第六話:友
西へ移る道のりは、思っていたより短かった。
草原の奥から人間領の縁まで、十日とかからなかった。
俺たちの足が速かったからではない。
人間の領域が、ずっと外へ押し広げられていたからだ。
族長は言った。
二十年前、このあたりは草原部族の冬営地だった。
今ではもう、“共和国東部辺境”と呼ばれている。
俺たちは、グレイヴフォードという小さな町の近くで足を止めた。
町は浅い川の北岸にある。
千羊川。
河原には灰白色の礫が敷き詰められ、夜になると星明かりを受けて薄く光る。
町そのものは小さい。
低い石造りの家が並び、通りは二本だけ。十字に交わっている。その突き当たりには、古びた神殿があった。屋根瓦は何枚も欠け、壁の白もとうに煤けている。
俺たちは町へ入らなかった。
人間が言ったのだ。
お前たちは町に入るな、と。
だから、俺たちは町の外の野に天幕を張った。
一か所ではない。
族長は部族をいくつかに分け、谷間、丘陵、それから俺には見えていても名を知らないいくつかの場所へ散らした。
俺と幼なじみは、同じ野営地に割り当てられた。
北側の丘陵。
廃棄された物見塔の下。
低い灌木が、あちこちに茂っている。
リリはここにはいない。
彼女と、俺よりもっと弱い者たちは、別の場所へ隠された。
「そりゃ、騙されすぎたからな」
カイルは干し肉を二つに割り、片方を俺に寄越した。
相変わらずだった。
短い毛の耳。
左耳の先が、少し欠けている。
子どもの頃に物見塔へ登って落ち、石にぶつけたのだと聞いた。
見た目だけなら、同年代の魔狼族の中ではかなり頼りになるほうだ。
だが、中身は完全に子どもだった。
真顔で「今夜の月、うまそうじゃないか」と言い、こちらが固まったところで尻尾で膝を叩いてくる。
そういう種類の、どうしようもない奴だった。
西へ向かう三日目の夜。
俺は危うく、口にしかけた。
その日、俺たちは薪拾いを任されていた。
カイルは前を歩いている。
枯れ枝を一束抱え、尻尾を左右に揺らしていた。
ふいに彼が立ち止まる。
振り返り、俺に訊いた。
「なあ。人間ども、今度は本気だと思うか?」
「何が本気なんだ」
「和議。交渉。あの手の、きれいな言葉全部」
俺は、わからないと答えた。
カイルはしばらく黙っていた。
そして言った。
「族長は強い。族長がまだ望みがあると思ってるなら、俺は信じる」
その夜、俺は眠れなかった。
魔狼族の身体が、あまり睡眠を必要としないからではない。
この身体にも眠りは要る。
ただ、俺が眠れなかっただけだ。
天幕の中で横になり、天井を見つめる。
指先に、小さな火を灯した。
火は橙色に揺れ、天幕の布に頼りない明滅を映した。
今にして思えば、あれはひどく単純な魔法だったのかもしれない。
もし前世の俺に、貴族の子どもが持つような魔法教師がいたなら、幼い頃から覚えられたのかもしれない。
だが、魔法が使えるかどうかは、ライトノベルを何冊読んだかで決まるものではない。
地球の人間の思考回路から完全に外れた異質なものを、いくら「イメージしろ」と簡単に言われても、そう簡単に形にできるわけがなかった。
そして今は、この身体だ。
もし、言ったら。
カイルはどんな顔をするのだろう。
俺はガルムじゃない。
お前の兄弟は、魔化波動の中で死んだ。
俺は別の世界から来た屑で、処刑された偽物の勇者で、神に嘲られた役立たずだ。
この身体を奪って、代わりに生きている。
そう言えば、彼は信じるだろうか。
族長に告げるだろうか。
族長は、俺をどう見るだろう。
何も訊かないあの老狼は、真実を知ったあとも、同じ沈黙で俺を見るのだろうか。
そこで、契約のことを考えた。
交渉がうまく進めば、人間は一つの契約を持ち出すという。
族長はそれを“魂の契約”と呼んだ。
この世界における、最上級の束縛。
一度結べば、双方とも条項に背けない。
法律上の“できない”ではない。
魂へ刻み込まれる“できない”だ。
契約に違反した者は、自らの魔力に喰い破られる。
前世で、俺は似たようなものに署名した。
勇者契約の儀式。
金色の大広間。
祭司たちの長衣。
高い場所に立ち、俺たち七人の“世界を救う勇者”を見下ろしていた王女。
俺はまだ、何も知らなかった。
