第31話 古龍
視界がふっと開けた、その瞬間。
リュミは思わず、足を止めてしまった。
ただの一歩。それだけのことが、どうしてこんなにも怖いのか。
胸の奥がきゅっと縮こまる。息を吸うことさえ、どこか躊躇われた。
目の前に広がる光景は、あまりにも異様だ。
どこまでも広がる地面は、まるで焼け焦げたように黒くひび割れ、草も木も、命あるものの姿はどこにもない。
かつて森だったと思われる場所には、骨のように白くなった木の残骸が立ち尽くし、風が吹くたびに、かすかに軋む音を立てている。
生き物の気配は、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。
音も、においも、色さえも、どこか遠くへどこかへ連れ去られてしまったような、奪われた世界。
そして、その中心に――それは、いた。
言葉にするまでもなく、ひと目見た瞬間にわかった。
それは、ただの生き物ではない。
山のように大きく、威厳に満ちた存在――古龍。
その巨体は、地に伏していた。
けれど、眠っているというより、まるで時間に縫い止められ、そこに封じられているよう。
折れた翼はどこからともなく生えた黒い根に絡みつき、身動きひとつ取れないまま、ただその場に存在している。
地面には、濃く沈んだ黒い血が広がり、そこからにじみ出るように瘴気が立ち上っている。
この森をかつて守ってくれた存在――それが今では、森を蝕む瘴気の源になっているなんて。
「……これが、古龍」
リュミの喉が震えた。小さな声は掠れ、風にさらわれて消えてしまいそう。
その隣で、エルドが静かに頷く。
「……ああ、古龍だ。あまりにも長く生きすぎて、自然の理から外れてしまった存在……。本来なら、命を終えて森に還るはずだったが……瘴気がそれを許さなかった」
エルドの目は静かに怒りをたたえながらも、どこか悲しげだった。
その声には、深い哀しみと、どうにもならない無力感がにじんでいる。
次の瞬間、古龍がゆっくりと息を吐いた。
それだけで、空気がびりびりと震える。
風が逆巻き、世界そのものが軋むような音がする。
リュミは、思わず手をぎゅっと握りしめた。
「エルドさん……たすけられる、かな……?」
リュミの問いに、エルドは眉をひそめた。
瞳が険しさを増す。
「助ける……? 瘴気に呑まれた古龍をか……? 今の状態では、無理だ。やれるものなら、誰かがとっくにやっている」
厳しい言葉だった。けれど、それは真実。
それでも――リュミの心には、まだ諦めきれない希望が残っていた。
「でも、《ふわふわ》なら、届くかも」
その言葉と同時に、リュミの手のひらに、やわらかな光が生まれた。
春風に乗って舞う羽のような、ふわっとしたやさしい光。
けれど、その小さな希望を打ち消すように、地面が突然、轟音とともに割れた。
瘴気が荒れ狂うように渦を巻き、黒い津波となってリュミたちを呑みこもうとする。
古龍の目が開いた。深紅に濁った双眸が、リュミたちを射抜くように見下ろす。
「下がれッ!」
エルドの怒声が響き、直後に全員が一斉に動き出した。
「リンコ、右から牽制だ! パッロ、風障壁を張れ!」
「了解ッ!」
「了解!」
リンコの翼がひらりと舞い、そこから燃え上がるような赤い炎が放たれた。
灼熱の風が瘴気を切り裂き、空に赤の軌跡を描く。
パッロは大地に足を踏ん張り、深く息を吸い込むと、風の力を集めて障壁を作り出した。
その風が、リュミたちの周囲にやさしく、けれど強く渦を巻く。
「リュミ、ここを離れるな!」
「う、うん!」
だが、その守りさえも、古龍のひと息に抗えるかはわからなかった。
瘴気の並がぶつかるたび、空気が歪み、風の膜がギシギシと不穏な音を立てる。
「く……! 押し返せない……!」
「パッロ、無理するんじゃないわよ!」
リンコが叫び、もう一度燃えるような炎を放つ。
だが、それすらも瘴気に呑まれ、煙のように消えていく。
そして――古龍の翼が、わずかに動いた。
ただそれだけで、風が弾丸のように走り、パッロの風障壁が一瞬で砕け散る。
凄まじい爆風。
全員が、吹き飛ばされる。
リュミの小さな体も、容赦なく地面を転がった。
目を開けたとき、土煙の中で見えたのは、よろめきながらも立ち上がろうとするパッロの姿。
「パッロ!」
パッロの背中に渦巻く風が集まり、鋭い風刃が次々に生まれ、古龍へと飛んだ。
鋭い音が響く――けれど、古龍はびくともしない。
「くそっ……!」
パッロが歯を食いしばった次の瞬間、古龍の尾がしなり、雷のような音が響いた。
その一撃が、パッロの体を遠くへ弾き飛ばす。
「パッロ――ッ!」
必死に駆け寄る。
土煙の中、倒れたパッロの体が横たわっている。
その胸が、かすかに上下していた。
「……まだ……やれる……リュミを……まもれ……」
掠れるような声でそれだけ言って、パッロは静かに目を閉じた。
リュミの手が震える。叫びたいのに、声が出ない。目の奥が熱くなる。
そして、空へと舞い上がるリンコの姿が目に入った。
「リュミ! パッロの分までわたしが燃やしてやるわ!」
「待って! リンコ、ダメ! それ以上は……!」
リュミの叫びも届かないまま、リンコの炎が瘴気を裂いた。
その軌跡は美しく、でもあまりにも悲しい。
爆発するような光の中、リンコの影が空から落ちていくのが見える。
「……リンコ!」
リュミの喉から、声にならない声がこぼれる。
パッロも、リンコも、リュミを守ろうとして、倒れていった。
足が動かない。膝ががくがく震えて、息が苦しい。
瘴気が、肺の奥まで入ってくる。
(リュミの……せいだ)
心の中に、誰かの声が響いた。
――おまえが《ふわふわ》なんて言ったから。
――ここまで来なければ、みんな……。
「……リュミが、悪いんだ」
ぽつりと、リュミがつぶやいた。
六歳の子どもが言うには、あまりにも重すぎる言葉。
涙がぽろぽろと落ちる。
でも、もう泣いてる場合じゃない。
みんなが倒れて、それでも前に立てるのは自分だけ。
「だから……せきにん、取らなきゃ」
小さな体が、ふらりと立ち上がる。
裸足の足が、血に染まった地面を踏みしめる。
怖い。でも、立ち止まっていられない。
心の中に残っているのは、たったひとつの願いだけ。
「おねがい……《ふわふわ》……」
リュミは、そっと手を前に出した。
その小さな手のひらに、やさしい金色の光が膨らんでいく。
風に舞うような、あたたかな粒子たちが瘴気を押しのけ、空気を包み込む。
古龍の赤い瞳が、リュミの姿を静かに見下ろす。
(こわい……でも、もう逃げない)
その気持ちだけで、リュミは立っていた。
「リュミ! 逃げろっ!」
遠くから、エルドの叫ぶ声が聞こえる。
でも、リュミは首を横に振った。涙を拭い、まっすぐに前を見る。
「やだ。……リュミのせいだから。リュミが、やる」
その言葉に、もう迷いはなかった。
金の光が世界を包み込む。
それはあたたかくて、やさしくて、まるで春の森に差し込むこもれびのようだった。
「こっちを見ててね、古龍さん。もう……苦しくないように……リュミが《ふわふわ》してあげるから」
その言葉とともに、まばゆい光があふれ出し、世界をそっと照らし始めた――。
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