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第二話:転生

黄昏時、風は東から吹いてきた。


 俺には、それがわかった。


 ごく薄い匂いだった。焚き火の煙、乾いた草、族の者たちの体臭。そのすべてに紛れて、鼻の奥をかすめる程度のもの。


 だが、俺の鼻は誤魔化せない。


 魔力の匂いだ。


 もっと深いところから、地の底からせり上がってくるような、濁った魔力の気配だった。


「三度目だ」


 向かいに座るボルゲンが、短剣の先で火の中の薪をつついた。


「今月に入って、これで三度目だぞ」


 俺は答えなかった。


 天幕の外では、子供たちが追いかけ合っている。甲高い笑い声が、風に乗っては消えていく。


「連中はまだ知らない」


 ボルゲンは短剣を腰の鞘へ戻した。


「知ったときには、もう遅いんじゃないのか」


「何が言いたい」


「わかっているはずだ」


 ボルゲンが顔を上げる。火の明かりが、その頬の古い傷を赤く照らした。


「魔王が目覚めかけている。昔話でも、子供を脅すための作り話でもない。お前のほうが、俺よりわかっているだろう。東から風が吹くたび、あの匂いが混じる」


 薪がぱちりと爆ぜた。


「動いているんだ。呼吸している。あれが本当に目覚めれば、魔化波動の届く範囲は広がる。そのとき、俺たちはどこへ逃げる」


 俺は、しばらく黙っていた。


 天幕の隙間から風が入り込む。乾いた草と、遠い砂塵の匂いがした。


 外の焚き火が、ぱちぱちと音を立てている。誰かが歌っていた。ひどく調子外れな声で、古い草原の民謡を引きずるように歌っている。


 歌詞は、もう長いこと歌っていない。


 それでも、節だけはまだ覚えていた。


「お前の考えは」


「西だ」


 ボルゲンが身を乗り出す。


「波動がここまで覆い切る前に、西へ移る。人間どもの領土へ」


「講和か」


「お前が嫌がるのはわかっている」


「前に講和を試みた連中がどうなったか、お前のほうがよく知っているだろう」


 ボルゲンは口を開きかけ、すぐに閉じた。


 前の話だ。


 二十年前。


 東征してきた人間の冒険者どもが、主戦派の大天幕を踏み潰した。カラハンの首を旗竿に吊るし、「魔族の貢ぎ物だ」と笑った。


 そのまま連中はさらに東へ進み、当時最強と言われていた二つの主戦部族をまとめて叩き潰した。


 カラハンは強かった。


 俺よりも強かった。少なくとも、あの頃は。


 だが、死んだ。


 やつの部族で戦える者は、全員死んだ。


 生き残ったのは、老人と子供だけだ。


 俺が連れて逃げた。


「あの頃は、まだ主戦派に死んでもらえた」


 ボルゲンの声が低くなる。


「今は、もういない」


 俺は何も言わなかった。


「ヴァルゲン」


 ボルゲンが俺の名を呼んだ。


 やつが俺を名で呼ぶことは、あまりない。


「お前の息子はどうする」


 俺の手が止まった。


「あいつがまだ生きているのは、身体が弱いからだ」


 自分の声が、妙に平らに聞こえた。


「魔化に抗うには、意志の力が要る。あいつにはない」


「それが慰めに聞こえないことくらい、お前にもわかるだろ」


「慰めじゃない。事実だ」


「もし、持ちこたえられなかったら――」


「あれは俺の息子だ」


 火の中で薪が折れた。


 火の粉が散り、俺の腕に落ちる。


 避けなかった。


「お前が講和を、唯一の生き残る道だと思っているのは知っている」


 ボルゲンが立ち上がった。


「だが人間は、魔族と講和なんかしない。連中に必要なのは、話の通じる魔族じゃない。死んだ魔族だ」


 俺は反論しなかった。


 ボルゲンは、誰よりもそれを知っている。


 やつの妻は、第三次東征の掃討で死んだ。


 その夜、ボルゲンは生まれたばかりの娘を抱え、草むらの中で息を潜めていた。娘が泣かないよう、口を手で塞いだまま、一晩中じっとしていた。


 娘は生き残った。


 だが、それ以来、ボルゲンは一度も笑わない。


「なら、このまま待つのか」


 背後から声がした。


「魔王が目覚めるのを待つ。人間が来るのを待つ。ただ死ぬのを待つのか」


 俺は天幕の垂れ布を持ち上げた。


「俺が手を見つけるまでは、生き延びる」


     ◇


 外の空は、もうすっかり黒くなっていた。


 野営地の中央にある一番大きな焚き火のまわりに、十数人が集まっている。


 男も、女も、老人も、子供もいた。


 革鎧を繕う者。干し肉を子供の口へ運ぶ者。ぼんやり火を見つめる者。


 俺が出てくると、年かさの者が何人か目を合わせた。


 だが、誰も立ち上がらない。


 慣れているのだ。


 俺がボルゲンと話し終えたあと、いつもこんな顔をしていることを、皆知っている。聞いたところで答えが返らないことも。


