第十五話:傲慢
一方、その頃。
黒雪山脈の西方――東部荒原。
白と黄。
二色の炎で形作られた長大な壁が、荒野をゆっくりと東へ押し進んでいた。
それは、ただ燃え広がる炎ではない。
幾千もの火精霊が、互いの肩を重ねるように並んでいる。
白炎。
黄炎。
揺らめく火の中に、人に似た輪郭が浮かんでは消える。
脚はない。
腰から下は、絶えず巻き上がる炎の尾へ溶けている。
それでも火精霊たちが一斉に前へ進むたび、荒原には新たな焦土が刻まれていった。
炎の壁は、真っ直ぐではなかった。
左右へ大きく弧を描き。
見渡せないほど遠くまで伸びている。
少しずつ。
少しずつ。
黒雪山脈を背にした獲物を、巨大な網のように追い詰めていた。
草の陰に潜んでいた魔物が、次々に飛び出してくる。
後方からは、冒険者たちが迫っている。
東へ逃れようにも、黒雪山脈から漂う気配を前にすると、本能そのものが足を止めた。
残された道は、一つしかない。
炎の壁を突破する。
六つの眼を持つ獣が、黄炎へ飛び込んだ。
二歩。
進めたのは、それだけだった。
毛皮が消し飛ぶ。
皮下脂肪が沸騰する。
剥き出しになった骨が赤熱し、走る勢いのまま砕け散った。
その身体は、炎壁を抜ける前に灰となった。
数頭の低級魔狼が、続けて火の中へ飛び込む。
一頭目は、壁の半ばで燃え尽きた。
二頭目は、どうにか反対側まで抜けた。
毛も皮も焼け落ち。
黒焦げの筋肉だけを骨にまとわせながら、それでも走ろうとする。
三本の矢が、ほとんど同時に首へ突き刺さった。
続けざまに長剣が前脚を斬り落とす。
火精霊の後方を進んでいた冒険者たちが、一斉に飛びかかった。
起き上がる暇も与えず。
眼窩へ刃を突き込み。
喉を裂き。
何度も武器を振り下ろす。
魔狼の身体が、何度か大きく痙攣した。
やがて。
動かなくなった。
一人の冒険者が、すぐさま死体の前へ屈み込む。
腹を裂き。
魔石を探すつもりらしい。
「止まるな」
背後から声がした。
冒険者の肩が跳ねる。
突き立てた短刀を抜く暇すら惜しみ、慌てて立ち上がった。
ルキウス・ゲンティウス・オストマルクが、その傍らを通り過ぎる。
歩みは速くない。
むしろ、悠然としていた。
軍靴はまだ煙を上げる灰を踏んでいる。
それでも、靴底が焦げることはない。
白と黄の火明かりが、交互に彼の横顔を照らしていた。
だが。
どちらの炎も、その表情へ温度を与えることはなかった。
掃討を開始してから、すでに数日が経っている。
冒険者たちにとって。
この場所には炎と死体しかなかった。
焼かれる魔物の悲鳴。
肉の焦げる臭い。
ほんの少し足を止めれば、自分まで炎と獣の群れに呑まれかねない混乱。
だが、ルキウスはその中を歩いていた。
刈り入れの終わった畑を、確認して回るように。
火精霊の壁が、さらに前へ進む。
新たな魔物の群れが、草むらから追い立てられた。
前列の白炎精霊が、一斉に腕を上げる。
炎で形作られた長槍が、掌の中に生まれた。
放たれる。
魔物たちは、炎壁へ辿り着くことさえできなかった。
途中で白炎に貫かれ。
地面を転がりながら燃え上がる。
ルキウスは、そちらを見ようともしなかった。
この程度の敵に。
わざわざ足を止める価値はない。
彼を立ち止まらせたのは、右前方にできた人だかりだった。
十数人の冒険者が、輪を作っている。
屈み込んでいる者。
後ろから首を伸ばしている者。
解毒薬を使うべきだ。
いや、浄化魔法を試すべきだ。
そんな声が重なり合っていた。
輪の中央から、押し殺した呻き声が聞こえる。
ルキウスは眉を寄せた。
「退け」
誰も反応しなかった。
全員が、地面に倒れた者へ気を取られている。
ルキウスは最も外側にいた男の襟首を掴んだ。
そのまま。
横へ放り投げる。
「うわっ……!」
投げられた男が、隣の冒険者へぶつかった。
