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18/19

第十七話:怪物、華々しく登場



 これは、東部荒原で炎の壁が動き始めるより、少し前の話だ。


 竜王国北部。


 グラウゼン北冠領。


 その地下牢、第七層には。


 昼も夜もなかった。


 あるのは、壁際に据えられた魔法灯だけ。


 決して消えない黄ばんだ光を。


 毎日。


 同じ床へ落とし続けている。


 エスカンは、もう数え終えていた。


 左の壁から右の壁まで、石煉瓦が百七十三枚。


 天井には九十六枚。


 そのうち三枚は、一度取り外された痕跡がある。


 継ぎ目には、人の血。


 竜の血。


 それから、ほとんど匂いのしない黒い樹脂。


 土属性魔法を封じるためのものだ。


 牢の出口には、七重の封鎖。


 三つは金属錠。


 二つは魔術式。


 一つは、この要塞を通る地脈そのものへ接続されている。


 そして最後の一つには。


 何もない。


 少なくとも。


 目には、何も見えなかった。


 エスカンは、その見えない最後の封鎖へ背を預けていた。


 出口まで、わずか半歩。


 退屈そうに片手を上げる。


 半透明の表示が、目の前へ浮かび上がった。


 名前。


 レベル。


 状態。


 冒険者組合による登録職業。


《聖騎士》


《盗賊》


《武闘僧》


 本来なら、同じ人物の欄へ並ぶはずのない三つの文字。


 エスカンは眺めた。


 閉じた。


 二秒ほどして。


 もう一度開いた。


 また閉じる。


 何度見直しても。


 システムは脱獄方法を新しく表示してはくれなかった。


「気が利きませんねえ」


 小さくため息をつく。


 指先を返すと。


 袖口から一枚の金貨が滑り出した。


 親指の上へ乗せる。


 弾く。


 金貨は空中で十七回転した。


 表には、首をもたげた竜。


 裏には、先代竜王の冠。


 そのまま。


 牢の外へ飛んでいく。


 敷居を越えた瞬間だった。


 何もない空間に。


 薄い波紋が広がった。


 ぱん。


 金貨が弾き返される。


 投げたときよりも速かった。


 エスカンは首を傾ける。


 金貨が狐耳の銀鈴を掠め。


 伸ばした掌へ突き刺さるように収まった。


 じゅっ。


 肉の焦げる匂いがした。


 掌が、一瞬で黒赤く焼ける。


「ちっ」


 エスカンは金貨を口に咥えた。


 焼けた掌を、ぺろりと舐める。


 傷口が閉じていった。


 焦げた皮膚が剥がれ。


 その下から新しい肉が生える。


 数呼吸もしないうちに。


 痕一つ残らなくなった。


 口から金貨を取り出す。


 縁には、小さな歯形がついていた。


「お客様は、まだですかねえ」


 返事はない。


 牢の奥は。


 魔法灯の光すら届かない暗闇に沈んでいた。


 ときおり響く鎖の音だけが。


 ここにいる囚人が、エスカン一人ではないと教えている。


 彼は、もう一度金貨を弾いた。


 今度は外へ飛ばさない。


 細い指のあいだで。


 何度も表裏を入れ替えるだけ。


 この地下牢へ入れられて。


 三十二日になる。


 理由は、そう複雑ではなかった。


 グラウゼン北冠領の関所が、彼らを通さなかった。


 彼らは、それを受け入れなかった。


 守備隊が拘束しようとした。


 それも、受け入れなかった。


 結果として。


 関所を守っていた北冠公の精鋭私兵百二十七名は。


 一人も、自分の足で立って話せる状態ではなくなった。


 正確に言えば。


 九人は生き残った。


 ただし。


 本来、身体についているはずのものを。


 幾つか失っていた。


 その一件で。


 グラウゼン北冠公本人が動いた。


 そして。


 七人の白金級冒険者は敗北した。


 完膚なきまでに。


 エスカンは今でも。


 あれは関所側の不手際だったと思っている。


 最初から彼らは。


 ただ、通りたかっただけなのだから。


 廊下の奥から。


 足音が聞こえた。


