を、少しずつ元の位置へ押し戻す。


 痛いかどうかなど、訊きもしない。


 そこまでする意味が残っているのかも、考えない。


 洞窟の外では、黒い鳥が旋回していた。


 一周。


 また一周。


 雨に濡れた数百の黒い翼が、鉛色の空を切っていく。


 ときおり、一枚の巨大な網のように重なり合う。


 次の瞬間には、山から吹き下ろす風に引き裂かれる。


 それでも、一羽も洞窟へ入ってこない。


 入口の手前で止まっている。


 そこに、目には見えない境界でも引かれているかのように。


 俺は手元へ視線を落とした。


 手の甲に浮かんでいた黒い紋様が、消えかけていた。


 それが現れたのは、カイルが死んだ翌日だった。


 最初は、細い線だった。


 黒鳥の爪痕から皮膚の下へ潜り込み、ゆっくりと伸びていった。


 やがて枝分かれした。


 蔓のように這い。


 先端は、羽毛のような形へ変わった。


 カイルの身体を覆っていたものと、同じだった。


 短剣で切り開いた。


 火で焼いた。


 紋様が浮かんだ場所を、皮膚ごと抉り取ったこともある。


 何をしても、意味はなかった。


 黒い線は、さらに深い場所から浮かび上がった。


 根を張っているのは、肉ではない。


 俺には見ることのできない、何か別の場所なのだと思った。


 だが、洞窟へ入った瞬間。


 黒い紋様の動きが止まった。


 そして、退き始めた。


 羽毛のように広がっていた末端が、ゆっくりと閉じていく。


 細い枝が、太い線へ吸い込まれていく。


 手首を越え、前腕へ届こうとしていた黒い蔓が、何かに怯えたように傷口へ引き返していく。


 火よりも。


 死よりも。


 さらに恐ろしいものを見つけたかのように。


 やがて、黒い線は完全に消えた。


 俺は指先で手の甲を擦った。


 一度。


 もう一度。


 残っているのは、浅い爪痕だけだった。


 黒い色も。


 焼けるような痛みも。


 皮膚の下を何かが這い回る、あの吐き気のする感覚もない。


 洞窟の外から、黒鳥の声が聞こえた。


 細く。


 濁った鳴き声。


 小石で骨を削っているような音だった。


 鳥たちは去らない。


 だが、近づいてもこない。


「何を怖がってるんだ……」


 声は洞窟の奥へ落ちていった。


 返事はない。


 反響すらしない。


 ここは深すぎる。


 そして、静かすぎた。


 右手を上げる。


 小さな炎が、掌の上に灯った。


 爪ほどの大きさしかない。


 静かな橙色の火。


 以前の俺には、決まった大きさの火球《ファイアボール》しか作れなかった。


 魔力を集める。


 狙う。


 投げる。


 流れは、最初からすべて決められていた。


 魔力は定められた経路を通り、目に見えない何かに絞られ、最後には決まって球の形になる。


 だが、草原を離れてから、俺は何度も火を使った。


 傷口の中へ灯した。


 肉を焼いた。


 黒鳥を追い払った。


 濡れた肉を乾かした。


 薪のない夜に、消えない程度の熱を残した。


 使うたびに、魔力の流れを意識した。


 閉じようとするものを押し開き。


 狭めようとする流れに逆らった。


 掌の炎を絞る。


 爪ほどだった火が、橙色の小さな光の点へ変わる。


 力を少し緩める。


 火はすぐに膨らみ、拳ほどの大きさになった。


 もう一度、魔力を押し戻す。


 火は再び小さくなる。


 今の俺は、毎回それを球にする必要がない。


 広げることもできる。


 圧縮することもできる。


 今のように、道を照らすためだけの小さな火として保つこともできる。


 システムは、何も告げなかった。


 新しい技能を習得したという表示もない。


 技能欄に残っているのは、今も《火球》一つだけだ。


 新しい名前を与えられないかぎり、システムにとっては、すべて同じ火なのかもしれない。


 俺は岩壁へ手をつき、立ち上がった。


 洞窟の入口へ戻る。


 外には、黒雪山脈が広がっていた。


 山が一つあるのではない。


 果ての見えない、巨大な黒い壁だった。


 無数の峰が互いに噛み合い、南北へ連なっている。


 その端は雨霧と低く垂れ込めた雲の中へ沈み、どこまで続いているのか見えなかった。


 山腹より下には、ほとんど木がない。


