第十四話:オーク・タイラント討伐戦(下)
戦斧が落ちてくる。
身体は動かなかった。
動きたくないわけではない。
命令に応えられる場所が、もうどこにも残っていなかった。
左脚は折れている。
右脚には感覚がない。
腕は持ち上がらない。
HPは一。
MPはゼロ。
巨大な斧刃が、遠くに残る火明かりを覆い隠す。
影が瓦礫を呑み。
折れた柱を呑み。
俺の顔まで届いた。
そして――
背中を支えていた岩壁が崩れた。
俺が避けたのではない。
何度も身体を叩きつけられ、ひび割れていた壁が。
ただ、その瞬間に限界を迎えただけだった。
瓦礫が背後へ崩れ落ちる。
支えを失った俺の身体も、死体のように横へ倒れた。
戦斧が頭上を掠める。
轟音。
世界が白く弾けた。
石片が頬を裂く。
右耳から音が消えた。
衝撃に身体を掬い上げられ、床の上を何度も転がる。
最後には、別の瓦礫の山へ突っ込んだ。
視界の数字は変わっていない。
《HP:1》
まだ、生きている。
正しい判断をしたからではない。
何かを成し遂げたからでもない。
ただ。
死ななかった。
それだけだった。
オーク・タイラントが戦斧を引き抜く。
黒い鎖が、石床を引きずられた。
攻撃を外したことに苛立つ様子もない。
迷いもない。
ただ、もう一度こちらへ歩いてくる。
一歩。
宮殿が揺れる。
もう一歩。
俺は右手を床についた。
腕は動かない。
もう一度。
動け。
指先が、かすかに震えた。
爪が石床を擦る。
身体が、ほんの少しだけ前へ進んだ。
足りない。
もう一度。
HPが一から二へ変わる。
続いて、三。
感覚を失っていた右脚に、鋭い痛みが戻ってきた。
痛むということは。
まだ、完全には死んでいない。
回復したばかりの力を、すべて右脚へ流し込む。
床を蹴った。
身体が横へ飛ぶ。
戦斧が落ちる。
直後。
背後から衝撃が追いついた。
また吹き飛ばされる。
《HP:1》
落ちる。
転がる。
起き上がる。
逃げる。
傷が塞がるのを待つ。
骨がつながるのを待つ。
HPが少しずつ戻るのを待つ。
満ちたら、近づく。
噛みつく。
裂く。
わずかに戻った魔力を、傷の奥へ押し込む。
火を灯す。
そして。
また一撃で吹き飛ばされる。
《HP:1》
逃げる。
回復する。
近づく。
攻撃する。
また、一まで削られる。
何度繰り返したのかわからない。
十回。
二十回。
それ以上だったのかもしれない。
時間というものが、意味を失っていた。
宏大だった宮殿の柱が、次々に折れていく。
アーチが崩れる。
回廊が落ちる。
床には、戦斧が抉った溝が幾重にも走っていた。
黒い鎖の跡が、そのあいだを縦横に横切っている。
巨大な獣が、宮殿中を爪で掻き回したようだった。
オーク・タイラントの生命値も、少しずつ減っていた。
だが。
あまりにも遅い。
一度削るたびに、俺は命を丸ごと差し出さなければならない。
爪が折れる。
牙がぐらつく。
骨を砕かれる。
治りかけた内臓が、また裂ける。
そこまでして。
長大な赤い光条から、目を凝らさなければわからないほどの量を削る。
思考が、次第に消えていった。
判断しない。
恐れない。
絶望することさえ、なくなった。
胸の奥で、心臓が鳴っている。
どくん。
どくん。
どくん。
聞こえるのは、それだけだった。
右から斧風。
伏せる。
鎖が床すれすれを薙ぐ。
跳ぶ。
着地。
左脚が支えられない。
転がる。
柱の裏へ回る。
息をする。
HPを戻す。
飛び出す。
装甲の隙間へ爪を掛ける。
登る。
古傷を裂く。
火を入れる。
そして――
