わたし、ネットに憑かれたの
11月22日。
列車が揺れる。
キリンは足の間に学生カバンを挟み、つり革に体重を半分ほど預け、窓の外を虚ろな目で眺めていた。
眠気はない。しかし、頭がはっきりとしない。夢を見ているかのような不思議な気分だ。
俺は学ランのポケットを探り、スマホを取り出そうとした。しかし……。
……そうか、スマホなくしたんだった。
よくもまあ、五畳かそこらの広さの部屋で、物をなくせるものだ。自分の才能が怖い。
手持ち無沙汰で俺は何となく、車内を見渡した。老若男女問わず、皆がスマホやタブレットに熱心な視線を注いでいた。
アナウンスが列車の到着を告げる。
***
列車の扉が開く。人々は濁流のように溢れ、階段を流れ落ちてゆく。キリンはポケットから定期券を取り出し、改札にかざした。電子音とすれ違うように歩を進め、駅の正面口へ向かう。
だだっ広い駅の構内は出勤通学時間など、とうに過ぎているにも関わらず、人の往来が絶えない。
人の波を躱しつつ、歩き続けるキリンの袖を誰かが引っ張った。
俺は首を動かし、そして傾げた。
そこには、腰の高さまで伸びた長い髪を紅色の紐で一つに纏めた、セーラー服姿の少女が立っていた。その日本人形のような顔立ちは、端麗でありながらも不気味であった。
俺は訊く。
「どうしたの、お嬢ちゃん。まさかその歳で迷子ってわけじゃあねえよな。……待て、俺たち何処かで会ったか?」
何故だろう。彼女とは、つい最近会ったばかりの気がする。
少女が口を開いた。
「保管庫」
空中に光の穴がぽっかりと現れる。彼女はすかさず腕を突っ込み、短剣を取り出した。
「わたしも、あなたと会ったことがある気がしてる。でも、頭の中がとってもうるさいの。だから、排除しなくちゃ……今すぐに」
「おい!?何を──」
戸惑うキリンのみぞおちに、鞘を被せたままの短剣が、フルスイングで叩きつけられた。その痛みに咳き込む暇を与えず、足を払われ、床に転がされる。
倒れ込むキリンに馬乗りになり、彼女は鞘から剣身を引き抜いた。
周囲の人々は、二人のことなど見えていないかのように、ただ歩いている。
──刃先が眼前に迫る。
しかし。
「……」
「……?」
少女は溜息をついた。小気味良い音と共に剣身を鞘に収め、立ち上がり無表情で手を差し伸べた。
「ごめんなさい。記憶のダウンロードが間に合ってなかったみたい。危うく殺しちゃうとこだった。……それにしても、まさか同じ街に住んでたなんて驚きね」
俺は盛大に咳き込み、喉が潰れそうなほどの怒声を上げた。
「何なんだよ、いきなり!!ナメてんのかクソガキ!!おい、スガタミさん。あんた……、は……?」
スガタミ?俺は何故このガキの名前を知ってる……?
突然、頭が割れそうなほどの痛みが襲いかかる。
告げる。記憶ファイルのダウンロードを実行。
アーケードゲーム
告げる
開戦
データ化
瓶の首を据える
異世界ネットワーク
頭の中に、おびただしい量の文章が、一瞬にして雪崩込む。
脳がその情報の印象強い断面を、次々とロードしていく。
(俺が殺した)
やめろ。
(……この子とは、生き残ればいずれ殺し合うことになる。ならば、変な情が湧く前に……、いっそのこと、今……)
やめろ……。
(坊主、貴様がその娘を助けたのは『人間』としてさぞ立派なことだろうさ。だがなぁ、貴様は最初、娘を置いて自分だけ逃げようとした。
わかるか?──そいつは偽善だ。良い子ちゃんぶっているだけの、偽物の正義って言うんだよ)
やめてくれ……!
