第四話:風評
「つまりだ――」
ルキウス・ゲンティウス・オストマルクは、卓の上に靴を投げ出したまま、右手の人差し指に小さな火を灯していた。
橙色の火。
「ヴィランディルの連中は、本気で俺たちがこれを信じると思っているわけか?」
指を軽く跳ねさせる。
火は橙から黄色へ変わった。
もう一度跳ねさせる。
今度は青。
卓を挟んだ向かいに立つ女は、彼を見ていなかった。
自分の腰に吊った軍刀を、一本ずつ確かめている。柄に触れ、鞘の位置を直し、また次の一本へ移る。
黒髪は肩甲の上へ落ち、幾重にも重ねられた鉄板裙の縁が、床に整った影を刻んでいた。
「信じるかどうかは、さほど重要ではありません」
セヴェリーナは腰から細身の直刀を抜き、刃文を確かめるように目の前へ近づけた。
すぐに鞘へ戻す。
「重要なのは、彼らがこの手紙を送ってきたという事実そのものです」
「もちろん」
オストマルクは指先の火をくるりと回した。
「護民官派が、王女派による勇者の宝珠起動を密告してきた。共和国は事前に備えるべきだ、と。で、俺たちは感動すればいいのか? ヴァルト卿に礼状でも送るか? 辺境名産の詰め合わせでも添えて」
セヴェリーナが、ようやく彼を見る。
「今日はよく喋りますね」
「天気がいいからな」
実際、外の天気は悪くなかった。
東部辺境要塞の午後。
高い位置にある細い窓から、斜めに陽光が差し込んでいる。空気中の埃が、光の柱の中できらきらと浮いていた。
遠くからは駐屯兵の調練の声が聞こえる。足並みを揃えた踏み込みが石壁を通り、鈍く室内へ響いていた。
オストマルクは卓から靴を下ろし、身を乗り出した。
指先の火は消えていない。
ただ、その色は青から、静かな橙へ戻っていた。
「俺が言いたいのは、なぜ今なのか、ということだ」
セヴェリーナの手が、腰の刀柄の一つで止まる。
「偶然ではない、と?」
「ヴィランディルの内輪揉めは、外国を裁判役に引っ張り出さなければならないところまで来ている。高度な政治ではない。泥水をかき回して、誰が溺れるか見物しようとしているだけだ」
火が小さく跳ねた。
橙から黄色へ。
「王女派は魔王を使って共和国を疲弊させるつもりだ」
彼は指を握り込み、火を小さな一点まで縮める。
「その後で、共和国領を切り取る。護民官派はそれを阻止したい。だから先にこちらへ漏らし、俺たちを自分たちの刃にしようとしている。両派とも、計算はしている。問題は――刃にされる側にも感情があるということだ」
セヴェリーナは一本の刀を抜いた。
今度は幅広の曲刀だった。
反りを帯びた背。磨かれた刃面が、窓の光を受けて白く光る。
「それで、あなたは何を疑っているのです」
オストマルクは、自分の指先で燃える小さな火を見つめた。
橙色。
「二つある。まず一つ。勇者の宝珠の起動という行為そのものが、手紙に書かれているより厄介だ。単なる強化用の魔導具なら、わざわざ“無断で”などという言い方はしない。護民官派の文面は急いていた。連中が恐れているのは、勇者の宝珠が起動されることではない。起動されたあと、何が起きるかだ」
火が青へ変わる。
「二つ目。もし勇者の宝珠が、王女派に共和国攻略を決断させるほど強力な代物なら――それは、勇者を呼び出して成長させるだけの道具ではないはずだ」
セヴェリーナは曲刀を鞘へ戻した。
「別の機構がある、と?」
「考えている」
オストマルクは立ち上がり、窓辺へ歩いた。
指先の火は落ち着きなく変わる。
橙。
黄。
青。
また橙。
「ヴィランディルには、征服者時代の遺物がいくつも残っている。勇者の宝珠もその一つだ。だが記録によれば、人類史においてあれが起動された回数は極端に少ない。そして、そのたびに大規模な魔族活動が起きている」
彼は窓の外へ視線を向けた。
「記録には曖昧に書かれている。“魔王覚醒の前兆”だと。だが教会はいつも、魔王は眠っていると言っている。なら、どちらが先なんだ? 魔王が目覚めるから勇者が呼ばれるのか。それとも――」
オストマルクが振り返る。
「勇者の宝珠が起動するから、魔王が目覚めるのか」
セヴェリーナの手が、刀柄の上で止まった。
短い沈黙。
「本気で言っているのですか」
「半分は本気で、半分は勘だ」
彼は肩をすくめた。
火は青く揺れている。
「だが、もし当たっているなら、ヴィランディルは魔王を兵器として使おうとしていることになる。共和国領内で魔王を目覚めさせ、こちらの兵力を削り、最後に自分たちが救世主として現れる。王女派も護民官派も、大筋では同じ絵を見ている。ただ、功績の分け方で揉めているだけだ」
「それでは勇者と魔王の立場が逆です」