 露出した黒い岩だけが積み重なっている。


 遠くから見れば、地中から突き出した巨大な獣の骨が、空を目指して密集しているようだった。


 高くなるほど、山肌は黒くなる。


 だが、頂には雪があった。


 白い雪が、真っ黒な稜線へ覆い被さっている。


 雪線のさらに上では、分厚い雲が渦巻いていた。


 青紫色の稲光が、音もなく雲の中を這っている。


 ときおり、一瞬だけ雪峰が照らされた。


 しばらくしてから、ようやく低い雷鳴が届く。


 何重もの谷へぶつかりながら。


 地の底へ沈むように。


 黒い山。


 白い雪。


 雲の中の雷。


 自然に生まれた景色には見えなかった。


 かつて世界がここで裂けた。


 傷口は今も閉じていない。


 ただ、雪で覆い隠されているだけだ。


 そんなふうに見えた。


 本当なら、このまま山を登るべきだった。


 黒鳥は山へ入ろうとしない。


 山腹に沿って進めば、完全に振り切れるかもしれない。


 けれど、俺は振り返った。


 洞窟の奥を見る。


 なぜ黒い紋様が消えた。


 黒鳥が恐れているのは、黒雪山脈そのものなのか。


 それとも、この洞窟の中にある何かなのか。


 ここに、黒い侵食を消す力があるのなら――


 そこまで考えて、足が止まった。


 もう、救う相手はいない。


 カイルは死んだ。


 ヴァルゲンも死んだ。


 部族も、もうない。


 たとえ黒い紋様を消す方法を見つけても。


 火の中で灰になったものを、元の姿へ戻すことはできない。


 それでも。


 俺の足は、洞窟の奥へ向かっていた。


 掌の小さな火が、前方へ浮かぶ。


 湿った暗闇の一部だけを、橙色に照らした。


 最初のうち、洞窟はただの岩の裂け目だった。


 地面はでこぼこしている。


 鋭い岩の突起が、天井から垂れ下がっていた。


 岩壁を伝う水が細い筋となり、石の上へ一滴ずつ落ちている。


 奥へ進むにつれ、空間は広くなった。


 足元の石が減っていく。


 左右の壁も、少しずつ平らになっていった。


 二百歩ほど進んだところで、俺は立ち止まった。


 階段があった。


 石はほぼ同じ大きさに切り揃えられている。


 一段。


 また一段。


 緩やかに、地下へ続いていた。


 両側には低い石柱が並んでいる。


 ほとんどは途中から折れていた。


 断面は厚い埃に覆われている。


 それでも、人の手で削られたものだとわかった。


 ここは、ただの洞窟ではない。


 かつて誰かが造った場所だ。


 火を高く掲げる。


 橙色の光が、前方へ広がった。


 巨大な壁に、色が浮かび上がった。


 数歩近づく。


 それが何なのか、ようやくわかった。


 壁画だった。


 一枚だけ。


 だが、巨大な石壁のほとんどすべてを覆っている。


 ひどく傷んでいた。


 顔料も漆喰も、大部分が剥がれ落ちている。


 その下から、灰黒色の岩肌が覗いていた。


 無数の亀裂が走っている。


 何か鋭いもので、繰り返し削られたような場所もあった。


 そして、画面のあちこちに暗褐色の染みが残っていた。


 一部は、壁画に描かれた血だった。


 だが。


 すべてが絵の具ではない。


 本物の血も、この壁へ飛び散っていた。


 高い場所から滴り。


 亀裂の中へ流れ込み。


 壁を伝って、黒ずんだ筋を残している。


 何千年が過ぎたのかもわからない。


 それでも、血の跡は消えていなかった。


 何本かは、階段まで流れ落ちていた。


 掌の火を近づける。


 剥落と亀裂に覆われた壁画の中から、巨大な輪郭が浮かび上がった。


 一本の樹。


 石壁のほとんどすべてを埋め尽くすほど巨大な樹だった。


 太い幹が、絵の中央を上下に貫いている。


 空そのものを支えているように見えた。


 根は四方へ伸びている。


 城壁を越え。


 川を渡り。


 家々と森の下へ広がっていた。


 樹の下には、尖った耳を持つ無数の人影がある。


 踊っている者。


 空を見上げ、歌っている者。


 子どもを抱き、樹の根へ手を触れている者。


 エルフだ。


 そして、壁画の反対側には火があった。


 燃える矢が空から降っている。


 白い鎧を着た人間たちが、炎の中を進んでくる。


 掲げているのは長槍。