 軽い。


 だが、乱れている。


 兵士の歩き方ではない。


 最初に現れたのは。


 揺れる灯りだった。


 若い侍女が。


 両手で長柄の灯火を抱え、石段を下りてくる。


 灯りの火は。


 彼女の呼吸に合わせるように、ひどく震えていた。


 歩みは遅い。


 床が濡れているからではない。


 牢へ近づきたくないのだ。


 その後ろから。


 一人の男が、影を抜けて現れた。


 黒褐色の長い髪を、後ろへ整然と撫でつけている。


 纏っているのは、暗い色の礼装。


 甲冑ではない。


 腰にも剣はない。


 ただ。


 左手だけが。


 不自然なほど分厚い、黒い手甲で覆われていた。


 よく見れば。


 手の甲を覆う装甲板が。


 呼吸するように、ゆっくりと開閉している。


 グラウゼン北冠公。


 エドラク・セヴラン・グラウゼン。


 侍女が牢の前で止まる。


 灯りは低く掲げたまま。


 中を見ようともしない。


 エドラクは。


 自分の書斎へでも入るように、透明な障壁の前へ立った。


 エスカンは、相変わらず出口のすぐそばへ寄りかかっている。


 二人の距離は、一腕分もない。


 間にあるのは。


 目に見えない壁だけだった。


「こんばんは、公爵閣下」


 エスカンは笑顔で金貨を掲げた。


「もう少し遅かったら、自分の毛でも数え始めるところでしたよ」


「もう数えただろう」


 エドラクが言った。


「左耳が千七百四十二本。右耳が千七百三十九本」


 エスカンの笑みが。


 一瞬だけ止まった。


「扉の外へ、盗み聞きでも置いていたんですか?」


「置いていない」


「では、どうして?」


「二十六日目に寝言で言っていた」


「なるほど」


 エスカンは頷く。


「ここの寝床は、警戒心を鈍らせるようですね」


 牢の中に。


 寝床などなかった。


 エドラクは、その言葉を無視した。


「取引をしに来た」


 指先を跳ねていた金貨が止まる。


 狐耳は動かなかった。


「前にも、同じことを言っていましたねえ」


「あれは降伏条件だ」


「僕は今でも、誘拐に近かったと思っていますよ」


「拒否する権利は与えた」


「拒否したあとは?」


「危険な魔物として処分する」


「だから、誘拐みたいだと言っているんです」


 エスカンの笑みが深くなった。


 エドラクは、ただ見ている。


 急かさない。


 しばらくして。


 エスカンは金貨を袖へ戻した。


「聞きましょう」


「ただし、先に言っておきますが」


「僕たちの値段は、一月前より上がっていますよ」


「牢の食事が口に合わなかったか?」


「いいえ」


 エスカンは、耳に下がる銀鈴へ触れた。


「長く閉じ込められて、機嫌が悪いんです」


 エドラクが右手を返す。


 指のあいだへ。


 普通の金貨より厚く、重い金色が現れた。


 表面には。


 翼を広げた竜の頭部。


 二本の角のあいだには。


 極細の王冠紋が刻まれている。


 竜王国最高額の金貨。


 竜首大金貨《ドラゴン・ヘッド》。


 エドラクは、それを放った。


 金貨は透明な障壁を越えた。


 今度は。


 何にも弾かれなかった。


 エスカンが受け取る。


 掌の上で重さを確かめ。


 歯を立てた。


「純度は悪くありませんね」


「千枚」


 エスカンの目は。


 相変わらず細く閉じられている。


 だが。


 耳先の鈴が、一度だけ鳴った。


「どの城を買うおつもりで?」


「お前たちを買う」


「七人で千枚だけですか?」


「任務完了後」


 エドラクは続ける。


「お前たちへ刻んだ服命魂契約を解除する」


 鈴の音が止まった。


 牢の奥も。


 完全な静寂に沈む。


 エスカンは。


 金貨を二本の指で挟んだ。


「場所は?」


「東部」


「範囲」


「ヴィランディル東境。オストマルク共和国との国境地帯。そして黒雪山脈以西の荒原」


「仕事の内容は?」


「あの一帯を、可能な限り混乱させろ」


 エスカンは、少し黙った。


 やがて。


