第十二話:薄明の晩餐
食事のマナーなんていらない?ははっ、そうか。
そうだね、私と食べるだけなら必要ないけれど。
君はこれから沢山の人と出会い、色々な食事をするだろう。その時のために備えておくんだ。
――――――
このアイセントール公爵家にきてから、十日が経った今日。
私は、やっと一通り家具が揃った客室の机で、今までの状況整理をしている。
屋敷内の整備はあらかた終わり、私が夫の家に置いてきた荷物も運び込んだ。
これで正式に、この家で暮らす準備が整ったと言える。
その裏で秘密裏に進めていた証拠探しだが、進展がまるでない。決定的な証拠が掴めていないのだ。この数日屋敷内で動き回っていても、最後の一押しがどうしても見つからない。
状況はセリアンの犯行を指し示しているのに、あの印章以外の物的証拠が一切ないのだ。
「これはよほど、徹底的に隠されているわね」
今日の食事会で少し揺さぶりをかけるしかない。
クシャリ、と手元の紙を握りしめた。
バルテル商会進出の足がかりも兼ねて、街の情報を集めてもらっているレチナから届いたきな臭い報告。
これが本当ならば、私にとっても良い状況ではない。セリアンとの連携が必要になる可能性もある。
「まあ、とりあえずは反応を見よう」
今宵の晩餐の準備は完璧だ。
市場で買った香辛料がふんだんに使われた、芳しい料理の数々。
メインには、下処理を済ませて香草で香りづけをし、質の高い塩胡椒でシンプルに仕上げた牛のステーキ。
サイドには、パリッと焼いた普通のパンと、果物をたくさん乗せた、デザートのように甘いパンを二つ。
北部では手に入りにくい、生野菜を使ったサラダには、柑橘系のドレッシングでさっぱりと。
バルテル商会の流通網を使った、これ以上ないほどの贅沢だ。
このご飯を純粋に楽しめないのが、申し訳なく感じるくらい。
「そろそろ約束の時間ね」
私は席を立って、広間に向かう。長い廊下はもう明るく、どこを歩いていても暖かい。
首尾は順調。人心掌握もほどほど。次の段階に進むべきだな。
考えをまとめていると、広間の入り口で氷のように動かないセリアンが見えた。
「どうされました? 何かお気に触りましたか?」
「まさか。せっかくの食事だ。妻と二人で食べたいと思ってな」
どうやら人払いをするために私を待っていたらしい。
使用人達が扉から出ていくまで、甲斐甲斐しく私の椅子まで引いている。
まったく。そういう所は上手いのか。
心の中で毒づきつつ、頷いて感謝を示して座った後私は口を開いた。
「そういえば、街で見慣れない紋章の馬車を見かけました。……南部インセンドル公爵家の随員でしたかしら。中央から軍事視察が来ているのでしょう?」
「……耳が早いな。毒婦の分際で、軍の動きまで探っているのか」
ステーキを切ろうとしたセリアンのナイフが、キィと音を立てて、一瞬ずれた。
その口の中には、切ったばかりの一口大のステーキ。
よほど美味しかったのか、咀嚼まで止まっている。
「ええ。確か私がここを訪れた、最初の日でしたわよね。あなたは、中央からの客人は丁重にもてなせ、とおっしゃっていました」
私は淡々と、静かにカトラリーを操って食事を口に運んだ。切り分けられた野菜から滴る、爽やかな香りのソースが、胃の痛い会話を和らげてくれる。
「ああ、そういえば。あの場に貴様もいたな。覚えていたのか」
「商売人は耳が命ですもの。もちろん一言一句、違わずに。ただし、あなたがどう対処されたのかまでは、存じ上げませんわ」
セリアンはスッと目を細めた。私がどこまで把握しているか、能力を探るつもりだったのだろう。
「当たり前だ。俺の部下は、そこまで馬鹿ではないからな」
「そうでしょうとも。ただ……なり損ないの公爵閣下が本当に国境を守れているのか。中央も、いよいよ疑いを持たれたのではないかしら?」
「好きにほざけ女狐。奴らが何を見ようと、お前がいくら盤上をかき乱そうと、俺のやることは変わらん」
図星か。まあ、中央の視察官が彼の落ち度を暴いてくれれば、私の復讐も捗るというものだ。良い協力相手になるかもしれない。
カチャリ、とナイフが皿に置かれた音がする。見ると、手持ち無沙汰であるかのように、セリアンがパンを手の中で転がしていた。
「閣下。その手袋、パンを食べるには邪魔じゃありませんこと? 」
パンを千切ろうとした手が、一瞬、空中で止まる。
彼は表情一つ変えず、白手袋に包まれた指先を見つめ、それから吐き捨てるように言った。
