第三話:屍を借りた勇者
目が覚めてから、俺はしばらく天幕の天井を見つめていた。
ぼんやりしていたわけじゃない。
確認していた。
自分がまだ生きていること。
この身体が、ちゃんと呼吸していること。
さっき飲まされたスープの味が、まだ舌の奥に残っていること。
塩気があって、少し薬草の苦みがあった。何かの獣の骨を煮込んだものだろう。
夢ではない。
夢であってほしかったが。
天幕の外を、誰かの足音が通り過ぎていく。
軽い足音だった。
乾いた草を踏む、かさ、かさ、という音。
俺の耳が――頭の上に生えた、毛の生えたこの耳が、勝手にぴくりと動いた。音のするほうへ向く。
まだ慣れない。
尻尾を下に敷いて眠る感覚にも慣れない。寝返りを打つたびに引っかかって、何度も目が覚める。
足音は通り過ぎた。
入ってはこない。
俺は手を持ち上げ、目の前にかざした。
人間の手ではなかった。
前世のものより指が太く、節が目立つ。爪には薄く灰色が混じっていた。手の甲には、まだ消え切っていない暗い紋様が数本残っている。
魔化の名残だ。
あの老いた族長――俺の父親だと名乗った男の腕には、まだ血の滲む包帯が巻かれていた。
俺が噛んだ。
正確に言えば、魔化していたこの身体が噛んだのだ。
だが今、この身体の中にいるのは俺だ。
なら、勘定は俺につけられる。
言い訳をするつもりはなかった。
勇者システムは、まだ残っていた。
それに気づいたのは、翌日のことだ。
誰にも見られていない隙を見計らって、ステータス欄を呼び出してみた。
半透明の青い板が、目の前に浮かび上がる。
そこに表示されていた名前は、ガルム。
能力値。
スキル。
そのほとんどが、きれいに初期化されていた。
勇者の加護も、完全に暗く沈んでいる。どうやら、能力上昇や高倍率の経験値獲得といった、あの手の恩恵はもう期待できないらしい。
レベルだけは、この身体の持ち主だった少年のものを引き継いでいた。
レベル十七。
高くもなければ、低すぎるわけでもない。
前世の俺より、少し低いくらいか。
結局、どこへ行っても同じだ。
俺は苦笑するしかなかった。
相変わらず、どうしようもない。
ただ一つだけ、光っているアイコンがあった。
スキル欄の一番上。
ぽつんと、そこだけ取り残されたみたいに。
火球。
前世で、俺が唯一覚えた魔法。
王宮の部屋で、魔力が尽きて気絶するまで練習して、ようやく形にした最低級魔法。
そして、王女の前で撃った瞬間、契約に弾き返され、俺自身を焼きかけた火球。
それだけは、まだここにあった。
試しに、他のスキルにも触れてみる。
灰色になったアイコン。
剣術。
弓術。
元素魔法。
神聖魔法。
暗術。
どれも反応しなかった。
魔狼族の体質は、新しい魔法の習得に向いていないらしい。
システム欄は理由を説明してくれない。
問い合わせようとすれば、いつもの無機質な表示が出るだけだった。
『種族制限:このスキルは習得できません』
どうせ、習得可能だったとしても同じだ。
誰かに教わるか、自分で本当に理解するかしなければ、何も身につかない。
その理屈は、前世で嫌というほど思い知った。
このゴミみたいなシステムに、実用的な意味なんてほとんどない。
せいぜい、自分の能力を見せびらかすための表示板だ。
火球だけが例外だった。
おそらく、転生前にすでに身につけていたからだろう。システムはそれを“既得スキル”として持ち越した。
異種族への移住時に、手荷物は一つだけ許された、というわけだ。
欠点は、スキル欄がほぼ空っぽになったこと。
利点は、この身体があまり睡眠を必要としないことと、回復力が人間よりずっと高いこと。
草原で生き延びるためだろう。
魔狼族は、自前の治癒力に多くを割いている。
その代わり、魔法の才能を切り捨てた。
公平な取引だ。
受け入れるしかない。
前世のことは、あまり考えたくなかった。
だが、考えまいとしても勝手に浮かんでくるものがある。
オルフェン。
あの金髪の、いかにも恵まれて育った勇者。
あいつは最後まで、俺をまともに見ようともしなかった。
シグルーンは、俺を勇者の枠を無駄にしただけの屑だと言った。
そして、フィオナは――
そこで、思考が一度止まる。
あの白い空間で、彼女は人垣の中から歩み出てきた。
俺が一番よく知っている声で、俺をゴミと呼んだ。
顔ははっきりしていた。
あの場にいた誰よりも、鮮明だった。
だが、あれは彼女ではない。
生きていたフィオナは、あんなことを言う人間ではなかった。