ベビーカーで運ばれていた赤ん坊が、こちらを指さして笑う。
彼は全てを思い出した。
……思い出したくなかった。喉の奥から、酸っぱいものがこみ上げるが、息を何度も浅く吸って、なんとか堪える。
彼女、スガタミは言った。
「まずは状況の整理よ、キリンくん。殴った御詫びに温かい珈琲でも奢るわ」
***
正面口を出てすぐの大階段を下り、太い円柱が幾本も立ち並ぶ地下空間。
俺は自分の目を疑った。
「ゲーセンがない……?」
階段を下りてすぐ目につくはずのゲームセンターはなく、いくつもの通路から風が吹き抜ける只々広い空間だけがそこにはあった。
スガタミは、ずらりと並ぶベンチの一つに腰掛け、缶珈琲のプルタブをこじ開けた。
キリンもそれに習う。
「さて、どこから話せばいい?」
スガタミは珈琲をちびりと一口し、俺に訊いた。
「……全部だ」
「物事には手順が必要なの。わたしだって、まだ情報を整理しきれていないんだから。まあ、話せばまとまるかしら」
「……ここは何処だ。見たところ現実世界みたいだが、保管庫が使えたり、俺たち以外の人間が、俺たちに全くの無関心だったり……。
……そうか。ここはまだ、スキルツリーの中で──」
「半分正解、半分不正解。いい?ここはスキルツリーの中でも、わたしたちが元いた世界でもない。……全く別の異世界よ」
「別の……?」
「わたしたちが今いるここは、ゼンナによって創られた実在する仮想世界」
「実在するのに仮想、どういうことだ」
盲導鈴が無機質に響く。
スガタミは人差し指の爪でスチール缶を叩いた。
「話すのは、順よ。わたしがさっき、キリンくんを殺そうとしたのは、わたしの頭の中にゼンナのプログラムが打ち込まれていたから。今わたしがこの状況を飲み込み整理できているのは、そのプログラムがまだ健在だから。
感覚としては、ゼンナの意識の一部が、わたしの思考に溶け込んで、脳がそれらを上手くまとめてくれている感じ」
「そのプログラム、今は大丈夫みたいだな」
「今はわたしもあなたも、記憶のダウンロードが完了したのよ。元いた世界を、キリンくんが言ったように『現実世界』だとしましょう。ゼンナはまず、現実世界から、わたしたちプレイヤーの身体を無理矢理データに変換して、スキルツリーのサイト内に強制転移させた。次に現在。エレベーターをハッキングし、スキルツリーのサイトを震源に、別の世界に転移させた。この世界の他に、いくつかの世界がネットワークのように張り巡らされているわ」
「パラレルワールドみたいなものが、複数あるってことか。何のためにそんなことを……」
「さあね。それはわたしにもわからない。言ったでしょう、意識の一部だって。
わたしの中にあるプログラムは、あのホウトウってAIに首を掴まれたときに、検閲官の力で効力が弱まったの。でもそれは、脳に直接刻まれたプログラムではなく、脳細胞をデータとして改ざんして、記憶という基盤に細工を施したから。でも、記憶データは肉体データよりもつくりが複雑で重い。だから、この世界に飛ばされるときに記憶データは、ネットワークを通過する際、肉体データに追い抜かれてしまった。……その結果、記憶データの到着が遅れ、わたしはあなたを……刺し殺すところだった」
刺し殺す、その言葉を発したスガタミの声は震えていた。
俺は別の疑問を投げる。
「何故周囲の人たちは、俺たちに無関心だったんだ?俺たちは異世界の住人だから、見えてないってことか」
「見えてないわけじゃない。認識できていないだけ。身体を構成するデータの毛色が違うのよ」
認識できていない。そうか、だから俺は祖父に無視されたのか。……いや、だとしたら、おかしな点がある。
「俺の祖母は、俺のことを認識していた」
「……痴呆ね」
「そうだが、よくわかったな。それもゼンナの意識のせいか?」
スガタミは、缶を中指と親指でつまんで、チャポチャポと揺らした。
「人間っていうのはね。皆、プログラムで構成されている生き物なのよ。それは、野生動物の子孫を残そうとするだけの本能とは全くの別物。人間は幼いときから自分はこういう生物だ、こう在りたいんだということを、無意識ながらも心の何処かで自覚しているものなの。やがてその欲望は、年齢と共に顕著になり、その人間の生態として反映される。それが人間というプログラムよ。性分とも言うわ。
でもわたしたちは、普段はそのプログラムを『理性』というセーフティで縛っている。欲望だけじゃ、集団で生きる動物としては落第点だもの。けれど人々は、上手いバランスで欲望と理性をコントロールし、ときには妥協し、ときには自分の好きなように生きることができる。