吹き飛ばされる。
何度でも。
同じことを繰り返す。
もう、意識は必要なかった。
身体が勝手に逃げた。
音を拾った。
斧が落ちる前に、死なずに済む唯一の場所へ動いた。
俺自身は、この身体のずっと奥へ沈んでいた。
ただ。
心臓の音だけを聞いていた。
どくん。
どくん。
どくん。
オーク・タイラントが、再び戦斧を振るった。
見えていた。
音も聞こえていた。
それでも、身体の反応がほんの一瞬遅れた。
斧の腹が、胸を正面から捉える。
風圧ではない。
掠ったのでもない。
完全に、直撃した。
胸骨が陥没する。
身体が宙へ投げ出された。
視界が回る。
そして。
何もかもが途切れた。
またHPが一になった。
そう思った。
あるいは。
今度こそ、一すら残らなかったのかもしれない。
視界の端から、白が滲み出した。
宮殿は消えていない。
崩れかけた柱も。
遠くで戦斧を引きずるオーク・タイラントも。
まだ、そこにある。
その現実へ重なるように。
純白の空間が広がっていった。
空はない。
地平もない。
影一つない。
俺は、この場所を知っている。
草野雪人が死んだあと。
セレーネ・ルカが処刑されたあと。
すべてがようやく終わったと思うたびに。
俺は、ここへ連れ戻された。
白の中から、人影が浮かび上がる。
最初に現れたのは、白塔の広場を埋め尽くしていた群衆だった。
顔がない。
一列。
また一列。
白い空間の奥まで、隙間なく並んでいる。
次に、六人の勇者が現れた。
オルフェンが最前列に立っている。
シグルーンは、冷え切った目で俺を見ていた。
ジュリエッタは眉を顰めている。
リンは無表情。
ゴドウィンは両手をポケットへ入れたまま。
フラヴィアだけが、穏やかに微笑んでいた。
その後ろには、王女。
白いドレスには、血の一滴すらついていない。
さらに遠く。
ヴァルゲンが立っている。
胸には、白い炎で焼き抜かれた大穴が開いていた。
部族の者たちが、一人ずつ現れる。
誰も何も言わない。
ただ。
俺を見ていた。
足元の白が、突然盛り上がった。
地面などないはずの場所から、焦げた手が一本突き出してくる。
続いて。
頭。
肩。
身体。
カイルが、白の底から這い上がってきた。
焼け焦げた睨獣の皮を、まだ身体に巻きつけている。
皮と肉は溶け合っていた。
裂けた口から、黒い煙が漏れている。
カイルは俯いていた。
やがて。
肩が、小さく震え始める。
「へ……」
笑っている。
「へへ……」
笑い声が、少しずつ大きくなる。
甲高く。
歪んでいく。
カイルが、生前に一度も出したことのない声だった。
顔を上げる。
両眼は焼け落ちていた。
残っているのは、二つの黒い穴だけ。
「ガルム」
俺の名を呼ぶ。
口元は、耳の近くまで裂けていた。
「俺は死なないって、言ったよな?」
答えられない。
「一緒に西へ行くって、言ったよな?」
カイルが、一歩ずつ近づいてくる。
歩くたびに、焦げた身体から灰が落ちた。
「じゃあ、なんで俺を焼いた?」
拍手が聞こえた。
ぱち。
ぱち。
最初は一人だけだった。
やがて二人。
十人。
そして。
白い空間にいる全員が、手を叩き始めた。
王女。
勇者たち。
白塔の広場にいた、顔のない人々。
ヴァルゲン。
死んだ魔狼族たち。
全員が、同じ調子で拍手をしている。
揃いすぎていて。
吐き気がした。
カイルが俺の前で止まり、首を傾げる。
「どうして、鳥に食わせなかったんだ?」
拍手が大きくなる。
「どうして、俺を守ったつもりになってる?」
「火をつけたのは、お前なのに」
