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第十四話:オーク・タイラント討伐戦(下)



 戦斧が落ちてくる。


 身体は動かなかった。


 動きたくないわけではない。


 命令に応えられる場所が、もうどこにも残っていなかった。


 左脚は折れている。


 右脚には感覚がない。


 腕は持ち上がらない。


 HPは一。


 MPはゼロ。


 巨大な斧刃が、遠くに残る火明かりを覆い隠す。


 影が瓦礫を呑み。


 折れた柱を呑み。


 俺の顔まで届いた。


 そして――


 背中を支えていた岩壁が崩れた。


 俺が避けたのではない。


 何度も身体を叩きつけられ、ひび割れていた壁が。


 ただ、その瞬間に限界を迎えただけだった。


 瓦礫が背後へ崩れ落ちる。


 支えを失った俺の身体も、死体のように横へ倒れた。


 戦斧が頭上を掠める。


 轟音。


 世界が白く弾けた。


 石片が頬を裂く。


 右耳から音が消えた。


 衝撃に身体を掬い上げられ、床の上を何度も転がる。


 最後には、別の瓦礫の山へ突っ込んだ。


 視界の数字は変わっていない。


《HP:1》


 まだ、生きている。


 正しい判断をしたからではない。


 何かを成し遂げたからでもない。


 ただ。


 死ななかった。


 それだけだった。


 オーク・タイラントが戦斧を引き抜く。


 黒い鎖が、石床を引きずられた。


 攻撃を外したことに苛立つ様子もない。


 迷いもない。


 ただ、もう一度こちらへ歩いてくる。


 一歩。


 宮殿が揺れる。


 もう一歩。


 俺は右手を床についた。


 腕は動かない。


 もう一度。


 動け。


 指先が、かすかに震えた。


 爪が石床を擦る。


 身体が、ほんの少しだけ前へ進んだ。


 足りない。


 もう一度。


 HPが一から二へ変わる。


 続いて、三。


 感覚を失っていた右脚に、鋭い痛みが戻ってきた。


 痛むということは。


 まだ、完全には死んでいない。


 回復したばかりの力を、すべて右脚へ流し込む。


 床を蹴った。


 身体が横へ飛ぶ。


 戦斧が落ちる。


 直後。


 背後から衝撃が追いついた。


 また吹き飛ばされる。


《HP:1》


 落ちる。


 転がる。


 起き上がる。


 逃げる。


 傷が塞がるのを待つ。


 骨がつながるのを待つ。


 HPが少しずつ戻るのを待つ。


 満ちたら、近づく。


 噛みつく。


 裂く。


 わずかに戻った魔力を、傷の奥へ押し込む。


 火を灯す。


 そして。


 また一撃で吹き飛ばされる。


《HP:1》


 逃げる。


 回復する。


 近づく。


 攻撃する。


 また、一まで削られる。


 何度繰り返したのかわからない。


 十回。


 二十回。


 それ以上だったのかもしれない。


 時間というものが、意味を失っていた。


 宏大だった宮殿の柱が、次々に折れていく。


 アーチが崩れる。


 回廊が落ちる。


 床には、戦斧が抉った溝が幾重にも走っていた。


 黒い鎖の跡が、そのあいだを縦横に横切っている。


 巨大な獣が、宮殿中を爪で掻き回したようだった。


 オーク・タイラントの生命値も、少しずつ減っていた。


 だが。


 あまりにも遅い。


 一度削るたびに、俺は命を丸ごと差し出さなければならない。


 爪が折れる。


 牙がぐらつく。


 骨を砕かれる。


 治りかけた内臓が、また裂ける。


 そこまでして。


 長大な赤い光条から、目を凝らさなければわからないほどの量を削る。


 思考が、次第に消えていった。


 判断しない。


 恐れない。


 絶望することさえ、なくなった。


 胸の奥で、心臓が鳴っている。


 どくん。


 どくん。


 どくん。


 聞こえるのは、それだけだった。


 右から斧風。


 伏せる。


 鎖が床すれすれを薙ぐ。


 跳ぶ。


 着地。


 左脚が支えられない。


 転がる。


 柱の裏へ回る。


 息をする。


