第28話 森の奥へ
夜明け前。
空がまだ、深く澄んだ群青色に染まっていたころ――リュミは目を覚ました。
静まりかえった部屋の中で、体を起こす。
窓をそっと開けると、刺すような冷気が頬を掠めて入り込み、思わず身を竦めた。
ひゅう、と吹き抜けた風が、眠気の残る頭を一気に冴えさせる。
(今日……古龍さんのところへ、行くんだ)
胸の奥にしまっておいた決意を、自分自身に言い聞かせるように心の中でつぶやく。
その瞬間、きゅうっと胸が締めつけられ、呼吸が少しだけ浅くなった。
昨夜のうちに荷物は整えてあった。
干し肉、黒パン、水筒に、いざという時のための膏薬。
リュックはそれほど重くない。けれど、それを背負う自分の背中が、ずしりと重く感じられた。
足音もなく近づいてきたパッロが、リュミの手にぐい、となにかを押し当ててきた。
手渡されたのは――鞘に収められた、銀のナイフ。
「護身用だ。……使わずに済むなら、それが一番いいけどな」
パッロの声は、低くて落ち着いている。いつもと同じ、静かな声だ。
けれど、その瞳の奥には、言葉にはしない不安の色がひそんでいた。
きっと彼は知っている。これから向かう先が、どれだけ危険な場所かを。
リュミは黙って頷く。
銀のナイフをおそるおそる腰のベルトに差し込むと、鞘越しでも冷たさが指先に残った。
「……本当に行くのね?」
その声に、振り返る。
声の主は、椅子の背もたれにとまっていたリンコだった。
羽を震わせながら、不安そうにリュミを見つめている。
「うん。でも、ひとりじゃないもん」
リュミは、少し笑って見せながらそう答えた。
それは自分に言い聞かせるような、心細さを隠すための言葉。
リンコはぷいっと顔を背けながらも、少しだけ強気な声で言う。
「そ、そうよ。リュミをひとりで行かせるほど無責任じゃないわ」
その言葉には、どこか無理をしているような響きがあった。
リンコの体は、かすかに震えている。
ふだんは勝気なリンコが、今は精一杯、気丈に振る舞おうとしている。
そんなリンコの姿が、リュミの胸にじんとしみた。
外に出ると、待っていたエルドと目が合った。
視線が合うと、彼はなにも言わずに小さく頷き、それから森のほうをじっと見つめる。
ただそれだけのしぐさなのに、どこか頼もしく見えて――でもなぜか、今日はとても遠い存在のように感じた。
「……行こう」
低く落ち着いたその声に背中を押されて、リュミは一歩、前に足を踏み出した。
森の奥へと入っていく――それだけのはずなのに、けれど、今朝の空気は昨日までとどこか違っていた。
いつもの道、見慣れた木々たち。
それなのに、今日の森は、まるで別の世界に続いているかのような、不思議で不気味な気配をまとっている。
空気はどこか重たく湿っていて、風すらも動かない。
音という音がすべて吸い込まれて、どこか遠くへ消えてしまったような静けさ。
この森が、本当にあの穏やかな森と同じ場所なのだろうかと、思わず疑ってしまう。
先頭を歩くパッロは、毛を逆立て、喉の奥で低くうなっている。
リンコはリュミの頭の上にちょこんと乗ったまま、何度も振り返っては落ち着きなくそわそわしている。
ムスティもまた、なにも言わないまま、きょろきょろと目だけを忙しく動かしていた。
「……なんか、いやな感じだね」
思わず口から漏れたリュミの言葉に、リンコがすかさず反応する。
「なんか、じゃないでしょ。ここまで静かだと、異常なのは明らかだわ」
「で、でも……まだなにも出てないし……」
「出てないからこそ怖いのよ」
リンコの言葉が胸にずしんと響く。
少しでも気を抜いたら心のどこかが崩れてしまいそうで、リュミは慌てて唇をきゅっと噛んだ。
「怖いなら戻るか?」
不意に前から聞こえたのは、エルドの声。
リュミはびくりと肩を震わせたけれど、すぐに頭を振った。
「……行く。リュミがやるって決めたんだもん」
きっぱりと言い切ると、リンコが少し目を丸くした。
そしてほんの一瞬のあと、小さく頷く。
森の奥へと足を進めるにつれて、空気が明らかに変わっていくのが感じられた。
木々の幹には、いつの間にか黒ずんだ苔がじわじわと広がり、枝の先端はひび割れたまま乾ききり、ぼろぼろと崩れて地面に落ちている。
足元の落ち葉もしっとりとしたやわらかさを失っていて、まるで乾いた粉を踏みしめているような音が鳴る。
「たったひと晩で、ここまで変わるとはな……」
エルドがぽつりとつぶやく。
その声には、驚きというよりも、深い警戒と焦りの色が濃い。
「……このあたりで、これほど濃いのは初めてだ」
(こい……?)