「ああ、これか。外す気はない。第一、貴様が気にいるような物ではないぞ」
「あら。公爵家の主人が、奥方に素手も見せられないほど、その手は汚れているのですか?」
「……。汚れているのは、貴様の腹の方だろうが」
私の頑なな態度についに折れたのか、はあ、とため吐息を吐いて手袋を取る。
私は息を呑んだ。
隠されていたのは、アザなどではなかった。
手首から指先にかけて、無数に刻まれた痛々しいまでの傷跡。
剣ダコが潰れ、破れた名残り。鋭利な刃物で切り裂かれたような痕に、火傷のような痕。それは、洗練された貴族の手とは程遠い、戦場と泥にまみれた武人の手だった。
……なんて、醜い。
私の腹の中に、どす黒い憎悪が沸き上がる。
この手で、何人を殺したのだろう。
この手で、私の夫たちの息の根を止めたのだろうか。
人の命を奪い続け、返り血を浴び続けた結果が、この傷だというのか。
「汚いだろう」
セリアンの自嘲気味な声が響く。
彼は、私がその“殺人の証”を嫌悪しているのだと思い込んでいるようだった。
違う。私は、見てしまったのだ。
傷跡の隙間、親指の付け根に近い場所に隠れるように存在する――小さな、けれど確かな、アザの一部を。
「っ……」
ドクンドクンと跳ねる心臓が、耳元で早鐘を鳴らしている。
見るな。それは見てはならない物だと。
でも、もう遅い。
ずっと探していたから、分かってしまった。
忘れかけた記憶の中で、あの少年が笑っている。
――嘘だ。ありえない。こんなに残忍で、人を殺めることに躊躇いのない男が、私を救ってくれた光だなんて。
「どうした、毒婦。俺の手を見て、吐き気でも催したか。忠告はしたぞ。しかも、食事時とは命知らずだな」
セリアンの冷めたような蒼い瞳が、私を射抜く。
その能面はピクリとも動かない。まるでそう言われるのが当然であるかのように。
「なぜこの手を見たがった?想像していなかったのか?俺がこの11年間、何を犠牲にして生きてきたのかを」
一瞬、伏したその目に諦めの色が宿ったように見えて、息がつまる。
これほどまでに自分を蔑み、見限るまでに一体何があったのだろうか。
何度、その手を否定されてきたのだろうか。
……なぜそんな疑問が湧き出てきたのかも分からないまま、私は返す言葉を必死に探した。
「これで分かっただろう。この手は、人に見せるような物ではない。俺は、お前が望むような人間ではないと」
どこか悲しみを帯びた声で、殺人鬼は語る。
――駄目だ。これ以上、聞いてはならない。
私は震える手でワイングラスを掴み、ゴクゴクと一気に飲み干した。
カッと喉を焼くアルコールが身体を流れてお腹に溜まり、中で渦巻く激しい葛藤を一時的に忘れさせてくれる。
相手に呑まれてはいけない。これは罠だ。私を籠絡するための。
「いいえ。あまりに閣下らしいお姿で、つい見惚れてしまっただけですわ」
分かってしまった途端、沸々と怒りが湧いてくる。
ふざけないで。
夫たちの命を奪っておいて、どの口がほざいているのか。
そんな被害者じみた言動は、人殺しがして良い物ではない。
あまつさえアンの記憶を汚し、土足で踏みにじるとは。その事実が何よりも許せなかった。
「想像以上でしたわ。その手に刻まれた一つ一つの“勲章”が、どれほどの命を吸い上げてきたのか。さすがはアイセントールの主。紅の盾と呼ばれるに相応しい」
セリアンのこめかみに、見えないほど小さな皺がよる。
彼は私の言葉を軍功への皮肉として受け取ったようだ。それでいい。
「やっと満足したか、毒婦。これがお前の望んだ夫の正体だ。夢を見る暇などないと、言ったはずだが」
いつの間にかパンを食べ終わっていた彼は、手をはらってまた手袋をはめた。
彼はきっと、私に幻滅して欲しいのだろう。
でも、私はそう易々と思い通りになってやるつもりはない。
「ええ、満足いたしましたわ。おかげで目が覚めました。
――閣下。私、決めたことがございますの」
私は最後の一杯を飲み干し、真紅の唇を吊り上げた。
「私がきっと、あなたを救って差し上げます。あなたのその冷たい氷のような心も、凍りついたその顔も。この屋敷を変えたように、私が溶かしてみせますから」
この復讐は、殺すだけでは生ぬるい。
敵味方全てを掌握し、逃げ場を失わせ、心まで奪う。このアンの「成り損ない」を、完膚なきまでに私のもとで屈服させるのだ。
暖炉の火が爆ぜる音だけが、不気味に響く。
互いに敵であることを再確認した晩餐は、後味の悪い余韻を残して幕を閉じた。