それを“勇者の栄光”だと、本気で思っていた。
実際には、王族を害することを禁じ、絶対服従を強いるための枷だった。
それでも名前を書いたとき、俺の頭の中にあったのはただ一つだ。
これで、ようやく強くなれる。
そう思っていた。
その結果、あの火球は王女の前で弾き返された。
前世で俺が結ばされたものは、契約と呼ばれる一方的な首輪だった。
だが今、人間は魔族と対等の契約を結ぼうとしている。
成立すれば、それは本当に力を持つ。
もし俺がガルムの身体で名前を刻めば、ある夜突然、冒険者が俺を刺し殺して魔石を抜き取るようなことはなくなるだろう。
だが同時に、俺もすべての条項に従わなければならない。
人間を傷つけられない。
指定された境界を越えられない。
人間が何をしても、報復できない。
条文はまだ見ていない。
族長も、俺たちにはまだ見せていない。
それでも、そういう一文は必ずある。
カイルが寝返りを打った。
目は覚めていない。
けれど尻尾だけが、夢の中でゆっくり丸まり、俺の腕に触れた。
俺は指先の火を消した。
◇
交渉の日は、一日ずつ近づいてきた。
族長は毎日、あの低い丘へ向かう。
人間側の代表と条件を詰めるためだ。
ボルゲンを連れていく日もあれば、一人で行く日もある。
戻ってきたとき、顔には何も出ない。
だが耳を見ればわかった。
耳が後ろへ流れているときは、疲れている。
耳が下がっているときは、失望している。
耳が前へまっすぐ立っているときは、怒っている。
カイルは言った。
族長の耳も老いたんだ、と。
若い頃は抑えられたのに、今は隠しきれない。
冗談なのか、本当なのか、俺にはわからなかった。
ある夜、俺たちは野営地の端にある灌木の陰で、見張りについていた。
カイルがふいに言った。
「なあ。昔、物見塔で鳥の卵を盗もうとしたの、覚えてるか?」
「覚えてない」
「お前、そのとき落ちたんだよ。頭を石にぶつけて、一日中泣いてた。族長がお前を背負って帰ったんだ。お前、背中の上でもずっと泣いててさ。族長は歩きながら、草原の古い歌をずっと鼻で歌ってた。そしたら、お前は泣きながら寝た」
俺には、その記憶がなかった。
ガルムの幼い日。
ガルムの父。
物見塔から落ち、石に頭を打ったガルム。
「あのときも、死にかけたんだ。で、起きた。今回も同じだ」
カイルは匕首を抜き、親指で刃を確かめた。
「お前はいつも死にかける。でも、いつも戻ってくる。そういう奴なんだよ」
「死なない奴なんていない」
「知ってる。でも、お前はそういう奴だ」
彼は匕首を腰へ戻し、首を少し傾けて俺を見た。
灰色の目が、夜の中で明るい。
何かを言いかける。
だが、言わない。
尻尾が地面を二度、三度と掃いた。
「お前、起きてから変わったな」
ふいに、彼は言った。
俺が答えるより先に、耳が後ろへ動いていた。
カイルは俺の目を見ていない。
遠く、夜に沈んでいく丘の稜線を見ていた。
「前のお前は、何も隠せなかった。嬉しければ笑う。悲しければ天幕に潜って出てこない。今のお前は、何も言わない。でも、ずっと見てる」
彼は少し間を置く。
「何かを見てるんじゃない。考えてる。ずっと考えてる。前のお前は、あまり考えなかった」
カイルはそこでこちらを向いた。
「何を考えてるのか、教えてはくれないんだろ」
俺は答えなかった。
彼は小さく笑い、両手を頭の後ろで組んで、目を閉じた。
「まあいい。どうせ、そのうち言うだろ」
俺は何も言わなかった。
灌木の中で、虫の声がだんだん大きくなっていく。
ずいぶん経ってから、彼がまた口を開いた。
「それと、お前、俺との狩りをまだ返してないからな。忘れるなよ」
それきり、彼は黙った。
呼吸がゆっくりになり、深くなっていく。
尻尾が俺の腕に乗っていた。
温かい。
彼は眠っていた。
俺は暗闇の中に座ったまま、遠くの町明かりを見ていた。
グレイヴフォード。
流刑囚たちの渡し場。
町には冒険者ギルドがあり、古びた神殿があり、いわゆる冒険者様たちがいる。
彼らは今、交渉の向こう側にいる“人間側代表”だった。
冒険者ギルド。
少し懐かしい言葉だと思った。
ゲームでも、小説でも、俺はその名前が好きだった。
いかにも異世界らしい響きがあったからだ。




