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龍神

 璃帆の目の前に、藤崎の背中がある。藤崎のベッドの中だった。

 そっと触れる。璃帆はこの背中が、とても好きだ。筋肉質で、ゴツゴツしていて、何よりも、大きい。藤崎の腕枕も好きだが、なかなか見られないこの背中も、愛おしい。

「璃帆、くすぐったい……」

「あっ、ごめん。起こしちゃった?」

「大丈夫……。まだ、寝てないよ。寝られないの?」

「ううん……。ねぇ、肩を壊したって、この辺?」

「もう少し、腕に近いほう」

「まだ痛むとき、ある?」

「もうないよ。水泳肩っていってね、やめれば治る」

「そうなんだ……。よかった」

 璃帆は、なるべくくすぐったくないように、指ではなく手の平全体で触る。

 藤崎が、寝返りを打って、こちらを向こうとする。

「ダメ。もう少し、我慢して」

「……」

 藤崎は、こんなに、ゆっくり背中を触られることはないので、意外と気持ちがいいことに気が付いた。もちろん、璃帆の柔らかい手だからだろうけど……。

「大会出られなくて、悔しかった?」

「まあね。最後の大会だったし、結構真剣に頑張ってたからな……。大会の少し前から痛みがあったんだけど、隠してて。最後にどうにもならなくなった。……もう、昔の話だよ。……どうした?」