群衆の中から、一人の少女が歩み出た。
淡い色の髪。
見慣れた顔。
フィオナ。
記憶の中にいる、昔の姿だった。
傷はない。
首輪が爆ぜた痕もない。
拷問で流した血もついていない。
幼い頃。
いつも俺に向けてくれた笑顔を浮かべている。
だが。
それは、フィオナの笑い方ではなかった。
フィオナは、あんな目で俺を見ない。
泥の中から這い出した虫でも眺めるような。
あんな目では。
「可哀想な雪人」
フィオナが言った。
だが。
声は、彼女のものではなかった。
遥か遠くから届く声。
軽やかで。
楽しそうで。
悪意を隠そうともしない声だった。
「まだ、自分が何か大層なことをしているつもりなの?」
拍手は止まらない。
「ゴミが一つ」
フィオナは俺を指差した。
それから。
白い空間の向こうに重なる、巨大な影を指す。
「別のゴミと、互いに噛み合っているだけ」
「少し肉を食い千切って」
「少し血を流して」
「それで必死に、自分へ言い聞かせる」
「これは生きることなんだって」
フィオナが笑った。
「面白いよ」
「本当に」
「拍手してあげる価値くらいはある」
すべての手が、同時に打ち合わされた。
ぱん――
白い空間に、亀裂が走った。
端からではない。
フィオナの顔の中央から。
黒い線が、額を割る。
鼻梁を通り。
唇まで裂いた。
その笑顔が、初めて固まった。
次の瞬間。
巨大な戦斧が、白い空間へ突っ込んできた。
現実から振り抜かれた斧刃が。
白そのものを横薙ぎにした。
フィオナの身体が、正面から砕ける。
白い服。
淡い髪。
見慣れた顔。
すべてが、一瞬で赤い塊へ変わった。
戦斧は止まらない。
王女の身体が上下に割れた。
六人の勇者は、声を上げる暇すらなく斧風へ巻き込まれ、群衆の中へ叩き込まれる。
拍手していた腕が、何本も空へ舞った。
顔のない人々が互いに押し潰され、白い地面を血肉で染めていく。
カイルだけが、俺の正面に立っていた。
巨斧は、その身体をも通り抜ける。
焦げた肉体が破裂した。
灰と肉片が、俺の顔へ吹きつける。
そして。
斧の腹が、俺を捉えた。
白い空間が砕け散る。
現実が、一気に戻ってきた。
身体が、宮殿の半分ほどを飛んだ。
背中から床へ叩きつけられる。
跳ねる。
折れた柱へぶつかる。
そこで、ようやく止まった。
喉の中が血で満たされている。
肺は、押し潰されて一塊になったようだった。
それでも。
意識は途切れていない。
システムウィンドウが、視界の中で激しく揺れていた。
《HP:1》
俺は、その数字を見つめた。
すぐには意味がわからなかった。
今のが、二発目だった。
その前に。
斧の腹を、真正面から一度受けている。
あの一撃で意識が途切れた。
白い空間が現れた。
そして。
もう一度、斧で打ち飛ばされた。
二発。
俺は、二発耐えた。
二発目を受けて。
ようやく、HPが一になった。
心臓が鳴った。
どくん。
さっきまでと同じ音。
だが。
空っぽになっていた頭の中へ。
何かが戻ってきた。
力ではない。
希望でもない。
思考だった。
俺は、まだ変わっている。
砕かれるたび。
治るたび。
骨はつながり直す。
筋肉は張り直される。
そのたび、身体はほんの少しずつ学んでいる。
衝撃を受け流す形へ。
命中する直前に身体を捻り、致命的な場所から力を逃がす形へ。
システムが、新しい技能を与えたわけではない。
この身体が。
まだ、学び続けている。
二発耐えられる。
なら。
一度だけ、間違えられる。
間違える余裕が一度あるのなら。
今までとは違うことを試せる。
