第十六話:自分になる
暗い。
音もない。
水へ沈んでいく感覚さえなかった。
最初に戻ってきたのは、呼吸だった。
胸がゆっくりと上下する。
鼻から入ってきた空気には、どこか懐かしい埃の匂いが混じっていた。
次に、指先。
足の指。
瞼。
目を開く。
辺りは、まだ暗かった。
何も見えないわけではない。
遠くに、ごく淡い光がある。
薄く。
どこまでも均一に。
地面らしきものを照らしていた。
壁はない。
湖もない。
あの白い建物もなかった。
俺は、自分の手を見る。
人間の手だった。
五本の指。
黒い毛も。
爪もない。
細く。
節も目立たない。
何度も見たことのある手。
草野雪人の手だった。
顔に触れる。
鼻。
唇。
前へ突き出した口吻はない。
牙も唇から覗いていない。
身体はガルムよりも小さい。
肩幅も、情けないほど狭い。
着ているのは。
何度も洗って色の褪せた、学校の制服だった。
「また、ここか……」
声も草野雪人のものだった。
だが。
ここは、あの白い空間ではない。
暗すぎる。
静かすぎる。
拍手もない。
吐き気のする、あの声も聞こえない。
前方から、かすかな足音がした。
顔を上げる。
暗がりに、一つの影が立っていた。
人間ではない。
細長く尖った耳。
全身を覆う灰黒色の毛。
背後には、どこかぎこちなく垂れた尾。
魔狼族。
今の俺より少し背が高い。
けれど。
俺が使ってきた身体よりは、小さかった。
肩はまだ育ち切っていない。
手足も細い。
顔には、少年特有の幼さが残っている。
少年は、その場に立っていた。
両手をどこへ置けばいいのかわからないらしい。
何度か指を動かし。
結局、身体の横へ不自然に垂らしていた。
瞳は灰黒色。
俺が今使っている眼と。
まったく同じ色だった。
俺は、長いあいだ少年を見つめた。
少年も、不安そうにこちらを見ている。
何かの裁きを待っているように。
「お前は……」
もう、わかっていた。
それでも。
言葉にするのが難しかった。
少年は俯いた。
耳も一緒に垂れる。
「ガルムっていいます」
小さな声だった。
「ヴァルゲンの息子です」
少し迷ってから。
少年は、もう一言つけ加えた。
「たぶん……今、あなたが使っている名前です」
責める声ではなかった。
怒ってもいない。
だからこそ。
俺は、何を言えばいいのかわからなかった。
俺がこの少年の身体を奪ったのか。
それとも。
俺が来るより前に、すでに死んでいたのか。
神の言葉など、最初から信じられない。
システムも、何一つ答えてはくれなかった。
俺は、本当のガルムを見る。
思っていたより、ずっと幼かった。
魔物を食い裂き。
死の淵から何度も這い上がってきた、あの身体ではない。
ただの。
まだ大人になっていない少年だった。
「俺は、草野雪人」
そう名乗った。
「そのあと、セレーネ・ルカになった」
「今は……」
喉が少し詰まる。
「今は、みんなにガルムと呼ばれてる」
少年は頷いた。
「知ってます」
一度だけ俺を見上げ。
すぐに視線を逸らした。
「ずっと、知ってました」
「ずっと、いたのか?」
「いた、とは少し違うと思います」
どう説明すればいいのかわからないらしい。
尾が、背後で小さく動いた。
「聞こえるときがあります」
「何もわからないときも」
「深い水の中にいるみたいに」
「あなたが怪我をすると、少しだけはっきりします」
「死にそうなときも」
思い当たることがあった。
考える前に。
身体が勝手に行っていた動き。
爪を岩壁へ食い込ませる角度。
落下するとき、尾を振る方向。
腰を捻り、飛びかかってきた衝撃を逃がす方法。
技能欄には一度も表示されなかったもの。
「あれは、お前がやってたのか?」
少年はすぐに首を振った。
「全部じゃありません」
「身体が覚えてるんです」
「ただ……あなたは、あまり使い方を知らなかったから」
そこまで言って。
失礼なことを言ったと思ったのだろう。
慌てて言葉を足した。
「頭が悪いって意味じゃないです」
「ただ、本当なら誰かに教わるはずだったから」
「父さんが教えてくれます」
「カイルも少しだけ知ってました」
「俺も、本当ならもっと早く覚えないといけなかったんですけど……」
声は次第に小さくなった。
最後の言葉は、ほとんど聞き取れなかった。