人の輪が崩れる。
そこでようやく、全員がルキウスの存在に気づいた。
「言葉も理解できんのか?」
冒険者たちが、慌てて左右へ退いた。
中央に倒れていたのは。
ブラム・ファルカンだった。
三日月を思わせる巨大な剣が、少し離れた地面へ転がっている。
普段なら柄を手放そうとしない男の右手は。
今、深く土へ食い込んでいた。
指の関節が白くなるほど強く。
地面を握り締めている。
全身が小刻みに震えていた。
ブラムは歯を食いしばり、声を漏らすまいとしている。
それでも、息を吐くたび。
胸の奥から、短い呻きが押し出された。
ルキウスは彼を覚えていた。
ヴァルゲンを正面から足止めした流刑者。
使えなくはない。
少なくとも。
周囲で立ち尽くしている連中よりは、いくらかましだった。
ルキウスは屈み込んだ。
ブラムの胸倉を掴む。
「しょ、将軍……」
ブラムが薄く目を開けた。
「動くな」
ルキウスは衣服を左右へ引いた。
布が音を立てて裂ける。
その下には、傷口を覆う包帯。
いくつかは、すでに血で濡れていた。
そして。
包帯の隙間から、黒い紋様が伸びている。
細い線。
途中で幾度も枝分かれしている。
蔓のようでもあり。
皮膚の下へ埋め込まれた、黒い羽根のようでもあった。
紋様はすでに肋骨を越え。
胸元から、喉へ向かって伸び始めている。
ルキウスは一目見ただけで言った。
「役立たずが」
ブラムの顔が歪んだ。
傍らにいた冒険者が、思わず口を挟む。
「将軍、毒かもしれません。すでに解毒薬を二本使いましたが――」
「黙れ」
男の口が閉じた。
ルキウスは、指の関節でブラムの胸元を押した。
黒い線が。
皮膚の下で、わずかに身を捩る。
触れられたことを察知したように。
「バンシー・クロウだ」
周囲の者たちは、意味がわからないという顔をしていた。
ルキウスは視線を上げないまま続ける。
「傷を負った獲物を選んで狙う」
「爪でも嘴でもいい。羽毛が傷口へ触れただけでも、呪詛は入り込む」
指を離す。
黒い紋様は、今もわずかずつ喉へ近づいていた。
「ただし、呪詛を維持しているのは、こいつの身体にある紋様ではない」
ルキウスは立ち上がった。
空を見上げる。
周囲の冒険者たちも、ようやくその視線を追った。
荒原の空は。
火炎と煙。
舞い上がった灰で、濁った色に染まっていた。
その遥か上空。
無数の黒い点が飛んでいる。
高すぎる。
地上から見れば。
風に運ばれる煤のようにしか見えなかった。
だが。
目を凝らせばわかる。
黒い点は、不規則に飛んでいるのではない。
一つの輪。
その外側に、もう一つ。
さらに外側に、もう一つ。
数百羽のバンシー・クロウが、高空で多重の円を描いている。
輪は幾重にも重なり。
その中心にいるのは。
地上を進む掃討隊だった。
ルキウスは、しばらく空を見ていた。
やがて。
視線を冒険者たちへ戻す。
「掃討中に、なぜ空を見ない?」
誰も答えない。
「火の壁が地上の敵を追い立てている」
「だから、敵も地上にしかいないとでも思ったか?」
沈黙。
冒険者たちは、揃って視線を伏せた。
ルキウスの声は大きくない。
怒鳴ってもいない。
それでも。
誰一人、顔を上げられなかった。
「馬鹿の群れだ」
ルキウスは右手を上げた。
掌を、軽く下へ向ける。
前進していた炎の壁が止まった。
遅れはなかった。
混乱もない。
幾千もの白炎と黄炎の火精霊が。
まったく同じ瞬間に静止した。
荒原を東へ伸び続けていた焼け跡も。
そこで止まる。
炎壁の中央にいた、一体の白炎精霊が顔を上げた。
輪郭だけの顔に。
二筋の白光が開く。
左腕を前へ伸ばす。
右手を、後方へ引く。
両手の間に。
白い炎でできた長弓が現れた。
弦はない。
代わりに。
極限まで細く引き絞られた、白炎の一線が張られている。