 俺は天幕の裏へ回り、しゃがみ込んだ。


 水桶に手を突っ込み、顔を洗う。


 冷たい草原の水が頬を伝い、髭の中へ流れ込んだ。


 頭上の星空が、目に痛いほど明るい。


 雲はない。


 月もない。


 ただ星だけがある。


 びっしりと、隙間もなく。


 昔、カラハンは言っていた。


 星は死んだ戦士の魂だ。天の上から俺たちを見ている。だから、死んだ兄弟たちに臆病な姿を見せるな、と。


 俺は言った。


 馬鹿を言え。星は星だ。死んだやつが、死んだあとまで何を見る。


 今、カラハンは天の上から俺を見ているのだろう。


 なら、好きなだけ見ていろ。


 俺は手についた水を乱暴に振り払い、立ち上がった。


 戻ろうとした、その途中だった。


 先に耳が動いた。


 足音。


 乱れている。


 よろめき、引きずるような足音。酔っ払いの足取りに似ているが、それよりずっと危うく、制御を失っている。


 直後、悲鳴が上がった。


 女の悲鳴。


 続けて、二つ目。


 三つ目。


 俺は天幕を回り込んだ。


 最初に見えたのは、火に照らされた影だった。


 魔狼族《まろうぞく》の影。


 だが、おかしい。


 四肢を地につけ、背骨を弓なりに反らせ、尾を硬く立てている。


 腕が、目に見える速さで膨れ上がっていた。


 筋肉が皮膚を内側から押し広げ、裂け目から黒い紋様が滲み出す。指が歪み、爪が剥がれ、その下から灰白色の骨爪が突き出してきた。


 顎が開く。


 開いてはいけないところまで開く。


 関節が、がき、がき、と嫌な音を立てた。


 口の端から涎が垂れている。


 焚き火の光が、その顔を照らした。


 俺の息子の顔だった。


 目は金色のままだ。


 魔化した金。


 だが、表情がない。


 何も入っていない。中身をくり抜かれたような、ただの空白。


 口が開き、音が漏れた。


 胸の一番深いところから無理やり絞り出したような、どんな生き物の声でもない咆哮だった。


 周囲の者たちが後ずさる。


 転んで、手足をばたつかせながら這い下がる者がいる。


 子供を小脇に抱え、遠ざかる者がいる。


 刀を抜く者がいた。


「動くな!」


 俺の声が炸裂した。


 息子の咆哮よりも大きかった。


 思っていたより、ずっと大きかった。


 まるで、自分ではない誰かの胸から出た声のようだった。


 そのときには、もう走っていた。


 息子がこちらへ飛びかかってくる。


 記憶にあるあいつより、ずっと速い。


 いや、違う。


 もう、あいつではない。


 最後に抱き上げたときの倍ほどに太くなった腕。肩甲骨のあたりには、あるはずのない筋肉の塊が盛り上がっている。


 爪が振り下ろされた。


 俺は身を捻ってかわし、その腰へ腕を回した。そのまま押し倒す。


 次の瞬間、背中に爪が食い込んだ。


 痛い。


 ひどく痛い。


 肉が裂ける痛み。


 血が肩甲骨を伝って流れ落ちる。熱かった。だが、すぐに冷えていく。


 それでも、離すわけにはいかなかった。


 もう片方の爪が、俺の肩へ伸びる。


 指先が鎖骨の横をかすめ、革鎧を裂き、その下の肉まで裂いた。


 自分が低く呻くのが聞こえた。


 それでも離さない。


 牙が、前腕に食い込んだ。


 今度は視界が白くなるほど痛かった。


 だが、腕は緩めない。


 俺は息子の身体を抱え込み、地面へ押さえつけた。


 腹に蹴りが入る。


 一度。


 二度。


 重さが増していく。


 肋骨が、危うい音を立てかける。


 それでも、離せなかった。


「ガルム」


 名を呼んだ。


 金色の目は変わらない。


 牙が、さらに一寸深く沈んだ。犬歯の下で、骨が軋む音がした。


「ガルム」


 息子が狂ったように吼えた。


 涎と血が、俺の顔に飛び散る。


 牙から魔力が流れ込んでくる。傷口へ火種を落とされたように、血管に沿って焼け上がっていく。


 咆哮のたびに、骨を内側から槌で叩かれているようだった。


 痙攣のたびに、息子自身の肉が裂けていく。


 皮膚が割れ、黒い紋様が広がる。


 魔化の力が、血肉を食っている。


 俺はその目を見た。


「ガルム。俺はお前の父だ。俺の声を聞け」


 息子の爪が、俺の肩から抜ける。


 血が顔に滴った。


 爪が再び持ち上がる。


 俺の喉へ向けられる。


 宙で、わずかに震えていた。


 迷いではない。


 筋肉が痙攣しているだけだ。


「起きているんだろう」


 背後で誰かが俺の名を叫んだ。


 ボルゲンの声だった。


 離せ、と言っている。


 もうあれは息子じゃない、と。


 俺に任せろ、と。


 刀を使わせろ、と。


 振り向かなかった。


「黙れ」


 息子の牙が震え始めた。


 いや、牙だけではない。