少年は一度黙る。
ここへ来た目的を、ようやく思い出したようだった。
「だから、少し教えたいです」
「本当なら、できるはずのことを」
少年が手を伸ばす。
だが。
俺へ触れる直前に止まった。
「いいですか?」
灰黒色の毛に覆われた手を見る。
「俺を恨んでないのか?」
手が固まった。
数秒後。
少年はゆっくりと腕を引いた。
「わかりません」
かなり長く、真剣に考えていた。
「少し、怖いです」
「悔しいとも思います」
「でも……」
顔を上げる。
「父さんは、あなたを抱いたとき、嬉しそうでした」
「カイルも、ずっと笑ってました」
「だから」
少年は、少し迷う。
「悪いことばかりじゃなかったんだと思います」
責められるより。
その答えの方が苦しかった。
それ以上は尋ねず。
俺は頷いた。
「教えてくれ」
少年は、ほっと息を吐いた。
垂れていた耳が、少しだけ立つ。
「まず、目を閉じてください」
言われたとおりにする。
暗闇が、さらに深くなった。
「身体の中にある魔力を感じてください」
「何も感じない」
「俺も、最初はわかりませんでした」
少年は言う。
「父さんが、感じられないなら、最初はあるふりをすればいいって」
「あるふり?」
「水を想像するんです」
「器に入ってる水じゃなくて」
「流れている水」
声が正面から届く。
「血管の中を流れているって、想像してください」
「心臓から出て」
「肩を通って」
「腕を流れて、指先まで行く」
「それから、反対側を通って戻ってくる」
言われたとおりに想像してみる。
何も起きない。
ただの空想だった。
そもそも、自分が想像している血管の位置が正しいかどうかすら怪しい。
「早すぎましたか?」
少年が、おそるおそる尋ねる。
「いや」
「じゃあ、もっとゆっくり」
「急に強くしなくていいです」
「まずは、動かしてください」
もう一度。
胸から水を流す。
肩を通り。
腕へ入る。
掌を一周し。
再び胸へ戻ってくる。
偽物だ。
頭の中だけで作り上げた景色。
それでも、何度も繰り返す。
一周。
また一周。
やがて。
胸の奥に、かすかな冷たさが生まれた。
俺は目を開く。
「止めないで」
少年が慌てて言った。
もう一度、目を閉じる。
冷たさは、まだ残っていた。
流れが腕を通ると。
皮膚の下がわずかに痺れる。
指先を通過するときには。
そこだけが熱を持った。
最初は、一つひとつ意識しなければ流れなかった。
だが。
何度繰り返したかわからなくなった頃。
少しだけ注意を緩める。
それでも。
流れは止まらなかった。
もう、水には感じられない。
目に見えない圧力。
身体の内側を巡り続ける、もう一つの流れ。
「それです」
少年の声が、少し明るくなった。
「今度は、少しだけ速く」
「一度に増やしすぎないでください」
「自分で速くなるように」
流れを少しずつ絞る。
胸の内側を、何かが締めつけてくる。
循環が速くなった。
腕の痺れが、張りつめた痛みに変わる。
指先を通過するたび。
指が勝手に震えた。
もう、水の形を意識する必要はなかった。
本当に存在している。
目を閉じていても。
身体のどこを通っているのか、わかる。
「次は、その流れを脚へ集めます」
少年が言った。
「塞ぐんじゃありません」
「そこに、少し長く留めるだけです」
流れを両脚へ押し下げる。
最初は、脚へ入ってもすぐに循環へ戻ってしまった。
何度も調整する。
足首。
脹脛。
膝。
そこへ、より多くの圧力が残るように。
足元の感覚が、突然変わった。
地面が軽くなった。
違う。
軽くなったのは、俺自身だった。
一歩、前へ出る。
視界が大きく揺れた。
少年が反射的に後ろへ下がる。
俺はもう。
目の前まで移動していた。
「こんなに速く……?」
自分でも驚いた。
ただ一歩、踏み出しただけだ。
それなのに。
草野雪人の身体ではあり得ないほどの力が、脚から返ってきた。
少年は口元を押さえ。
少しだけ得意そうに笑った。
「魔狼族は、みんなこうやって走ります」
「脚だけで走るんじゃないんです」
「先に魔力が身体を押して」
「脚は、それを受け止めるだけ」
そういうことか。
俺はこれまで。
魔力とは、筋力を強めるだけのものだと思っていた。
力を流し込み。
地面を強く蹴る。