 背後では、旗が火と煙に煽られていた。


 白竜《ホワイト・ドラゴン》の旗。


 世界樹が燃えている。


 炎は根元から立ち上がり、幹を呑み込んでいた。


 枝葉へ広がり。


 空まで赤く染めている。


 森が燃えていた。


 エルフたちが、火の中へ倒れていた。


 弓を構え、抵抗している者。


 子どもを抱えて逃げようとしている者。


 燃える根の前へ跪き、両手を組んでいる者もいる。


 最後まで、何かに祈っているようだった。


 似た壁画を、人間の神殿で見たことがある。


 そこでは、世界樹を焼いた人間たちは英雄だった。


 鎧には金色の顔料が使われていた。


 顔は清らかな白い光に包まれていた。


 エルフは森に潜む異教徒。


 野蛮人。


 文明を拒む敵。


 そう描かれていた。


 だが、この壁画には金色がなかった。


 光もなかった。


 あるのは炎だけだった。


 死体。


 そして、壁から滲み出しているような血の色。


 俺は一歩、壁へ近づいた。


 壁画の中央より少し下。


 そこだけは、比較的形が残っていた。


 一人の人物が跪いている。


 長い髪が垂れている。


 細い身体。


 尖った耳は半分以上剥がれ落ちていた。


 顔も亀裂と血に覆われている。


 それでも、エルフの女だということだけはわかった。


 手に武器はない。


 両腕は力なく下がっていた。


 その正面に、一人の人間の騎士が立っている。


 白い重鎧。


 白竜《ホワイト・ドラゴン》を刻んだ兜。


 両手で長槍を握っている。


 槍先は、跪いた女の顔へ突き刺さっていた。


 胸ではない。


 喉でもない。


 両眼のあたり。


 長槍は、顔を貫いていた。


 眼窩の周囲に描かれた暗赤色の顔料と、本当に壁へ飛び散った血が重なり合っている。


 どこまでが絵なのか。


 どこからが現実の血なのか。


 見分けがつかなかった。


 壁画は剥がれすぎている。


 女の表情は見えない。


 槍がどちらの目を貫いたのかもわからない。


 あるいは。


 両方とも、すでに潰されていたのかもしれない。


 輪郭しか残っていない。


 それなのに、目を逸らせなかった。


 なぜ目なのか。


 なぜこの場面が、燃える世界樹の中央に描かれている。


 この女は、何者だ。


 俺は壁画の目の前まで進んだ。


 手を上げる。


 女の顔を覆う埃と血の跡を、拭おうとした。


 その瞬間。


 視界が真っ赤に染まった。


《■■■■■■■■■■■■》


 システムウィンドウが、何の前触れもなく開いた。


 いつもの半透明な青ではない。


 眼球の奥まで刺すような、鮮烈な赤。


 二枚目のウィンドウが、一枚目を覆った。


《■■■・■■■■■■■■■》


 三枚目。


 四枚目。


 五枚目。


 見たこともない文字列が、激しく明滅する。


 重なる。


 増える。


 視界を埋め尽くす。


 この色を、俺は知っていた。


 王女の寝室。


 ベアトリクスへ火球《ファイアボール》を放とうとして、勇者契約に弾き返されたとき。


 あのときも、システムは赤く染まった。


「今度は、何だ……」


 ウィンドウの中で文字が歪んだ。


 システムの外側から、何かが無理やり入り込んでいるようだった。


 未知の記号が砕ける。


 組み替わる。


 一文字ずつ、人間の言葉へ置き換えられていく。


《識別中》


 赤い光が激しく明滅する。


《外部防衛術式、起動》


《肉体種別:魔族》


《魂魄構造:異常》


 最後の一行は、なかなか表示されなかった。


 システムそのものが壊れたのかと思うほど、長い空白だった。


 やがて。


 新しい文字が浮かび上がる。


《人間の魂を検出》


 かちり。


 壁の奥で、小さな音がした。


 俺は顔を上げた。


 壁画が燃えていた。


 掌の火が燃え移ったのではない。


 炎は、顔料の下から滲み出していた。


 細い赤色の線が、壁の亀裂に沿って走る。


 燃える世界樹を横切る。


 倒れたエルフを通り過ぎる。


 白竜《ホワイト・ドラゴン》の旗へ。


 人間の騎士が握る長槍へ。


 一瞬だった。


 数千年前に描かれた大火が、再び壁の上で燃え上がった。


 跪いた女が、赤い炎に包まれる。


