↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
4/19

第三話:屍を借りた勇者

目が覚めてから、俺はしばらく天幕の天井を見つめていた。


 ぼんやりしていたわけじゃない。


 確認していた。


 自分がまだ生きていること。


 この身体が、ちゃんと呼吸していること。


 さっき飲まされたスープの味が、まだ舌の奥に残っていること。


 塩気があって、少し薬草の苦みがあった。何かの獣の骨を煮込んだものだろう。


 夢ではない。


 夢であってほしかったが。


 天幕の外を、誰かの足音が通り過ぎていく。


 軽い足音だった。


 乾いた草を踏む、かさ、かさ、という音。


 俺の耳が――頭の上に生えた、毛の生えたこの耳が、勝手にぴくりと動いた。音のするほうへ向く。


 まだ慣れない。


 尻尾を下に敷いて眠る感覚にも慣れない。寝返りを打つたびに引っかかって、何度も目が覚める。


 足音は通り過ぎた。


 入ってはこない。


 俺は手を持ち上げ、目の前にかざした。


 人間の手ではなかった。


 前世のものより指が太く、節が目立つ。爪には薄く灰色が混じっていた。手の甲には、まだ消え切っていない暗い紋様が数本残っている。


 魔化の名残だ。


 あの老いた族長――俺の父親だと名乗った男の腕には、まだ血の滲む包帯が巻かれていた。


 俺が噛んだ。


 正確に言えば、魔化していたこの身体が噛んだのだ。


 だが今、この身体の中にいるのは俺だ。


 なら、勘定は俺につけられる。


 言い訳をするつもりはなかった。


 勇者システムは、まだ残っていた。


 それに気づいたのは、翌日のことだ。


 誰にも見られていない隙を見計らって、ステータス欄を呼び出してみた。


 半透明の青い板が、目の前に浮かび上がる。


 そこに表示されていた名前は、ガルム。


 能力値。


 スキル。


 そのほとんどが、きれいに初期化されていた。


 勇者の加護も、完全に暗く沈んでいる。どうやら、能力上昇や高倍率の経験値獲得といった、あの手の恩恵はもう期待できないらしい。


 レベルだけは、この身体の持ち主だった少年のものを引き継いでいた。


 レベル十七。


 高くもなければ、低すぎるわけでもない。


 前世の俺より、少し低いくらいか。


 結局、どこへ行っても同じだ。


 俺は苦笑するしかなかった。


 相変わらず、どうしようもない。


 ただ一つだけ、光っているアイコンがあった。


 スキル欄の一番上。


 ぽつんと、そこだけ取り残されたみたいに。


 火球(ファイアボール)。


 前世で、俺が唯一覚えた魔法。


 王宮の部屋で、魔力が尽きて気絶するまで練習して、ようやく形にした最低級魔法。


 そして、王女の前で撃った瞬間、契約に弾き返され、俺自身を焼きかけた火球。


 それだけは、まだここにあった。


 試しに、他のスキルにも触れてみる。


 灰色になったアイコン。


 剣術。


 弓術。


 元素魔法。


 神聖魔法。


 暗術。


 どれも反応しなかった。


 魔狼族(まろうぞく)の体質は、新しい魔法の習得に向いていないらしい。


 システム欄は理由を説明してくれない。


 問い合わせようとすれば、いつもの無機質な表示が出るだけだった。


『種族制限:このスキルは習得できません』


 どうせ、習得可能だったとしても同じだ。


 誰かに教わるか、自分で本当に理解するかしなければ、何も身につかない。


 その理屈は、前世で嫌というほど思い知った。


 このゴミみたいなシステムに、実用的な意味なんてほとんどない。


 せいぜい、自分の能力を見せびらかすための表示板だ。


 火球(ファイアボール)だけが例外だった。


 おそらく、転生前にすでに身につけていたからだろう。システムはそれを“既得スキル”として持ち越した。


 異種族への移住時に、手荷物は一つだけ許された、というわけだ。


 欠点は、スキル欄がほぼ空っぽになったこと。


 利点は、この身体があまり睡眠を必要としないことと、回復力が人間よりずっと高いこと。


 草原で生き延びるためだろう。


 魔狼族は、自前の治癒力に多くを割いている。


 その代わり、魔法の才能を切り捨てた。


 公平な取引だ。


 受け入れるしかない。


 前世のことは、あまり考えたくなかった。


 だが、考えまいとしても勝手に浮かんでくるものがある。


 オルフェン。


 あの金髪の、いかにも恵まれて育った勇者。


 あいつは最後まで、俺をまともに見ようともしなかった。


 シグルーンは、俺を勇者の枠を無駄にしただけの屑だと言った。


 そして、フィオナは――


 そこで、思考が一度止まる。


 あの白い空間で、彼女は人垣の中から歩み出てきた。


 俺が一番よく知っている声で、俺をゴミと呼んだ。


 顔ははっきりしていた。


 あの場にいた誰よりも、鮮明だった。


 だが、あれは彼女ではない。


