第三話:杯は傾けられた
違うはずだ。ありえない。
いや、あってはならない。
彼の目は、これほど冷たくはなかった。こんな、凍える寒さを感じさせはしない。もっと暖かい、陽だまりのような目をしていたから。
つい浮かんでしまった考えを一蹴して、唇を軽く噛み締めた。
ここが勝負どころなのだ。集中しなくては。
「お待たせして申し訳ありませんわ。この部屋があまりに寒くて、つい昔の悪い夢を見てしまいましたの」
まずは皮肉混じりに答えて、相手の出方を観察してみる。
醸し出す重圧に、こちらを見下ろすような視線。
このタイプだと、舐められてしまったら終わりだ。
少しだけ真実を混ぜ、悟られない程度に嘘を吐くのが社交術の鉄則。
一つ一つ、使う言葉を間違えてはならない。
慎重に、それでいて、常に気を引くように振る舞わなければ。
この場合は手を握らないのが正解だろう。
その気はない、と彼にニコリと微笑んで見せる。
「ほう。俺の手を取る気はない、か。まあいいだろう」
公爵はお茶を、と執事に合図を出し、テーブルを挟んで私の向かい側に座った。
「それで、俺に何のようだ?断糸の未亡人」
正面に座ると、その顔がよく見える。何故だろうか、少し疲れているようだ。
本題に入る前に当たり障りのない会話から探ってみるか。
「その前に。最近少し、お疲れではありませんか。
もしよろしければ、バルテル商会の香り玉でもいかがでしょう?
寝る前に一つ使えば、朝までぐっすりですわよ」
そう口にすると、はあ、と息を吐き鋭い氷のような目でこちらを睨んだ。
「何を言っている。関係のない話をするのならば、帰らせるぞ」
これに乗ってこない。
まったく、この人のどこが「なり損ない」なんだか。
動作一つとっても、今までに見た誰よりも威圧感を感じる。
疲れているはずなのに、そこはかとなく漂う色気。
これまでに会ったどの人間とも違う。
そして、バルテルの名に無反応な、この感触。
隠しているのか。それとも、覚えてすらいないのか。
――次だ。
「あなたは甘いものがお好きなようですね。私も大好きなのです。
今日は親交を深めるために、王都で有名なケーキを買ってきました」
取り寄せてもらった、バルテル商会傘下の人気店のケーキ。
彼もよく利用しているそうだから、断りはしないだろう。
「そうやって俺を毒殺でもするつもりか?」
「まさか。私も一緒に食べますよ。お望みなら、毒味でもしますわ」
張り詰めていた空気。その最中、男の目元が少しだけ緩むのが見える。
妹にもらった情報は正しかったようだ。
やはり、彼は甘いものに目がない。
ちょうど良いタイミングで、執事がお茶を運んできた。
二人で黙々とケーキを口に運ぶ。
いつもの味だ。優しい甘さが口の中でとろけて、安心する。
二人で食べるとわかっているのに、四人分――普段より多めにしてくれた妹の計らいに少し勇気を貰った。
これから、本題に切り込む前に。
「フィデルス・バルテル。この名前に、聞き覚えはありませんか?」
ケーキを刺そうとしたフォークが、わずかに止まる。
けれど相変わらず、その視線はケーキに向いたまま。私の方を見向きもしない。
「……北部交易路の独占認可を持っていた豪商か。
昨年、彼が死したことでその権利は我がアイセントール家へ無償で返還されたな。
それがどうした」
『還付条項』。
正確には、王室公認・独占営業権の還付条項。
私たちが住むこの王国において、商売に関わるものならば持っている当然の知識。建国に携わったその多大な功績から、公爵家は王室に授けられた膨大な権利を有している。
莫大な富を生む事業――塩の専売、公道の通行税徴収、特定鉱物の採掘などーーは、すべて“国王から公爵家へ委託された権利”であり、彼らは取り仕切る地方において、その営業権の管理を一括で担っているのだ。