あの夜、壊れかけていた俺のところへ来て、逃げろと言った。
拷問され、血まみれになっても、それでも口を開こうとした。
自分を助けるためじゃない。
王女が俺を殺すと脅したから、彼女は口を開こうとしたのだ。
その瞬間、緑の宝石が爆ぜた。
おそらく、護民官派が情報漏洩を防ぐために仕込んだものだったのだろう。
少し考えればわかる。
だが、考えたくはなかった。
神は彼女を奪った。
顔も、声も、笑い方も。
全部、俺を傷つけるための刃に変えた。
そして俺には、彼女のために泣く資格さえない。
垂れ布がめくられる音で、思考は途切れた。
灰色の影が、腰をかがめて天幕の中へ入ってくる。
先に耳が見えた。
短い毛に覆われた、俺のものより丸い耳。
片方の先が、少し欠けている。
「起きてるか?」
そいつは身を起こし、後頭部をかいた。
「リリが、お前もう歩けるって言うからさ。俺は嘘だろって言ったんだ。そしたら、嘘じゃないって言い張るから、賭けになって。干し肉二枚、負けた」
俺はその顔を知らない。
だが、身体は知っていた。
そいつが入ってきた瞬間、俺の尻尾がかすかに揺れた。
反射だった。
俺の反応じゃない。
ガルムの反応だ。
もう消えてしまった、本来のガルム。
この身体は、まだ覚えている。
こいつが友人だったことを。
そいつは敷物のそばにしゃがみ込み、首をかしげて俺を見た。
薄暗い天幕の中で、灰色の瞳が妙に明るく見える。
「目、色変わったな。初めて見るぞ、こんなの。見えてんのか?」
「見えてる。たぶん」
「ならいい」
そいつは懐から何かを取り出し、敷物の上に置いた。
「取っといた」
干し肉だった。
二枚。
「リリの賭け分」
彼は付け足す。
「あいつは勝ったけど、一枚多く渡しておいた。こっちはお前の分」
俺はそれを手に取り、かじった。
硬い。
塩辛い。
燻した苦みがある。
まともなものを食べたのは久しぶりで、胃が小さく動いた。
彼はそばで黙っていた。
俺が食べるのを見ている。
ときどき、手の甲に残った暗い紋様へ視線を流した。
「族長は、何日か休めって言ってた」
「そうか」
「すぐ外をうろつくなよ。まだ、気持ちの整理がついてないやつもいる」
「何の整理だ」
彼はすぐには答えなかった。
代わりに、耳が少し後ろへ倒れる。
この仕草は、もう何となくわかる。
気まずいときの動きだ。
「お前、生きて戻ったからさ」
彼は言った。
「みんな、喜べばいいのか、怖がればいいのかわかってない」
「お前は」
彼は顔を少し戻し、目を細めた。
「嬉しい」
それだけ言うと、彼は立ち上がった。
膝についた土を払い、背を向ける。
垂れ布の前で、ふと足を止めた。
振り返らない。
「お前、俺との狩りの約束、まだ返してないからな」
垂れ布が落ちる。
足音が遠ざかっていった。
俺は手の中に残った半分の干し肉を見下ろした。
これはおそらく、本来のガルムが負っていた約束だ。
俺は何も知らない。
俺の借りではない。
だが、返さなければならない。
できる限り、この少年として生きていかなければならないのだ。
不自然な言い訳でも、嘘でもいい。
どうしても誤魔化しきれなくなったら、記憶が曖昧だとでも言うしかない。
使い古された逃げ道だ。
身体の本来の持ち主にも、その仲間たちにも申し訳ない。
それでも今の俺には、それくらいしかできなかった。
リリが来たとき、俺は干し肉を食べ終えていた。
垂れ布をめくって、まず顔だけを覗かせる。
耳がぴんと立っていた。
俺が起きているのを見るなり、ぱっと笑う。
「起きてる!」
彼女はそのまま、隙間から身体をねじ込むようにして入ってきた。
「姉さんは、あと十日は寝てるって言ったの! でもリリは五日って言った! 姉さんが十日で、リリが五日!」
手足を使って天幕の中へ入りながら、尻尾を忙しなく振っている。
「勝った! 違う、あなたが勝った! でもリリが勝った! 五日!」
言いながら、彼女は俺の毛布をめくり始めた。
「父さんが、引っ越すって言ってた! 怖い風が来るから、西のほうに、すごく遠くまで行くんだって!」
毛布を歪な形に畳み、満足げにぽんぽんと叩く。
「族長も行くのか」
「当たり前でしょ。族長はあなたの父さんだもん。あなたは行かないの?」
「行く」
「なら大丈夫」
おそらく、リリにとってはそうなのだ。
皆が一緒にいるなら、移動はただの遠出でしかない。
どこへ行くのか。
どれほど遠いのか。
そんなことは大した問題ではない。
天幕があって、大人たちがそばにいて、知っている顔が並んでいれば、彼女にとって世界はまだ壊れていない。
