第二話:笑おう、あなたを忘れられるまで
私の人生は、忘れたい記憶で溢れている。
また一つ、また一つと増え、もう抑えきれないほどに。
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断糸の未亡人。4人もの命を絶った毒婦。
あの日を境に、その言葉は私の代名詞となった。
靴に染み込み、足元に広がる赤黒い血。
何回瞬いても覚めることのない夢。
つまり、私が生きるべき現実である。
結局私には、浮かんだ考えを整理する暇さえ与えられず、翌日はすぐに葬式となった。
「売女!」
「この、死神!」
しとしとと雨が降る中、厳かに執り行われるべき葬儀。だがその最中、神聖な教会に響くのは私への野次ばかり。一部の良識ある参列者も呆気に取られ、祈りの言葉すらまともに聴き入ることが出来ないでいる。
「本性を表したわね! この人殺し!」
騒ぎの中心にいるのは夫の親族だった。警備が止めるのも聞かずに押し入ってきたかと思えば、神父様のお言葉を遮って大声で会話している。
なぜ彼らは、大切な人が亡くなったのに、彼が旅立つまでの時間さえ、静かにしていられないのか。
最愛の恋人を亡くし、その悲しさに浸る間すら私には必要ないとでもいうのか。
追悼の意も冷めやらぬまま、どうして。
分からない。分かりたくもない。
その気もないくせに、私と同じ黒の喪服を着ているその理由も。何もかも。
親族たちは靴についた泥すら払い落とさず、勝手に列を乱して最前列を陣取った。
彼らが歩くたび赤い絨毯にベチャリと黒い足形が刻まれ、それが夫の棺のすぐ側までどんどんと伸びていく。
棺の中を覗き込み、夫の顔を見たかと思えば、濡れてヨレヨレになった花をポイと放り込んだ。
少しずつ、夫のお気に入りだったグレーのスーツが黒く染まっている。何時間もかけてやっと綺麗になった身体がまた、汚された。入れ替わり、立ち替わりにきた人々は笑いながら私を指差し、彼の顔を見ることさえない。
いつの間にか、親族連中が集まって声高にそれぞれの相続権を主張していた。
待っていましたとばかりに、脂ぎった顔を歪ませ、取り分を指折り数えている。
「シェイラムを育てたのは私たちよ! この屋敷をもらう権利ぐらいあるでしょう」
「育てた?娘を婚約者にしようと押し付けて、煙たがられていたじゃないか。だからこんな毒婦と結婚したんだろう」
「笑わせるよな。後継者教育すら受けさせなかったくせに。俺は外れの領地で良いぞ」
「俺たちはあいつの事業に投資してたんだ。事業は俺が貰っていく」
爵位と屋敷。もちろん、財産のほとんどは彼の弟に継がせると既に決めた。
私には必要もないものだからだ。それに彼が大切にしていた弟とは、揉めたくない。
だというのに、なぜ夫の遺産の話で、何の関係もない外野が吠えるのか。
これまで彼が苦しんでいても、何一つ手を差し伸べなかったくせに。
血の繋がりがあろうが、どんなご大層な家柄だろうが、シェイラムに祈りすら捧げなかったくせに。
「自業自得だな。曰くつきと結婚するなんて。まあ、おかげでこっちは儲けものだ」
「隠し持っていた金があるだろう。上手くいけば、屋敷も手に入るかもな」
まったく。あんな蝿どもに渡すお金も構っている暇もないというのに。
ただ、少しだけ。彼と一緒にいられる時間が欲しい。彼の頬を撫でて、楽しかった時を語り、最後にお別れのキスをしたい。
いや、その時間すら今、こんな奴らに奪われかけていることが許せなかった。
「静かにしてください。それが出来ないのならば、ここから出ていってください。これは私からの警告です」
痛くなるこめかみを押さえて、聞いてくれるよう願う。これが通らないなら、強硬手段に出るしかないかもしれない。
「何言ってるのよ!あなたが出て行きなさいよ!」
「そもそも、お前みたいな乞食なんかと結婚した、シェイラムが間違っている。
ヴェルディスタ伯爵家の恥だな」
はあ、と息を吐く。これだったのか。夫がいつも親族に会いたがらない理由は。
話には聞いて分かっているつもりだったが、少々今の私は怒っている。
「シェイラムがあなた方に会いたがらなかった理由が、今よく分かりましたわ。
だって、これほどまでに費用対効果の悪い親族など、関わるだけ時間の無駄ですもの」
…ああ、そう。彼にかけらの興味もない貴方たちは、私が『死神』であることすら忘れているのね。
取り消そう。少々ではない。相当だ。
精一杯、顔を作れ。
微笑むのだ。唇を歪めて眉を上げろ。邪悪さなど、作ってやれ。
あの新聞に書いてあった、毒婦に見えるように。
「あなたたちも、毒を飲んでーー呪われたいのかしら?」
ざわり、と動揺が広がる。
反撃もしない大人しい小娘だと思われていたのだろう。
結婚前の挨拶だって何を言われても我慢した。
乞食?まあ間違ってはいない。私の過去は、確かに伯爵家には見合わないものだと思う。
それも全て飲み込んだ。彼と一緒にいるためだったから。
でももう、彼はいない。
冥府の毒杯。夫たちを無惨にも食い殺した、稀代の悪女。死神未亡人。
神聖であるはずの場に怒号が響く。私をなじる、屈辱の言葉の数々が。
「お前こそ死んでしまえ!呪われてしまえ!」