オーク・タイラントが、こちらへ歩いてくる。
俺は折れた柱へ手をかけ、身体を起こした。
今度は、すぐに逃げなかった。
周囲を見る。
傾いた回廊。
折れかけた石柱。
今にも落ちそうな天井。
オーク・タイラントの力は、俺より遥かに大きい。
なら。
俺の力だけで、攻撃する必要はない。
やつが戦斧を持ち上げる。
俺は身を翻し、根元の半分近くが砕けた巨柱へ向かって走った。
背後から、斧刃が落ちてくる。
最後の瞬間に進路を変えた。
轟音。
戦斧が石柱の根元へ食い込む。
亀裂が柱を駆け上がった。
高所から、黒い岩塊が降り注ぐ。
巨柱が傾く。
そして。
轟然と倒れた。
オーク・タイラントの巨体が、瓦礫の下へ消える。
宮殿全体が震えた。
粉塵が、波のように広がっていく。
俺は床へ伏せ、待った。
煙の向こうに、敵の生命値が浮かんでいる。
減っている。
俺の爪よりは効いた。
だが。
それでも、ほんの少しだった。
倒れた石柱が、内側から持ち上がる。
オーク・タイラントが、瓦礫を押し退けて立ち上がった。
重甲には、いくつか大きなへこみができている。
それだけだった。
低い咆哮が、宮殿を揺らす。
俺はすでに、次の柱へ走っていた。
そこから先は。
また、繰り返しになった。
戦斧を誘う。
避ける。
柱の根元へ叩き込ませる。
天井と石柱を崩し、巨体へ浴びせる。
一度。
二度。
三度。
成功することもあった。
間に合わず、瓦礫と風圧にまとめて吹き飛ばされることもあった。
オーク・タイラントの生命値は、確実に減っている。
だが、想像したほどではない。
宮殿の半分が崩れかけているのに。
やつは、まだ俺を追い続けていた。
再び戦斧が落ちる。
身体を沈め、斧柄の下を抜けた。
斧刃が床へ叩き込まれる。
轟――
音が違った。
足が、わずかに止まる。
オーク・タイラントが斧を引き抜く。
床には、深い穴が残っている。
確かめる時間はない。
再び走る。
それでも。
さっきの音は、耳に残っていた。
最初に、石が砕ける轟音。
そのあと。
さらに低く。
さらに遠く。
もう一つ、響きがあった。
ごん。
足元の、ずっと深い場所から返ってきたような音。
次の一撃が、別の場所へ落ちる。
轟音。
今度は、石の砕ける音だけ。
遠い反響はない。
俺は先ほどの穴を見る。
床の下に。
空間がある。
この宮殿は、最下層ではない。
さらに下がある。
俺は意識して、同じ場所へ戻るように走り始めた。
一度目。
斧の軌道がずれた。
深い穴の縁だけが砕ける。
亀裂が広がった。
二度目。
わざと半歩だけ遅れた。
戦斧が落ち始めてから、横へ転がる。
轟音。
床が大きく沈む。
亀裂の隙間から、細い青色の光が漏れた。
水の音も聞こえる。
遠い。
それでも。
確かに。
三度目。
オーク・タイラントは、もう俺の足跡だけを追ってはいなかった。
暗赤色の独眼が、こちらの動きを見ている。
同じ場所へ攻撃を誘っていることに、気づいたのかもしれない。
やり方を変える。
一度、反対側へ逃げる。
折れた柱を回り込み、戻る。
鎖が迫ったところで、わざと足をもつれさせた。
もう避ける力がないと思わせる。
戦斧が投げ放たれた。
俺は前へ飛び込む。
巨大な斧刃が背中の上を通り過ぎ。
亀裂だらけの床へ突き刺さった。
すぐには崩れない。
オーク・タイラントが鎖を引く。
戦斧が床から抜ける。
その瞬間。
宮殿全体が、わずかに沈んだ。
静寂。
次の瞬間。
床が崩壊した。
無数の亀裂から、青い光が噴き上がる。
俺とオーク・タイラントは、同時に足場を失った。
落ちる。