「ガルム」
リリは顔を近づけてきた。
耳を前へ向け、妙に真剣な表情で俺を見る。
「起きてから、目が黒くなったね」
俺は動かなかった。
「前は金色だった。族長と同じ色。でも、黒いのもきれい」
彼女はそう言って笑うと、くるりと振り返り、天幕の外へ駆け出していった。
◇
夕方、俺は天幕の外へ出た。
野営地には、いくつもの焚き火が上がっていた。
女たちは夕食の支度をしている。男たちは装備を直し、刃を研ぎ、馬に餌をやっていた。
焚き火のそばに座っていた中年の女たちが、俺に気づく。
互いに目を合わせ、そのうち一人が小さく頷いた。
ああ、聞いているよ。
そんな顔だった。
親しげ、というほどではない。
だが、敵意もなかった。
ただ、まだ呑み込めていないだけだ。
俺はそのまま歩き、少し静かな焚き火のそばに腰を下ろした。
火の粉がぱちぱちと弾け、深い青に変わりかけた空へ昇っていく。
周囲には、仕事を終えた族の者が何人か座っていた。
ぽつり、ぽつりと話している。
俺は口を挟まなかった。
ただ、手を火にかざしながら聞いた。
「……昨日、また一組、西へ出たらしい」
「東の連中か?」
「ああ。去年から移るとは言っていたが、東の波動がここまで詰まってくると、もう待てないんだろう」
「誰か、持たなかったって聞いたぞ」
「若いのが二人だ。波動が来た途端に魔化した。一人はその場で仲間に斬られた。もう一人は逃げた。東へな。黒土帯まで追ったが、見失ったらしい」
短い沈黙が落ちる。
誰かの尻尾が、土の上を二度ほど掃いた。
「……魔王は、あとどれくらいなんだ」
「族長は、波動が濃くなるのは寝返りを打っている証だと言っていた。間隔が半月まで縮まれば、もう近い。今の速さなら、十五年から三十年の間。もっと早いかもしれない」
「十五年だろうが三十年だろうが、俺たちには変わらないな。死ぬまでには目覚める」
「楽観的だな。そこまで生きていられると思ってるのか」
誰かが短く笑った。
すぐに、全員が黙る。
俺は火を見つめていた。
炎が顔を照らし、その光が瞳の中にも映る。
魔王。
前世、王都で聞いたその言葉は、遠い脅威だった。
政治の駒だった。
勇者たちが召し出された理由だった。
けれど、ここでは違う。
この焚き火のそばでは、その言葉は政治ではない。
風に混じる匂い。
仲間の魔化。
離れざるを得ない故郷。
同じ言葉なのに。
口にする者が変わるだけで、意味がまるで違う。
前世の俺に与えられた役目は、魔王を倒すことだった。
では、この生では。
◇
焚き火を離れたあと、族長――父は、野営地の端で馬を見ていた。
背を向けていたが、先に耳が動く。
魔狼族の耳は、感情も気配もよく拾う。
彼の耳がこちらへ向き、それからようやく身体が振り返った。
「歩けるようになったか」
「うん」
「無理はするな。あと何日か休め。出発すれば、嫌でも疲れる」
「いつ出るんだ」
「七日後だ」
彼は馬の蹄を下ろし、首を軽く叩いた。
「西へ移る。ボルゲンが先を率いる。お前は彼について行け」
「あなたは」
「俺は最後だ」
殿。
彼はその言葉を口にしなかった。
だが、平らな声の後ろに、その二文字がぶら下がっていた。
馬をつなぎ直し、父は俺のほうへ向き直る。
火の明かりが横から当たり、目尻の皺を深く刻んでいた。
彼はしばらく俺を見ていた。
「……目が変わったな」
「うん」
「見えるか。前の道は」
俺は頷いた。
「なら、それでいい」
父はそれ以上、何も聞かなかった。
なぜ目の色が変わったのかも。
魔化のあと、何が起きたのかも。
自分の息子が、本当にまだ自分の息子なのかも。
聞かなかった。
そのまま背を向け、歩いていく。
俺は野営地の端に立ち尽くした。
目の前には、夜へ沈んでいく草原が広がっている。
風が吹いた。
遠い砂塵と、乾いた草の匂いがした。
東の空の果てに、ひときわ暗い影がある。
空の下に見える影ではない。
空気の中にある影だ。
気圧の変化に似た、目には見えない何か。
それを、かすかに感じ取ることができた。
目ではない。
別の何かで。
この身体は、人間だった頃よりもずっと魔力に敏感だ。
東に、何かがいる。
ゆっくりと。
深く。
東部荒原全体を覆うように、呼吸している。
七日。
七日後、西への移動が始まる。
人間の領土へ向かう。
俺を処刑した種族のいる場所へ向かう。
俺は手を懐に入れ、天幕へ戻ろうとした。
指先に、小さな火が灯る。
火球。
すぐに、消した。