 両眼のあたりを貫く長槍が、一本の眩しい赤い線へ変わる。


 次の瞬間。


 足元から、石の砕ける音がした。


 床が沈む。


 亀裂が足元から四方へ走った。


「待っ――」


 地面が消えた。


 跳ぶ暇もなかった。


 無数の石片と一緒に、身体が暗闇へ落ちていく。


 胃の中身が、失重感に引き上げられる。


 掌の火が消えた。


 四方から闇が閉じる。


 次の瞬間。


 背中が石床へ叩きつけられた。


 肺の空気が、すべて吐き出される。


 止まったのは一瞬だけだった。


 身体の下で、石床が砕ける。


 轟音。


 また落ちる。


 二枚目の床へ、肩から激突した。


 骨の奥で鈍い音がした。


 痛みが脳へ届くより早く、背中から亀裂が広がっていく。


 二枚目の床も崩れた。


 三層目。


 四層目。


 五層目。


 何枚の床を突き破ったのかわからない。


 朽ちた塔へ投げ込まれた石のように、俺の身体は床を砕き続けた。


 ぶつかるたび、落下は一瞬だけ止まる。


 その一瞬が終われば、また闇へ呑み込まれる。


 砕けた石。


 折れた梁。


 すべてが一緒に落ちてくる。


 鋭い石片が額を掠めた。


 生温かい血が、右目へ流れ込む。


 下に、また床が見えた。


 空中で身体を丸める。


 肩から落ちた。


 ばきり。


 床の音か。


 骨の音か。


 判断できない。


 石床が沈み始める。


 背中から亀裂が広がっていく。


 一秒もない。


 俺は無理やり身体を捻り、壁の方へ転がった。


 背後で床が崩れ落ちる。


 身体がまた宙へ投げ出された。


 だが、今度は壁が近い。


 右手を伸ばす。


 五指へ魔力を叩き込む。


 爪が硬化した。


 黒い岩壁へ突き立てる。


 ぎぎぎぎぎっ――


 壁面に、五本の白い傷が走った。


 落下速度が、わずかに落ちる。


 腕が、自分の体重と勢いに引き伸ばされた。


 肩の関節が、耳障りな音を立てる。


 二秒。


 五本の爪が、一斉に折れた。


 再び落ちる。


 歯を食いしばった。


 指の根元へ魔力を流し込む。


 折れた爪が、血肉を押し分けて伸びてくる。


 完全には生えていない。


 待つ時間もない。


 もう一度、壁へ突き立てる。


 爪先が岩を削る。


 粉塵が顔へ吹きつける。


 速度が少しだけ落ちる。


 そして。


 折れる。


 生やす。


 掴む。


 また折れる。


 生やす。


 繰り返すたび、ほんの一瞬だけ時間を稼げた。


 繰り返すたび、爪を骨から引き抜かれるような痛みが走った。


 やがて、下方に地面が見えた。


 次の薄い床ではない。


 本当の地面。


 俺は壁から手を離した。


 残っている魔力を、両脚へ押し込む。


 空中で身体を捻った。


 足から着地する。


 衝撃が足裏から膝へ突き抜けた。


 左脚が、その場で折れた。


 身体が横倒しになる。


 黒い石床を何度も転がり、崩れた石の山へ突っ込んだ。


 視界が真っ白に染まる。


 どれほど経ったのか。


 数秒だったのかもしれない。


 やがて、音が戻ってきた。


 上から、まだ石が落ちている。


 床を叩く。


 柱へぶつかる。


 反響が、何重にも遠くへ広がっていく。


 その中に、俺自身の呼吸が混ざっていた。


 荒く。


 乱れている。


 暗闇に隠れた、瀕死の獣の呼吸だった。


 右手を動かす。


 動く。


 左手も。


 左脚は、また折れたらしい。


 肋骨も、最低で二本。


 だが、生きている。


 俺はもう一度、火を灯した。


 橙色の光が周囲を照らした。


 そして。


 息をすることを忘れた。


 そこは、牢獄ではなかった。


 洞窟でもない。


 宮殿だった。


 黒い石柱が床から立ち上がり、見えない天井へ伸びている。


 一本一本が、十数人で囲んでも届かないほど太い。


 表面には、蔓と葉。


 そして、輪郭すら崩れかけた人影が彫られていた。


 左右には、倒れた巨大な彫像。


 幾重もの大きな門が、火の届かない闇の奥まで続いている。


 頭上には、数え切れないほどの床があった。


 俺が突き破ってきた石床が、何層にも重なっている。


 山腹を垂直に貫く、巨大な井戸のようだった。