 堪えきれないように笑う。


「公爵閣下」


「それは仕事ではありません」


「願い事です」


「だから、具体的な手段はお前に任せる」


 エドラクの声には、起伏がない。


「補給を潰してもいい」


「情報を断ってもいい」


「指揮官を殺してもいい」


「死ぬはずだった者を、生かしてもいい」


「生きるはずだった者を、先に消してもいい」


「共和国を助けても構わない」


「ヴィランディルへ手を貸しても構わない」


「ただし」


「どの勢力にも、早すぎる決着を与えるな」


「魔王軍は?」


「同じだ」


「三方すべてから殺されそうになったら?」


「それは、お前の問題だ」


「いやはや」


 エスカンは首を傾けた。


「千枚で、七つの死体を買おうとしているように聞こえますねえ」


 エドラクは否定しなかった。


 礼服の内側から。


 丁寧に折り畳まれた紙を取り出す。


 エスカンへ渡しはしない。


 自分の手元で開いた。


「ヴィランディル王女派が、勇者の宝珠を起動した」


 エスカンの笑みが。


 わずかに薄くなる。


「確実ですか?」


「確実だ」


「情報源は?」


「王女の身辺だ」


 エドラクは言う。


「フィオナという名の侍女がいた」


「保民官派が、王女の側へ潜り込ませていた者だ」


 エスカンの右耳が、小さく向きを変えた。


「あの子ですか」


「知っているのか?」


「噂だけなら」


「大人しく見せるのが、とても上手だったとか」


「生き残るのも」


 エドラクは、紙を畳み直した。


「死んだ」


 エスカンは。


 すぐには返事をしなかった。


 耳元の小さな銀鈴が揺れる。


 だが。


 音は鳴らなかった。


「死に方は?」


「王女派が、正体に気づいたらしい」


「らしい?」


「遺体の損壊が激しかった」


 エドラクは淡々と続ける。


「死ぬ前に送った最後の情報で十分だ」


「正体が露見したかどうかは、計画へ影響しない」


 エスカンは、男の顔を見た。


「公爵閣下」


「その話し方では、友達ができませんよ」


「友人は必要ない」


 エドラクは答えた。


「必要なのは、使える者だ」


「それで」


「次は僕たちの番ですか」


「そうだ」


 隠しもしない。


 侮辱するつもりもない。


 エドラクは、ただ事実を述べていた。


 東部では。


 近いうちに戦争が始まる。


 共和国。


 ヴィランディル。


 魔王軍。


 三者が、多くの力を投じることになる。


 そしてエドラクは。


 どの勢力にも。


 楽に勝ってほしくない。


 刃が必要なのだ。


 竜王国のものではなく。


 共和国のものでもなく。


 ヴィランディルのものでもない刃。


 十分に鋭く。


 十分に欲深い。


 折れたとしても。


 誰も、それを戦場へ投げ込んだ者を追及しない。


 エスカンは。


 竜首大金貨を見下ろした。


「報酬の支払いは?」


「任務終了後、一括だ」


「魂契約は?」


「同時に解除する」


「誰が、任務終了を決めるんです?」


「私だ」


「駄目です」


 即答だった。


「契約そのものに判定させる」


「それは認めない」


 エドラクの返答も同じ速さだった。


 二人は、透明な壁を挟んで見つめ合う。


 侍女の両手は。


 ますます激しく震えていた。


 灯りの中の火が。


 何度も硝子へぶつかっている。


「では、終了条件を書きましょう」


 エスカンが言った。


「『公爵閣下が満足するまで』は論外です」


「『戦場に平和が戻るまで』も駄目」


「そんな条件では」


「全員が死ぬまで残ることになりかねません」


「何を望む?」


「期限を」


「百二十日」


「短すぎる」


「百八十日」


「いいでしょう」


 エスカンが、一本目の指を立てた。


「二つ目」


「誰を狙うか」


「いつ、狙わないか」


「こちらで決める」


「認める」


「三つ目」


「隊員が負傷した場合」


「治療のため、戦域外へ離脱できる」


「最長七日」


「十四日」


