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第十八話:狂人の初勝利

最初に外へ出たのは、手だった。


 五本の指を、岩肌の縁へ食い込ませる。


 感触はない。


 爪先が石へめり込んでいるのは見える。


 砕けた欠片が、指の隙間からぱらぱらと落ちていくのも。


 けれど。


 掌から返ってくるはずの感覚だけが。


 まるで他人の身体越しみたいに、ひどく遠かった。


 だから。


 もう少し力を入れてみた。


 石が砕けた。


「……」


 入れすぎたらしい。


 別の出っ張りを探す。


 掴む。


 引く。


 腕に力を入れ。


 足の爪を、下に突き出た岩へ引っかける。


 少しずつ。


 身体を、真っ暗な穴の外へ引きずり出していった。


 胸が岩の縁を擦った。


 たぶん、皮膚が裂けた。


 裂けていないかもしれない。


 わからない。


 どうせ、何も感じない。


 最後に身体をひっくり返し。


 岩棚の上へ転がり出た。


 そのまま。


 しばらく起き上がらなかった。


 ただ口を開けて。


 大きく息を吸う。


 空気。


 地下に淀んでいた。


 血と。


 腐肉と。


 酸と。


 焦げた臭いと。


 何かの排泄物まで混じった、あの空気ではない。


 風だった。


 本当に流れている風。


 鼻から入って。


 喉を撫で。


 肺の奥まで満たしていく。


 俺は地面へ伏せたまま。


 もう一度。


 大きく吸った。


 それから。


 笑った。


「は……」


 かすかな声だった。


 仰向けになる。


 空を見る。


 空。


 こんなものがあったことすら。


 もう少しで忘れるところだった。


 地下には昼がない。


 夜もない。


 太陽もない。


 時間を測るものさえ、ほとんどなかった。


 あるのは。


 石。


 穴。


 崩れた回廊。


 爪痕。


 水。


 血。


 それから。


 魔物。


 眠ったことは。


 あったと思う。


 もしかすると。


 ただ気を失っていただけかもしれない。


 目が覚めると。


 だいたい口元には何かがあった。


 自分の血だったり。


 魔物の血だったり。


 たまに。


 両方だった。


 食べ物については。


 考えるだけ無駄だった。


 動いているもの。


 死んだばかりのもの。


 少し時間が経っていても、まだ腐り切っていないもの。


 魔石があるもの。


 ないもの。


 殻の中だけ柔らかいもの。


 肉を噛み千切ると、中で何かが蠢いているもの。


 舌に触れた瞬間から。


 胃の奥まで麻痺していくようなものまであった。


 どれも不味かった。


 最初のうちは吐いていた。


 そのうち。


 吐かなくなった。


 慣れたわけじゃない。


 吐くのが、もったいなくなっただけだ。


 それに。


 気のせいでなければ。


 食えば食うほど。


 身体の中に溜められる魔力が増えていた。


 一口食べた瞬間。


 急に強くなるわけじゃない。


 飲み込んだ何かが。


 消化され。


 ゆっくりと身体の奥へ沈んでいく。


 そんな感覚だった。


 それまで魔力が通るだけで軋んでいた場所が。


 少しずつ広がっていく。


 以前なら。


 魔力を流しただけで視界が白くなっていた魔力経路も。


 いつの間にか、耐えられるようになっていた。


 もっとも。


 耐えられるというのも。


 あくまで以前と比べれば、だ。


 今は。


 全身に感覚がない。


 怪我のせいではない。


 魔力を流し続けたせいで。


 身体中の感覚が、とうに馬鹿になっている。


 脚。


 腕。


 背中。


 牙の根。


 眼。


 頭。


 流せる場所には。


 全部、流した。


 筋肉が痙攣するまで。


 目の前が白くなるまで。


 吐くまで。


 それでも。


 また流した。


 地下にいた連中は。


 俺が回復するのを待ってはくれなかった。


 一匹のときもあった。


 二匹のときも。


 一番多かったのは何匹だったか。


 四匹。


 五匹。


 ……忘れた。


 どうせ。


 最後は全部食べた。


 あそこにいた魔物は。


 大半が《オーク・タイラント》と大差ない。


 少し弱いものもいた。


 逆に。


 あれともう一度戦わせてくれた方がましだと思った相手もいた。


 何度レベルが上がったのか。


 もう覚えていない。


 途中からは。


 表示が出ても。


 ちらりと見るだけになった。


 まだ生きている。


 それだけ確認して。


 閉じる。


 HPが底をつく。