 HPを戻す。


 飛び出す。


 装甲の隙間へ爪を掛ける。


 登る。


 古傷を裂く。


 火を入れる。


 そして――


 吹き飛ばされる。


 何度でも。


 同じことを繰り返す。


 もう、意識は必要なかった。


 身体が勝手に逃げた。


 音を拾った。


 斧が落ちる前に、死なずに済む唯一の場所へ動いた。


 俺自身は、この身体のずっと奥へ沈んでいた。


 ただ。


 心臓の音だけを聞いていた。


 どくん。


 どくん。


 どくん。


 オーク・タイラントが、再び戦斧を振るった。


 見えていた。


 音も聞こえていた。


 それでも、身体の反応がほんの一瞬遅れた。


 斧の腹が、胸を正面から捉える。


 風圧ではない。


 掠ったのでもない。


 完全に、直撃した。


 胸骨が陥没する。


 身体が宙へ投げ出された。


 視界が回る。


 そして。


 何もかもが途切れた。


 またHPが一になった。


 そう思った。


 あるいは。


 今度こそ、一すら残らなかったのかもしれない。


 視界の端から、白が滲み出した。


 宮殿は消えていない。


 崩れかけた柱も。


 遠くで戦斧を引きずるオーク・タイラントも。


 まだ、そこにある。


 その現実へ重なるように。


 純白の空間が広がっていった。


 空はない。


 地平もない。


 影一つない。


 俺は、この場所を知っている。


 草野雪人が死んだあと。


 セレーネ・ルカが処刑されたあと。


 すべてがようやく終わったと思うたびに。


 俺は、ここへ連れ戻された。


 白の中から、人影が浮かび上がる。


 最初に現れたのは、白塔の広場を埋め尽くしていた群衆だった。


 顔がない。


 一列。


 また一列。


 白い空間の奥まで、隙間なく並んでいる。


 次に、六人の勇者が現れた。


 オルフェンが最前列に立っている。


 シグルーンは、冷え切った目で俺を見ていた。


 ジュリエッタは眉を顰めている。


 リンは無表情。


 ゴドウィンは両手をポケットへ入れたまま。


 フラヴィアだけが、穏やかに微笑んでいた。


 その後ろには、王女。


 白いドレスには、血の一滴すらついていない。


 さらに遠く。


 ヴァルゲンが立っている。


 胸には、白い炎で焼き抜かれた大穴が開いていた。


 部族の者たちが、一人ずつ現れる。


 誰も何も言わない。


 ただ。


 俺を見ていた。


 足元の白が、突然盛り上がった。


 地面などないはずの場所から、焦げた手が一本突き出してくる。


 続いて。


 頭。


 肩。


 身体。


 カイルが、白の底から這い上がってきた。


 焼け焦げた睨獣の皮を、まだ身体に巻きつけている。


 皮と肉は溶け合っていた。


 裂けた口から、黒い煙が漏れている。


 カイルは俯いていた。


 やがて。


 肩が、小さく震え始める。


「へ……」


 笑っている。


「へへ……」


 笑い声が、少しずつ大きくなる。


 甲高く。


 歪んでいく。


 カイルが、生前に一度も出したことのない声だった。


 顔を上げる。


 両眼は焼け落ちていた。


 残っているのは、二つの黒い穴だけ。


「ガルム」


 俺の名を呼ぶ。


 口元は、耳の近くまで裂けていた。


「俺は死なないって、言ったよな?」


 答えられない。


「一緒に西へ行くって、言ったよな?」


 カイルが、一歩ずつ近づいてくる。


 歩くたびに、焦げた身体から灰が落ちた。


「じゃあ、なんで俺を焼いた?」


 拍手が聞こえた。


 ぱち。


 ぱち。


 最初は一人だけだった。


 やがて二人。


 十人。


 そして。


 白い空間にいる全員が、手を叩き始めた。


 王女。


 勇者たち。


 白塔の広場にいた、顔のない人々。


 ヴァルゲン。


 死んだ魔狼族たち。


 全員が、同じ調子で拍手をしている。


 揃いすぎていて。


 吐き気がした。


 カイルが俺の前で止まり、首を傾げる。


「どうして、鳥に食わせなかったんだ?」


 拍手が大きくなる。