 最上部に残る赤い光は、遥か遠い星ほど小さい。


 多くの床が崩落していた。


 折れた梁が、宮殿の中央に積み重なっている。


 壁は亀裂だらけ。


 彫像は頭や腕を失っていた。


 それでも。


 長い年月に壊され尽くしてなお、宮殿は息が詰まるほど巨大だった。


 その中に立つ俺は。


 巨人の墓へ迷い込んだ、一匹の虫でしかなかった。


 宮殿の奥から、音がした。


 じゃらり。


 じゃらり。


 鎖が石床を擦る音。


 一度鳴るたび、岩そのものが動いているような重さがあった。


 掌の火を高く掲げる。


 最初に光の中へ現れたのは、一本の脚だった。


 脚一本だけで、俺の身体と変わらないほど太い。


 皮膚は、腐敗したような灰緑色。


 足首を分厚い金属甲が覆っている。


 さらに上。


 壊れた重鎧。


 何枚もの甲板が重なっている。


 剥がれ落ちた部分から、包帯に覆われた皮膚が覗いていた。


 包帯は白くない。


 何度も血を吸い。


 乾き。


 再び濡れ。


 暗褐色に変わっている。


 すでに肉と癒着しているように見えた。


 宮殿の最奥に、巨大な何かが座っていた。


 一度崩れ落ちた城塔を、執念だけで無理やり立たせたような姿。


 頭は垂れている。


 下顎から、曲がった二本の牙が伸びていた。


 顔の半分は鉄の仮面に覆われている。


 残った半分は古傷だらけだった。


 額から口元まで、深い傷が走っている。


 右手には、巨大な戦斧。


 斧刃だけで、城門ほどの幅があった。


 柄の末端には、黒い鎖がつながっている。


 鎖は床の上で何重にもとぐろを巻き、反対側は重鎧に覆われた左腕へ巻きついていた。


 視界の中で、システムが明滅した。


《オーク・タイラント》


 表示されたのは、名前だけ。


 レベルの欄は、黒く滲んでいる。


 生命値も読み取れなかった。


 それが、顔を上げた。


 露出している一つの目が開く。


 暗い赤。


 俺を見た。


 宮殿の空気が、一気に重くなった。


 オーク・タイラントが口を開く。


「オオオオオオオオ――ッ!」


 言葉ではない。


 ただの咆哮だった。


 それなのに。


 その声は耳を通り越し、直接意識へ叩き込まれた。


 意味がわかった。


 何千年ものあいだ、憎悪に削られ続け。


 最後には輪郭だけを残した、一つの言葉。


 ――人間。


 俺は背を向けた。


 走った。


 背後で轟音が鳴る。


 足音ではない。


 宮殿の床が、踏み砕かれる音だった。


 あれほど巨大な身体なのに。


 速すぎる。


 振り返らなかった。


 意識を耳へ集中させる。


 戦斧が空気を裂く。


 右後方。


 横薙ぎ。


 高さは腰。


 身体を沈め、前へ飛び込んだ。


 斧刃が頭上を通過する。


 当たっていない。


 だが、風圧が追いついた。


 見えない壁に背中から激突したようだった。


 身体が宙へ投げ出される。


 側面の石柱へ叩きつけられた。


 肺の空気が、すべて消えた。


 背中の感覚が一瞬なくなる。


 地面へ落ちると、喉の奥から血の味が込み上げた。


 石柱へ手をつき、どうにか立ち上がる。


 走って逃げるのは無理だ。


 向こうの方が速い。


 戦斧の間合いも広すぎる。


 宮殿の出口がどこにあるのかもわからない。


 上だ。


 上へ逃げるしかない。


 魔力を両脚へ流し込む。


 石柱を蹴る。


 一歩。


 二歩。


 垂直な柱面を、斜め上へ駆け上がる。


 あの崩れた回廊へ飛び移れれば――


 目の前が暗くなった。


 戦斧が飛んできた。


 振るったのではない。


 オーク・タイラントは、戦斧そのものを投げた。


 城門のような斧刃が回転し、空気を引き裂く。


 進路上にあった石柱。


 回廊。


 壁。


 すべてが同時に崩壊した。


 まるで世界の一部を、横から抉り取られたようだった。


 方向を変える暇はない。


 飛び散った石と風圧が、まとめて身体へぶつかった。


 視界が回転する。


 耳には、轟音しか残らない。


 戦斧は壁を突き破り、反対側の地面へ食い込んだ。


 鎖が一瞬で張り詰める。


 オーク・タイラントが左腕を引いた。


 じゃらあっ!