今度は、途中に床がなかった。
足元には、巨大な空洞。
遥か下で、青い水面が揺れている。
落下の途中。
オーク・タイラントが身体を捻った。
壁を掴もうとはしない。
身を守ろうともしない。
独眼は。
ずっと俺だけを見ていた。
左腕が大きく引かれる。
黒い鎖が、空中へ広がった。
避けられない。
鎖が背中を打つ。
半分近くまで戻っていたHPが、一瞬で消えた。
《HP:1》
身体から力が抜ける。
続けて。
鎖が腰へ巻きついた。
きつく締まる。
オーク・タイラントが、俺を自分の方へ引き寄せる。
戦斧は、すでに持ち上げられていた。
落下の途中だというのに。
水へ落ちる前に。
俺を殺すつもりだった。
爪を鎖へ引っ掛ける。
身体を空中で捻った。
斧刃が、顔のすぐ横を通り過ぎる。
風圧に右目の周囲を裂かれ、視界の半分が血で赤く染まった。
次の瞬間。
青い光が、すべてを呑み込んだ。
水面へ叩きつけられる。
冷たい。
だが同時に。
骨の奥へ染み込むような熱があった。
身体が沈む。
耳には、滝のような轟音だけが残る。
口と鼻から、大量の泡が溢れた。
腰へ巻きついていた鎖が外れる。
腕を動かす。
上へ。
浮かばなければならない。
力は、ほとんど残っていなかった。
それでも。
水そのものが、身体を押し上げているようだった。
四方から、青い光が射している。
俺はようやく水面へ顔を出した。
口から水を吐く。
視界が大きく揺れた。
そこは。
上の黒い宮殿とは、まるで違う場所だった。
広大な地下の水域。
水は、明るい青色に輝いている。
火や石からの反射ではない。
水そのものが、淡い光を放っていた。
何本もの滝が、高い岩壁から流れ落ちている。
水音が幾重にも重なり。
洞窟全体へ、途切れることなく響いていた。
水域の中央に、白い建物があった。
大きくはない。
宮殿というより。
どこかに存在した古い宮殿を、小さく写し取ったような建物だった。
細い柱。
緩やかな曲線を描くアーチ。
蔓と葉を象った装飾。
どの線も軽やかで。
繊細だった。
上にあった、黒く重い宮殿とは正反対だった。
エルフの建物。
そう見えた。
オーク・タイラントも、水の中から起き上がった。
巨体すぎるため、水面は腰までしか届いていない。
だが。
すぐには攻撃してこなかった。
巨大な身体が震えている。
緑色の電光が、重甲の表面を走っていた。
肩から腕へ。
装甲板の隙間へ入り込み。
古い包帯の下から、再び弾ける。
電光が走るたび。
オーク・タイラントの身体が、激しく痙攣した。
苦痛の咆哮が上がる。
怒りではない。
本当に。
苦しんでいる。
敵の生命値が、目に見えて減っていた。
わずかな線ではない。
赤い光条が、はっきりと短くなっていく。
一段。
さらに一段。
この水が。
やつを傷つけている。
オーク・タイラントが片膝を水底へついた。
左手で身体を支える。
戦斧が手から落ちかけた。
それでも。
立ち上がった。
重甲の中で、緑色の雷がさらに激しく爆ぜる。
何枚かの装甲板が、煙を上げ始めていた。
暗褐色の包帯の下では、黒い紋様が狂ったように蠢いている。
オーク・タイラントが戦斧を持ち上げる。
俺はまだ、水面に浮かんでいる。
HPは一。
避けるだけの力は戻っていない。
あれを受ければ。
今度こそ、死ぬ。
オーク・タイラントが一歩進んだ。
巨大な脚が、水を左右へ押し退ける。
戦斧が最高点まで持ち上がった。
そのとき。
声がした。
「……アウレヴァン」
小さな声。
滝の音に消えてしまいそうなほど。
それなのに。