 戻す。


 また底をつく。


 MPを絞り切る。


 何か食う。


 少し戻る。


 また戦う。


 終わりがないと思っていた。


 ついさっきまでは。


 最後の一匹を岩壁へ押しつけ。


 首の奥にあった魔石を噛み砕いた。


 そのあと。


 気づいた。


 次の唸り声が。


 聞こえない。


 代わりに。


 風があった。


 だから。


 風の来る方へ進んだ。


 どれだけ登ったかは、知らない。


 そして。


 外へ出た。


「はは……」


 また笑いが漏れた。


 片手を上げ。


 目元を覆う。


 明るい。


 空はもう灰色に近いのに。


 それでも。


 目が痛くなるほど明るかった。


 なのに。


 笑いが止まらない。


 胸が小刻みに震える。


 指一本動かしたくないほど疲れているのに。


 身体の中だけが。


 何かでいっぱいになっていた。


 嬉しい。


 やっと出られた。


 もう、何かに噛まれながら眠らなくていい。


 目を開けた瞬間に。


 周りに口が何個あるのか、数えなくてもいい。


 やっと――


 いや。


 違う。


 それだけじゃない。


 俺は、目を覆っていた手をゆっくり下ろした。


 地下で最後の魔物が倒れたとき。


 俺は笑っていた。


 その一つ前も。


 さらに前は――


 覚えていない。


 ただ。


 自分よりずっと大きなものが。


 地響きを立てて倒れるたび。


 牙が急所へ食い込むたび。


 魔石が口の中で砕けるたび。


 胸の奥から。


 何かが込み上げてきた。


 軽くなる。


 熱くなる。


 気持ちいい。


 勝ったみたいで。


 いや。


 勝ったんだ。


 今までは。


 いつも俺が地面に転がっていた。


 今は。


 あいつらが転がっている。


 だから、嬉しい。


 何かおかしいか?


 少しだけ考えた。


 面倒になって。


 やめた。


 風が頬を撫でる。


 耳が。


 ぴくりと動いた。


 ばさ。


 遠くで。


 何かが集まっている。


 顔を向けた。


 枯れ木の枝へ。


 黒い点がいくつか降りる。


 さらに。


 また幾つか。


 増える。


 一羽。


 二羽。


 十羽。


 二十羽。


 近づいてはこない。


 ただ。


 俺を中心に。


 ぐるぐると旋回し始めた。


 一重。


 また一重。


 少しずつ。


 歪な輪になっていく。


「……」


 笑みが。


 少しだけ消えた。


 肩。


 昔できた傷跡が。


 痒い。


 続いて。


 胸。


 腹。


 腿。


 一度裂け。


 治った場所が。


 一斉にむず痒くなった。


 皮膚の下で。


 何かが芽を出しているような感触。


 服を引き裂く。


 黒い。


 細長い。


 羽根にも見える。


 蔓にも見える。


 模様。


 古傷の奥から浮かび上がり。


 血管に沿うように。


 じわじわと広がっている。


 しばらく眺めた。


「ああ」


 これか。


 黒い鳥。


 こいつらは。


 本当に傷口が好きらしい。


 あのとき。


 俺は、何も知らなかった。


 これが何なのか。


 どうして追い払っても戻ってくるのか。


 傷口を切り開いても。


 なぜ止まらないのか。


 黒い模様が。


 どうして首へ向かって這っていくのか。


 何も。


 知らなかった。


 だから。


 カイルは死んだ。


 頭上では。


 鳥の輪が、また一つ広がった。


 ガァ。


 ガァァ――


 耳障りな声。


 俺は見上げ。


 うんざりしたように息を吐いた。


「またかよ」


 怖くはなかった。


 怒りで身体が震えることもない。


 ただ。


 鬱陶しい。


 長い距離を歩いたあと。


 靴底へ、また泥がこびりついた。


 そんな気分だった。


 膝へ手をつき。


 立ち上がる。


 足元が揺れた。


 そのまま座り込みそうになる。


「……」


 本当に。


 脚の感覚がない。


 なら。


 魔力にやらせればいい。


 流す。


 胸から。


 下へ。


 腰。


 腿。


 膝。


 脹脛。


 足首。


 もう。


 水を想像する必要すらない。


 一つ思うだけ。


 魔力は。


 行くべき場所を知っていた。


 足元の石が。


 かすかに鳴った。


 身体が止まる。


 頭上の鳥たちが。


 急に騒ぎ始めた。


 何かを感じ取ったように。


 輪が外側へ広がっていく。


「逃げるなよ」


 片手を上げた。


 掌の先から。


 炎が噴き出す。


 ゴォッ――!