「どうして、俺を守ったつもりになってる?」


「火をつけたのは、お前なのに」


 群衆の中から、一人の少女が歩み出た。


 淡い色の髪。


 見慣れた顔。


 フィオナ。


 記憶の中にいる、昔の姿だった。


 傷はない。


 首輪が爆ぜた痕もない。


 拷問で流した血もついていない。


 幼い頃。


 いつも俺に向けてくれた笑顔を浮かべている。


 だが。


 それは、フィオナの笑い方ではなかった。


 フィオナは、あんな目で俺を見ない。


 泥の中から這い出した虫でも眺めるような。


 あんな目では。


「可哀想な雪人」


 フィオナが言った。


 だが。


 声は、彼女のものではなかった。


 遥か遠くから届く声。


 軽やかで。


 楽しそうで。


 悪意を隠そうともしない声だった。


「まだ、自分が何か大層なことをしているつもりなの?」


 拍手は止まらない。


「ゴミが一つ」


 フィオナは俺を指差した。


 それから。


 白い空間の向こうに重なる、巨大な影を指す。


「別のゴミと、互いに噛み合っているだけ」


「少し肉を食い千切って」


「少し血を流して」


「それで必死に、自分へ言い聞かせる」


「これは生きることなんだって」


 フィオナが笑った。


「面白いよ」


「本当に」


「拍手してあげる価値くらいはある」


 すべての手が、同時に打ち合わされた。


 ぱん――


 白い空間に、亀裂が走った。


 端からではない。


 フィオナの顔の中央から。


 黒い線が、額を割る。


 鼻梁を通り。


 唇まで裂いた。


 その笑顔が、初めて固まった。


 次の瞬間。


 巨大な戦斧が、白い空間へ突っ込んできた。


 現実から振り抜かれた斧刃が。


 白そのものを横薙ぎにした。


 フィオナの身体が、正面から砕ける。


 白い服。


 淡い髪。


 見慣れた顔。


 すべてが、一瞬で赤い塊へ変わった。


 戦斧は止まらない。


 王女の身体が上下に割れた。


 六人の勇者は、声を上げる暇すらなく斧風へ巻き込まれ、群衆の中へ叩き込まれる。


 拍手していた腕が、何本も空へ舞った。


 顔のない人々が互いに押し潰され、白い地面を血肉で染めていく。


 カイルだけが、俺の正面に立っていた。


 巨斧は、その身体をも通り抜ける。


 焦げた肉体が破裂した。


 灰と肉片が、俺の顔へ吹きつける。


 そして。


 斧の腹が、俺を捉えた。


 白い空間が砕け散る。


 現実が、一気に戻ってきた。


 身体が、宮殿の半分ほどを飛んだ。


 背中から床へ叩きつけられる。


 跳ねる。


 折れた柱へぶつかる。


 そこで、ようやく止まった。


 喉の中が血で満たされている。


 肺は、押し潰されて一塊になったようだった。


 それでも。


 意識は途切れていない。


 システムウィンドウが、視界の中で激しく揺れていた。


《HP:1》


 俺は、その数字を見つめた。


 すぐには意味がわからなかった。


 今のが、二発目だった。


 その前に。


 斧の腹を、真正面から一度受けている。


 あの一撃で意識が途切れた。


 白い空間が現れた。


 そして。


 もう一度、斧で打ち飛ばされた。


 二発。


 俺は、二発耐えた。


 二発目を受けて。


 ようやく、HPが一になった。


 心臓が鳴った。


 どくん。


 さっきまでと同じ音。


 だが。


 空っぽになっていた頭の中へ。


 何かが戻ってきた。


 力ではない。


 希望でもない。


 思考だった。


 俺は、まだ変わっている。


 砕かれるたび。


 治るたび。


 骨はつながり直す。


 筋肉は張り直される。


 そのたび、身体はほんの少しずつ学んでいる。


 衝撃を受け流す形へ。


 命中する直前に身体を捻り、致命的な場所から力を逃がす形へ。


 システムが、新しい技能を与えたわけではない。


 この身体が。


 まだ、学び続けている。


 二発耐えられる。


 なら。


 一度だけ、間違えられる。


 間違える余裕が一度あるのなら。


 今までとは違うことを試せる。


