第五話:流刑者
グレイヴフォードの夜は、いつだって静かではない。
人が多いからではなかった。
少ないからだ。
人の少ない土地では、風の音がやけにはっきり聞こえる。千羊川の水が浅瀬を流れ、礫がぶつかり合って、かすかな音を立てていた。
ときおり、酔っ払いがギルド支部から放り出される。
悪態をつき、地面に転がり、起き上がって土を払う。
そしてまた、何食わぬ顔で中へ戻っていく。
この町の酒は、辺境産の苦麦で造られている。
安い。
不味い。
だが、強い。
ブラム・ファルカンは、ギルド支部二階の窓際にある隅の席に座っていた。
前には、ほとんど手をつけていない酒が一杯。
背は石壁に預けている。
視線は、階段口から外さない。
鎌形の剣は、椅子の肘掛けに立てかけられていた。
柄は鈍く光っている。
手入れで出た艶ではない。
握られ続けて、そうなった艶だった。
階段を上がってくる足音がした。
軽い。
速い。
だが、歩幅は詰まっていない。
酔漢ではない。
イグナーツ・コルヴィンが、階段口から半身を覗かせた。
痩せた長い影が、本人より先に壁へ伸びる。
彼はブラムを見つけると、にやりと笑い、数歩で近づいてきた。
向かいの席に座る。
外套は灰まみれで、袖口には乾いた草が数本引っかかっていた。つい先ほどまで外にいたのだろう。
「今日、何を聞いたと思う?」
イグナーツはブラムの前にあった杯を勝手に取り、一口飲んだ。
すぐに顔をしかめる。
「相変わらず、ひどい味だな」
ブラムは何も言わなかった。
待っている。
イグナーツは杯を置き、袖で口元を拭った。
笑みは残っていた。
だが、目だけが変わっている。
さっきまでの人懐こい笑いではない。
もっと細く、もっと張り詰めたものだった。
「魔王が、目覚める」
短い沈黙。
階下で誰かが大笑いした。
卓を叩く鈍い音が、床板越しに伝わってくる。
「出どころは」
「冒険者ギルドの東部支部。正式な通達じゃない。まだな。だが、魔力監視を担当している古株どもが、もう報告書を書き始めている。東から来る波動の頻度が上がっているらしい」
イグナーツは指先で卓を叩いた。
「先月は三回。今月はもう五回だ。しかも、間隔が短くなっている」
彼は声を落とす。
「意味はわかるだろ」
ブラムにはわかっていた。
魔王の覚醒は、ただの伝説ではない。
秒読みの現実だ。
そして東部荒原は、その秒針の音を最初に聞く土地だった。
この小さな町は荒原の縁にある。
つまり彼らは、人類の中で最も終わりに近い場所にいる。
ブラムは窓の外へ目を向けた。
東の空に月はない。
だが地平のあたりに、ごく薄い紫の光が滲んでいた。
夜明けではない。
空気中の魔力が、かすかに屈折しているのだ。
「どれくらい残っている」
「わからない。報告にはそこまで書かれていない。ただ、非戦闘員を西へ下げ始めている。共和国の駐屯軍も動いている」
イグナーツはそこで一度、言葉を切った。
「もう一つある。例の魔狼族だ」
「西へ移ったか」
「そうだ。前に草原で見たときはまだ東寄りだったが、今はもう町の外まで来ている。人間と交渉しているらしい。和議だ」
彼は“和議”という言葉を、やけに軽く噛んだ。
まるで冗談の味を確かめているようだった。
「あいつらは、魔王に関する情報と引き換えに、棲み処を求めている」
ブラムは手を伸ばし、自分の酒を取り返した。
一口飲む。
苦麦の味が舌の奥で弾ける。
飲み下し、杯を卓へ戻した。
「首領は強い」
「だからこそ、交渉している」
イグナーツは身を乗り出した。
声はさらに低くなる。
「数日、観察した。あの族長が人間と話している間、耳がずっと立っていた。虚勢じゃない。本当に落ち着いている。ああいうのは、数で押せば死ぬ相手じゃない。だが、弱点が一つある」
ブラムは顔を上げた。
