第一話:断糸の未亡人
私の人生は、忘れたい記憶で溢れている。
また一つ、また一つと増え、もう抑えきれないほどに。
断糸の未亡人。4人もの命を絶った毒婦。
あの日を境にその言葉は私の代名詞となった。
靴に染み込み足元に広がる赤黒い血。何度洗っても鼻の奥から消えない鉄の匂い。
何回またたいても覚めることのない夢。
つまり、現実である。
何時間も泣き続け、身体をつねり、叩き、目を覚まそうと繰り返して。
もう身体から出るものがなくなってしまった頃。
やっと。
この期に及んで、やっと理解したのだ。
これは偶然ではない。
必然であったと。
回らない頭が結論を出すのは、もう全てが終わった後だった。
勿論私には、浮かんだ考えを整理する暇さえ与えられず。翌日はすぐに葬式となった。
「売女!」
「この、死神!」
しとしとと雨が降る中、厳かに執り行われるべき葬儀。だがその最中、神聖な教会に響くのは私への野次ばかり。一部の良識ある参列者も呆気に取られ、祈りの言葉すらまともに聴き入ることが出来ないでいる。
薄暗く小さい部屋にいっぱいに広がる叫び声と怒号。葬儀にあるまじき騒がしさ。その騒ぎの中心にいるのは夫の親族だった。警備が止めるのも聞かずに押し入ってきたかと思えば、神父様のお言葉を遮って大声で会話している。
なぜ彼らは、大切な人が亡くなったのに、彼が旅立つまでの時間さえ、静かにしていられないのか。
最愛の恋人を亡くし、その悲しさに浸る間すら私には必要ないとでもいうのか。
追悼の意も冷めやまぬまま、どうして。
分からない。分かりたくもない。
その気もないくせに、私と同じ黒の喪服を着ているその理由も。何もかも。
親族たちは靴についた泥すら払い落とさず、勝手に列を乱して最前列を陣取った。
彼らが歩くたび赤い絨毯にベチャリと黒い足形が刻まれ、それが夫の棺のすぐ側までどんどんと伸びていく。
棺の中を覗き込み、夫の顔を見たかと思えば、濡れてヨレヨレになった花をポイと放り込んだ。
少しずつ、夫のお気に入りだったグレーのスーツが黒く染まっていく。何時間もかけてやっと綺麗になった身体がまた、汚された。入れ替わり、立ち替わりにきた人々は笑いながら私を指差し、彼の顔を見ることさえない。
いつの間にか、親族連中が集まって声高にそれぞれの相続権を主張していた。
待っていましたとばかりに、脂ぎった顔を歪ませ、取り分を指折り数えている。
爵位と屋敷。もちろん、財産のほとんどは彼の弟に継ぐと既に決めた。
私には必要もないものだからだ。それに彼が大切にしていた弟とは、揉めたくない。
だというのに、なぜ夫の遺産の話で、何の関係もない外野が吠えるのか。
これまで彼が苦しんでいても、何一つ手を差し伸べなかったくせに。
血の繋がりがあろうが、どんなご大層な家柄だろうが、シェイラムに祈りすら捧げなかったくせに。
まったく。あんな蝿どもに渡すお金も構っている暇もないというのに。
ただ、少しだけ。彼と一緒にいられる時間が欲しい。彼の頬を撫でて、楽しかった時を語り、最後にお別れのキスをしたい。
いや、その時間すら今、こんな奴らに奪われかけていることが許せなかった。
「静かにしてください。それが出来ないのならば、ここから出ていってください。これは私からの警告です」
痛くなるこめかみを押さえて、聞いてくれるよう願う。これが通らないなら、強硬手段に出るしかないかもしれない。
「何言ってるのよ!あなたが出て行きなさいよ!」
「そもそも、お前みたいな乞食なんかと結婚した、シェイラムが間違っている。
ヴェルディスタ伯爵家の恥だな」
はあ、と息を吐く。これだったのか。夫がいつも親族に会いたがらない理由は。
話には聞いて分かっているつもりだったが、少々今の私は怒っている。
「シェイラムがあなた方に会いたがらなかった理由が、今よく分かりましたわ。
だって、これほどまでに費用対効果の悪い親族など、関わるだけ時間の無駄ですもの」
…ああ、そう。彼にかけらの興味もない貴方たちは、私が『死神』であることすら忘れているのね。
取り消そう。少々ではない。相当だ。
精一杯、顔を作れ。
微笑むのだ。唇を歪めて眉を上げろ。邪悪さなど、作ってやれ。
あの新聞に書いてあった、毒婦に見えるように。
「あなたたちも、毒を飲んでーー呪われたいのかしら?」
ざわり、と動揺が広がる。