地下水域の隅々まで、確かに届いた。
女の声だった。
優しく。
疲れ果てていて。
遥かな歳月を越え。
ようやく、ここへ辿り着いたような声。
オーク・タイラントの動きが止まった。
斧刃が、空中で静止する。
緑色の電光は、なお身体を焼いている。
それでも。
巨体は動かなかった。
女の声が、もう一度響く。
「もう、いいのです」
命令ではない。
責めてもいない。
ただ。
静かな言葉だった。
「あなたは、もう十分に守りました」
戦斧を握る指が、わずかに緩んだ。
高く掲げられていた斧が、ゆっくりと下がっていく。
オーク・タイラントは頭を垂れた。
声の主を探しているようだった。
やがて。
両膝が、重く水底へ落ちる。
巨大な水波が、四方へ広がった。
跪いた。
俺は、その姿を見つめた。
視界にシステムウィンドウが開く。
敵の情報ではない。
この水域に働いている効果だった。
《環境効果:高位浄化領域》
《排斥対象:侵食/呪詛/怨念汚染》
《浄化処理:継続中》
穢れ。
俺は、オーク・タイラントを見る。
緑色の電光は、ただの雷ではない。
この水が。
やつの内側にある何かを、排斥している。
重甲の下で、黒い筋が盛り上がった。
何本もの根が、肉の中で暴れているようだった。
あれは、出ていこうとしていない。
この身体を手放そうともしていない。
オーク・タイラントが、突然顔を上げた。
暗赤色の独眼が、再び俺を捉える。
先ほどまでの静止が消えた。
巨大な手が、戦斧を握り直す。
震えながら。
立ち上がる。
女の声は。
一瞬だけ、何かを呼び戻した。
だが。
身体の中にいる怪物を、完全には抑えられなかった。
オーク・タイラントが、掠れた咆哮を上げる。
今までのどの声より弱い。
それでも。
込められた意味だけは、同じだった。
――人間。
崩れ落ちる重甲を引きずり。
こちらへ歩いてくる。
生命値は、もうほとんど残っていない。
だが。
俺の方が、死に近かった。
浅瀬へ泳ぐ。
白い石段へ手をかけ。
身体を水から引き上げる。
右脚は、どうにか地面へつける。
左脚には感覚がない。
MPは、わずかに戻っていた。
ほんの少し。
火を一度。
灯せるかどうか。
オーク・タイラントが、戦斧を持ち上げる。
動きは、先ほどまでとは比べものにならないほど遅い。
それでも。
俺を殺すには十分だった。
逃げなかった。
もう。
逃げる場所もなかった。
前へ出る。
水を蹴る。
オーク・タイラントが、戦斧を振り下ろす。
斧刃が、青い水光を切り裂いた。
白い石段へ足をかける。
蹴る。
前方へ跳ぶ。
戦斧が足元を掠める。
白い石板が砕けた。
垂れ下がる鎖を掴む。
登る。
オーク・タイラントが、左腕を持ち上げようとする。
その瞬間。
緑色の電光が、また全身を走った。
腕が止まる。
一瞬。
それだけで十分だった。
割れた腕甲を足場にする。
前腕へ跳び乗る。
爪を、包帯の隙間へ突き立てた。
黒い根が、傷口から溢れ出す。
手首へ絡みつこうとした。
牙で噛み切る。
苦く。
生臭い黒い液が、口の中へ飛び散った。
さらに登る。
肩。
首元。
そこには、古い傷が一本走っていた。
重甲は、緑色の雷に焼かれて割れている。
装甲板の下から、脈打つ黒い組織が露出していた。
肉ではない。
焼け焦げた樹の根のようなもの。
無数の黒い根が絡み合い。
その最深部で。
暗赤色の何かが脈打っている。
残っている二本の爪を、そこへ突き立てた。
オーク・タイラントが激しく身を捩る。
巨大な手が、俺へ振り下ろされる。
最後の魔力を。
すべて、傷口へ流し込んだ。