 床へめり込んだ戦斧が、力任せに引き抜かれた。


 黒い鎖が宮殿を横断する。


 俺は着地したばかりだった。


 起き上がれない。


 鎖が腹部へ直撃した。


 身体が、真ん中から折れ曲がる。


 視界が消えた。


 どれほど飛ばされたのかもわからない。


 背中が壁へ激突して、ようやく痛みが戻ってきた。


 壁が大きくへこむ。


 頭上へ亀裂が走る。


 石片が落ちてくる。


 俺は壁に背を擦りながら、ゆっくりと崩れ落ちた。


 システム欄が勝手に開く。


 真っ赤だった。


《HP:1》


 一。


 残り、一。


 口を開いた。


 声は出なかった。


 血だけが、唇のあいだから溢れた。


 腹の中を、内側から引き裂かれたようだった。


 腰から下の感覚がない。


 指さえ動かない。


 オーク・タイラントが戦斧を引き戻す。


 鎖が石床を削り、深い溝を残した。


 こちらへ歩いてくる。


 一歩。


 宮殿全体が揺れた。


 また一歩。


 俺は床へ這いつくばった。


 進め。


 右手を伸ばす。


 石片を掴み、身体をわずかに引きずる。


 次は左手。


 もう少し。


 痛みは、とっくに理解できる範囲を越えていた。


 だから逆に。


 もう痛みではなかった。


 頭に残っているのは、一つだけ。


 死ぬな。


 死ぬな。


 死ぬな。


 戦斧が落ちてくる。


 頭上から風が圧し潰してくる。


 俺は必死に身体を転がした。


 斧刃がすぐ横へ落ちる。


 黒い石床が爆発した。


 衝撃で、身体がまた宙へ浮く。


《HP:1》


 数字は減らない。


 これ以上減れば、死ぬからだ。


 地面へ落ちる。


 そのまま転がる。


 視界の端で、数字が動いた。


《HP:2》


 魔狼族の回復が始まっている。


 遅い。


 あまりにも遅い。


 だが、ゼロではない。


 オーク・タイラントが戦斧を引き抜く。


 俺は両手で床を押し、身体を起こした。


 左脚は動かない。


 右脚へ魔力を叩き込む。


 片脚で床を蹴る。


 身体が横へ弾けた。


 斧刃が背中すれすれを通る。


 触れてもいない風圧が、皮膚を裂いた。


《HP:3》


 着地。


 転がる。


 起きる。


 鎖が追ってくる。


 身体を低くする。


 鎖が耳を掠めた。


 耳の先が、わずかに飛んだ。


《HP:5》


 逃げる。


 避ける。


 また逃げる。


 斧刃は、毎回ほんの少しの差で通り過ぎた。


 半歩。


 指一本。


 毛先ほど。


 オーク・タイラントの攻撃は、まったく遅くなっていない。


 俺が、わずかに慣れ始めていた。


 斧が落ちる直前の風。


 鎖が張るときの振動。


 巨大な身体が力を込める直前に鳴る、重鎧の短い摩擦音。


 HPが少しずつ戻っていく。


 七。


 十二。


 十九。


 回復したそばから、次の風圧に削られる。


 もう遠くへ逃げようとはしなかった。


 石柱の周りを回る。


 瓦礫の隙間を抜ける。


 崩れた回廊の影へ飛び込み、オーク・タイラントに斧の軌道を変えさせる。


 やつの一撃は、周囲のすべてを壊す。


 だが、崩れた柱や壁は、次の一撃を一瞬だけ遮ってくれる。


 宮殿が俺たちのあいだで砕けていく。


 俺はただ。


 まだ完全には砕かれていない、瓦礫の一つだった。


 どれほど続いたのかわからない。


 数十秒だったのかもしれない。


 もっと長かったのかもしれない。


 視界の生命値が、ようやく最大まで戻った。


 骨はまだ痛む。


 左脚も、まともに地面へつけない。


 それでも、生命値があるかぎり、身体は動く。


 だが。


 このままでは駄目だ。


 距離を取れば、斧と鎖から逃げ続けるしかない。


 攻撃できない。


 一度でも遅れれば終わる。


