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第一話:純白

気がついたとき、目の前には白しかなかった。


 どこまでも、白。


 上下もわからない。左右もわからない。自分が立っているのか、倒れているのかさえ判然としない。


 俺は、自分が死んだのだと理解するまで、ずいぶん長い時間を要した。


 一刀。


 また一刀。


 錆びきった釘。ひしゃげ、爛れた手足。下水道の泡みたいに押し寄せる群衆。


 血。


 大量の血。


 裂かれた皮膚から流れ出し、太腿を伝い、石畳の上へ落ちていく。


 見物人の中には歓声を上げる者がいた。罵声を浴びせる者がいた。ただ無表情に眺めている者もいた。


 あの声が、だんだん遠くなっていったのを覚えている。


 水の底へ沈んでいくみたいに。


 そして、ここにいた。


 意識は錆びた歯車のように、少しずつ、ぎこちなく回り出す。


 俺はぼんやりとその場に立ち尽くしていた。足元に広がるこの虚無を、地面と呼んでいいのなら、の話だが。


 身体に重さはなかった。


 寒さも、暑さもない。


 ただ中身をくり抜かれたみたいな浮遊感だけがあった。少しでも気を抜けば、そのまま薄くほどけて消えてしまいそうだった。


 遠くに、何かがある。


 白一色の視界の中に、ぽつんと塔が立っていた。


 白い尖塔。


 ひどく遠いはずなのに、不自然なくらい鮮明だった。輪郭の一つ一つが、網膜に切り込んでくるようにはっきり見える。


 俺は、その塔を知っている。


 王都にいた頃、毎日のように窓から見ていた。


 世界樹の残骸の上に建てられた塔。人類がエルフを征服した証。至高神信仰の象徴。勇者たちが、地下迷宮で訓練を受ける場所。


 どうして、あれがここにある。


 いや、違う。


 ここは王都じゃない。


 ここは、どこでもない。


 俺は死んだ。


 死んだはずだ。


 足元から寒気が這い上がってきた。


 温度の冷たさではない。もっと根の深いものだった。


 恐怖。


 氷水を、空っぽの殻の中へ流し込まれるような感覚。


 俺は走り出した。


 塔へ向かって走った。


 塔から離れるように走った。


 どちらでもない方向へも走った。


 けれど、塔は近づかなかった。


 遠ざかりもしなかった。


 ただそこにある。距離も、大きさも、何一つ変わらない。まるで背景に貼りつけられた一枚の絵だった。


 さらに速く走った。


 足音は返ってこない。虚空を踏んでいるみたいだった。


 なのに、自分の呼吸だけはやけにはっきり聞こえた。


 俺は呼吸しているのか。


 わからない。


 それでも、荒く、重く、速くなっていく息の音だけが、耳の奥にこびりついていた。


 どれだけ走ったのか、わからない。


 ようやく足を止めたとき、周囲には人がいた。


 大勢の人間がいた。


 男。女。


 時代も、身分も、ばらばらの服装。


 背広姿の会社員。学生服を着た高校生。甲冑をまとった騎士。長衣を被った神官。


 顔は見えない。


 どの顔にも薄い靄がかかったようで、目も鼻も口も曖昧に溶けていた。


 けれど、目を逸らした瞬間、その顔は記憶から消える。


 曖昧だったことさえ、思い出せなくなる。


 誰かの肩が、俺にぶつかった。


「あ……」


 声が漏れた。


 相手は振り返らない。


 俺がそいつを見ると、格子柄のシャツを着た背中が、煙のようにほどけて消えた。


 掴めたのは、白だけだった。


 次々と人がぶつかってくる。


 肩。


 腕。


 背中。


 触れられるたびによろめき、振り向くたびに、消えかけた残像だけを見送る。


 人の流れは、どんどん濃くなっていった。


 速くなっていった。


 誰かが俺の胸を押した。


 重心が後ろへ倒れる。


 背中が何かにぶつかった。


 地面か。


 けれど、ここに地面なんてあったのか。


 俺は仰向けに倒れていた。


 人々が四方から集まってくる。


 そして、拍手を始めた。


 ぱち、ぱち、ぱち。


 最初はまばらだった。


 やがて数が増え、音が重なり、整っていく。


 全員が拍手していた。


 顔の見えない頭が、いくつもこちらへ傾く。俺を見下ろしている。


 拍手の隙間から、笑い声が滲み出した。


 割れた管から水が噴き出すみたいに。


 肘をついて起き上がろうとした。


 力が入らない。


 身体が拒んでいる。


 まるで、虚空に釘で打ちつけられているみたいだった。


 そのとき、彼女が歩み出てきた。


 人垣の隙間から、軽やかに一歩。


 俺は、その背中を覚えている。


 王宮の廊下。


 女中服を着て、銀の盆を持ち、真紅の絨毯が敷かれた長い廊下を音もなく歩いていた。


 あの頃、彼女は決してこちらを振り返らなかった。


 今、彼女は振り返った。


 顔が、はっきり見えた。


「気持ち悪い」