セヴェリーナの声は低かった。
「むしろ、こちらが魔王の宝珠で、東の魔族を勇者族と呼んだほうがまだ筋が通る。……信じがたい話ですが、もし本当なら、王国側は救いようのない愚か者です」
「だろうな」
「魔王を駒にするなど、共和国だけを消耗させる話ではありません。人類全体の東部防衛線を削ることになる。東部要塞を突破されれば、魔族は西へ流れ込む。共和国かヴィランディルかなど、区別してくれません」
「だから、あいつらは馬鹿なんだ」
オストマルクは指先の火を握り潰した。
明かりが、ふっと消える。
「だが俺が気にしているのは、あいつらが馬鹿なことじゃない。馬鹿がすでに動き出しているのに、こちらは勇者の宝珠の仕組みを把握していないことだ。俺たちが真相を掴む頃には――」
彼はそこで言葉を切った。
セヴェリーナが続きを口にする。
「――魔王は、すでに目覚めている」
オストマルクは再び指先に火を灯した。
今度は小さな橙の火だった。
静かに燃えている。
「明日、発つ。東部荒原だ。将軍閣下自ら、あの草原に異常が出ていないか確認してこよう。ついでに、あの辺りに溜まっている冒険者どもの乱れも掃除しておく」
「偵察ですか」
「偵察と掃除だ」
オストマルクは言った。
「勇者の宝珠と魔王に関係があるなら、波動は黒雪山脈から広がる。東部荒原が最初に兆候を掴む場所になる」
セヴェリーナはしばらく黙っていた。
やがて、腰から一本、これまで触れていなかった長太刀を外し、卓の上へ置いた。鞘に刻まれた文様を、指先でなぞる。
「西南方面は、私が抑えます。騎士領連邦抵抗戦線には、余計な異常を悟らせません。もしヴィランディルの手がさらに伸びるようなら――」
「そのときは閣下に頑張っていただくしかないな。ほかの将軍が勝手に兵を動かして、共和国を滅茶苦茶にするのは御免だ」
セヴェリーナが目を上げる。
オストマルクは笑っていなかった。
ただ、目元だけがわずかに緩んでいる。
「何人連れて行くのです」
「最初は俺だけでいい。あとは辺境に流されている使い物にならない冒険者どもを、少し躾けて使う。十分だ」
彼は卓上の地図を手に取った。
指先の火が、顔の輪郭を照らす。
「ただ、もう一つ気になることがある。ヴィランディル側も、おそらく同じような絵を描いている。護民官派がこちらへ手紙を寄越したのと同時期に、竜王国にも働きかけているらしい。最近の国境情報では、竜王国の某公爵が私的に兵を動かし始めた」
セヴェリーナの指が、鞘の上で止まった。
「竜王国も兵を出すと?」
「あの国は公爵家の独立性が高い。各公爵が自前で兵を動かせる。だが、“私的な兵の移動”ということは、国家全体の命令ではない。誰かが、この手紙と似た内容を受け取ったのだろう。ただし、こちらより文面はもっと過激で、外聞の悪いものだったはずだ」
オストマルクは地図を巻き、火の灯った指で軽く叩いた。
「二派の内乱。竜王国の横槍。共和国を戦場にした代理戦争。理想的だな。実に理想的だ」
火は指先で何度か跳ね、光の柱に漂う埃の中へ溶けるように消えた。
彼は扉のそばへ歩き、壁に掛けてあった軍帽を取る。
「あなたの推測が外れていることを祈ります」
セヴェリーナが言った。
「ヴィランディルの連中に、まだ最後の脳味噌が残っていることを祈ろう」
オストマルクは軍帽を被り、扉を押し開ける。
外から調練の声と風が、一度に流れ込んできた。
彼は一瞬だけ足を止める。
振り返らない。
「そちらも同じだ。西南方面――せいぜい、手に合わない刀を引かないようにな」
セヴェリーナは、すでに一度祈ると言った。
二度言う必要はなかった。
ただ、卓上の長太刀を取り、腰へ戻す。
オストマルクは廊下へ出ていった。
扉が閉まる。
◇
廊下に人影はなかった。
オストマルクはふと自分の右手を見下ろした。
指先に、また火が灯っている。
青い火だった。
数秒だけそれを見つめ、彼は手を上着のポケットへ突っ込んだ。
指の隙間から青い光が漏れ、石壁にかすかな影を落とす。
足音が遠ざかっていく。
部屋の卓には、地図が残っていた。
セヴェリーナはそれを片づけない。
彼女の指は、腰に吊った幾本もの刀の柄の上を行き来していた。
ようやく一本を選び、抜く。
刃を見た。
違う。
戻す。
次の一本を抜く。
それも違う。
もっと練習が必要だ。
戦場でまた選び損ねれば、副官に言われる。
そして、あの馬鹿にも笑われる。
窓の外。
東の空は、ひどく青かった。
雲一つない。
草原の方角から風が吹き、乾いた草と土埃の匂いを運んでくる。
セヴェリーナは、その青を長く見つめていた。
やがて、最後の刀を腰へ戻した。