 噛む力が弱まっている。


 金色の瞳の奥で、何かが揺れていた。


 水面の下に沈められた光みたいに、点いては消え、消えてはまた点く。


 魔化した瞳のさらに奥。


 息子の目が、まだそこにあった。


 押し潰されて、底に沈められて、ほとんど見えない。


 それでも、まだある。


 俺にはわかる。


 俺は父親だからだ。


 あいつは、俺の息子だからだ。


 幼い頃から身体が弱かった。


 同じ年頃の子供に走って追いつけず、転んでは泣いていた。


 それでも俺が手を差し出すと、涙を拭って、必ずこう言った。


 父さん、まだ走れる。


「ガルム」


 爪が下りた。


 身体はまだ震えている。


 だが、攻撃は止まった。


 口の中の牙が、俺の腕から離れる。血の糸を引いて、ゆっくりと抜けた。


 息子は横向きに丸まった。


 意識を失う直前、金色の目が限界を迎えたように閉じるのが見えた。


 その身体が、俺の腕の中に崩れ落ちる。


 軽かった。


 枯れ枝の束みたいに。


 俺は、息子を抱いていた。


 腕から、肩から、背中から、血が流れている。


 地面に落ち、土へ染み込んでいく。


 周囲の者たちは俺を見ていた。


 誰も何も言わない。


 風の音だけがあった。


 やがて、ボルゲンが俺の隣に膝をついた。


 黙ったまま自分の服を裂き、俺の傷を縛り始める。


 何も聞かなかった。


 ボルゲンも、一度は父親だった男だ。


 わかるのだろう。


     ◇


 俺は息子を天幕へ運び、敷物の上に寝かせた。


 血は止まっていた。


 前腕の噛み抜かれたところはまだ疼いているが、骨は折れていない。背中の裂傷も、ボルゲンが縛った。手つきは荒いが、締め方は堅い。


 息子はまだ眠っている。


 呼吸は浅い。


 顔の半分が影に沈み、睫毛はぴくりとも動かない。


 魔化の黒い紋様は、いくらか引いていた。皮膚は浅黒い色を取り戻している。だが、まだ薄く暗い痕が残っていた。


 俺は隣の地面に座り、柱に背を預けた。


 天幕の中は静かだった。


 聞こえるのは風の音と、焚き火の熾がときおり小さく爆ぜる音だけ。


 遠くで誰かが歩いている。散らばった荷を片づけているのだろう。


 誰も入ってこなかった。


 俺がここに座っていると、皆わかっている。


 どれほど時間が経ったのか。


 敷物の上で、ごく小さな呻き声がした。


 目より先に、耳が反応した。


 息子が目を覚ましたのだ。


 目はまだ閉じている。


 だが、瞼が動いていた。


 痙攣ではない。開こうとしている。


 手が――つい先ほどまで、俺の肉を裂き、噛み千切ろうとしていたその手が、毛布の下から滑り出た。


 指が丸まり、ゆっくりと開く。


 何かを探るように。


 息子が目を開けた。


 金色ではなかった。


 灰黒色だった。


 その灰黒色の目が、ゆっくりと動く。


 自分がどこにいるのか確かめるように、天幕の天井を見上げ、傍らの熾火を見て、最後に俺の顔で止まった。


 俺を見ている。


 目を逸らしはしない。


 だが、俺を認識してはいなかった。


 まるで、初めて見る相手を前にしているようだった。


 何を言えばいいのかわからない顔。


 いや、違う。


 言葉を発していいのかどうかさえ、わからない顔だった。


 息子は口を開いた。


 喉の奥で、曖昧な音が鳴る。


 すぐに片手で額を押さえた。眉根がきつく寄る。どこから来るのかわからない痛みに耐えているようだった。


 それから、自分の手を見下ろす。


 魔化の痕が残る手を。


 目が見開かれた。


 瞳孔が、一瞬で細くなる。


 身体が後ろへ跳ねた。


 毛布が滑り落ちる。


 黒い紋様を凝視し、それから弾かれたように顔を上げる。


 俺の耳。


 俺の顔。


 この天幕。


 周囲のすべて。


 息が浅く、速くなっていく。


 指が敷物を掴んだ。


 爪が食い込むほど強く。


 恐怖だった。


 純粋な、何の前触れもない恐怖。


 息子は後ずさろうとした。


 だが身体が弱りすぎている。腕から力が抜け、すぐに敷物の上へ崩れた。


 横たわったまま、胸を激しく上下させている。


 手はまだ、敷物の端を掴んでいた。


 指先が白くなるほど。


 灰黒色の目が、もう一度こちらを見る。


 唇が何度も動いた。


 だが、言葉にならない。


「ようやく起きたか」


 俺は言った。


 息子は動かなかった。


 長い沈黙が落ちる。


 やがて、唇がもう一度だけ動いた。


 今度は、ほとんど聞き取れないほどかすかな声が、喉の奥から押し出された。


「……スープ」


 その手は、震えていた。


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