「十日」


「成立」


 二本目の指。


「四つ目」


「戦域周辺という言葉には」


「少なくとも三日分の移動範囲を含める」


「一日だ」


「公爵閣下」


「逃げるという行為を、少々誤解なさっていませんか?」


 エスカンは困ったようにため息をついた。


「逃走で最も大切なのは」


「十分遠くまで逃げることですよ」


「二日」


「三日」


「二日半」


「成立」


 三本目。


「五つ目」


「必要と判断した場合」


「僕には、全員へ撤退を命じる権利がある」


「それは、もともとお前にある」


「戦術的後退の話ではありません」


 エスカンは笑っていた。


 だが。


 声だけが、少しゆっくりになった。


「ある種の相手を見たら」


「試さない」


「探らない」


「任務がどこまで進んでいようと」


「即座に背を向ける」


 エドラクの黒い左手が。


 わずかに動いた。


 指先が、腕を軽く叩く。


 その内側に宿る何かも。


 話へ興味を持ったらしい。


「誰だ?」


「多いですよ」


 エスカンは、再び出口へ背を預けた。


「まずは、オストマルク共和国」


「表へ出ている将軍は、四人」


「ルキウス・ゲンティウス・オストマルク」


 小指を一本立てる。


「殺せます」


 侍女が、思わず顔を上げた。


 エドラクの表情は変わらない。


「ずいぶん低い評価だな」


「低くはありません」


 エスカンは首を振った。


「魔物を殺すことに関しては、強いですよ」


「あの白い炎」


「魔族と魔物への判定が、見事すぎるほどです」


「獣の群れへ放り込めば」


「一人で半個軍団分は働くでしょう」


「ですが、人を相手にするには少々物足りない」


「それに」


「あの人は、意味のないことを嫌う」


「殺すだけなら難しくない」


「殺したあとに、何も得られないのが難点です」


「結論は?」


「殺せる」


「でも、触らない」


 二本目。


「セヴェリナ」


 耳元の鈴が。


 かすかに鳴った。


「戦えます」


「殺せるかは、わかりません」


「あの人が持ち歩いているのは、剣ではなく」


「歩く武器庫ですから」


「選ぶ剣を間違えているうちは」


「少し遊べるでしょう」


「正しい一本を引いたら」


「逃げるべきです」


 三本目。


「リュシェラ・マルティア・ヴェスパリス」


「一人なら?」


 エスカンは少し考えた。


「試す価値はあります」


「《同位聖列》を展開したあとなら?」


「絶対に試しません」


「本人は、人を殺すのが得意ではない」


「ですが」


「周りから動けるものを六人拾って」


「いきなり全員を百六十五レベルにする」


「そんなものは戦闘ではありません」


「計算間違いです」


 四本目の指が立つ。


「最後に」


「ネフェル・アウル・キルシュ」


 エスカンは、そこで止まった。


 評価を口にしない。


 エドラクは待った。


「何が問題だ?」


「わかりません」


「だから、触らない」


 笑みは消えていない。


 それでも。


 ほかの名前を挙げたときより、声は真剣だった。


「僕は」


「理解できないものに命を賭けません」


「神秘術師なのか」


「死霊術師なのか」


「ただ頭がおかしいだけなのか」


「誰かが確かめてくれてから、考えます」


「それまでは」


「見かけたら逃げる」


 エドラクは頷いた。


「ヴィランディルは?」


「七人の勇者ですか?」


 エスカンの笑みが戻る。


「今なら、大半は殺せます」


「少なくとも」


「一人ずつなら」


「ですが」


「全員を一度に殺す必要はありません」


「駒が盤面の中央へ出る前に」


「全部折ってしまうのは」


「公爵閣下としても、惜しいでしょう?」


「王国軍もいる」


 エドラクが指摘した。


「王国軍は、それほど怖くありません」


 エスカンは答える。


「本当に恐ろしいのは」


「一人だけです」


 侍女の持つ灯りが。


 再び揺れた。


 今度は。