 オーク・タイラントが、こちらへ歩いてくる。


 俺は折れた柱へ手をかけ、身体を起こした。


 今度は、すぐに逃げなかった。


 周囲を見る。


 傾いた回廊。


 折れかけた石柱。


 今にも落ちそうな天井。


 オーク・タイラントの力は、俺より遥かに大きい。


 なら。


 俺の力だけで、攻撃する必要はない。


 やつが戦斧を持ち上げる。


 俺は身を翻し、根元の半分近くが砕けた巨柱へ向かって走った。


 背後から、斧刃が落ちてくる。


 最後の瞬間に進路を変えた。


 轟音。


 戦斧が石柱の根元へ食い込む。


 亀裂が柱を駆け上がった。


 高所から、黒い岩塊が降り注ぐ。


 巨柱が傾く。


 そして。


 轟然と倒れた。


 オーク・タイラントの巨体が、瓦礫の下へ消える。


 宮殿全体が震えた。


 粉塵が、波のように広がっていく。


 俺は床へ伏せ、待った。


 煙の向こうに、敵の生命値が浮かんでいる。


 減っている。


 俺の爪よりは効いた。


 だが。


 それでも、ほんの少しだった。


 倒れた石柱が、内側から持ち上がる。


 オーク・タイラントが、瓦礫を押し退けて立ち上がった。


 重甲には、いくつか大きなへこみができている。


 それだけだった。


 低い咆哮が、宮殿を揺らす。


 俺はすでに、次の柱へ走っていた。


 そこから先は。


 また、繰り返しになった。


 戦斧を誘う。


 避ける。


 柱の根元へ叩き込ませる。


 天井と石柱を崩し、巨体へ浴びせる。


 一度。


 二度。


 三度。


 成功することもあった。


 間に合わず、瓦礫と風圧にまとめて吹き飛ばされることもあった。


 オーク・タイラントの生命値は、確実に減っている。


 だが、想像したほどではない。


 宮殿の半分が崩れかけているのに。


 やつは、まだ俺を追い続けていた。


 再び戦斧が落ちる。


 身体を沈め、斧柄の下を抜けた。


 斧刃が床へ叩き込まれる。


 轟――


 音が違った。


 足が、わずかに止まる。


 オーク・タイラントが斧を引き抜く。


 床には、深い穴が残っている。


 確かめる時間はない。


 再び走る。


 それでも。


 さっきの音は、耳に残っていた。


 最初に、石が砕ける轟音。


 そのあと。


 さらに低く。


 さらに遠く。


 もう一つ、響きがあった。


 ごん。


 足元の、ずっと深い場所から返ってきたような音。


 次の一撃が、別の場所へ落ちる。


 轟音。


 今度は、石の砕ける音だけ。


 遠い反響はない。


 俺は先ほどの穴を見る。


 床の下に。


 空間がある。


 この宮殿は、最下層ではない。


 さらに下がある。


 俺は意識して、同じ場所へ戻るように走り始めた。


 一度目。


 斧の軌道がずれた。


 深い穴の縁だけが砕ける。


 亀裂が広がった。


 二度目。


 わざと半歩だけ遅れた。


 戦斧が落ち始めてから、横へ転がる。


 轟音。


 床が大きく沈む。


 亀裂の隙間から、細い青色の光が漏れた。


 水の音も聞こえる。


 遠い。


 それでも。


 確かに。


 三度目。


 オーク・タイラントは、もう俺の足跡だけを追ってはいなかった。


 暗赤色の独眼が、こちらの動きを見ている。


 同じ場所へ攻撃を誘っていることに、気づいたのかもしれない。


 やり方を変える。


 一度、反対側へ逃げる。


 折れた柱を回り込み、戻る。


 鎖が迫ったところで、わざと足をもつれさせた。


 もう避ける力がないと思わせる。


 戦斧が投げ放たれた。


 俺は前へ飛び込む。


 巨大な斧刃が背中の上を通り過ぎ。


 亀裂だらけの床へ突き刺さった。


 すぐには崩れない。


 オーク・タイラントが鎖を引く。


 戦斧が床から抜ける。


 その瞬間。


 宮殿全体が、わずかに沈んだ。


 静寂。


 次の瞬間。


 床が崩壊した。


 無数の亀裂から、青い光が噴き上がる。


 俺とオーク・タイラントは、同時に足場を失った。


 落ちる。


 今度は、途中に床がなかった。


