第29話 届かない力
ざわり、とどこかで細い枝が震えた。
重たく、湿って、冷たく肌にまとわりつく、得体の知れない圧迫感が辺りを包み込む。
リュミは知らないうちに息を止めていた。心臓の音が、耳の奥で小さく鳴っている。
全身の感覚が、目の前の気配に集中していくのがわかった。
そして、次の瞬間。
「うう……ぅ……う、う゛ぅ……」
森の奥から、低く濁った声が聞こえた。
それは、うめき声。けれど、人の声とも違うし、獣の鳴き声にも聞こえない。
ただ喉を震わせるようにして漏れるその音には、苦しみと痛み、そして深くて抜け出せない絶望がにじんでいた。
パッロの耳がぴくりと動いた。敏感な感覚が、森の異変を察知している。
リュミの頭の上にいたリンコも、小さく震えながら身を竦める。
「……今の、なに?」
ささやくような声が、リュミの髪を掠めて消える。
ムスティが木の陰に目を凝らし、静かにつぶやく。
「……あれ、シカだ」
その言葉を聞いた瞬間、リュミの体は勝手に動いていた。
なにも考えずに、足が地面を蹴る。
胸の奥に湧き上がるなにかが、彼女を突き動かす。
草を掻き分け、ぬかるみに足を取られながら、リュミは必死に走る。
泥の冷たさも、枝の痛みも、なにひとつ気にしていなかった。
そして、目の前に見つけた。
一頭のシカ。
でも、その姿はあまりにも痛ましい。
まるで見境なく暴れ回り、自分自身を傷つけてしまったかのような惨状。
片方の角は途中で折れ、体中には深くて長い傷が無数に刻まれている。血と泥がぐちゃぐちゃに混ざり、毛並みは黒ずんで固まり、もとの色すらわからない。
「ひどい……っ」
リュミは思わず手で口を押さえた。
シカはかすかに胸を上下させながら、生きていた。
けれど、その目はもうなにも見えていなかった。白く濁り、まるで視界のすべてが霧に覆われているかのように、焦点がどこにも合っていない。
「……瘴気にあてられたんだな」
エルドが後ろから近づき、低く重々しい声で告げる。
「ま、まだ息があるよ! 助けられる……きっと、リュミの《ふわふわ》で……」
リュミはシカのそばに膝をつくと、両手をそっと伸ばした。
自分の手が小刻みに震えていることに、気づいていない。
(だいじょうぶ……きっと、だいじょうぶ……ふわふわにすれば、いたいの、なくなる……)
「《ふわふわ》になぁれ!」
リュミの手のひらから、ふわりとあたたかな光があふれる。
春のひだまりみたいに、やさしくて、ぬくもりがあって、包み込むような光。まるでリュミの気持ちそのものが、光になったよう。
けれど――シカはふわふわにはならなかった。
その代わり、シカの体がぴくりと痙攣し、目を見開いたまま、苦しそうに喉を鳴らす。
掠れたうめき声は止まらず、逆にもっと苦しそうになっていくように思えた。
「……え……?」
リュミは、その場で固まってしまった。
やがて光はゆっくりと淡くなっていき、静かに、静かに、消えていった。
あたたかかった光はやわらかい粒になって空気に溶けて、儚く消えていく。
シカの呼吸はどんどん浅くなり――そして、止まった。
濁った瞳が、空を見つめたまま動かなくなる。
その命は、風に吹かれるように、静かに、音もなく消えていった。
「や……やだ……いやぁぁ……っ!」
リュミは小さく叫んで、両手で顔を覆った。
涙がこぼれるのを止められない。
何度も、我慢しようとした。でも、駄目だった。
泣きたくないのに、涙があふれてしまう。止まらない。
エルドは、そんな小さな背中をしばらく無言で見つめていた。
やがて、ゆっくりと膝をつき、リュミの肩にそっと手を置く。
「……やはり、そういうことか」
その声には、確信があった。
「これはワシの見立てだが……おまえの力は、魔物にしか効かないのだろう」
リュミの肩がびくりと震える。
「瘴気にあてられた獣は、見た目こそ魔物に近いが……中身はまったく違う。だから《ふわふわ》は通じないんだ」
「……やだ……どうして……リュミ、わかんないよぉ……!」
声が震える。
顔を上げると涙が頬をつたって、ぽたりと泥の上に落ちた。
「こんなことでくじけるようでは……おまえを古龍のもとには連れていけん」
その言葉は厳しかった。でも、ただの叱責ではない。どこかで、試されているような気がする。
エルドの目は、リュミを責めてはいなかった。ただ現実を、まっすぐに突きつけているだけ。
リュミは、きゅっと唇を噛みしめた。
拳を握って、ぐいっと涙を拭う。
「……わかってるもん……! だから、リュミ……」
泣いている場合じゃない。
小さな体で、リュミは精一杯、立ち上がろうとする。
「……だいじょうぶ。リュミ、がんばる。もう……ないたり、しないもん……!」
その決意の言葉に、エルドは静かに目を細めて、無言で頷いた。
けれど――その一瞬の静けさを、鋭い音が突き破る。
茂みの奥から、なにかがこちらへ向かってくる。
うなるような、低くて荒々しい声。
次の瞬間、リュミの視線の先に、何頭もの獣たちが姿を現した。
イノシシ、キツネ。けれど、どれもおかしい。
目が濁り、毛並みは逆立ち、口元には白い泡がこびりついている。
牙をむき出しにして、理性のかけらもない。
彼らもまた、瘴気に深く侵され、正気を失ってしまった獣たちだった。
「下がれ、リュミ!」
エルドが鋭く叫ぶ。
パッロがすばやく前に出て、鋭い爪を構える。
リンコは羽ばたき、空へと飛び上がり、翼の先に深紅の炎を灯す。
(……来る)
狂った獣たちが、怒濤のような勢いで襲いかかってくる。
地面が震え、空気がうなりを上げる。緊張の糸が、ぱんとはじけた。
リュミは仲間たちの背に隠れながら、胸の奥で燃える悔しさと痛みを抱え、ぐっと唇を噛みしめた。
でも――その目は逸らさない。
小さな拳の中には、たしかに決意の灯がともっていた。
お読みいただきありがとうございました!
おかげさまで、少しずつ読んでくださる方が増えていて嬉しいです。
本作は全42話、すでに最後まで書き上がっております。
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