 橙赤色の炎が。


 空へ舐め上がった。


 何羽かを掠める。


 羽毛が、一瞬で燃え上がる。


 悲鳴を上げながら。


 地面へ落ちていった。


 残った鳥たちは。


 すぐに高度を上げる。


 届かない。


 以前なら。


 ここで終わっていただろう。


 噴き出した炎は。


 遠くへ行くほど広がる。


 広がれば、弱くなる。


 魔力を増やしても。


 炎そのものが大きくなるだけだった。


 でも。


 地下にいた間。


 ただ「魔力を増やす」というやり方は。


 もう嫌になるほど繰り返した。


 脚へ流して。


 圧を上げる。


 腕も。


 眼も。


 なら。


 炎は?


 掌の先から噴き続ける炎を見た。


 流している魔力は変えない。


 ただ。


 出口を狭くする。


 内側を。


 締める。


 手ではない。


 身体の中。


 何度も無理やり拡げてきた。


 魔力の通り道。


 そこを。


 絞る。


 炎が。


 一気に細くなった。


 腕に痛みが走る。


 止めない。


 さらに。


 圧す。


 炎の唸りが。


 高く。


 鋭くなる。


 腕ほどの太さだった炎が。


 細く。


 真っ直ぐ。


 収束していく。


 橙赤色の炎が。


 細長い線へ変わる。


 まるで。


 どこまでも伸びる。


 赤熱した針。


 鳥の群れが散った。


 遅い。


 火線が。


 その中央を貫く。


 かなり先まで伸びたところで。


 突然。


 膨れた。


 轟ッ!


 空中で。


 炎が炸裂する。


 黒い鳥たちが。


 燃える網へまとめて投げ込まれたように。


 次々と火に包まれた。


 何十もの火の塊が。


 同時に落ちてくる。


 鳴き声すら上げる暇もなく。


 空中で灰になったものもいた。


 俺は。


 少しだけ固まった。


「……」


 もう一度。


 圧す。


 細く。


 速く。


 火線が掌から伸びる。


 その根元。


 妙な色が混じった。


 白。


 ほんのわずか。


 掌のすぐ先だけ。


 針の先ほどの白。


 目を細めたくなるほど。


 眩しい。


 そこから先へ行くにつれて。


 橙赤へ戻っていく。


 俺は炎を止めた。


 白も消える。


「白……」


 また腕を上げる。


 炎を出す。


 圧す。


 白い部分が。


 もう一度現れた。


 今度は。


 少し長い。


 別の炎。


 ではない。


 少なくとも。


 俺にはそう感じなかった。


 何か違う性質が混ざった感じはない。


 魔力の流れも。


 変わっていない。


 ただ。


 圧し込んだ。


 ひたすら。


 圧し込んだ結果。


 炎そのものが。


 色を失うほど白熱している。


 俺は。


 その白から目を離せなかった。


 心臓が。


 少し速くなる。


「こんなことも……できるのか」


 勝手に。


 口元が上がった。


 もっと圧したら?


 さらに白くなる?


 それとも――


 ガァァッ!


 横から。


 一羽が飛び込んできた。


 頭をずらす。


 嘴が耳の横を掠めた。


 反射的に手を伸ばす。


 掴む。


 握る。


 ごきり。


 捨てた。


「邪魔するなよ」


 せっかくの感覚が途切れた。


 代わりに。


 苛立ちが戻ってくる。


 残っていた黒い鳥たちは。


 逃げ始めていた。


「行くな」


 一歩。


 踏み出す。


 砰!