 彼女の震えが原因ではない。


 エドラクの左手。


 黒い装甲板の隙間から。


 紫黒色の眼が、一瞬だけ開いていた。


 エスカンの笑顔は変わらない。


「ラウディオン・セルヴァス・ヴァルセリオン」


 牢から、音が消えた。


 暗闇の奥で鳴っていた鎖すら。


 沈黙した。


「現在は、騎士領連邦抵抗戦線にいる」


 エドラクが言う。


「現在は」


 エスカンが繰り返した。


「ヴィランディルの王女が」


「何人かを、秘密裏に呼び戻しているという話を聞きました」


「情報源は?」


「ありません」


「ならば推測だ」


「僕は推測で、ここまで生きています」


 エスカンは、自分のこめかみを指先で叩いた。


「戻っていないなら、それでいい」


「戻っていたなら」


「魂契約には、即時離脱を認めてもらいます」


「東部戦域全体からか?」


「少なくとも」


「彼がいる戦場からは」


「七人全員でも、戦えないと?」


「公爵閣下」


 エスカンは笑う。


「あなたは、僕たち七人へ正面から勝った」


「だから」


「ほかの人より、よく知っているはずです」


「敗北することと」


「土の中へ埋められることは」


「まったく別の話ですよ」


 エドラクは。


 しばらくエスカンを見ていた。


「認めよう」


「ラウディオンが実際に、お前たちの戦域へ入った場合」


「撤退範囲の制限を一時解除する」


「ネフェルは?」


「同様だ」


「リュシェラが《同位聖列》を発動した場合は?」


「戦術的撤退は認める」


「戦域からの離脱は認めない」


「けちですねえ」


「ほかには?」


 エスカンは考えた。


「今のところは」


「新種の魔物は?」


「お前が判断しろ」


「未確認の魔王軍幹部は?」


「お前が判断しろ」


「共和国が、未公表の将軍を出した場合は?」


「お前が判断しろ」


 エスカンは。


 細い目のまま男を見る。


「急に気前がよくなりましたね」


「危険の判別すらできないのなら」


 エドラクは言った。


「お前に千枚の価値はない」


「ごもっとも」


 エスカンは頷く。


「では、もう一つ」


「言え」


「仮に公爵閣下が死んでも」


「任務終了時には」


「契約が自動的に解除されること」


 エドラクは。


 すぐには答えなかった。


 黒い左手の人差し指が。


 袖口から覗いたまま、ゆっくりと曲がる。


 掌の奥から。


 低い笑い声が漏れたようにも聞こえた。


「私が死ぬと思っているのか?」


「誰でも死にます」


 エスカンは言う。


「ただ」


「自分の番は来ないと思っている人がいるだけです」


 二人は、しばらく見つめ合った。


 やがて。


 エドラクが頷く。


「認めよう」


「報酬は、グラウゼン北冠領の秘庫が保証する」


「私が死んでも」


「支払いは行われる」


「では」


 エスカンは両手を打った。


 乾いた音が。


 地下牢の奥まで響く。


「だいたい、まとまりましたね」


 エドラクは紙をしまった。


「ほかに要求は?」


「僕個人からはありません」


 エスカンが言う。


「個人?」


「僕は隊長です」


「主人ではありません」


 顔を横へ向ける。


 牢の奥の暗闇。


 何も見えない。


「これだけ大きな仕事を」


「僕一人で決めるわけにはいきませんよ」


 エスカンは。


 二本の指を口へ当てた。


 口笛を吹く。


 鋭い音が。


 牢の中を貫いた。


 暗闇の奥から。


 最初に聞こえたのは。


 金属を引きずる音。


 次に。


 羽毛を震わせる、かすかな音。


 何か細長いものが天井から垂れ。


 すぐに、音もなく引き戻された。


 暗赤色の眼が一対。


 一瞬だけ開く。


 さらに奥では。


 誰かが笑っていた。


 男か。


 女か。


 声だけでは判別できない。


 侍女の手から。


 長柄の灯りが落ちかけた。


 エスカンは振り返る。


 顔には、いつもと同じ楽しげな笑み。


「皆さん」


「今日は公爵閣下のおごりですよ」