リュミは思わず問いかけた。
「こいって、なにが……?」
その答えは、ほんの少しの間を置いて返ってきた。
「瘴気だ」
「しょうき……」
声に出しただけで、口の中に苦みが広がるような気がした。
空気が重たく、体の芯までじっとりと濁っていくような感覚。それが、瘴気――。
「古龍の最期が近い証拠だ」
エルドの声は静かで、でも深く重たい。
その響きが、リュミの胸の奥へゆっくりと沈み込んでいく。まるで、重たい石を呑み込んだような感覚だった。
歩を進めるたび、空気はさらに濁りを増し、どろりとした目に見えないなにかが、肺の中へと入り込んでくる。
呼吸をするたびに肺がザラザラとして、喉がかすかに焼ける。
(これが……瘴気。こんなものを食べて、魔物は強くなるの?)
そう思った途端、ぞくりと背中に寒気が走った。
まるで、自分の命を少しずつ削ってでも力を手に入れるような、そんな、恐ろしいものに思える。
ただ強くなるだけじゃない。
魂の一部をなにか黒いものに染めながら、静かに、確実に――壊れていく。
それが力の代償だとするなら、そんなものに頼ってまで強くなるなんて、リュミには到底できそうにない。
どこか遠くで、誰かが泣いているような気がした。
それが、まだ見ぬ古龍の声のように思えて、胸の奥がじくじくと痛む。
その痛みから目を逸らすように、リュミは口を開いた。
「ねえ……古龍さんって、たくさんあばれちゃうくらい、つらいのかな……?」
ぽつりと漏れたその声に、しばらく誰も返事をしなかった。
重たい沈黙が数歩分、森の中を流れる。
瘴気の濃さと足音の乾いた響きだけが、耳に残る。
やがて、小さな声がリュミの隣から聞こえた。
「……苦しいから、じっとしていられないんだ」
その一言が、鋭く胸に突き刺さる。
どうしようもなく苦しくて、誰にも助けを求められなくて、だからこそ、ただ暴れるしかないなんて……。
(それなら、せめて……)
苦しいならせめて、早く《ふわふわ》で楽にしてあげたい。
そう思った瞬間だった。
先頭を歩いていたパッロが、ぴたりと動きを止めた。
毛を大きく逆立て、尻尾を膨らませ、耳をピンと立てて、森の奥を鋭く見据えている。
「下がれ」
エルドの低い声が、空気を切るように響いた。
その直後、ざざっと落ち葉を踏みしめる音が、どこからともなく近づいてくる。
不規則で重たく、まるでなにかを引きずるような足音。
一瞬で、空気がぴんと張り詰めた。
リュミの鼓動だけが、耳の奥でがんがんと鳴り響いている。
手のひらは冷たく汗ばみ、指先から冷えていくのがわかる。
森の奥で、なにかが動いている――。
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