第七話:膠着
魔狼族の首領は、見積もりより強かった。
レベルは最初から読んでいた。
八十には届かない。
そこまでは間違っていないはずだ。
だが、見積もりと、正面から爪を受けることはまるで違う。
すでに三度、もらっている。
一撃目は肩当てに入った。肩甲が歪んだ。
二撃目は左腕。いまも痺れが抜けない。
三撃目は、力を抜かれていた。
ただ押し返されただけだ。
それなのに、俺は四歩下がった。
魔狼族の首領は、耳をまっすぐ立てたまま、こちらを見ていた。
その視線だけで、腹の底が冷える。
耳はずっと立っている。
警戒はしている。
だが、乱れていない。
これだけ打ち合って、呼吸の間隔さえほとんど変わっていなかった。
俺は頭の中で数を数え直す。
膠着が始まってから、こちらが使った中級回復薬は十四本。
俺だけで二本飲んだ。
残りは部下たちに回している。
肩を裂かれた盾役の戦士は、さっきまで立てなかった。一本流し込んだら、今はまた刀を握って俺の右に立っている。
これが、辺境の流刑者に残された唯一の強みだった。
薬代を惜しまない。
冒険者ギルド東部支部は、戦の前に在庫をすべて開いた。
イグナーツのやつは、品目表に一つずつ線を引きながら言った。
投資だ、と。
あいつの計算が合っていることを祈る。
「換われ」
俺は右へ言った。
右の若いのが下がり、別の一人が側面から前へ出る。
三人交代の形は崩さない。
一人が正面で引きつける。
二人が左右から牽制する。
同時に複数を攻撃させない。
あの体術は危険すぎる。
誰であれ、一人で十秒以上向き合えば、必ず傷を負う。
だから輪番で削る。
体力を削る。
理屈の上では、もう三分の一は削れていなければならない。
だが現実には、俺たちは薬を飲みながら、薬よりも早く立て直してくる怪物と向き合っていた。
愚痴ではない。
記録だ。
俺はやつの癖を記録している。
爪を出す直前、右肩が半寸だけ沈む。
左へ避けるとき、尾が先に右へ振れる。
おそらく、平衡を取る本能だ。
攻撃直後の一瞬、左耳がわずかに動く。
別方向の音を拾っている。
やつは、別のものを気にしている。
俺たちではない。
「左だ」
声を出すのと同時に、俺は動いていた。
風刃は正面から飛ばさない。
左の逃げ道を塞ぐために放つ。
やつは右へ避けた。
その足が、あらかじめ仕込んでおいた地刺の罠へ踏み込む。
土の棘が地面から突き上がった。
魔狼族の首領は、空中で無理やり身体を捻る。
腹は避けた。
だが大腿の外側が裂ける。
着地しても、体勢は崩れなかった。
出血も多くはない。
やつは傷を一瞥し、それから俺を見た。
評価している。
俺という脅威を、改めて測り直している。
レベル八十に近い魔狼族に再評価されるのは、気分のいいものではなかった。
俺は口の中で詠唱を続けていた。
何度も実戦を重ね、ようやく身につけた技術だ。
多重詠唱。
術式を詠み上げても即座には放たず、内側に保持する。
いくつもの詠唱を重ね、さらに人為的に操作し、必要な瞬間に束ねて撃つ。
火球の起動は、ただの囮だ。
二つの火球が正面から飛ぶ。
やつは後退する。
その後退先には、すでに風の束縛を張ってあった。
足首の位置に気流の渦が生まれ、動きを鈍らせる。
ほんの一瞬。
魔狼族の首領の動作が遅れた。
待っていたのは、そこだ。
「――奥術飛弾」
奥術飛弾は、俺自身の魔力を直接凝縮した純粋な力だ。
元素属性はない。
ゆえに、元素耐性では軽減できない。
ただ一つの欠点は、溜めを必要とすること。
だが、さっきの地刺も、風刃も、火球も、そのための前置きだった。
飛弾は、やつの左肩に命中した。
急所ではない。
だが衝撃が、魔狼族の巨躯を十歩分吹き飛ばす。
爪が地面を抉り、二本の深い溝が走った。
土がめくれ上がる。
ようやく止まったとき、左肩の革鎧は砕けていた。
その下の皮膚から、煙が上がっている。
やつは自分の肩を見下ろし、左腕を一度動かした。
動く。
俺は奥歯を噛みしめる音を、自分で聞いた。
だが、問題ない。
傷は入った。