痴呆とは、そのセーフティが崩壊すること。老人は、理性の覚えがない赤ん坊に戻るわ」
「赤ん坊ならまだいいんだがな……」
俺は怒り狂う祖母の姿を思い出す。俺が自動車免許証を無断で返納したという疑いをかけられ、テレビのリモコンを片手に人が変わったかのように殴りかかってきた、恐ろしい姿を。
「そうね。赤ん坊との一番の違いは、癇癪を起こした際、それを相手取る人間の母性に触れるかどうか。……赤ん坊は、可愛いもの」
「つまり、何だ。赤ん坊とボケ老人はセーフティがないイレギュラーだから、ばあちゃんは俺のことを認識できたってことか?……どういう理屈だ」
「人間は理性によって縛られるだけでなく、守られているとも言える。この世界の住人たちが、わたしたちを認識できないのは毛色の違いだけじゃなく、理性によって危険物を避けているだけなのかもしれない……」
彼女は残りの珈琲をゆっくりと飲み干した。
「……少し、疲れた。話せば話すほど、わたしの意識がゼンナに飲まれていく気がする……。
気分転換。面白い話をしましょ。ねえ、キリンくん。読書は好き?」
「おい、こんなときに面白い話って……」
「こんなときだからよ。難しい話ばかりだと、鬱になるわ」
彼女の目は底知れぬ闇のようで、俺は思わず目を逸らし、自分を守るように腕を組む。
「……普通だな。本屋で表紙が気に入ったやつを買って、暇なときに読むだけだ」
「好きなジャンルは?」
「ミステリか、ホラーだな」
「わたしも好きよ、ミステリ。ホラーは苦手だけど」
スガタミは大人びた忍び笑いをした。しかし、すぐに無表情に戻ってしまう。
「わたしも今は本屋で買う。でも前まではネットで小説サイトにアクセスして読んでた」
「逆だろ?普通。紙だと嵩張るから、電子に乗り換えたって話ならよく聞くが」
スガタミはベンチに置かれた空の缶を、中指でピンと弾いた。缶は20mmほど進み、摩擦によって停止する。
「わたし、ネットに疲れたの。小さな画面ばかり見ているのが苦痛なの。確かにネットは楽しい。でもね、スマホが手元にあるだけで、それを使ってないときよりも何十倍、数時間使い続けるだけで、何百倍もの情報が脳に流れてくる。わたしには、それがとてもとても、気持ち悪かったのよ。わたしたちは常に情報の中で生きている。でも……さすがに情報過多、頭が痛くなるわ。
時々考えることがあるの。一日の主軸をネットに委ね、ホルマリン漬けにしている、わたしたち現代人の『心』を形づくっている材料は何だろうって。それは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感ではなく……。視覚と聴覚の二つだけなんじゃないかって。仮にそうだとしたら、わたしたちは生物を名乗れるのかしら?物を見て、音を聴く程度なら、AIの方が人間よりもよっぽど優れているわ。
画面の中と外の境界線が曖昧になったわたしたちは、本当に生きていると言えるの?」
「それが面白い話かよ、スガタミさん。きみ、やっぱりゼンナに飲まれてるんじゃないのか」
彼女は焦点の合わない目で、ゆっくりと天井を見上げた。
「いいえ。これはわたし自身の考えよ。ゼンナが異世界を複数個創って、それらを繋げてネットワークを構築しているこの状況……。いったい、何が現実だっていうの?
もしかしたら、わたしたちは存在しない架空の人物であり、誰かが書いたシナリオの上で、ただの舞台装置として踊らされているだけなんじゃないかって……。そう思ってしまったの……。だとすればネットを通じた別の世界で、わたしたちのこの会話を劇として読んでいる人もいるかもしれない……」
俺はすっかりぬるくなった珈琲を一気に飲み干し、立ち上がった。舌が、苦味と酸味で染まる。
「馬鹿言うな。俺たちが命のない傀儡だって言うのか?俺たちは珈琲の味も香りも、熱だって感じられる!……生きてるからだ。生きてるんだよ、俺たちは。
……行くぞ。なんとしてでも、帰る方法を見つけるんだ」
検閲官の力を使えば、何かができるかもしれない。……きっとそうだ。
「ほら、果物でも食ってちょっとはガキらしい顔してみせろよ」
無理矢理笑顔をつくり、学ランのポケットから朝食にしようとしていた、小さなみかんを取り出し彼女に渡す。
昨夜からの度重なる情報過多。キリンの精神は、壊れかけていた。しかし彼は、スガタミと自分を勇気づけるように強く強く、強く言った。
折れるか、折れてやるものか……。
「俺が必ず、ハッピーエンドをくれてやる──」
ネットは捻れ、呻き声を上げる。