良いだろう。その言葉、その印象。いくらでも使ってやる。
好きに言えば良い。私のことなど。
――ただ一つ。シェイラムを悪く言うことだけは、許さない。
「本当に、どうしようもない方々ですわね」
シャラリ、と扇子を勢いよく広げ、騒々しい空間を切り裂いた。堂々たれ。ひるむな。怯えてはならない。
うるさい蝿は、ここで叩き潰す。
「そんなにこの遺産が欲しいのであれば、良いですよ。差し上げますわ。
――ただし、私の夫たちと同じ、冥府への片道切符もご一緒になりますけれど。
さあ、杯を飲みたい方は並んで下さる?」
ようやくしんと静まり返った場にカツンカツンとヒールの音を強く立て、一人一人の前を順にゆっくりと歩く。
「どうされました?先ほどまでの威勢はどこに行ったのです?」
不思議に思う体を装いながら顔を覗き込んでやると、ヒイッと情けない声を上げて面白いように腰を抜かした。
「さすが、人の物を取ろうとする方々は、格が違いますわね。一緒の空気を吸っているのが恥ずかしくなりますわ」
「何をっ、高貴な血筋でもないあなたが格を語るなんて!」
私を人殺し呼ばわりした上突っかかってきた女には、その首に扇子を当ててスーッと横に引いてやる。
「……あら。私、知っていますのよ。貴女、旦那様の商売敵と不倫して……失礼、言葉が過ぎましたわ。『不貞』という負債を抱えていらっしゃいますわよね」
私は左手で口元を隠し、怯える女の耳元でとっておきを囁いた。
「しかも、遊びのお金の出どころは、あちらの商会の横領金だとか。三番目の愛人に相応しいですわね。明日の朝刊の一面を飾るのに、これ以上の商品価値があるネタも珍しいわ」
欲しがっている男たちには、反論すら許さぬ事実を突きつける。
「それから、あなた方。確か商会の経営に失敗して、首が回らない状態でしたわよね? 何度もシェイラムに金をせびりに来ていた記録が、私の手元にございますの。確か、今月だけで12回も」
たらりと、親族たちの顔を一筋の汗が流れ、首を伝って喪服を汚していく。
「『殺された新郎の親族、金欲しさに殺人か?』……。いい見出しだと思いません? それとも、これは単なる憶測ではなく、これから暴かれる真実かしら?」
たっぷりと時間をとって、彼らが自分たちの破滅への道筋を、計算できるまで追い詰めた後。
私はタン、と急に立ち止まり、その場をくるりと見渡して微笑んだ。
「あなた達など、私はどうにでも出来るのですよ。慈悲で生かして差し上げていることを、お忘れなく」
本当に無様な人たち。小娘一人言い返せないくせに、亡くなった人を貶めるなんて。
「皆様。ご存知の通り、この屋敷の3分の1の所有権は法的に私にあります。
つまり、私が出て行けと言った瞬間、あなた方は不法侵入者ですね」
静かに、しかし大きく。場にはっきりと通る声で処刑を宣告する。
「憲兵を呼ぶまで三秒待ちましょうか。……三、二――」
もう、誰も私に口答えは出来ない。一人、また一人と後ずさりながら一目散に逃げようとする。
場の空気に当てられたのか、面白がって見ていた野次馬も蜘蛛の子を散らすように去っていく。
シェイラムを笑ったあの男なんか、人の波に押されて無様に転び、膝を抱えていた。
「分かったなら散りなさい。
ああ、お望み通りーーあなた達はもう杯を呷っているかも、しれないわね」
高らかに、けれどあくまで優雅に、笑え。
「…ははっ」
もう笑えない、彼の分まで。
「ハハッ、アハハハハ」
目の奥でチカチカと彼の微笑みがまたたく。
「アハハハ、ハハハハハハハ」
「…クロティル」
どこからか彼の甘い声が聞こえてきたかと思えば、いつの間にか私は彼の胸の中にいた。
「クロティル。またあのアイスクリームを食べに行こうね。でも、今度は別の味も試してみたいかな。ほら、いつも同じのだからさ」
「そうだな、来週末にでも行こうか。僕たちが出会った、あのカフェに」
私はグレーのスーツを着た彼の背に手を回して、ギュッときつく抱きしめ返す。大きなあなたの身体から、ふわっと新緑のような香りがして、思いきり吸い込んだ。
「行きましょう、何度だって。明日も明後日も、その次も。行きたい時に行きたい場所へ」
私が緑色に光る彼の瞳を見つめると、手を離してゆっくりと屈んでくれる。
「ああ。僕と君、ずっと一緒だ」
重なり合った目線。身長の低い私でも届くよう、顔の高さを合わせてくれる彼に、私から唇を重ね合わせた。
…まだ、あれから四日しか経っていないのに。
「ハハハ、ハハハハ、アハハハハ」
広げた腕でかき抱こうとしても、彼はもうそこにいない。汚れのないエメラルドの指輪をつけたまま、棺の中で静かに微笑んでいる。
もう二度と、違う味のアイスクリームを試すことすら叶わず。
「アハハ、ハハハ、んぐっ」
滲む視界も、痛む胸も。詰まったことに気付かないふりをして笑い続ける。
空を切る手を伸ばして、届くはずもない温かさを必死に探した。
狂ったように。壊れたように。
最後に見た彼の顔を、焼き付けて永遠に忘れないため。
喉が枯れて、今度こそ吐息しか出なくなるまで、ずっと。
まだ彼の香水の匂いが残るハンカチを、痛いほど握りしめながら。
――もし彼が生きていてくれるなら、本当に私の命なんていらなかったのに。