だが、魔狼族にとっては。
魔力そのものが、もう一つの筋肉なのだ。
肉体よりも先に、動き始める筋肉。
「腕も同じです」
少年は自分の腕を上げた。
「爪を硬くする前に」
「腕がついてこないと駄目です」
流れを右腕へ導く。
拳を握る。
振り抜いた瞬間。
腕を後ろから押されたような力が加わった。
空気が、短く鳴る。
反応も速くなっていた。
世界が遅くなったわけではない。
考えることと、身体が動くこと。
その間にある、わずかな隙間が縮まっている。
「覚えるの、速いですね」
少年は言った。
「俺より速いです」
「お前の身体だからだろ」
「だから、お前の方が得意なはずだ」
少年は首を振る。
「昔は、痛いのが怖くて」
「魔力を速く流すと、身体の中が痛くなるんです」
「父さんは、痛くても急に止めるなって言ってました」
「急に止めた方が、身体を傷めるから」
そう言いながら。
少年は、自分の腕へ手を当てた。
昔、練習したときの痛みを思い出しているようだった。
「もう一つ」
「もっと難しいのがあります」
少年は、自分の目を指差した。
「ここへ魔力を集めるんです」
「目に?」
「はい」
「父さんが言ってました」
「戦うときは、見えてから避けるんじゃない」
「先にちゃんと見て」
「それから身体をどこへ動かすか決めるんだって」
目を閉じる。
循環する魔力の一部を、上へ導いた。
首を通り。
頭へ入り。
両眼へ近づける。
圧力が眼窩へ触れた瞬間。
極端に細い場所へぶつかったような抵抗が返ってきた。
眼球の裏側から。
鋭い痛みが走る。
「もっと少なく」
少年が急いで言った。
「目は弱いから」
流す量を減らす。
少しずつ。
染み込ませるように。
目を開いた。
世界が、急に輪郭を取り戻した。
少年の顔に生えている毛。
一本一本まで見える。
遠くの暗闇を漂う、ごく小さな光。
空気の中で、止まっているように見えた。
遠くへ意識を向ける。
視界が、一瞬で引き寄せられた。
少年の灰黒色の瞳が消える。
代わりに。
遠方にある、ほとんど見えなかった光の筋が鮮明になった。
近くを見る。
少年の顔が、即座に焦点を結ぶ。
目が慣れるのを待つ必要がない。
距離を変えられる。
瞳が光へ順応する速度も。
視線が動きへ反応する速さも。
自分で調整できた。
少年の肩の毛が揺れている。
尾が、緊張したように内側へ曲がっている。
瞬きをする前に。
瞼の周囲にある筋肉が、先に動くのも見えた。
次の瞬間。
天地がひっくり返った。
胃が激しく縮む。
俺は、一歩よろめいた。
「止めて!」
少年が駆け寄ってくる。
身体を支えられる。
目へ集めていた魔力を散らした。
それでも。
視界は大きく揺れている。
近景と遠景が、何度も入れ替わる。
地面が、足元から裏返っていくようだった。
身体を折り。
何度かえずく。
吐くものは何もなかった。
「ごめんなさい」
少年が慌てて背中をさすった。
「俺の説明が早すぎました」
「もう十分すごいです」
「本当は、俺もあまりできません」
言葉がどんどん乱れていく。
「父さんに教えてもらったとき、最初は木にぶつかりました」
「カイルに、ずっと笑われて……」
その名前を口にした瞬間。
少年の手が止まった。
暗闇が、また静かになる。
俺はゆっくり身体を起こした。
まだ少し眩暈が残っている。
少年は俯いていた。
自分の足元を見つめている。
長い沈黙のあと。
ようやく口を開いた。
「父さんは?」
声は、とても小さかった。
答えられなかった。
少年も。
最初から答えを知っていたようだった。
それでも尋ねる。
「カイルは?」
喉が塞がる。
少年は待った。
尾が、動かなくなった。
「じゃあ……リリィは?」
「わからない」
それだけは、答えられた。
「襲撃のあと、会ってない」
「生きてるかもしれない」
かもしれない。
あまりにも軽い言葉だった。
何一つ。
その言葉を支えるものはない。
少年は、俺を見た。
顔から、表情が消える。
ほんの一瞬だけ。
そのあと。
笑った。
無理やり口元を持ち上げる。
耳は、垂れたままだった。
「そうですか」
「大丈夫です」
「俺は、本当なら消えるはずだったから」
「もういない人間が、こんなことを考えちゃ駄目ですよね」
少しでも明るく言おうとしたのだろう。