この場合、北部の主人であるアイセントール家は、北部地域の王室公認・独占営業権の運用を行なっている。
そして、その営業権を個人が譲り受ける際、公爵家が発行する許可証には代々伝わる非情な特約が含められる。
得られる莫大な利益の代わりに、大きなリスクを負うギャンブル。
それこそがーー、
「第5条。還付条項――通称、悪魔の契約。
認可を受けた個人が死亡、または職務不能となった場合、その営業権および付随する施設・利権は、直ちにアイセントール公爵家へ無償で返還される、でしたか」
人の死をーーフィデルスの死を他人事のように語られ、腹の奥から湧き出る怒りが収まらない。
その憤怒を優雅な笑みに変え、とうとうと語ってやる。
「まったく、随分都合のいい話ですわね。悪魔の契約をした矢先に死ぬなんて。
でも、現実はそう甘くはありませんわ。あなたにとっては、残念なことに」
目の前の男はケーキを食べる手を止め、いつからかこちらを見据えていた。
「北部交易路の権利は戻った。けれど、それを動かすための現場の商人たちは、父を慕っていた二人の兄妹たちが握っている。
私の元夫―フィデルス・バルテルの子供にして、私の妹である。
バルテル商会主、レチナ・バルテルがね」
心の奥底に空虚を隠したような、その蒼き双眼に好奇心が宿り、私の姿を写し始める。いつの間にか北部の冷たい雪が溶け、太陽が空に昇り、周囲の温度が上がっていくのを肌で感じ取る。
「使い方も知らなければ、権利などただの紙切れでしかありませんもの。何より――」
私は空になったティーカップをわざと見つめる。そこに入っていた、琥珀色のお茶の名残を。
「その広大な領地を、その膨大な権利を維持するための『温かな血』が、今のアイセントールには流れていない。……違いますか?」
お茶を運んできた執事は、微動だに出来ぬまま立ち尽くし、私の顔を凝視している。集められた視線を満足げに見つめ返し、扇子で口元を隠した。
そのまま、先日書いた手紙の返信――バルテル商会の実務役を担う、子爵家当主ーー弟のサクシン・バルテルが送ってくれた、委任状を差し出す。
同封されていた手紙を思い出し、思わずフッと笑みが溢れた。
「やられた分以上にやり返して、一発入れてきてください、姉上。
やられたままは許せませんよ」
三番目の夫。フィデルスから継いだ、琥珀色の瞳が意地悪げに細められているのが分かる。
「あなたに救われたあの時から、僕たちはいつまでもあなたの味方ですから」
なんて、私の兄妹は私に見合わないほど、頼もしい。
いつか彼らに、その厚意を返せるように。
少しでもフィデルスの、仇を取れるように。
勝ち取れ。この、正念場を。
「私は貴方に、投資をしに参りました。私が持つ全ての現金と、バルテル商会の流通網。これを貴方の『凍りついた家門』へ注ぎ込みましょう」
獲物を狙う獣のようにスッと鋭くなった瞳。
こちらも負けじと目元を歪ませる。男を軽く手玉に取ることが、さも当然であるかのように。
「…代償は何だ。毒婦」
どうやら上手くいったようだ、と私は内心ほくそ笑んだ。
もちろん、そんな様子は毛ほども出さぬまま。
ゆっくりと、蠱惑的に唄う。
「私の夫たちの血を吸い上げた、そのアイセントールの紅き氷の盾。
今度は、私の盾になっていただきたいのです。私を、公爵夫人になさいませ」
先ほどは握り返さなかった手。
それを今度は、契約書と共に私から差し出す。
「閣下。その手で私の毒杯を飲み干す覚悟は、できていらっしゃいますか?」
つかみ返された手に似合わぬほどの温かさを、手袋越しに感じたまま。
「……いいだろう。その毒、呑み込んでやる」
その言葉は、誓いのキスよりも重く、呪いのように余韻を残した。