こちらには薬がある。
数もある。
地面の罠もまだ動いている。
優位はこちらに傾いている。
遅い。
だが、確かに傾いている。
そのとき、声がした。
やつの声ではない。
俺の後ろ。
かなり遠い。
誰かの悲鳴だった。
魔狼族の声ではない。
俺が連れてきた部下の一人。
外周封鎖に残していた、若い弓手の声だった。
続けて、二つ目の声。
さらに遠い。
短い。
途中で握り潰されたように途切れた。
視界の端で、魔狼族の首領の耳が動いた。
次の瞬間、俺は蹴り飛ばされていた。
身体が宙を飛ぶ。
背中から木に叩きつけられる。
胸の奥で、乾いた音がした。
一本か。
二本か。
わからない。
地面に落ちたとき、飲んだばかりの回復薬が口の端から逆流した。
胃液と、血が混じっている。
誰かが俺の名を呼んだ。
起き上がろうとした。
肋骨が許さなかった。
俺は、ついさっきまで苦戦していた相手の顔を見た。
その表情を、俺は初めて魔狼族の顔に見た。
恐怖ではない。
恐怖より、もっと深い。
絶望に近いものだった。
そして、炎が来た。
火球ではない。
火壁でもない。
地面そのものが、火になった。
遠くの一点から燃え広がり、草の根と土を伝って押し寄せてくる。
橙色の潮のようだった。
空気が歪む。
視界が揺れる。
肺へ吸い込む空気の一口一口に、焼ける痛みが混じっている。
誰かが来る。
炎の中から、ゆっくりと。
一歩ずつ。
男が歩いてきた。
軍靴が燃える草を踏む。
一歩ごとに火は消える。
だが、すぐに踵の後ろから燃え戻る。
右手を胸の前に上げていた。
指先には、小さな火が灯っている。
橙色の火。
男は歩きながら、それを指先で回していた。
橙から黄色へ。
黄色から、青へ。
笑っている。
「やってくれるな、辺境のクズども」
声は大きくなかった。
それでも、戦場の動きが止まった。
まだ動けていた冒険者たちが、一斉に凍りつく。
中には、その場で膝をついた者もいた。
男は俺を見た。
青い火が、指先で小さく跳ねる。
次の瞬間、男は歩調を早めた。
俺の前に立つ。
笑みはまだある。
だが、それはもう機嫌のよさを示すものではなかった。
歪んだ鎧を見ない。
口の端から滲む血も見ない。
ただ、上から俺の目だけを見下ろした。
「で、誰の許可で動いた?」
その口調は軽かった。
軽いぶん、腹の奥が冷えた。
俺は口を開いた。
歯の隙間から血が流れる。
まず息を吸わなければ、声にならなかった。
「将軍閣下……小官どもは、魔王覚醒の兆候を受け、魔族への対処を――」
「聞いてない」
指先の火が、橙から青へ変わる。
「俺が聞いたのは、誰の許可か、だ。説明じゃない。言い訳でもない。名前を言え」
「……誰の許可も、ありません」
「だろうな」
男は短く笑った。
ルキウス・ゲンティウス・オストマルク。
共和国東部辺境伯。
そして、この戦場で最も会いたくなかった男。
「辺境流刑者の悪いところだ。考える前に手を出す。で、失敗してから“仕方なかった”という顔をする」
彼は倒れた冒険者たちを見回した。
「お前らが裂かれる分には、俺は困らない。困るのは、俺の段取りを汚されたときだ」
青い火が、指先でまた跳ねた。
「覚えておけ。死ぬのは構わない。ただ、順番は守れ」
俺は何も言えなかった。
肺に空気が入らない。
肋骨の痛みとは別のものが、喉を塞いでいる。
オストマルクは少しだけ首を傾げた。
「例の妖術師はどこだ」
「……負傷しています」
「結構。あとで伝えておけ。お前の策はゴミだ、とな」
彼は俺の前から離れた。
炎で焼けた空き地の中央へ歩いていく。
魔狼族の首領は、そこに立っていた。
動かない。
左肩からはまだ煙が上がっている。
大腿の外側を流れていた血は、もう黒く乾いていた。
それでも彼は、ずっと動かなかった。
耳はまっすぐ立ち、オストマルクの方を向いている。
「共和国の高位軍人か」
魔狼族の首領が言った。
「辺境の、だ」
オストマルクは右手を上げた。
指先の火が、小さく跳ねる。
「オストマルク将軍。お前は?」