「父さんは強いです」
「カイルは、逃げるのが上手でした」
「リリィは人見知りだけど、隠れるのがすごく上手で」
「だから……」
笑顔が、少しずつ引きつっていく。
口元が震える。
表情を作る方法そのものを。
顔が忘れてしまったようだった。
「だから、大丈夫ですよね?」
嘘をつけなかった。
もう一度、真実を言うこともできない。
少年は俯いた。
「どうして……」
大きく息を吸う。
「どうして、こんなことになったんですか」
声が裏返った。
すぐに口を固く閉じる。
続く声を、喉の奥へ押し戻そうとした。
肩が激しく震え始める。
「俺は、何もしてない」
「父さんも」
「カイルは、西を見てみたかっただけで」
「リリィなんて、人間がどんな姿かも知らなかったのに」
「どうして……」
手で目元を拭う。
拭うほどに、涙が溢れた。
「どうして、みんな死ななきゃいけないんですか」
少年は、とうとう声を上げて泣いた。
カイルが死ぬ前に見せた。
恐怖を押し殺すような泣き方ではない。
白い空間で見た、歪んだ笑いでもない。
ただの子供。
家族が、もう全員いないかもしれないと知って。
耐えきれなくなった子供の泣き声だった。
俺は、その場に立っていた。
胸の内側を。
何かに抉り取られたような気がした。
謝るべきなのか。
だが。
謝ったところで、何を意味する。
俺は、この少年の身体を使っている。
この少年の父親に抱かれた。
この少年の友人から、名前を呼ばれた。
そして、何度か。
本当に。
彼らを自分の家族だと思った。
だが。
もともとは。
この少年の家族だった。
俺のものではない。
手を伸ばす。
少年を抱き締めた。
思っていたより、身体は細かった。
最初は。
少年の身体も固まっていた。
数秒後。
両手が、俺の服を強く掴む。
泣き声が、胸元へ押し込まれた。
「ごめん」
それしか言えなかった。
何に対しての謝罪なのか。
誰に向けた言葉なのか。
自分でも、わからなかった。
少年は、長いあいだ泣いた。
この暗闇には時間がない。
泣き止めと急かす者もいなかった。
やがて。
少年は勢いよく顔を離した。
手の甲で涙を乱暴に拭う。
目も鼻も真っ赤だった。
表情も。
今にも、また泣き出しそうなほどひどい。
「もう大丈夫です」
声には、ひどい鼻音が混じっていた。
どう見ても、大丈夫ではない。
それでも。
少年は強く頷いた。
「あと一つだけあります」
「何が?」
「魔力を、頭の中へ流すんです」
「父さんはできました」
「たぶん、部族でも父さんだけです」
「俺は、成功したことがありません」
少年は鼻をすすった。
「でも、あなたならできるかもしれません」
「無理するなって言ったのは誰だ」
「目の話です」
少年は真剣に言う。
「頭は違います」
「何が違う?」
「わかりません」
視線を逸らした。
どうやら。
ヴァルゲンも詳しくは説明していなかったらしい。
あるいは。
本人にも説明できなかったのかもしれない。
「父さんが使うと、急にすごくなるんです」
「全部見えてるみたいに」
「カイルが後ろから飛びついても、触れませんでした」
「それなら、目だけの問題じゃないな」
「はい」
少年が、自分の額を指差す。
「流れを、ここまで通してください」
もう一度、目を閉じる。
身体の中では。
魔力がまだ循環し続けていた。
今度は、いきなり大量には送り込まない。
ごく細い流れを分ける。
首の後ろから。
ゆっくりと上へ。
頭の中へ。
最初は、何も感じなかった。
やがて。
頭の中にある何かが。
磨かれたように澄んだ。
さっきまでの眩暈が消える。
胃の不快感も、一瞬で遠ざかった。
周囲が、ひどく静かになる。
違う。
音が消えたわけではない。
一つひとつの音が、分かれたのだ。
少年の呼吸。
足裏が地面を擦る音。
身体の動きに合わせ、衣服が鳴る音。
遠くを漂う光が動くたび。
空気に生まれる、ごく小さな揺らぎ。
すべてが同時に存在している。
それなのに。
互いを邪魔しない。
何へ意識を向けるべきか。
はっきりとわかる。
思考も速くなっていた。
考えが増えたのではない。
雑音だけが、すべて取り除かれた。
一つひとつの物事が、目の前へ並べられている。
手に取る。
判断する。
元へ戻す。
少年が、俺の前に立っている。