 足元には、巨大な空洞。


 遥か下で、青い水面が揺れている。


 落下の途中。


 オーク・タイラントが身体を捻った。


 壁を掴もうとはしない。


 身を守ろうともしない。


 独眼は。


 ずっと俺だけを見ていた。


 左腕が大きく引かれる。


 黒い鎖が、空中へ広がった。


 避けられない。


 鎖が背中を打つ。


 半分近くまで戻っていたHPが、一瞬で消えた。


《HP:1》


 身体から力が抜ける。


 続けて。


 鎖が腰へ巻きついた。


 きつく締まる。


 オーク・タイラントが、俺を自分の方へ引き寄せる。


 戦斧は、すでに持ち上げられていた。


 落下の途中だというのに。


 水へ落ちる前に。


 俺を殺すつもりだった。


 爪を鎖へ引っ掛ける。


 身体を空中で捻った。


 斧刃が、顔のすぐ横を通り過ぎる。


 風圧に右目の周囲を裂かれ、視界の半分が血で赤く染まった。


 次の瞬間。


 青い光が、すべてを呑み込んだ。


 水面へ叩きつけられる。


 冷たい。


 だが同時に。


 骨の奥へ染み込むような熱があった。


 身体が沈む。


 耳には、滝のような轟音だけが残る。


 口と鼻から、大量の泡が溢れた。


 腰へ巻きついていた鎖が外れる。


 腕を動かす。


 上へ。


 浮かばなければならない。


 力は、ほとんど残っていなかった。


 それでも。


 水そのものが、身体を押し上げているようだった。


 四方から、青い光が射している。


 俺はようやく水面へ顔を出した。


 口から水を吐く。


 視界が大きく揺れた。


 そこは。


 上の黒い宮殿とは、まるで違う場所だった。


 広大な地下の水域。


 水は、明るい青色に輝いている。


 火や石からの反射ではない。


 水そのものが、淡い光を放っていた。


 何本もの滝が、高い岩壁から流れ落ちている。


 水音が幾重にも重なり。


 洞窟全体へ、途切れることなく響いていた。


 水域の中央に、白い建物があった。


 大きくはない。


 宮殿というより。


 どこかに存在した古い宮殿を、小さく写し取ったような建物だった。


 細い柱。


 緩やかな曲線を描くアーチ。


 蔓と葉を象った装飾。


 どの線も軽やかで。


 繊細だった。


 上にあった、黒く重い宮殿とは正反対だった。


 エルフの建物。


 そう見えた。


 オーク・タイラントも、水の中から起き上がった。


 巨体すぎるため、水面は腰までしか届いていない。


 だが。


 すぐには攻撃してこなかった。


 巨大な身体が震えている。


 緑色の電光が、重甲の表面を走っていた。


 肩から腕へ。


 装甲板の隙間へ入り込み。


 古い包帯の下から、再び弾ける。


 電光が走るたび。


 オーク・タイラントの身体が、激しく痙攣した。


 苦痛の咆哮が上がる。


 怒りではない。


 本当に。


 苦しんでいる。


 敵の生命値が、目に見えて減っていた。


 わずかな線ではない。


 赤い光条が、はっきりと短くなっていく。


 一段。


 さらに一段。


 この水が。


 やつを傷つけている。


 オーク・タイラントが片膝を水底へついた。


 左手で身体を支える。


 戦斧が手から落ちかけた。


 それでも。


 立ち上がった。


 重甲の中で、緑色の雷がさらに激しく爆ぜる。


 何枚かの装甲板が、煙を上げ始めていた。


 暗褐色の包帯の下では、黒い紋様が狂ったように蠢いている。


 オーク・タイラントが戦斧を持ち上げる。


 俺はまだ、水面に浮かんでいる。


 HPは一。


 避けるだけの力は戻っていない。


 あれを受ければ。


 今度こそ、死ぬ。


 オーク・タイラントが一歩進んだ。


 巨大な脚が、水を左右へ押し退ける。


 戦斧が最高点まで持ち上がった。


 そのとき。


 声がした。


「……アウレヴァン」


 小さな声。


 滝の音に消えてしまいそうなほど。


 それなのに。


 地下水域の隅々まで、確かに届いた。


 女の声だった。


 優しく。


 疲れ果てていて。


 遥かな歳月を越え。