 生きていたフィオナは、あんなことを言う人間ではなかった。


 あの夜、壊れかけていた俺のところへ来て、逃げろと言った。


 拷問され、血まみれになっても、それでも口を開こうとした。


 自分を助けるためじゃない。


 王女が俺を殺すと脅したから、彼女は口を開こうとしたのだ。


 その瞬間、緑の宝石が爆ぜた。


 おそらく、護民官派が情報漏洩を防ぐために仕込んだものだったのだろう。


 少し考えればわかる。


 だが、考えたくはなかった。


 神は彼女を奪った。


 顔も、声も、笑い方も。


 全部、俺を傷つけるための刃に変えた。


 そして俺には、彼女のために泣く資格さえない。


 垂れ布がめくられる音で、思考は途切れた。


 灰色の影が、腰をかがめて天幕の中へ入ってくる。


 先に耳が見えた。


 短い毛に覆われた、俺のものより丸い耳。


 片方の先が、少し欠けている。


「起きてるか?」


 そいつは身を起こし、後頭部をかいた。


「リリが、お前もう歩けるって言うからさ。俺は嘘だろって言ったんだ。そしたら、嘘じゃないって言い張るから、賭けになって。干し肉二枚、負けた」


 俺はその顔を知らない。


 だが、身体は知っていた。


 そいつが入ってきた瞬間、俺の尻尾がかすかに揺れた。


 反射だった。


 俺の反応じゃない。


 ガルムの反応だ。


 もう消えてしまった、本来のガルム。


 この身体は、まだ覚えている。


 こいつが友人だったことを。


 そいつは敷物のそばにしゃがみ込み、首をかしげて俺を見た。


 薄暗い天幕の中で、灰色の瞳が妙に明るく見える。


「目、色変わったな。初めて見るぞ、こんなの。見えてんのか?」


「見えてる。たぶん」


「ならいい」


 そいつは懐から何かを取り出し、敷物の上に置いた。


「取っといた」


 干し肉だった。


 二枚。


「リリの賭け分」


 彼は付け足す。


「あいつは勝ったけど、一枚多く渡しておいた。こっちはお前の分」


 俺はそれを手に取り、かじった。


 硬い。


 塩辛い。


 燻した苦みがある。


 まともなものを食べたのは久しぶりで、胃が小さく動いた。


 彼はそばで黙っていた。


 俺が食べるのを見ている。


 ときどき、手の甲に残った暗い紋様へ視線を流した。


「族長は、何日か休めって言ってた」


「そうか」


「すぐ外をうろつくなよ。まだ、気持ちの整理がついてないやつもいる」


「何の整理だ」


 彼はすぐには答えなかった。


 代わりに、耳が少し後ろへ倒れる。


 この仕草は、もう何となくわかる。


 気まずいときの動きだ。


「お前、生きて戻ったからさ」


 彼は言った。


「みんな、喜べばいいのか、怖がればいいのかわかってない」


「お前は」


 彼は顔を少し戻し、目を細めた。


「嬉しい」


 それだけ言うと、彼は立ち上がった。


 膝についた土を払い、背を向ける。


 垂れ布の前で、ふと足を止めた。


 振り返らない。


「お前、俺との狩りの約束、まだ返してないからな」


 垂れ布が落ちる。


 足音が遠ざかっていった。


 俺は手の中に残った半分の干し肉を見下ろした。


 これはおそらく、本来のガルムが負っていた約束だ。


 俺は何も知らない。


 俺の借りではない。


 だが、返さなければならない。


 できる限り、この少年として生きていかなければならないのだ。


 不自然な言い訳でも、嘘でもいい。


 どうしても誤魔化しきれなくなったら、記憶が曖昧だとでも言うしかない。


 使い古された逃げ道だ。


 身体の本来の持ち主にも、その仲間たちにも申し訳ない。


 それでも今の俺には、それくらいしかできなかった。


 リリが来たとき、俺は干し肉を食べ終えていた。


 垂れ布をめくって、まず顔だけを覗かせる。


 耳がぴんと立っていた。


 俺が起きているのを見るなり、ぱっと笑う。


「起きてる!」


 彼女はそのまま、隙間から身体をねじ込むようにして入ってきた。


「姉さんは、あと十日は寝てるって言ったの! でもリリは五日って言った! 姉さんが十日で、リリが五日!」


 手足を使って天幕の中へ入りながら、尻尾を忙しなく振っている。


「勝った! 違う、あなたが勝った! でもリリが勝った! 五日!」


 言いながら、彼女は俺の毛布をめくり始めた。


「父さんが、引っ越すって言ってた! 怖い風が来るから、西のほうに、すごく遠くまで行くんだって!」


 毛布を歪な形に畳み、満足げにぽんぽんと叩く。


「族長も行くのか」


「当たり前でしょ。族長はあなたの父さんだもん。あなたは行かないの?」


「行く」


「なら大丈夫」


 おそらく、リリにとってはそうなのだ。


 皆が一緒にいるなら、移動はただの遠出でしかない。


 どこへ行くのか。


 どれほど遠いのか。


 そんなことは大した問題ではない。


 天幕があって、大人たちがそばにいて、知っている顔が並んでいれば、彼女にとって世界はまだ壊れていない。