「部族そのものが弱い。あの老狼を除けば、残りはほとんど老弱だ。数えたが、まともに戦える若い戦士は二割に届かない。老狼を単独で処理できれば、あとは――」
イグナーツは卓の上に指で輪を描いた。
そして、五本の指をぱっと開く。
「――走り回る魔石と奴隷だ」
ブラムはその手を見ていた。
痩せた長い指。
爪はきれいに整えられている。
イグナーツはいつも、自分を清潔に見せる。辺境の流刑囚たちとは違う。
この男は、かつて王都にいた。
商人の帳簿を改竄し、金を抜いた罪で辺境へ流された。
彼は取引の前に、必ず勘定を済ませる。
金も。
物も。
人の命も。
「経験値もある」
ブラムは言った。
「冒険者にとっては、そちらのほうが重要だ。魔族である以上、弱くてもレベル十五から三十前後はある。かなりの収益になる」
「当然、そこまで計算してある」
イグナーツの笑みが戻った。
「討伐経験値は各隊に。魔石、毛皮、尾はギルドで一括回収し、貢献度に応じて分配する。生け捕りは、子どもと若い女を優先。専任に運ばせる。奴隷は別口で売る。利益は折半。俺たち二人で総取り分の二割。残り八割を各隊へ回す。悪くないだろ」
ブラムはすぐには答えなかった。
鎌形の剣を手に取り、親指で刃を確かめる。
この剣はゴブリンを斬った。
ガーゴイルを斬った。
装備を奪おうとした同業者も斬った。
だが、生きた魔族はまだ斬っていない。
「罠魔法が要る」
ブラムは言った。
「でなければ捕まらない。何日かかる」
「三日」
イグナーツの目が、かすかに光った。
ブラムがそこを問うとわかっていた顔だった。
「分割して仕込む。毎晩少しずつだ。魔力の揺れは最低限に抑える。向こうには気づかせない」
「内容は」
「土属性で泥沼。加えて、不規則に突き上がる石杭。退路を潰す。特に河沿いだ。あそこを塞げば、あいつらは東へ逃げるしかない。東は荒原だ。隠れる場所がない」
「連中の野営地は複数ある。谷間だけではない」
「見ている。北の丘陵に一つ。東の丘の裏にも、おそらく一つある。老狼は老弱を外へ逃がしている。だが、最も強い戦力――自分自身を含めてだ――は谷間に置いている。それで十分だ」
イグナーツは卓上に細い指を置いた。
「把握できている全野営地を同時に叩く。互いに支援できないようにする。老狼は、お前が止めろ。俺は残りを処理する」
ブラムの指が、剣の柄を少し強く握った。
「止めるだけか。殺すのではなく」
「止められればいい」
イグナーツの笑みには、嘲りはなかった。
彼は誰よりも、あの老狼の強さを知っている。
そして同時に、ブラムが辺境で唯一、レベル八十近い体術戦士を正面から受け止められる魔剣士であることも知っていた。
ブラムのレベルは七十。
それは彼が、辺境で長く生き延びてきたということを意味している。
流刑囚がレベルを上げる方法など、一つしかない。
死なないことだ。
ブラムは死ななかった。
東部荒原で、多くを殺した。
多すぎるほど殺した。
その結果、彼のシステム欄には、各種中級元素魔法と、果ては上級奥術魔法までが並んでいる。
魔法寄りの魔剣士。
火、水、風、土の全属性中級。
奥術は上級。
辺境では、それだけで奇跡に近かった。
「止めるだけでいい」
イグナーツはもう一度言った。
声は軽くなかった。
笑みも消えていた。
「俺たちが他を片づけるまでだ。終わったら、お前は下がれ」
ブラムは、いいとも悪いとも言わなかった。
剣を椅子の肘掛けに戻す。
酒杯を持ち上げ、また置いた。
「そのあとだ」
彼は言った。
「この一件が終わったら、どこへ行く」
イグナーツの笑みが戻る。
今度の笑みは、人に媚びるものでも、計算を隠すものでもなかった。
もっと本音に近い。
そして、少しだけ自嘲が混じっていた。
「ニムロデン。自由都市連合だ」
彼は両手を軽く広げる。