 ようやく、ここへ辿り着いたような声。


 オーク・タイラントの動きが止まった。


 斧刃が、空中で静止する。


 緑色の電光は、なお身体を焼いている。


 それでも。


 巨体は動かなかった。


 女の声が、もう一度響く。


「もう、いいのです」


 命令ではない。


 責めてもいない。


 ただ。


 静かな言葉だった。


「あなたは、もう十分に守りました」


 戦斧を握る指が、わずかに緩んだ。


 高く掲げられていた斧が、ゆっくりと下がっていく。


 オーク・タイラントは頭を垂れた。


 声の主を探しているようだった。


 やがて。


 両膝が、重く水底へ落ちる。


 巨大な水波が、四方へ広がった。


 跪いた。


 俺は、その姿を見つめた。


 視界にシステムウィンドウが開く。


 敵の情報ではない。


 この水域に働いている効果だった。


《環境効果:高位浄化領域》


《排斥対象:侵食/呪詛/怨念汚染》


《浄化処理:継続中》


 穢れ。


 俺は、オーク・タイラントを見る。


 緑色の電光は、ただの雷ではない。


 この水が。


 やつの内側にある何かを、排斥している。


 重甲の下で、黒い筋が盛り上がった。


 何本もの根が、肉の中で暴れているようだった。


 あれは、出ていこうとしていない。


 この身体を手放そうともしていない。


 オーク・タイラントが、突然顔を上げた。


 暗赤色の独眼が、再び俺を捉える。


 先ほどまでの静止が消えた。


 巨大な手が、戦斧を握り直す。


 震えながら。


 立ち上がる。


 女の声は。


 一瞬だけ、何かを呼び戻した。


 だが。


 身体の中にいる怪物を、完全には抑えられなかった。


 オーク・タイラントが、掠れた咆哮を上げる。


 今までのどの声より弱い。


 それでも。


 込められた意味だけは、同じだった。


 ――人間。


 崩れ落ちる重甲を引きずり。


 こちらへ歩いてくる。


 生命値は、もうほとんど残っていない。


 だが。


 俺の方が、死に近かった。


 浅瀬へ泳ぐ。


 白い石段へ手をかけ。


 身体を水から引き上げる。


 右脚は、どうにか地面へつける。


 左脚には感覚がない。


 MPは、わずかに戻っていた。


 ほんの少し。


 火を一度。


 灯せるかどうか。


 オーク・タイラントが、戦斧を持ち上げる。


 動きは、先ほどまでとは比べものにならないほど遅い。


 それでも。


 俺を殺すには十分だった。


 逃げなかった。


 もう。


 逃げる場所もなかった。


 前へ出る。


 水を蹴る。


 オーク・タイラントが、戦斧を振り下ろす。


 斧刃が、青い水光を切り裂いた。


 白い石段へ足をかける。


 蹴る。


 前方へ跳ぶ。


 戦斧が足元を掠める。


 白い石板が砕けた。


 垂れ下がる鎖を掴む。


 登る。


 オーク・タイラントが、左腕を持ち上げようとする。


 その瞬間。


 緑色の電光が、また全身を走った。


 腕が止まる。


 一瞬。


 それだけで十分だった。


 割れた腕甲を足場にする。


 前腕へ跳び乗る。


 爪を、包帯の隙間へ突き立てた。


 黒い根が、傷口から溢れ出す。


 手首へ絡みつこうとした。


 牙で噛み切る。


 苦く。


 生臭い黒い液が、口の中へ飛び散った。


 さらに登る。


 肩。


 首元。


 そこには、古い傷が一本走っていた。


 重甲は、緑色の雷に焼かれて割れている。


 装甲板の下から、脈打つ黒い組織が露出していた。


 肉ではない。


 焼け焦げた樹の根のようなもの。


 無数の黒い根が絡み合い。


 その最深部で。


 暗赤色の何かが脈打っている。


 残っている二本の爪を、そこへ突き立てた。


 オーク・タイラントが激しく身を捩る。


 巨大な手が、俺へ振り下ろされる。


 最後の魔力を。


 すべて、傷口へ流し込んだ。


 火球《ファイアボール》ではない。


 形などいらない。


 ほんの一点。


 もっとも小さく。


 もっとも深く。


 黒い根の中心へ。


 火を灯す。