「ガルム」


 リリは顔を近づけてきた。


 耳を前へ向け、妙に真剣な表情で俺を見る。


「起きてから、目が黒くなったね」


 俺は動かなかった。


「前は金色だった。族長と同じ色。でも、黒いのもきれい」


 彼女はそう言って笑うと、くるりと振り返り、天幕の外へ駆け出していった。


     ◇


 夕方、俺は天幕の外へ出た。


 野営地には、いくつもの焚き火が上がっていた。


 女たちは夕食の支度をしている。男たちは装備を直し、刃を研ぎ、馬に餌をやっていた。


 焚き火のそばに座っていた中年の女たちが、俺に気づく。


 互いに目を合わせ、そのうち一人が小さく頷いた。


 ああ、聞いているよ。


 そんな顔だった。


 親しげ、というほどではない。


 だが、敵意もなかった。


 ただ、まだ呑み込めていないだけだ。


 俺はそのまま歩き、少し静かな焚き火のそばに腰を下ろした。


 火の粉がぱちぱちと弾け、深い青に変わりかけた空へ昇っていく。


 周囲には、仕事を終えた族の者が何人か座っていた。


 ぽつり、ぽつりと話している。


 俺は口を挟まなかった。


 ただ、手を火にかざしながら聞いた。


「……昨日、また一組、西へ出たらしい」


「東の連中か?」


「ああ。去年から移るとは言っていたが、東の波動がここまで詰まってくると、もう待てないんだろう」


「誰か、持たなかったって聞いたぞ」


「若いのが二人だ。波動が来た途端に魔化した。一人はその場で仲間に斬られた。もう一人は逃げた。東へな。黒土帯まで追ったが、見失ったらしい」


 短い沈黙が落ちる。


 誰かの尻尾が、土の上を二度ほど掃いた。


「……魔王は、あとどれくらいなんだ」


「族長は、波動が濃くなるのは寝返りを打っている証だと言っていた。間隔が半月まで縮まれば、もう近い。今の速さなら、十五年から三十年の間。もっと早いかもしれない」


「十五年だろうが三十年だろうが、俺たちには変わらないな。死ぬまでには目覚める」


「楽観的だな。そこまで生きていられると思ってるのか」


 誰かが短く笑った。


 すぐに、全員が黙る。


 俺は火を見つめていた。


 炎が顔を照らし、その光が瞳の中にも映る。


 魔王。


 前世、王都で聞いたその言葉は、遠い脅威だった。


 政治の駒だった。


 勇者たちが召し出された理由だった。


 けれど、ここでは違う。


 この焚き火のそばでは、その言葉は政治ではない。


 風に混じる匂い。


 仲間の魔化。


 離れざるを得ない故郷。


 同じ言葉なのに。


 口にする者が変わるだけで、意味がまるで違う。


 前世の俺に与えられた役目は、魔王を倒すことだった。


 では、この生では。


     ◇


 焚き火を離れたあと、族長――父は、野営地の端で馬を見ていた。


 背を向けていたが、先に耳が動く。


 魔狼族の耳は、感情も気配もよく拾う。


 彼の耳がこちらへ向き、それからようやく身体が振り返った。


「歩けるようになったか」


「うん」


「無理はするな。あと何日か休め。出発すれば、嫌でも疲れる」


「いつ出るんだ」


「七日後だ」


 彼は馬の蹄を下ろし、首を軽く叩いた。


「西へ移る。ボルゲンが先を率いる。お前は彼について行け」


「あなたは」


「俺は最後だ」


 殿。


 彼はその言葉を口にしなかった。


 だが、平らな声の後ろに、その二文字がぶら下がっていた。


 馬をつなぎ直し、父は俺のほうへ向き直る。


 火の明かりが横から当たり、目尻の皺を深く刻んでいた。


 彼はしばらく俺を見ていた。


「……目が変わったな」


「うん」


「見えるか。前の道は」


 俺は頷いた。


「なら、それでいい」


 父はそれ以上、何も聞かなかった。


 なぜ目の色が変わったのかも。


 魔化のあと、何が起きたのかも。


 自分の息子が、本当にまだ自分の息子なのかも。


 聞かなかった。


 そのまま背を向け、歩いていく。


 俺は野営地の端に立ち尽くした。


 目の前には、夜へ沈んでいく草原が広がっている。


 風が吹いた。


 遠い砂塵と、乾いた草の匂いがした。


 東の空の果てに、ひときわ暗い影がある。


 空の下に見える影ではない。


 空気の中にある影だ。


 気圧の変化に似た、目には見えない何か。


 それを、かすかに感じ取ることができた。


 目ではない。


 別の何かで。


 この身体は、人間だった頃よりもずっと魔力に敏感だ。


 東に、何かがいる。


 ゆっくりと。


 深く。


 東部荒原全体を覆うように、呼吸している。


 七日。


 七日後、西への移動が始まる。


 人間の領土へ向かう。


 俺を処刑した種族のいる場所へ向かう。


 俺は手を懐に入れ、天幕へ戻ろうとした。


 指先に、小さな火が灯る。


 火球。


 すぐに、消した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。