反撃もしない大人しい小娘だと思われていたのだろう。
結婚前の挨拶だって何を言われても我慢した。
乞食?まあ間違ってはいない。私の過去は、確かに伯爵家には見合わないものだと思う。
それも全て飲み込んだ。彼と一緒にいるためだったから。
でももう、彼はいない。
冥府の毒杯。夫たちを無惨にも食い殺した、稀代の悪女。死神未亡人。
神聖であるはずの場に怒号が響く。私をなじる、屈辱の言葉の数々が。
「お前こそ死んでしまえ!呪われてしまえ!」
良いだろう。その言葉、その印象。いくらでも使ってやる。
好きに言えば良い。私のことなど。
――ただ一つ。シェイラムを悪く言うことだけは、許さない。
「本当に、どうしようもない方々ですわね」
シャラリ、と扇子を勢いよく広げ、うるさい空間を切り裂いた。堂々たれ。ひるむな。怯えてはならない。
うるさい蝿は、ここで叩き潰す。
「そんなにこの遺産が欲しいのであれば、良いですよ。差し上げますわ。
――ただし、私の夫たちと同じ、冥府への片道切符もセットになりますけれど。
さあ、杯を飲みたい方は並んで下さる?」
ようやくしんと静まり返った場にカツンカツンとヒールの音を強く立て、一人一人の前を順にゆっくりと歩く。
「どうされました?先ほどまでの威勢はどこに行ったのです?」
不思議に思う体を装いながらついで顔を覗き込んでやると、ヒイッと情けない声を上げて面白いように腰を抜かした。
「さすが、人の物を取ろうとする方々は、格が違いますわね。一緒の空気を吸っているのが恥ずかしくなりますわ」
「何をっ、高貴な血筋でもないあなたが格を語るなんて!」
私を乞食呼ばわりした上突っかかってきた女には、その首に扇子を当ててスーッと横に引いてやる。ついでに耳元でとっておきを囁くのを忘れずに。
…あら。あなたの不倫が明日の朝刊の一面を飾るのをお望みかしら?私のようにね。
「あなたなど、私はどうにでも出来るのですよ。慈悲で生かして差し上げていることを、お忘れなく」
たっぷりと時間をとって全員を追い詰めた後、タン、と急に立ち止まり、その場をくるりと見渡して微笑む。
本当に無様な人たち。小娘一人言い返せないくせに、亡くなった人を貶めるなんて。
「皆様。ご存知の通り、この屋敷の3分の1の所有権は法的に私にあります。
つまり、私が出て行けと言った瞬間、あなた方は不法侵入者ですね。
憲兵を呼ぶまで三秒待ちましょうか。……三、二――」
静かに、しかし大きく。場にはっきりと通る声で処刑を宣告する。もう、誰も私に口答えは出来ない。一人、また一人と後ずさりながら一目散に逃げようとする。
場の空気に当てられたのか、面白がって見ていた野次馬も蜘蛛の子を散らすように去っていく。
シェイラムを笑ったあの男なんか、人の波に押されて無様に転び、膝を抱えていた。
「分かったなら散りなさい。
ああ、お望み通りーーあなた達はもう杯を呷っているかも、しれないわね」
高らかに、けれどあくまで優雅に、笑え。
「…ははっ」
もう笑えない、彼の分まで。
「ハハッ、アハハハハ」
目の奥でチカチカと彼の微笑みがまたたく。
「アハハハ、ハハハハハハハ」
「…クロティル」
どこからか彼の甘い声が聞こえてきたかと思えば、いつの間にか私は彼の胸の中にいた。
「クロティル。またあのアイスクリームを食べに行こうね。でも、今度は別の味も試してみたいかな。ほら、いつも同じのだからさ」
「そうだな、来週にでも行こうか。僕たちが出会った、あのカフェに」
私はグレーのスーツを着た彼の背に手を回して、ギュッときつく抱きしめ返す。大きなあなたの身体から、ふわっと新緑のような香りがして、思いきり吸い込んだ。
「行きましょう、何度だって。明日も明後日も、その次も。行きたい時に行きたい場所へ」
私が緑色に光る彼の瞳を見つめると、手を離してゆっくりと屈んでくれる。
「ああ。僕と君、ずっと一緒だ」
重なり合った目線。身長の低い私でも届くよう、顔の高さを合わせてくれる彼に、私から唇を重ね合わせた。
…まだ、あれから一日しか経っていないのに。
「ハハハ、ハハハハ、アハハハハ」
広げた腕でかき抱こうとしても、彼はもうそこにいない。汚れのないエメラルドの指輪をつけたまま、棺の中で静かに微笑んでいる。
もう二度と、違う味のアイスクリームを試すことすら叶わずに。