白炎精霊が、上空の鳥群へ狙いを定める。
指を離した。
白い火矢が、空へ昇る。
最初は。
糸のように細い光だった。
黄炎に照らされた煙を貫き。
高く。
さらに高く。
最内周の輪へ突き刺さる。
空が、一瞬だけ白く染まった。
爆音はない。
白炎は高空で、音もなく広がった。
真っ白な花が。
突然咲いたように。
最内側の鳥群が弾ける。
数十羽のバンシー・クロウが炎に包まれ。
細長い白い尾を引きながら落下していく。
外側の輪も崩れた。
規則正しく飛んでいた鳥たちが。
耳障りな叫び声を上げ、四方へ散る。
さらに上空へ逃れるもの。
黒雪山脈の方角へ飛び去るもの。
呪詛を維持していた円環は、完全に形を失った。
地面に倒れていたブラムが。
突然、大きく息を吸い込んだ。
喉へ迫っていた黒い線が、止まる。
続いて。
ゆっくりと退き始めた。
力を失った蔓のように。
細い枝が閉じ。
羽根の形をした末端が消える。
黒い線は、伸びてきた道を逆に辿り。
少しずつ傷口へ引き返していった。
ブラムが荒い呼吸を繰り返す。
強張っていた全身から。
ようやく力が抜け始めた。
ルキウスは、その様子を見下ろした。
「動けるか?」
ブラムは両手を地面へついた。
腕がまだ震えている。
「な、なんとか……」
「なら立て」
「将軍。まだ身体が――」
「呪詛は解けた」
ルキウスは、地面に落ちていた三日月型の大剣を拾った。
そのまま。
ブラムの目の前へ放り投げる。
刃が土へ突き刺さった。
「仕事へ戻れ」
ブラムは剣を見つめた。
ほんの一瞬。
何かを言いかけるように、唇が動いた。
だが。
結局、何も言わなかった。
手を伸ばし。
大剣を土から引き抜く。
周囲に集まっていた冒険者たちも、少しずつ散り始めた。
炎壁が停止したことで。
前方に追い詰められていた魔物たちは、一時的に息をつくことができた。
何頭かの魔物が。
炎の壁に沿って、抜け道を探し始める。
黄炎精霊が、ゆっくりと顔を向けた。
目も口もない炎の顔。
それを見た魔物たちは。
すぐに足を止めた。
近づこうとはしない。
先ほどルキウスに遮られた冒険者が。
しばらく迷った末、もう一度口を開いた。
「将軍」
ルキウスが振り向く。
男は、反射的に唾を呑み込んだ。
「将軍は……俺たちが戦場では邪魔にしかならないと、お考えなのでしょう」
「だったら、なぜ正規軍を連れてこないんです?」
ルキウスは答えない。
男は、途中で止められることを恐れるように。
早口で続けた。
「共和国軍なら、俺たちよりずっと統率が取れている」
「火精霊と軍団を組み合わせれば、この草原くらい簡単に押し潰せるはずです」
「魔物が抜けてくるたび、俺たちが後ろから始末する必要だって――」
「正規軍なら、すでに来ている」
ルキウスが遮った。
冒険者は、言葉を失う。
「グレイヴフォードに駐留させている」
「かつて町だった場所にな」
ルキウスは、再び空を見た。
白炎に追い散らされた鳥たちは、すでに遠ざかっている。
ただ。
何羽かの燃えた黒い影だけが。
ゆっくりと地上へ落ちていた。
「バンシー・クロウの呪詛は、単体を狙うだけのものではない」
「上空に十分な規模の術式を形成すれば」
「呪いは範囲内にいる、条件を満たしたすべての標的へ広がる」
冒険者を見る。
「軍は、陣形を組んで動く」
「兵同士の間隔は一定」
「負傷者も一か所へ集められる」
「この呪詛にとって、正規軍以上に都合のいい獲物はない」
冒険者は、戸惑いながら言った。
「ですが……先ほどのように、鳥を追い払えば済むのでは?」
「魔王軍と交戦しながらか?」
ルキウスは尋ねた。
「軍団に陣形を維持させ」
「正面の敵を抑えさせ」
「そのうえで全員に、空を見上げて鳥を探させるつもりか?」
冒険者は口を開いた。
だが。
言葉は出なかった。