 いつか必ず、遅れる。


 あの武器は大きすぎる。


 斧刃が広い。


 柄が長い。


 なら。


 近く。


 足元。


 そこなら、死角になるかもしれない。


 オーク・タイラントが、再び戦斧を持ち上げた。


 俺は後退しなかった。


 向きを変え。


 やつへ向かって走った。


 斧刃が正面から振り下ろされる。


 風圧が床の埃を左右へ吹き飛ばす。


 それでも前へ出る。


 斧刃が地面へ届く寸前。


 身体を滑らせた。


 オーク・タイラントの両脚のあいだを抜ける。


 轟音。


 背後で戦斧が床を砕いた。


 破片が背中へ突き刺さる。


 止まらない。


 振り返り、そのまま片脚へしがみついた。


 灰緑色の皮膚は、千年枯れた古木のように硬い。


 爪へ魔力を流す。


 突き立てる。


 登る。


 脚甲の縁。


 膝当ての隙間。


 露出した包帯。


 掴めるものは、何でも掴んだ。


 この巨体そのものが壁だった。


 オーク・タイラントが顔を下げる。


 左手が、俺へ振り下ろされた。


 飛び出した甲板を蹴る。


 上へ跳ぶ。


 巨大な掌は、自分の膝を叩いた。


 金属同士がぶつかり、耳を潰すような音が鳴る。


 俺はすでに、腰のあたりまで登っていた。


 そこだけ、重鎧が大きく剥がれている。


 灰緑色の皮膚が露出していた。


 古い傷が、何本も交差している。


 五指を開く。


 刺す。


 裂く。


 血が溢れた。


 赤くない。


 黒に近い。


 溶けた鉄のように、どろりとしていた。


 オーク・タイラントが吼える。


 巨体が激しく揺れた。


 振り落とされそうになる。


 爪が甲板を擦る。


 ばきり。


 三本の爪が同時に折れた。


 指先から痛みが爆発する。


 手は離さない。


 指の根元へ魔力を流す。


 新しい爪が、肉を押し分けて伸びる。


 完全に生える前に。


 再び傷口へ突き立てた。


 裂く。


 噛む。


 顔を、やつの身体へ押しつける。


 牙が肉へ食い込む。


 臭い黒血が口の中へ流れ込んだ。


 吐かなかった。


 離れなかった。


 鎧に触れれば、爪が折れる。


 なら、鎧は避ける。


 掴む場所がないのなら、自分で傷口を作る。


 爪が折れれば、魔力でまた生やす。


 牙がぐらつけば、さらに深く噛み込む。


 自分の身体を守ることを、やめた。


 肋骨の痛み。


 折れた左脚。


 何度も爪が砕ける痛み。


 すべて、意識の外へ追い出した。


 目の前にある、剥き出しの肉だけを見る。


 掌を、裂けた傷口へ押し込む。


 残っているMPを、考えもせず流し込んだ。


 火。


 球にはしない。


 肉の内側で、そのまま灯す。


 橙色の炎が、傷の隙間から噴き出した。


 黒い血が沸騰する。


 古びた包帯が、一瞬で燃え上がった。


 オーク・タイラントが、初めて違う声を上げた。


 怒りだけではない。


 痛がっている。


 効いている。


 さらに魔力を流す。


 MPが激しく減っていく。


 視界の端が黒くなり始める。


 炎が、裂いた筋肉の奥へ入り込む。


 焼く。


 縮ませる。


 脆くする。


 爪で、また裂く。


 もう一度、火を入れる。


 睨獣と戦ったときと同じだ。


 皮膚の内側へ火を送り込めれば。


 一層ずつ、肉を壊せる。


 もっと奥へ。


 さらに深く。


 ここを焼き抜けば。


 内臓まで届けば――


 頭上が暗くなった。


 戦斧が戻ってきた。


 この距離では、斧刃を振るえない。


 オーク・タイラントは柄を捻った。


 そして。


 巨大な斧の腹を、自分の腰へ叩きつけた。


 俺は手を離そうとした。


 遅い。


 分厚い金属が、正面から身体を捉えた。


 世界が、一本の白い線になった。