 足元の岩が弾けた。


 視界が。


 一気に後方へ流れる。


 二歩目。


 もう斜面を越えていた。


 三歩目。


 突き出た岩へ足を置く。


 接地するより先に。


 脚へ魔力を集める。


 岩が砕けた。


 身体が。


 再び前へ飛ぶ。


 もう考える必要がない。


 どこへ足を置くか。


 いつ抜くか。


 いつ圧すか。


 脚が知っている。


 練習ではなくなっていた。


 呼吸と同じ。


 逃げる鳥の群れは。


 前方の断崖へ向かっていた。


 そのまま追う。


 そして。


 止まった。


 目の前には。


 一面の黒い岩壁。


 無数の穴。


 穴。


 穴。


 巨大な魔獣でも入れそうなものから。


 拳ほどのものまで。


 黒い鳥たちが。


 次々と、その中へ潜り込んでいく。


 そして。


 それらの穴より、さらに上。


 巨大な影が。


 ゆっくりと翼を広げた。


 二枚。


 違う。


 四枚。


 四枚の黒翼が。


 一枚ずつ。


 開く。


 一番外側の翼端同士だけでも。


 下にある最大の洞穴より広い。


 普通の黒い鳥のような。


 乱れた羽毛ではない。


 一枚一枚。


 不自然なほど整っている。


 黒く。


 艶があり。


 四枚の研ぎ上げられた刃のようだった。


 細い首が持ち上がる。


 頭部は。


 鳥に近い。


 ただ。


 顔の左右には。


 人間の耳を思わせる。


 青白い肉片が垂れている。


 胸には。


 縦に裂けた亀裂が幾つもあった。


 呼吸に合わせ。


 ゆっくり開閉する。


 その内側には。


 肉がない。


 黒い光だけが。


 脈打っていた。


 後になって知った。


 あれは。


 《バンシー・セラフ》。


 レベル一四六。


 あのとき俺が思ったのは。


 ただ。


「でかいな」


 それだけだった。


 向こうが。


 こちらを見る。


 俺も。


 そいつを見る。


 そして。


 笑った。


「はっ」


 最初は。


 一声だけ。


「はは……」


 肩が揺れる。


「はははははは――!」


 理由はわからない。


 ただ。


 笑いたかった。


 でかい。


 強そうだ。


 きっと。


 殺すのが大変だ。


 そう思ったら。


 もっと楽しくなった。


 笑い声が。


 どんどん大きくなる。


 岩壁の間を。


 何度も跳ね返る。


 そして。


 ある瞬間。


 ぴたりと。


 止めた。


 腰を落とす。


 魔力を脚へ。


 蹴る。


 轟ッ!


 足元の岩盤が。


 丸ごと陥没した。


 俺は。


 一直線に断崖へ飛んだ。


 四翼の黒鳥が。


 同時に翼を開く。


 暴風が叩きつけられ。


 巨大な身体が。


 地面を離れた。


 その瞬間。


 断崖そのものが。


 蠢いた。


 黒。


 すべての穴から。


 黒が噴き出す。


 百。


 千。


 それ以上。


 普通の黒い鳥。


 一回り大きなもの。


 片翼が崩れているもの。


 三つの眼を持つもの。


 口から黒い糸を垂らしているもの。


 岩壁の内側に溜め込まれていた。


 黒い豪雨。


 上。


 下。


 左右。


 背後。


 全部。


「は」


 右手を上げた。


 圧縮した炎を放つ。


 細い火線が。


 《バンシー・セラフ》へ伸びた。


 届く。


 その直前。


 ヴン――


 黒い魔法陣が。


 宙に展開した。


 炎がぶつかる。


 轟!