次の瞬間に取り得る動きまで。
同時に見える気がした。
手を上げる。
後退する。
何かを言う。
幾つもの可能性が、頭の中に広がり。
すぐに消えていく。
世界が止まったわけではない。
俺が使える時間だけが。
急に増えた。
「できましたか?」
少年の声が、遠くから聞こえた。
目を開く。
本当に。
少年は遠くへ立っていた。
いつの間にか。
俺たちの間には、かなりの距離が空いている。
少年は、自分の手を見る。
指先が薄くなっていた。
灰黒色の毛が。
細かな光の粒へ変わり。
暗闇へ溶けていく。
「もう、時間みたいです」
静かな声だった。
俺は前へ出る。
「待て」
少年が笑った。
今度は。
無理に作った笑顔ではない。
目元には。
まだ少し赤みが残っていた。
「身体は返しました」
「違う」
俺は言った。
「これは、お前の身体だ」
「今は、あなたの身体です」
「俺は、お前に聞いてない」
「俺も、答える時間がありませんでした」
少年は、薄くなっていく自分の手を見る。
「でも、父さんはあなたをガルムと呼びました」
「カイルも」
「だから」
顔を上げる。
「あなたは、ガルムなんだと思います」
「じゃあ、お前は?」
少年が目を瞬いた。
考えたこともなかったようだった。
しばらくして。
小さく首を振る。
「俺も、ガルムです」
身体が、さらに速く消えていく。
俺は、頭へ流す魔力を増やした。
周囲が再び遅くなる。
空中の光が、止まったように見える。
少年の輪郭が薄くなる速度も。
少しだけ遅くなった。
止まったわけではない。
ほんの少し。
「やめてください」
少年が眉を寄せる。
「身体を壊します」
「もう少しだけ」
「話は終わりました」
「まだだ」
「ほかに何がありますか?」
わからない。
それでも。
このまま消えてほしくなかった。
もう一度。
目の前から誰かがいなくなるのを。
ただ見ていることだけは。
魔力を、さらに増やす。
額の奥に激痛が走った。
焼けた釘を。
頭蓋の内側へ、ゆっくり打ち込まれているようだった。
視界の端が黒くなる。
胃が激しくせり上がる。
少年の消滅は止まらない。
むしろ。
俺の意識が揺らいだせいで。
輪郭はさらに不鮮明になっていた。
「止めて!」
少年が走ってくる。
俺は、まだ維持しようとした。
だが。
身体が先に折れた。
喉の奥から、胃液が込み上げる。
何も食べていないはずなのに。
地面へ、血の混じった液体が落ちた。
膝から力が抜ける。
前へ倒れる。
誰かが受け止めた。
少年の手か。
違う。
もっと柔らかい感触。
一本の指が。
額へ、そっと触れた。
「まだ眠らないで」
女の声がした。
暗闇が、一瞬で消えた。
水底から引き上げられたように。
意識が急浮上する。
俺は目を見開いた。
光が、顔へ落ちている。
太陽ではない。
水面が返す、青い光だった。
白い石畳の上に横たわっている。
周囲は。
あの小さな宮殿の中庭だった。
細い白柱が、浅い池を囲んでいる。
蔓と葉を象った模様が、壁を這うように伸びていた。
半透明の葉が数枚。
木もない空中を、ゆっくり漂っている。
目の前に、一人の女が立っていた。
金色の長い髪。
白い肌。
細く尖った耳。
瞳は、澄んだ緑色。
先ほど見た半透明の姿とは違う。
今は。
ほとんど生きた人間と変わらないように見えた。
ただ。
衣の裾だけが、ときおり背後の光へ溶けている。
女は、俺の額へ触れていた指を離した。
「目は覚めましたか?」
「無理やり起こしておいて、聞く意味あるか?」
女は一度、目を瞬いた。
それから。
小さく笑った。
至高神が。
虫の足掻きを眺めるときに見せる笑いではない。
ただ。
少し面白かったらしい。
「文句が言えるのなら、壊れてはいませんね」
俺は石畳へ手をつき。
身体を起こした。
頭痛は、かなり引いている。
「誰だ?」
女は、胸元へ手を添えた。
動作は軽く。
だが。
今の時代には、もう残っていないような礼の形だった。
「シルヴァナ・エルドレンネ」
そこで。
わずかに間を置く。
「少なくとも、かつてはその名を持っていました」
「かつて?」
「今の私は」
女は、自分の手を見る。
指先が、光の中でわずかに透けていた。
「彼女から剥がれ落ちた、ごく小さな欠片にすぎません」
「もうすぐ消える残響です」