「兵士は資源だ」
ルキウスは、平然と言った。
「訓練が必要になる」
「装備が要る」
「食料も」
「軍資金も」
「一人失えば、補充するまでに時間がかかる」
視線が。
周囲にいる冒険者たちをなぞる。
皮鎧を着た者。
胸元に、拾い集めた鉄板を括りつけている者。
使っている武器も。
防具も。
何一つ統一されていない。
陣形など存在しない。
先ほどブラムを取り囲んでいた者の中には。
すでに魔狼の死体へ戻り、尾を切り取ろうとしている者さえいた。
「共和国の兵士は」
「魔王軍と血を交換するために使う」
「お前たちの代わりに、草むらを掃除させるためではない」
あまりにも自然な口調だった。
人の命について語っているようには聞こえない。
倉庫の矢を。
どの戦場で消費すべきか説明しているだけのようだった。
「お前たちが本物の戦場へ入れば、隊列を乱す」
「手柄を奪い合う」
「退路を塞ぐ」
「敵が想定より強ければ、勝手に逃げる」
誰も反論しなかった。
冒険者とは。
実際、そういうものだった。
「だが」
ルキウスは続ける。
「こういう面倒事を片付けさせるには便利だ」
「自分の武器は、自分で用意する」
「食料も、自分で探す」
「何人か死んでも、軍団の編制には影響しない」
「ここで全滅したところで」
「共和国から歩兵隊が一つ消えるわけでもない」
荒原に。
炎の燃える音だけが残った。
冒険者たちは、ルキウスを見ていた。
恐怖。
怒り。
そのどちらも浮かんでいる。
だが。
口を開く者はいなかった。
ルキウスには。
彼らが何を思おうと関係なかった。
武器を握れる。
命令どおり動く。
それだけでいい。
彼は東を見た。
黒雪山脈が、荒原の果てを塞いでいる。
黒い山体。
それを覆う、白い雪。
峰の上には厚い雲が垂れ込めていた。
青紫色の稲光が。
ときおり、その内側を走る。
遠すぎて。
雷鳴までは届かない。
ここから見れば。
あの山脈は、地図の端に引かれた一本の黒線にすぎなかった。
「掃討線は、黒雪山脈まで押し上げる」
ルキウスが告げる。
「そこに到達するまで」
「魔族も魔物も、一体たりとも残すな」
ブラムは、すでに立ち上がっていた。
顔色はまだ悪い。
胸元の黒い紋様も、完全には消えていない。
それでも。
大剣を担ぎ。
再び炎壁の後方へ戻っていく。
ほかの冒険者たちも、次々に持ち場へ戻り始めた。
誰かが。
小さな声で尋ねた。
「俺たちの損害が……増えすぎたら……」
ルキウスには聞こえていた。
「増えん」
即座に答える。
「この一帯にいる魔族も魔物も、弱い」
「空すら見上げないような真似を繰り返さなければ」
「何も問題は起きない」
「お前たちが大きく減ることもない」
ルキウスが右手を上げた。
前へ振る。
停止していた火精霊たちが、一斉に向きを変えた。
白炎が先に動く。
黄炎が続く。
幾千もの人影が再びつながり。
長大な炎の壁となる。
巨大な弧が。
また、ゆっくりと狭まり始めた。
前方から。
魔物たちの悲鳴が上がる。
冒険者たちは武器を握り。
炎壁の背後を、東へ進んでいった。
今度は。
誰も空を見上げなかった。
遥かな高空。
白炎に追い散らされたバンシー・クロウたちは。
まだ、立ち去ってはいなかった。
火矢の届かない高度まで上がり。
一羽。
また一羽。
再び集まり始めている。
最初の円環は。
まだ完全には閉じていない。
その向こう。
黒雪山脈の奥で。
青紫色の雷が、一度だけ瞬いた。
ルキウスは見なかった。
彼の計算の中に。
あの山の内側に存在するものは。
最初から、含まれていなかった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
続きが気になった方は、フォローや★で応援していただけると励みになります。