 声は、とても軽かった。


 あの夜、「逃げて」と囁いたときと同じくらい、優しい声だった。


 ただ、言葉だけが違っていた。


「せっかく勇者にしてもらったのに、最低級の火球すらまともに使えないなんて」


 違う。


 俺は練習した。


 毎日、練習した。


 誰も教えてくれなかった。薬もなかった。装備もなかった。


 だから、一番馬鹿みたいなやり方で、壁に向かって何度も何度も撃ち続けた。魔力が尽きて倒れるまで。


 言い返そうとした。


 口を開く。


 声は出なかった。


「知ってる? 昔からあなたはそうだった」


 彼女は小首をかしげ、口元を歪めた。


「何をやっても駄目。何一つ自分でできない。孤児院にいた頃だって、いじめられたら泣くだけで、私がなんとかしてくれるのを待っていた。十歳のとき、私が連れていかれた日、あなたは何をしたの?」


 違う。


 俺は――


「何もしなかった」


 彼女は笑った。


「あなたは、ただのゴミ」


 その声の後ろから、別の声がした。


 金髪の、いかにも恵まれてきた男。


 勇者。


 オルフェンとか、そんな名前の男だった。


 銀白の鎧をまとい、絵画から抜け出してきた英雄みたいな姿で、彼女の背後に立っている。


 俺を見てもいない。


 ただ、彼女の肩にそっと手を置いた。


「駒にする価値もないな」


 彼は付け加えた。


 次に、シグルーンの声。


「勇者の枠を無駄にしただけの屑です。ほんの少しでも自覚があるなら、本当に資格のある者へ譲るべきでした」


 訓練場で汗を流していた予備兵たち。


 国境で戦う若い兵士たち。


 誰だって、俺より資格があった。


 知っている。


 そんなことは、ずっと前から知っていた。


「まあまあ、そんな言い方すんなって」


 あの忌々しい不良の顔が、反対側からひょいと覗いた。


 にやにやと笑っている。


「こいつだって頑張ったんだぜ? 頑張った結果、やっぱりゴミだっただけで」


 笑いが爆ぜた。


 人垣がどっと沸いた。


 顔の見えない連中が、肩を揺らして笑っている。


 金属でガラスを引っ掻くような笑い声。


 豚の鳴き声みたいな笑い声。


 ただの騒音でしかない笑い声。


 王女が、人垣の中から歩み出てきた。


 彼女の顔も、はっきり見えた。


 笑ってはいなかった。


 ただ俺を見下ろしている。


 踏み潰された虫を見るような目だった。


「勇者詐称。王族への不敬。宮廷女中の惨殺」


 唇だけが、淡々と動く。


「その罪状、覚えているでしょう?」


 俺は誰も惨殺していない。


 ただ、火球を撃っただけだ。


 たった一発の火球。


 それも、あの忌々しい“勇者契約”に弾き返されて、俺自身を焼きかけた火球だ。


 違う。


 彼女は。


 彼女を殺したのは、お前たち――


「死刑」


 王女が言った。


 周囲の笑い声が、さらに大きくなった。


 全員が拍手している。


 打ち鳴らされる手のひらが、まるで無数の目のように俺を見ていた。


 人垣の中から、誰かが押し出されてくる。


 知らない人間だった。


 向こうも、俺のことなど知らないはずだった。


 それなのに、全員が笑っている。


 全員が俺を指差して、何かを言っている。


 聞き取れない。


 帰してくれ。


 喉の奥から、声が絞り出された。


「日本に……帰してくれ」


 なぜか、その一言だけは、はっきりと響いた。


 拍手が止まる。


 笑い声が止まる。


 すべての顔が、こちらを向いた。


 人垣が、ゆっくりと割れていく。


 道ができる。


 彼女が、また歩み出てきた。


 今度は歩き方が違っていた。


 しなを作るような、わざとらしく恥じらうような、舞台の上で何かの役を演じているような歩き方だった。


 彼女は俺のそばにしゃがみ込む。


 顔を近づける。


 そして、笑った。


「ゴミには、ゴミらしい生き方があるでしょう?」


 声は、甘ったるいほど優しかった。


「ゴミなんだから、ゴミとして生きていればいいの。ね?」


 拍手が、また始まった。


 さっきよりも鋭い。


 もっと鋭い。


 誰かが叫んでいる。


 誰かが甲高く笑っている。


 人垣が崩れ落ちるように縮まり、顔という顔が押し合い、潰れ合いながら、俺を覗き込んでくる。


 その瞬間、足元が消えた。


 落ちる。


 全身を、墜落の感覚が掴んだ。


 無重力。


 深い穴の底へ投げ捨てられたようだった。


 頭上には、まだ人々がいる。


 遠ざかっていく。


 小さくなっていく。


 無数の顔が笑っていた。


 空一面に散った星みたいに、びっしりと。


 笑っている。


 笑っている。


 笑っている。


 そこで、意識が途切れた。


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