 陣が大きく歪んだ。


 だが。


 割れない。


 次。


 さらに。


 三つ目。


 四つ目。


 周囲に。


 次々と黒い魔法陣が浮かび上がる。


 上。


 下。


 前。


 後ろ。


 幾重にも重なり。


 近づける場所そのものを。


 塗り潰していく。


 その中心。


 《バンシー・セラフ》が。


 宙に浮いている。


 胸にある黒い裂け目が。


 一斉に震えた。


「――■■■、■■■■――」


 鳴き声ではない。


 俺の知るどんな言葉でもない。


 だが。


 一音。


 また一音。


 吐き出されるたび。


 周囲の黒い魔法陣が。


 一部ずつ輝いていく。


 詠唱。


 こいつ。


 魔法を使っている。


 俺は。


 落下していた。


 足場がない。


 鳥の群れが。


 全方向から押し寄せる。


 肩の黒い模様が。


 急速に広がった。


 鎖骨。


 胸。


 首筋。


 痒い。


 ひどく痒い。


 そして。


 冷たくなる。


 頭へ手をやった。


 数本の髪が。


 指に絡む。


 白かった。


「……」


 もう一度。


 触れる。


 さらに抜ける。


 灰黒色だった髪が。


 根元から色を失っていく。


 手の甲も。


 乾き始めていた。


 細い皺が。


 目に見える速度で増えていく。


 老化。


 そういう呪いか。


 しばらく眺めて。


 突然。


 涙が落ちた。


 一滴。


 次に。


 もう一滴。


「……」


 何だ。


 俺は。


 笑っている。


 ちゃんと。


 口元は笑っている。


 なのに。


 涙だけが。


 止まらなかった。


 ほんの一瞬。


 別の黒い模様が見えた。


 俺のものじゃない。


 カイルの首。


 そこへ。


 黒い輪が閉じる。


 口を開いて。


 息を吸おうとして。


 もう。


 空気が入らない。


「はは……」


 一度。


 笑った。


 涙が、もっと落ちる。


「はははは……」


 変なの。


 何で笑ってる。


 知らない。


 じゃあ。


 何で泣いてる。


 それも。


 知らない。


 いや。


 たぶん。


 知っている。


 考えるのが面倒なだけだ。


 身体は。


 まだ落ちている。


 下は岩場。


 この速度でぶつかっても。


 たぶん死なない。


 たぶん。


 右手を。


 後ろへ向けた。


 炎。


 噴射。


 轟ッ!


 身体が。


 無理やり横へ折られた。


 腰が千切れそうになる。


 次。


 左手を下へ。


 噴射。


 轟!


 落下が止まる。


 身体が。


 斜め上へ押し上げられた。


 両足を岩壁へつける。


 触れた瞬間。


 魔力を爆発させる。


 蹴る。


 岩壁が砕けた。


 再び。


 上へ。


 炎。


 岩壁。


 跳ぶ。


 また炎。


 翼なんてない。


 なら。


 翼なしで飛べばいい。


 一回。


 一回。


 爆発する力で。


 身体を無理やり押し上げていく。


 鳥がぶつかる。


 噛む。


 啄む。


 肉を裂く。


 黒い模様は。


 もう腕いっぱいに広がっていた。


 首。


 顎。


 耳の下。


 視界の端も。


 少しずつ曇る。


 皮膚に浮かんだ黒い模様から。


 本物の羽根が突き出してきた。


 掴む。


 抜く。


 血が一緒に噴き出した。


 そのまま。


 進む。


 《バンシー・セラフ》は。


 まだ詠唱している。


「――■■■■、■■■――」


 魔法陣が。


 増える。


 もう。


 壁ですらない。


 殻だった。


 何重にも。


 何重にも。


 そいつを包み込んでいる。


 俺は。


 再び圧縮炎を放った。


 火線が。


 最外層へ突き刺さる。


 轟!


 一枚。


 砕ける。


 すぐ後ろ。


 二枚目が光る。


 防ぐ。


 もう一度。


 轟!


 二枚目が揺れる。


 そこへ。


 三枚目が重なる。


「足りない」


 歯を食いしばる。


 残りの魔力?


 知らない。


 表示を見ればわかる。


 見る気にならない。


 残っているなら。


 使えばいい。


 でも。


 このまま撃っても意味がない。


 向こうは。


 補っている。


 一枚壊す。


 一枚増える。


 なら。


 炎が弱いんじゃない。


 俺が。


 まだ昔と同じ使い方をしている。


 魔力を。


 炎へ変える。


 それを。


 外へ噴き出す。


 だったら。


 噴き出さなければ?