「ヴァルゲン。魔狼族の族長だ」
「知っている。お前たちは和議を進めていたな」
「そうだ」
「和議、ね」
オストマルクは、指先の火を見下ろした。
黄色が、青へ変わる。
「魔王が目覚める。魔化波動がこの草原まで広がるのは時間の問題だ。そのとき、お前の族人は一人ずつ魔化した怪物になる。わかっているな?」
「わかっている」
「なら、なぜ和議でそれが解決できると思った」
沈黙。
「保証はできない」
ヴァルゲンの声は平らだった。
事実だけを並べているような声だった。
「魔王が目覚めたとき、誰一人魔化しないとは言えない。だが、魔王が目覚めるまで、我が民が自ら人間を襲うことはない。それだけはわかる。彼らはただ、生き延びたいだけだ」
「そうだな。生き延びたい。そこは信じよう」
オストマルクは、指先の火を薬指から小指へ移した。
「だが保証はない。お前でさえ、魔化波動を受けた族人が怪物にならないとは保証できない。なら、俺が何を根拠に、いつ怪物になるかわからない連中を、共和国の防衛線の隣に置いておける?」
「撤退する」
「撤退」
「東へ戻る。荒原の奥へ。黒雪山脈の方角へ。人間領から離れる。契約は要らない。和議も要らない。我々だけで行く」
短い沈黙が落ちた。
千羊河の対岸から風が吹いてくる。
焼けた草灰の匂い。
遠くで何かが燃える煙の匂い。
その中で、オストマルクが笑った。
さっきまでとは違う笑みだった。
もっと軽い。
ほとんど穏やかに見える笑み。
「俺がなぜ、わざわざ東部まで来たか知っているか」
ヴァルゲンは答えなかった。
「命令は“草原の清掃”だ」
彼の声は静かだった。
俺は息を止めなければ、聞き取れなかった。
「交渉でも、退去勧告でも、保護でもない。清掃」
オストマルクは、青い火を指先で転がす。
「言葉の意味くらいは、わかるだろう?」
右手の人差し指が、ゆっくりと上がった。
その先で、小さな火が静かに燃えている。
橙色。
まるで、先ほどまで何も起きていなかったように。
「俺も、それが最善だと思っている」
指が、わずかに跳ねた。
地面が裂けた。
白い炎が噴き上がる。
それは、ただの火ではなかった。
意思を持つように、白熱の炎が振り下ろされる。
審判の色。
ヴァルゲンは、オストマルクの指が動いた瞬間に駆け出していた。
それまで立ち尽くしていた身体が沈む。
膝が曲がる。
次の瞬間、足元の土に二つの穴が穿たれた。
爪が前へ開く。
身体が一本の線になる。
速い。
さっき俺たちと打ち合っていたときより、少なくとも三割は速い。
あの膠着の最中でさえ、やつは全力を出していなかったのだ。
だが、意味はなかった。
白炎が包む。
肉が溶ける。
骨が黒く焦げ、火に巻かれた風の中へ露出する。
そして、灰になる。
足元から。
胴へ。
なお前へ伸ばされていた爪へ。
すべてが灰になった。
風が、それを攫っていく。
燃え尽きた薪のかけらのように。
前後、一秒にも満たなかった。
オストマルクは指を下ろした。
火はまだ指先にある。
橙色のまま。
彼は自分の指を見下ろした。
何かを確かめるように。
そして、こちらへ振り返る。
「草原を清掃する」
彼は言った。
「すべての魔族を、魔化する前に取り除く。それが唯一の方法だ」
それから、俺たちを見る。
地面に倒れ、膝をつき、立つこともできない冒険者たちを見る。
声だけは、またあの軽い調子へ戻っていた。
「お前たち辺境のクズども。俺に、使う価値があると証明してみせろ」
俺は地面に這いつくばっていた。
肋骨は折れたまま。
口の端から血が滲んだまま。
膝には立ち上がる力もない。
それでも、自分の声が聞こえた。
「……はっ」
オストマルクは去っていった。
炎は、彼についていかなかった。
地面を覆っていた火は消え、焦げた土と、舞い上がる灰だけが残る。
ヴァルゲンの灰は、もう見分けがつかなかった。
草灰と混じり。
土と混じり。
風と混じった。
遠くで誰かが泣いている。
魔狼族の声なのか。
ただの風の音なのか。
俺には、もう聞き分けられなかった。