火球ではない。
形などいらない。
ほんの一点。
もっとも小さく。
もっとも深く。
黒い根の中心へ。
火を灯す。
橙色の光が生まれた。
黒い組織が、激しく収縮する。
振り下ろされかけていた手が止まった。
歯を食いしばる。
火を、さらに奥へ押し込む。
もう魔力はない。
なら。
爪で裂く。
爪が折れた。
なら。
牙を使う。
焦げた根へ噛みつく。
引き裂く。
小さな炎が。
最深部にある暗赤色の核へ触れた。
ぱきり。
乾いた種が割れるような。
小さな音がした。
《オーク・タイラント》
《HP:0》
巨体は、すぐには倒れなかった。
わずかに揺れる。
そして。
もう一度。
両膝を水底へついた。
戦斧が、手から滑り落ちる。
青い水面へ重く沈んだ。
黒い鎖が、一節ずつ水中へ消えていく。
オーク・タイラントは。
そのまま跪いていた。
頭を垂れ。
何も動かない。
重甲が、剥がれ始めた。
最初は肩の装甲板。
続いて胸甲。
錆びた金属が身体から外れ、水へ落ちる。
だが。
底へは沈まなかった。
青い光の中で崩れ。
灰白色の細かな欠片へ変わっていく。
包帯もほどけた。
一本。
また一本。
暗褐色の布が水面へ触れた瞬間。
灰となった。
最後に。
巨大な身体そのものが、崩れ始める。
灰緑色の指先から。
少しずつ。
血は流れない。
肉も落ちない。
ただ。
細かな灰へ変わっていく。
滝から吹く風が、それをさらった。
青い水面へ。
静かに散らしていく。
跪いた姿勢は、最後まで崩れなかった。
輪郭が、もう誰のものかわからなくなるまで。
巨大な影が、一握りの灰へ変わるまで。
それでも。
動かなかった。
俺は、その肩から滑り落ちた。
水へ沈む。
今度は。
もがく力すら残っていなかった。
青い光が、頭上へ遠ざかっていく。
身体が深く沈む。
水が口へ入る。
痛くない。
怖くもない。
白い空間が、また現れた。
水底から。
視界の端から。
ゆっくりと、現実を覆っていく。
顔のない群衆が立っている。
王女。
勇者たち。
カイル。
フィオナ。
さっき砕けたはずの者たちが、全員戻っていた。
フィオナが、一歩前へ出る。
口を開く。
また、何かを言おうとした。
だが。
白い空間は、一瞬しか保たなかった。
青い光が、それを貫いた。
薄い灰を。
水で洗い流すように。
すべての人影が、同時に薄れていく。
フィオナの笑みが固まった。
白い空間が。
音もなく砕けた。
今度は。
誰も俺を蹴り戻さなかった。
嘲笑もなかった。
ただ。
温かな光だけが残った。
意識が途切れた。
次に目を開いたとき。
頭上にあったのは、空ではなかった。
白い天井。
細い枝葉の文様が、石の表面を這っている。
格子状の窓から青い水光が入り。
壁の上で、ゆっくりと揺れていた。
俺は。
あの白い建物の中に横たわっていた。
傷は、まだ身体中に残っている。
それでも。
痛みは、ひどく遠く感じられた。
誰かが、寝台のそばに立っていた。
女だった。
腰まで届く長い髪。
細長く尖った耳。
身体は、向こう側が透けて見えそうなほど淡い。
白い衣の輪郭は、周囲の光へ溶け込んでいる。
本当にそこに立っているのかさえ。
わからなかった。
女は、俺を見下ろしていた。
その目には。
嘲りがなかった。
嫌悪もない。
珍しいものを眺めるような好奇心もない。
あるのは、悲しみだった。
深く。
そして。
ひどく優しい悲しみ。
半透明の手が伸びる。
俺の頬には触れない。
すぐ近くで。
静かに止まった。
「……可哀想な子」
女は、そう言った。