 岩壁へ足をつける。


 背後から鳥の群れが迫る。


 振り向かない。


 右腕へ。


 魔力を集める。


 掌の先。


 火球が生まれる。


 その直前。


 あの場所。


 よく知っている。


 嫌になるほど。


 何度も。


 そこへ魔力を押し込み。


 球にさせられた。


 システムは。


 球が好きだった。


 技能も。


 球を作らせた。


 それから。


 投げる。


 けれど。


 今は。


 技能欄がない。


 いつ撃てなんて。


 誰も決めていない。


 だから。


 出さない。


 さらに魔力を注ぐ。


 掌の先で。


 小さな火の塊が震えた。


 膨らもうとする。


 押さえる。


 また注ぐ。


 また。


 押さえる。


 火球が。


 小さくなる。


 橙。


 赤。


 次第に。


 明るくなる。


 背中へ。


 鳥が食いついた。


 嘴が肩へ刺さる。


 無視。


 もっと。


 魔力が。


 腕の中で暴れ始めた。


 筋肉が痛む。


 ようやく。


 感じた。


 痛い。


 いい。


 まだ入る。


 圧す。


 火球は。


 もう火球に見えなかった。


 表面で揺れていた炎が。


 一つずつ。


 内側へ押し戻されていく。


 赤。


 橙。


 黄。


 そして。


 眩しすぎて。


 色が見えなくなる。


 白。


 さっき。


 炎の根元に出ていた色。


 今度は。


 全部。


 白だった。


 柔らかな白ではない。


 白い炎ですらない。


 明るすぎて。


 周囲の色という色を。


 全部、奪ってしまうような。


 白熱した光。


 輪郭にだけ。


 髪の毛ほど細い橙赤が残っている。


 壊れかけの殻の中へ。


 何かを無理やり閉じ込めているようだった。


 右腕から。


 小さな音がした。


 ぷつ。


 筋繊維が切れた。


 少し治る。


 また切れる。


 それでも。


 魔力を押し込む。


 掌の骨が痛い。


 肩も。


 胸も。


「まだ……」


 もう少し。


 《バンシー・セラフ》が。


 とうとう詠唱を止めた。


 四枚の翼が。


 一斉に前へ閉じる。


 周囲の黒い魔法陣が。


 すべて同時に輝いた。


 闇が。


 押し潰すように迫ってくる。


 俺は。


 あいつを見る。


 あいつも。


 俺を見ている。


 鳥に。


 表情がわかるのかは知らない。


 まあ。


 いい。


 俺は笑った。


「これ」


「やるよ」


 右腕を押し出した。


 白熱した光球が。


 掌を離れる。


 火の尾はない。


 風を裂く音もない。


 むしろ。


 遅かった。


 そっと。


 手渡すように。


 白い光が。


 前へ進んだ。


 最初の黒い魔法陣へ触れる。


 一瞬。


 止まった。


 そして。


 白が消えた。


 世界も。


 一緒に消えた。


 ――――――――轟ッ!!


 方向がない。


 音もない。


 光だけだった。


 真っ白。


 黒い魔法陣も。


 岩壁も。


 鳥の群れも。


 空も。


 全部。


 塗り潰す。


 何かに。


 真正面から殴られた。


 身体が吹き飛ぶ。


 何回転したのか。


 わからない。


 背中が斜面へ叩きつけられた。


 岩が砕ける。


 また跳ねる。


 転がる。


 ぶつかる。


 ようやく。


 止まった。


 耳は。


 何も聞こえない。


 高い耳鳴りだけ。


 口を開く。


 自分の声すら。


 聞こえなかった。


 視界いっぱいに。


 残光が焼きついている。


 何秒かして。


 ようやく色が戻ってきた。


 最初に見えたのは。


 灰色。


 空ではない。


 灰。


 無数の黒い粉が。


 空いっぱいに漂っていた。


 雪みたいに。


 黒い鳥。


 いない。


 死骸すらない。


 炭になった身体も。


 残っていない。


 ただ。


 黒い粉だけ。


 一枚。


 また一枚。


 空から降ってくる。


「……」


 地面へ手をつき。


 立ち上がる。


 脚が震えている。


 MPも。


 たぶん、ほとんど残っていない。


 爆発で。


 身体もばらばらになりそうだった。


 それでも。


 見えた。


 遠く。


 何かが。


 落ちてくる。


 轟ッ!


 地面が揺れた。


 《バンシー・セラフ》。


 四枚あった翼のうち。


 一枚が消えている。


 残った三枚も。


 焦げた骨組みしかない。


 胸は裂け。


 全身がまだ燃えていた。


 地面へ叩きつけられたまま。


 動かない。


「……」


 俺は。


 それを見つめた。


 また。


 胸の奥に。


 あの感じ。


 熱い。


 軽い。


 気持ちいい。


 脚へ。


 魔力を流す。


 まだ少し。


 残っている。


 十分。


 腕を後ろへ向ける。


 炎。


 噴射。


 轟!