「調べてある。商人が多い。傭兵も多い。冒険者ギルドの規則も、こっちほど硬くない。魔王が目覚めれば、共和国は辺境の戦える者を根こそぎ前線の穴埋めに使う。俺たち流刑囚を、二列目に置いてくれると思うか?」
ブラムは窓の外を見た。
東の紫光は、まだそこにあった。
薄い。
だが、たしかにある。
「遅かれ早かれ、軍の将校が来る」
イグナーツの声が低くなる。
「相談ではない。命令だ。そうなれば、俺たちに残される選択肢は二つだけ。最前列で死ぬか、逃げて処刑されるか。だから俺は、三つ目を選ぶ」
「逃げる前に稼ぐ」
「そうだ。逃げる前に稼ぐ。あの魔狼族は、最後の機会だ」
イグナーツの指が、また卓の上に輪を描いた。
今度の輪は大きい。
卓全体を囲い込むようだった。
「連中はもう交渉に入っている。人間側は、棲み処として使える土地を提示するだろう。あいつらは安心して分散し、野営する。そこを叩く」
彼の目が細くなる。
「経験値を取り、魔石を取り、毛皮を取り、奴隷を売る。ギルド支部を閉めて、金を持って西へ行く。帝国国境を抜け、騎士領を迂回して、自由都市へ入る。誰も追ってこない。その頃、共和国にはもっと大事な心配事ができている」
そこで、彼は少し黙った。
「なあ」
イグナーツは言った。
「俺たちのいい時代も、そろそろ終わりだと思わないか」
ブラムは彼を見た。
イグナーツの目は笑っている。
だが、指が震えていた。
ほんのわずかに。
ブラムが彼と五年の付き合いでなければ、気づかなかった程度に。
「怖いのか」
ブラムは言った。
イグナーツは一瞬、目を丸くした。
そして、本当に笑った。
媚びでもなく、計算でもない。
見抜かれた者が、深く息を吐くような笑いだった。
「怖いさ。死ぬほど怖い。前に俺が読みを外したとき、どうなったか覚えているだろ」
三年前。
イグナーツは一度、任務の読みを誤った。
彼らの隊は、マンティコアの巣へ踏み込んだ。
四人が死んだ。
生き残った者たちは、ギルドに半年分の報酬を差し押さえられた。
それ以来、イグナーツは何かを決める前に、必ずすべての要素を確認するようになった。
客と笑って酒を飲んでいるときも、計算していた。
腰を低くして相手を持ち上げているときも、計算していた。
眠っているときでさえ、おそらく計算している。
彼はこの町でいちばん死を恐れている男だった。
そして、その恐怖を最も強い能力に変えた男でもあった。
だが、今回は違う。
死ぬことだけを恐れているのではない。
自分の計算が外れることを恐れている。
魔王が目覚める。
軍の将校が来る。
冒険者ギルドの支部はいずれ閉鎖される。
辺境の流刑者たちが生きる余白は、日ごとに狭まっている。
この勘定を終えたあとは、もう賭けるしかない。
最後のぎりぎりで、逃げ切れるほうに。
「老狼はお前に任せる」
イグナーツは立ち上がり、外套を巻き直した。
「残りは俺がやる。三日後の深夜に動く」
ブラムは頷いた。
イグナーツは階段のほうへ歩いていく。
途中で足を止めた。
振り返らない。
「ブラム」
「何だ」
「ニムロデンに着いたら、酒を奢る。向こうの酒は、甘いらしい」
ブラムは答えなかった。
イグナーツの足音が階段の下へ消えていくのを聞きながら、再び窓の外へ顔を向ける。
遠く、千羊川の浅瀬で、礫が星明かりを受けて灰白色に光っていた。
さらに遠く。
東の紫光は、まだ消えていない。
町の外、谷間の方角には、いくつかの焚き火がかすかに見えた。
ブラムは冷えきった酒を手に取り、一息に飲み干した。
苦い。
イグナーツは、自由都市の酒は甘いと言った。
そうなのかもしれない。
窓の外では、風の音が少しずつ強くなっていた。
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