「壁画に描かれていたエルフか?」
「いいえ」
返事は早かった。
だが。
すべてを答えたようには聞こえない。
女は俺を見る。
「ただ」
「かつては、同じ記憶を持っていました」
「かつては?」
「記憶というものは、いつまでも素直に残ってくれるとは限りません」
それ以上は説明しなかった。
中庭の縁へ歩き。
白い石段へ腰を下ろす。
まるで。
これから普通の世間話でも始めるように。
「大切な方には、会えたようですね」
暗闇にいた少年を思い出す。
「あれは、あんたが?」
「私は、扉を一つ開けただけです」
女は、水面に漂う光を指先で弄んだ。
「その向こうに何があったのかは、私にもわかりません」
「あいつは……」
「可愛らしい子でしたね」
女は微笑んだ。
憐れんでいる様子はなかった。
死者を遠くから眺めるような冷たさもない。
本当に。
あの少年と会い。
あの少年を気に入ったような口調だった。
俺は少し黙る。
周囲を見る。
白い中庭。
光る水。
自分を女神の欠片だと言う、エルフの女。
「つまり、ここはボスを倒したあとの報酬部屋か?」
女は、一瞬きょとんとした。
そして。
先ほどより大きく笑った。
「やはり」
「何がだ?」
「あなたの魂は、この世界のものではありませんね」
緑色の瞳が。
俺を静かに観察している。
不快ではない。
水面に初めて映った、見知らぬ影を眺めるような目だった。
「あなたが、どうしてこの身体へ入ったのか」
「それは、私にもわかりませんが」
「神に蹴り込まれた」
「神?」
「白くて眩しくて、性格が悪くて」
「人が不幸になるのを見るのが好きなやつだ」
女の笑みが。
ほんの少しだけ薄くなった。
「白い神」
「知ってるのか?」
「その呼び名なら」
正面からは答えなかった。
視線が、俺の目の前へ落ちる。
半透明の窓が浮かび上がった。
《HP:1874/1874》
《MP:692/692》
《レベル:82》
それだけだった。
種族。
技能。
状態。
すべて消えている。
反射的に、手を伸ばす。
「表示が……」
「少し壊しました」
道端に落ちていた古い器でも。
ついでに割ったような言い方だった。
「少しだけ?」
「とても強く食い込んでいましたから」
女は人差し指を伸ばす。
表示窓の端を、軽くなぞった。
窓が激しく明滅する。
触れられることを拒んでいるようだった。
「それに」
「あれも、もう気づいているかもしれません」
「あれ?」
「あなたがシステムと呼んでいるものです」
女は手を引いた。
「白い神が世界を見るために置いた、眼の一つ」
「同時に」
「すべてを見ていると、人々に信じさせるためのものでもあります」
「面板があるだけで、人間が神を信じるのか?」
「あなたが強くなったとき」
女は問い返した。
「最初に、それを教えてくれるのは誰ですか?」
すぐには答えられなかった。
レベルが上がった。
技能を覚えた。
状態異常を受けた。
いつも。
システムの方が先に、俺の身体を理解していた。
「誰もが」
「同じ眼を通して自分を知ることに慣れてしまえば」
女は、浮かぶ表示を見る。
「その眼がなくなったとき」
「自分がまだ存在するのかさえ、想像しにくくなります」
「なら」
「システムが信仰を集めて、神を支えてるのか?」
「そこまで単純ではありません」
女は微笑む。
「人間とあの神の関係は」
「どちらが、どちらを生んだのか」
「簡単には言い切れないものです」
「鶏と卵か」
「それは?」
「何でもない」
もっと知っている。
だが。
話すつもりはないらしい。
もう一度、表示を見る。
「どうして、この三つだけ残ってる?」
「生命」
「魔力」
「それから、レベル」
女は三本の指を立てた。
「その辺りは、特に手放したがらなかったので」
「あるいは」
「わざと残したのかもしれません」
「何のために?」
「あなたが、これからも信じ続けられるように」
女が目を上げる。
「数字を、完全には信じないでください」
「間違うのか?」
「もちろん」
迷いのない答えだった。
「測る以上、必ず誤差は生まれます」
「測る者が」
「何かを見せたくないと思っている場合は」
「さらに大きく」
「嘘をつくこともある?」
「すでに、何度も嘘をつかれているのかもしれません」