 身体を前へ飛ばす。


 《バンシー・セラフ》が。


 ようやく頭を持ち上げた。


 そのときには。


 もう。


 俺は胸の上へ降りていた。


 爪を振り下ろす。


 ぶつ。


 もう一度。


 ごきり。


 頭が。


 横へ折れる。


 首を掴む。


 引き裂く。


 黒い血が。


 噴き出した。


「はは」


 もう一度。


 裂く。


「ははははっ!」


 もう。


 動いていない。


 それでも。


 続ける。


 爪。


 牙。


 拳。


 何でもいい。


 頭を地面へ叩き込む。


 引き上げる。


 また。


 叩く。


 いつ死んだのか。


 知らない。


 知りたくもなかった。


 ただ。


 気持ちいい。


 一回。


 一回。


 全部。


 気持ちいい。


 昔は。


 俺がこうだった。


 叩き飛ばされる。


 立つ。


 また倒される。


 HPが。


 あと一つになる。


 それでも。


 また立つ。


 今度は。


 お前の番だ。


「ははははははははは――!」


 喉から。


 笑いが噴き出した。


 自分のものとは思えないほど。


 耳障りな声。


 やがて。


 止まった。


 足元に。


 もう元の形は残っていない。


 焦げた羽根。


 砕けた骨。


 消えかけの炎。


 それだけ。


 息を吐く。


 顔を上げた。


 断崖。


 無数の穴。


 その奥から。


 まだ。


 声が聞こえる。


 細い。


 高い。


 ピィ。


 ピィ、ピィ。


 小さな何かが。


 中にいる。


 数秒。


 見つめた。


 手を上げる。


 炎を放つ。


 轟!


 一つ目の穴が燃えた。


 乾いた羽毛。


 巣材。


 炎が。


 奥へ奥へと這っていく。


 鳴き声が。


 一気に大きくなった。


 二つ目。


 三つ目。


 四つ目。


 断崖に沿って歩く。


 一つずつ。


 火を入れる。


 炎が。


 洞穴の内側へ広がる。


 別の穴から。


 黒煙が噴き出す。


 小さな鳥が。


 外へ這い出そうとした。


 頭を出す。


 炎が巻きつく。


 奥へ消えた。


 声が。


 増える。


 入り混じる。


 やがて。


 一つずつ。


 消えていく。


 断崖そのものが。


 燃えていた。


 俺は。


 下から眺めた。


 長いあいだ。


 そして。


 とうとう脚が。


 身体を支えなくなった。


 後ろへ倒れる。


 どさり。


 地面へ寝転んだ。


 空が。


 真上にある。


 黒い灰は。


 まだ降っていた。


 顔へ。


 胸へ。


 髪へ。


 睫毛へ。


 黒い雪みたいに。


 手を伸ばす。


 少しだけ。


 掌へ受けた。


 灰は。


 指先で簡単に崩れた。


 軽い。


 あのときも。


 こんな鳥だった。


 ずっと。


 俺たちを追ってきた。


 追い払っても。


 焼いても。


 いなくならなかった。


 最後には。


 カイルの身体の中へ。


 黒いものを残した。


 俺は。


 何も知らなかった。


 何もできなかった。


 最後は。


 雨の中で。


 少しずつ。


 あいつを焼くしかなかった。


 でも。


 今は。


 鳥の声がしない。


 傷の中を。


 何かが這う感覚もない。


 腕の中で。


 誰かが。


 死にたくないと。


 言うこともない。


 あるのは。


 火。


 それから。


 空いっぱいに降る。


 黒い灰。


 俺は。


 空を見た。


 また。


 口元が上がる。


「カイル」


 小さな声だった。


 どうしてか。


 また笑いたくなった。


 だから。


 笑った。


「はは……」


 だんだん。


 大きくなる。


 肩が震える。


 目尻から流れた涙が。


 髪の中へ消えていく。


「はははははは……!」


 笑い声が。


 断崖を焼く炎と一緒に。


 荒野の遠くまで響いていった。


 黒い灰で汚れた手を上げ。


 目元を覆う。


 今度は。


 指の隙間から。


 何も飛び去らない。


「勝った」


 そう言った。


「今度は……」


「俺が、勝った」


 黒い灰は。


 まだ。


 降り続けていた。


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