 まず胸がへこんだ。


 そのあとで。


 骨が次々に折れる音が聞こえた。


 完全に戻っていた生命値が、一瞬ですべて消える。


《HP:1》


 口から血が噴き出した。


 身体が宮殿を飛ぶ。


 床へ叩きつけられる。


 跳ねる。


 転がる。


 瓦礫へぶつかり、ようやく止まった。


 立とうとした。


 膝が床から離れた瞬間、また崩れた。


 腕で支える。


 這う。


 背後から、戦斧が回転する音が聞こえた。


 また投げた。


 斧刃は、直接触れていない。


 風圧だけが先に追いついた。


 身体が、破れた布のように吹き飛ぶ。


 岩壁へ叩き込まれた。


 今度は、すぐには落ちなかった。


 身体が亀裂の中へめり込んでいる。


 数秒経ってから。


 ゆっくりと壁を滑り落ちた。


 足が地面へ触れる。


 俺は壁にもたれ、立ち上がった。


 違う。


 ただ、まだ倒れていないだけだ。


 左脚は、あり得ない方向へ曲がっている。


 胸が陥没している。


 肋骨が何本折れたのか、もう数えられない。


 右手に残っているまともな爪は、二本だけ。


 口から、血が止まらない。


 魔力は完全に尽きていた。


 システムウィンドウが、勝手に開いた。


《HP:1》


《MP:0》


 宮殿の中央に、オーク・タイラントが立っている。


 腰の傷は、まだ燃えていた。


 黒血が脚を伝い、床へ落ちる。


 小さな音を立てて、石を焦がした。


 だが。


 やつにとって、あの傷は。


 虫に肉を少し齧られた程度でしかなかった。


 視界の識別表示が、ようやく安定した。


 滲んでいた文字が、鮮明になる。


《オーク・タイラント》


《レベル:180》


 その下に。


 果てが見えないほど長い生命値が表示された。


 俺は、その馬鹿げた赤い線を見つめた。


 噛みついた。


 爪を何度も折った。


 残っていた魔力を、すべて傷の奥へ注ぎ込んだ。


 身体の内側から、肉を焼いた。


 それだけやって。


 減らせたのは、ほんのわずかだった。


 注意して見なければ。


 生命値が動いたことさえ、わからない。


 オーク・タイラントは、腰で燃えている傷へ独眼を落とした。


 やがて。


 顔を上げる。


 俺を見る。


 暗赤色の目に、勝利の喜びはなかった。


 侮蔑もない。


 怒りすら、もう浮かんでいなかった。


 そこにあるのは。


 何年。


 何百年。


 あるいは何千年。


 積み重なり続けた、憎悪だけだった。


 あれは、この魔狼族の肉体を見ていない。


 皮膚の向こう。


 骨の向こう。


 もっと深い場所に隠れた。


 人間の魂を見ている。


 鎖が動き始めた。


 一節。


 また一節。


 黒い鎖が床から持ち上がる。


 巨大な戦斧が、オーク・タイラントの手へ戻った。


 俺は右脚へ、横へ動けと命じた。


 動かない。


 もう一度。


 動け。


 反応はなかった。


 左脚は完全に折れている。


 右脚も、さっき壁へ叩きつけられたときに感覚を失ったらしい。


 腕を上げようとした。


 残った二本の爪が、かすかに震えただけだった。


 火はない。


 魔力もない。


 這うことさえできない。


 オーク・タイラントが、戦斧を持ち上げる。


 巨大な斧刃が、遠くの火明かりを隠した。


 影が、宮殿の中央から伸びてくる。


 瓦礫を覆う。


 折れた石柱を覆う。


 そして。


 俺の身体を覆った。


 戦斧が落ち始める音がした。


 ひどく遅く聞こえた。


 それなのに。


 避けるには、あまりにも速かった。


 身体は動かなかった。


 今度こそ。


 本当に。


 何も動かなかった。



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