女の口調は穏やかだった。
「あなたが」
「それを疑い始めたのが、今だっただけです」
システムが判定した種族。
技能。
球体にしかならなかった火。
壁画の前で現れた、赤い表示。
「技能欄も消したな」
「はい」
「それじゃ、これからどうやって技能を覚える?」
女は、小さく首を傾げた。
「先ほど」
「いくつか覚えたのではありませんか?」
何のことか。
すぐには理解できなかった。
脚。
腕。
眼。
頭。
何の通知もない。
名前もない。
ガルム自身ですら。
それを何と呼ぶのか知らなかった。
「あれは、技能じゃないのか?」
「なぜ、技能である必要があるのです?」
女は立ち上がる。
中庭へ歩み出た。
掌を上へ向ける。
小さな炎が、そこへ生まれた。
淡い色。
朝の光が。
薄い葉の上に落ちたような炎だった。
「魔法とは」
「世界が巡るときに生まれる流れです」
「生命は、その一部を借りる」
「本来なら起こらないことを」
「ほんの一時だけ、起こすために」
指を閉じる。
炎は消えなかった。
指の隙間から流れ出す。
手首を伝い。
細長い火の線となって、腕を昇る。
やがて。
光を放つ小さな虫へ姿を変え。
女の肩の周囲を飛び始めた。
「奇跡そのものは」
「自分が何の系統に属するのかなど、知りません」
「炎が」
「私は初級魔法です、と名乗ることもない」
「風も」
「誰かが技能を覚えていないという理由で、流れるのをやめたりはしません」
女は、小さく息を吹く。
光る虫が散った。
再び。
幾つもの小さな火の粉へ戻る。
「分類」
「階級」
「系統」
「決められた使い方」
火の粉が、池へ落ちていく。
「どれも」
「人が奇跡を理解するため、あとから与えた形です」
「それがなければ、普通の人間はどうやって学ぶ?」
「真似る」
「感じる」
「失敗する」
「そして、もう一度試す」
女は言った。
「最初の生命が、そうしたように」
「どうして最初に覚える魔法は、火が多い?」
「火は、想像しやすいからです」
一本の指を立てる。
指先に、火が灯る。
「形がある」
「色がある」
「熱がある」
「何かを食べて、大きくなる」
「生命は、遠い昔から火を知っていました」
「だから」
「火は、最初の魔法の一つでもあります」
女の指先にある火を見つめる。
自分の掌も、わずかに熱を持つ。
魔力を想像する。
流す。
球に固める必要はない。
女が、こちらを見た。
「今は試さない方がいいですよ」
「どうして?」
「先ほど」
「自分で脳を煮かけていましたから」
「そこまでじゃない」
「血を吐いていました」
「少しだけだ」
「外にいた、あの可哀想な子も」
「最初は、少しだけだと思っていたのでしょうね」
ガルムではない。
アウレヴァンのことだ。
俺は黙った。
「どうして、あいつはああなった?」
女の指先から、炎が消える。
「やりすぎたからです」
「それだけか?」
「失ったものを」
「あまりにも強く、守ろうとしたからでもあります」
「世界樹を?」
「かもしれません」
女は、俺を見なかった。
「怨念を?」
「かもしれません」
「あんたを?」
今度は。
答えなかった。
青い光が、水面で揺れる。
女の顔を照らしていた。
その一瞬。
誰よりも疲れ切っているように見えた。
「また、あんたに会えるか?」
「いいえ」
答えは小さかった。
「この欠片は、もうすぐ消えます」
「でも」
「別の欠片には会うかもしれないって言ったな」
「ええ」
「それも、あんたなのか?」
「どれも、シルヴァナです」
そう答えてから。
女は笑って、言葉を足した。
「けれど」
「同じ人だと思う必要はありません」
「矛盾してないか?」
「生き物にとっては、そうかもしれません」
自分の掌を見る。
「ですが」
「神は、生き物ではありません」
「私たちは」
「意志に近いものです」
「同じ意志が」
「異なる時に残した欠片」
「似た記憶を持っていても」
「同じ選択をするとは限りません」
「なら」
「完全なシルヴァナは?」
「もう、いません」
とても静かな声だった。
とうに起きたことを。
もう変えることのできない事実として語る声。
「エルフは、どうして負けた?」
「人間は、どうして世界樹を焼いた?」
「アウレヴァンが呑み込んだものは何だ?」