 橙色の光が生まれた。


 黒い組織が、激しく収縮する。


 振り下ろされかけていた手が止まった。


 歯を食いしばる。


 火を、さらに奥へ押し込む。


 もう魔力はない。


 なら。


 爪で裂く。


 爪が折れた。


 なら。


 牙を使う。


 焦げた根へ噛みつく。


 引き裂く。


 小さな炎が。


 最深部にある暗赤色の核へ触れた。


 ぱきり。


 乾いた種が割れるような。


 小さな音がした。


《オーク・タイラント》


《HP:0》


 巨体は、すぐには倒れなかった。


 わずかに揺れる。


 そして。


 もう一度。


 両膝を水底へついた。


 戦斧が、手から滑り落ちる。


 青い水面へ重く沈んだ。


 黒い鎖が、一節ずつ水中へ消えていく。


 オーク・タイラントは。


 そのまま跪いていた。


 頭を垂れ。


 何も動かない。


 重甲が、剥がれ始めた。


 最初は肩の装甲板。


 続いて胸甲。


 錆びた金属が身体から外れ、水へ落ちる。


 だが。


 底へは沈まなかった。


 青い光の中で崩れ。


 灰白色の細かな欠片へ変わっていく。


 包帯もほどけた。


 一本。


 また一本。


 暗褐色の布が水面へ触れた瞬間。


 灰となった。


 最後に。


 巨大な身体そのものが、崩れ始める。


 灰緑色の指先から。


 少しずつ。


 血は流れない。


 肉も落ちない。


 ただ。


 細かな灰へ変わっていく。


 滝から吹く風が、それをさらった。


 青い水面へ。


 静かに散らしていく。


 跪いた姿勢は、最後まで崩れなかった。


 輪郭が、もう誰のものかわからなくなるまで。


 巨大な影が、一握りの灰へ変わるまで。


 それでも。


 動かなかった。


 俺は、その肩から滑り落ちた。


 水へ沈む。


 今度は。


 もがく力すら残っていなかった。


 青い光が、頭上へ遠ざかっていく。


 身体が深く沈む。


 水が口へ入る。


 痛くない。


 怖くもない。


 白い空間が、また現れた。


 水底から。


 視界の端から。


 ゆっくりと、現実を覆っていく。


 顔のない群衆が立っている。


 王女。


 勇者たち。


 カイル。


 フィオナ。


 さっき砕けたはずの者たちが、全員戻っていた。


 フィオナが、一歩前へ出る。


 口を開く。


 また、何かを言おうとした。


 だが。


 白い空間は、一瞬しか保たなかった。


 青い光が、それを貫いた。


 薄い灰を。


 水で洗い流すように。


 すべての人影が、同時に薄れていく。


 フィオナの笑みが固まった。


 白い空間が。


 音もなく砕けた。


 今度は。


 誰も俺を蹴り戻さなかった。


 嘲笑もなかった。


 ただ。


 温かな光だけが残った。


 意識が途切れた。


 次に目を開いたとき。


 頭上にあったのは、空ではなかった。


 白い天井。


 細い枝葉の文様が、石の表面を這っている。


 格子状の窓から青い水光が入り。


 壁の上で、ゆっくりと揺れていた。


 俺は。


 あの白い建物の中に横たわっていた。


 傷は、まだ身体中に残っている。


 それでも。


 痛みは、ひどく遠く感じられた。


 誰かが、寝台のそばに立っていた。


 女だった。


 腰まで届く長い髪。


 細長く尖った耳。


 身体は、向こう側が透けて見えそうなほど淡い。


 白い衣の輪郭は、周囲の光へ溶け込んでいる。


 本当にそこに立っているのかさえ。


 わからなかった。


 女は、俺を見下ろしていた。


 その目には。


 嘲りがなかった。


 嫌悪もない。


 珍しいものを眺めるような好奇心もない。


 あるのは、悲しみだった。


 深く。


 そして。


 ひどく優しい悲しみ。


 半透明の手が伸びる。


 俺の頬には触れない。


 すぐ近くで。


 静かに止まった。


「……可哀想な子」


 女は、そう言った。

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