「欲しいものがあれば」


「遠慮なく言ってください」


 暗闇は、しばらく黙っていた。


 がちり。


 太い鎖が張る。


 何か巨大なものが。


 ゆっくりと立ち上がった。


 それまで。


 牢の最奥へ座り込んでいた。


 侍女は、その瞬間になって初めて気づく。


 ずっと壁だと思っていた黒い塊が。


 誰かの背中だったことに。


 巨大な頭が上がる。


 口吻が、前へ長く突き出している。


 黒い鱗。


 縁には、無数の古傷。


 肩は。


 ほとんど天井へ届いていた。


 両手首には。


 人間の腰ほども太い拘束輪が嵌められている。


 蜥蜴人は。


 何も言わなかった。


 一歩、前へ出る。


 床が、わずかに揺れた。


 そして。


 一本の指を上げる。


 牢の外へ向けた。


 侍女は固まった。


 指先の向こうを見る。


 自分の背後には。


 何もない。


 石壁。


 階段。


 誰もいない廊下。


 もう一度。


 牢の中を見る。


 黒い指は。


 まだ、同じ方向を示していた。


 自分を。


 侍女の顔から。


 血の気が引いた。


「こ、公爵閣下……」


 エドラクへ身を寄せる。


 長柄の灯りが裾へぶつかり。


 落ち着かない音を立てた。


「あれは……」


「あれは、私を……」


 エドラクは蜥蜴人を見る。


 それから。


 侍女へ視線を移した。


「何を要求するかと思えば」


 静かに言う。


「その程度か」


 侍女の唇が震えた。


「公爵閣下……?」


「構わん」


 エドラクが答えた。


 侍女の手から。


 灯りが落ちる。


 硝子は割れなかった。


 火だけが。


 石床の上で激しく揺れている。


「いや……」


 侍女が。


 エドラクの袖へ縋りついた。


「公爵閣下、お願いいたします」


「何も聞いておりません」


「誰にも話しません」


「ずっと、ここにいます」


「ですから、どうか」


「嫌です」


「私は、まだ――」


 黒い左手が持ち上がった。


 手甲の装甲板が。


 ゆっくりと開いていく。


 人間とは異なる指が。


 侍女の指を一本ずつ剥がした。


 侍女は必死に力を込める。


 爪が。


 礼服へ白い線を残す。


 それでも。


 何の意味もなかった。


 エドラクは。


 彼女を見下ろそうともしない。


「任務を忘れるな」


 彼が見ていたのは。


 エスカンだった。


 エスカンは、笑顔のまま恭しく頭を下げる。


「ご馳走になります」


 透明な障壁が消えた。


 牢を閉ざしていた七重の封鎖が。


 同時に解かれる。


 金属の閂が。


 一本ずつ壁の中へ戻っていった。


 侍女が振り返る。


 逃げようとする。


 牢の中から。


 黒い鱗に覆われた巨手が伸びた。


 彼女を掴む。


 悲鳴が。


 廊下いっぱいに響き渡った。


 侍女は必死に。


 エドラクの腰へしがみついた。


 礼服の裾を掴む。


 靴底が石床を擦り。


 耳障りな音を立てる。


「いや!」


「公爵閣下!」


「お願いいたします!」


「何でもします!」


「ここへ置いていかないでください!」


 エドラクは。


 一歩、前へ進んだ。


 侍女の手が。


 礼服から滑り落ちていく。


 一本。


 また一本。


 最後には。


 何も掴めなくなった。


 蜥蜴人が。


 侍女を牢の奥へ引きずっていく。


 灯りの届かない場所へ。


 泣き声。


 鎖の音。


 踵が石を叩く音。


 暗闇から漏れる、誰かの笑い。


 エスカンの耳元で。


 銀鈴が、楽しげに鳴っていた。


 すべての音が混ざる。


 大きくなる。


 乱れていく。


 そして。


 ふつりと。


 途絶えた。


 地下牢は。


 再び静かになった。


 牢の外へ落ちた灯りだけが。


 まだ。


 燃え続けていた。


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