「魔王は、何なんだ?」
次々に問いかける。
女は、俺を見ていた。
唇には。
まだ、かすかな笑みが残っている。
「ここは報酬部屋なのでしょう?」
「なら、答えろよ」
「報酬なら、もう渡しました」
「どこに?」
「あの子に会えたでしょう」
女は言う。
「それでは、不足ですか?」
反論できなかった。
「それに」
女の身体が、薄くなり始める。
金色の髪が、周囲の光へ溶けていく。
「答えというものは」
「あまりに早く知ってしまえば」
「人を自由にするとは限りません」
俺は立ち上がった。
「待て」
中庭の縁に、亀裂が走る。
白い柱から。
蔓を象った彫刻が、一枚ずつ剥がれ落ちる。
池の光も、次第に弱くなった。
「せめて」
「どうして俺をここへ連れてきたのか、教えろ」
「私が連れてきたのではありません」
女は言った。
「あなたが、勝手に落ちてきたのです」
「じゃあ、どうして助けた?」
少しだけ。
真剣に考える顔をした。
「可哀想だったから」
「それだけ?」
「面白かったからでもあります」
笑みを含んだ答え。
だが。
至高神の言葉とは違う。
背筋が冷えることはなかった。
「それから」
「あなたには」
「外にいた、あの可哀想な子と同じものになってほしくありません」
「アウレヴァン?」
「彼も、かつて思っていました」
声が遠くなる。
「自分が耐えられるうちは」
「耐え続けなければならない、と」
「何が悪い?」
「悪くありません」
女は答えた。
「だからこそ」
「危険なのです」
身体は、ほとんど透明になっている。
「ガルム」
初めて。
女は、その名を呼んだ。
「苦しみを」
「自分が生きている証にしないでください」
「じゃあ」
「何で、生きてるって証明すればいい?」
答えはなかった。
女は。
ただ、微笑んだ。
そして。
消えた。
炎も。
光の柱もない。
水面へ落ちた影が。
波紋に崩されるように。
形を失い。
二度と戻らなかった。
周囲の景色が崩れ始める。
中庭の白い石畳から、光が失われた。
柱が次々に折れる。
空中を漂っていた透明な葉は。
細かな塵へ変わった。
池の水が引いていく。
精緻だった宮殿は。
数千年分の風化を、一息のうちに受けたように。
白い廃墟へ変わっていった。
俺は、その場に立っていた。
まだ。
何が起きたのか、うまく飲み込めない。
「これのどこが、報酬部屋なんだよ」
誰も答えなかった。
崩れたアーチを抜ける。
外の青い湖は。
まだ光っていた。
岩壁から、滝が落ちている。
水音が。
地下空間を埋め尽くしていた。
湖の前へ屈む。
水へ手を入れる。
冷たい感触が。
腕から身体の内側へ流れ込んできた。
表示が、勝手に現れる。
《HP:1874/1874》
《MP:692/692》
完全には戻っていなかった数値が。
急速に満ちていく。
疲労も消えた。
筋肉へ、再び力が戻る。
魔力を頭へ流しすぎたせいで残っていた痛みも。
かなり遠ざかった。
水から手を抜く。
頭上を見上げた。
幾重にも重なる地下宮殿。
崩れた階層が。
互いに重なり合っている。
最上層から崩れ落ちた巨大な穴が。
ここまで、まっすぐ続いていた。
暗闇の中。
何かが動いている。
爪が、石壁を引っ掻く音。
甲殻がぶつかり合う音。
低い唸り声が。
別々の階層から落ちてくる。
一つ。
また一つ。
少しずつ近づいている。
アウレヴァンは死んだ。
もう。
ここで、あれらを止める者はいない。
俺は立ち上がった。
指を動かす。
魔力は。
まだ身体の中を巡っている。
表示に教えられなくても。
技能に名前がなくても。
わかる。
水の流れ。
心臓を通り。
肩へ入り。
四肢を巡り。
また、元へ戻ってくる。
「練習するか」
声が。
地下の水域へ響いた。
魔力を頭へ流す。
まずは少し。
思考が澄む。
もう少し。
遠くにいる魔物が。
どこへ足を置いたのか。
頭の中に輪郭が生まれる。
さらに。
世界が、ゆっくりと遅くなっていく。
さらに――
突然。
強烈な眩暈が襲ってきた。
胃がせり上がる。
視界が傾いた。
「まず……」
脚から力が抜ける。
そのまま。
頭から青い湖へ突っ込んだ。
水柱が上がる。
表示のMPが。
すぐに回復を始めた。
湖面に残ったのは。
ぽこぽこと浮かぶ。
幾つもの泡だけだった。