「アハハ、ハハハ、んぐっ」
滲む視界も、痛む胸も。詰まったことに気付かないふりをして笑い続ける。
空を切る手を伸ばして、届くはずもない温かさを必死に探した。
狂ったように。壊れたように。
最後に見た彼の顔を、焼き付けて永遠に忘れないために。
喉が枯れて、今度こそ吐息しか出なくなるまで、ずっと。
まだ彼の香水の匂いが残るハンカチを、痛いほど握りしめながら。
――――――
悪夢のような葬式が終わり、深夜。
やっと見つけた時間で情報を整理する。
いくらなんでもこれだけ夫の死が続くのはおかしい。
だが、どこにも共通点が見つけられないのだ。場所も、状況も、死因さえも。
一人目の夫、お祖父様の死因は老衰。
二人目の夫は戦死。
三人目の夫は転落事故。
四人目の夫、シェイラムはーー刺殺。
「……ありえない」
ぐるぐると頭の中を膨大な情報が駆け巡る。
落ち着こうとして独り、冷え切った書斎で古いランプに火を灯した。
まだよく働かない頭で、必死にシェイラムの予定を辿る。
何か怪しい行動はなかっただろうか。
彼は最近、大口の契約を結んだと言っていた。これでヴェルディスタ伯爵領はもっと豊かになれると、誇らしげに。
手元にあるのは、4人の夫たちが遺した断片的な記録。そして、私の『祖父』であり『師』でもあった最初の夫、老男爵から授かった一冊の古い帳簿だ。
「…見ていてください、あなたたち」
私は震える指でペンを握り、彼らの死の直前の動きを書き出していく。
共通点は、結婚式直前の『取引』。そして、金の流れを隠すために使われていた、複雑なダミー商会の紋章。
私の脳裏に、お祖父様の掠れた声が蘇る。
「クロティル、金は嘘をつかない。だが、金は時に暗闇の中に隠されることもある。
眩しき光の中では見えない真実を、お前だけの灯りで照らして、暴きなさい」
――まさか。
私は、4人の夫たちが最後にサインした契約書の裏面に、薄く浮かび上がった特殊な印影を見逃さなかった。
暗闇の中、微かな光で照らした時のみ現れる、特殊なインク。
それは、帝国北端の冷徹な支配者――アイセントール家が重要な取引だけに使用する、信頼の証。
氷を砕く、ドラゴンの印章。
「……アイセントール。セリアン・ヴィル・アイセントール」
社交界にあまり出ない私でも知っている、我が王国の二大公爵家。
『なり損ない』と蔑まれながらも、巨大な家門を冷酷に実力で統べる若き当主。
彼が私の夫たちの何かを狙い、彼らを死に追いやった黒幕なのか。
まあ、誰でもいい。その正体も。その目的も。ただ、叩き潰せば良いだけだ。
「あなた達の仇さえ、取れるのならば」
不意に、お祖父様が愛した『商売の鉄則』を思い出して、形見である胸元のペンダントを握りしめる。
「最も手強い相手を落としたいなら、相手が喉から手が出るほど欲しがっているものを、毒を塗って差し出しなさい」
恐らくセリアンが欲しているのは、家門内での孤立を覆す圧倒的な資産。
そして私は、死神とまで呼ばれるほどの悪名と、4人の夫から継承し、私が増やした莫大な富を持っている。
私はどうやら、ちょうど良い餌になりそうだ。
敵の喉元に食らいつくには、彼の妻になるのが最短の道。
なるのだ。私自身が。彼を殺す、毒杯に。
シェイラムの弟に財産を譲る手続きを済ませ、三通の手紙を書いてゆく。
チラリと横の鏡を見ると、消えかけの涙の跡。
もう、泣いてはいない。泣いてはいけない。
これからは。私の全てをかけて、一世一代の大芝居を打つのだから。
赤く泣き腫らした目の下のクマは、黒いアイシャドウで塗りつぶす。
まとうは漆黒のドレス。喪服よりも、さらに暗く。
深い深い深淵を連想させるような、レースのベールをかぶって。
口紅をひく。血を思わせるほどの真紅を、見せつけるように。
この屋敷の人間は誰も信用できない。あの夫の殺され方からして、きっと内通者がいる。
手紙を直接渡すしかないことが、こんなにも嬉しいとは。
いつの間にか、乾いた笑い声が漏れていた。
拝んでやろうではないか。私の大切な人を奪った憎き仇の顔でも。
お望みであろう、毒婦の仮面でも被って。
愛の告白などではない。これは、最後通牒だ。
『断糸の未亡人』がアイセントール公爵に送る、5度目の結婚の申し込み。
「さあ、飲み干していただきましょうか。私の差し出す、この毒杯を」