「うん……。今日ね……、会社で失敗しちゃった」

「……。大きい、ミス?」

「割と。現場まで、データが流れちゃった後に分かって、作り直し」

「怒られた?」

「うん。現場まで行って、謝って……。『なにやってんだ!』って。再作って、メンタルがね……。せっかく作ったのに、作り直しはキツイ」

「そっか……。もう、そっち向いていい?」

 璃帆の手が背中から離れたので、寝返りを打った。

 璃帆が少し笑って、こちらを見ていた。……だから、今日会った時、元気がなかったのか。そっと、頭を撫でた。

「俺たち設計には、机上でのミスは付き物だからな。どんなに気をつけてても、ミスはあるから」

「うん……」

「俺なんかさ、構造計算始めた頃、よく夢を見たよ。建てた家を、必死で倒れないように支えてる夢……」

「それは、大変そう……」

「起きるとね、汗びっしょり。怖かったなぁ」

 といって、笑う。璃帆もつられて笑う。また、藤崎が髪を撫でてくれて、心地よい。

「同じ失敗、しなければいいから。信頼は、必ず取り戻せるから」

 何にも言わなくても、分かってくれる。そう、怒られたことや、失敗したことよりも、失敗をすることで、今までの信頼を失くす事が、なにより1番辛いのだ。

「うん。ありがと……。頑張るね……」

 璃帆は、藤崎の腕の中で、安心したかのように、ゆっくり眠りに落ちていった。

 藤崎は、「週末、どこか遠出でもするか……」と、小さな寝息を立てる璃帆を見ながら、考えていた。


 あじさいが、美しい。青や紫が一番多い。白もあるが、咲き初めのものもあり、これだけ続くと、見応えがある。人気があるのも、納得の眺めである。

「ホントに電車のギリギリのところまで、咲いてるのねぇ」

「地元住民の、努力の賜物だな」

「龍一さん、地元で退屈じゃない?」

「お袋、ご推薦なので」

「えっ……。わざわざ、お母さんに聞いてくれたの?」

「野暮用があったから、ついで」

 璃帆が、ちょっと目を瞠って、そっと笑顔になる。やっぱり、バレるか。滅多に電話しないこと、知ってるからなぁ……。

「ありがとう」

 と、小さく言われた。


「璃帆さんを元気にしたい? あぁ、龍神様がいいわよ。彼女には、立派な龍神様がついてらっしゃるからねぇ」

「えっ、そうなの。俺、分かんない」

「そう。龍一でもやっぱり分からない?」

「逆に、何でわかるの? 俺、龍神って、今まで見たことない」

「普通はね……。まぁ、そのうちお会いできることもあるでしょう。但し、雨には降られるから、覚悟してよ」

 藤崎は、璃帆をいつもと少し違う方法で、元気付けられないか色々考え、結局、母美千代に電話したのだ。

「江ノ島か……」


 江ノ電は予想通り、大変混んでいた。藤崎は地元なので、あじさいの季節の混雑は、よく分かっている。

「龍一さん、大丈夫? 混雑、ダメだよね」

「色んなパワーが溢れてるからね。良いものも、悪いものも……」

「江ノ島まで行かなくても、途中で引き返そうか?」

「いいよ、大丈夫。地元だからね。庭みたいなもん」

 璃帆は、車窓を流れる海やあじさいを見ながら、感慨深そうに呟く。

「ほんとに、こんな景色の中で育ったんだねぇ」

「まぁ、当たり前すぎて、ありがたみは少ないかも」

「そっか……」

 流れる真っ青な空を見ながら、璃帆が笑った。

「ねぇ。やっぱり長傘じゃなくても、よかったんじゃない? 綺麗に、晴れてるよ」

「ダメらしい。お袋から、念を押された。何があっても持ってけって。邪魔なら、璃帆のも俺が持とうか?」

「いい、いい。自分で持つよ。きっと、役に立つと信じてます!」

「ホントか〜!?」

 声を上げて笑う璃帆を見て、藤崎もホッとする。息抜きになれば、十分だ。

「江ノ島は行ったこと、ある? 天気、急変する?」

「遠足でも行ったし、友達とも行ったし、何度も行ってるけど、天気、気にしたことないなぁ」

「そっか。でも、長傘なんだよね……」

 ちょっと、不安そうな顔をする璃帆を、不思議な思いで見る。

「なんか、不安そうだね。俺、チョイス間違った?」

「違う、違う。あんまりワクワクすると、雨が降るから。それなのかなぁ、と思って……」

「ん? ワクワクすると、雨?」

「私、雨女です。龍神様に、愛されてます」

 突然美千代と同じことを言い出されて、さすがの藤崎も驚いた。

「えっ、龍神様、分かるの?」

「龍一さんや、お母さんみたいなのと違って、そう、信じてるだけ……かな」

「今まで一緒に出掛けた時、そんなに雨降らなかったよね」

「龍一さんの力です! 晴れ男でしょ」

「……気にしたこと、ない。大体、天気なんて、人がどうにかするもん?」

「まぁ、分かんないのよね、そうじゃない人には。武勇伝、語ろうか」

 ということで、小さい時からごく最近に至るまで、「気のせい」にするには、残念過ぎる璃帆の雨物語を聞くことになった。

「龍ちゃんねぇ、雨を降らすことが、愛情表現だと思ってるのよね」

 龍神に「龍ちゃん」と名前までついているらしい。安直すぎないか。

「『龍ちゃん』、ですか……」

「いいの、いいの、信じてくれなくて。やっと最近、龍ちゃんへの対処方法が分かってきたから、それを実践するのみ」

「参考までに、お聞かせ願えませんか……。龍神に愛されてる、姫様」

「そこまで言うならば、特別じゃぞ。聞かせて進ぜよう。こほん」

 と、璃帆が語りだす。途中で1回でも笑ったら、即終了するというので、真剣な顔を作って聞くことにした。

「まずは、私がワクワクすると、龍ちゃんもワクワクして雨が降っちゃうので、ワクワクしない」

「なるほど」

「次に、さっきも言ったけど、雨を降らすことが、愛情表現だと思ってるから、それを否定しないの。雨が降ってきたら、愛されてるのねぇって考える。で、私も愛してますって伝えるわけ。そうすると、不思議と雨が止むの」

「……」

 藤崎が疑問を呈す前に、璃帆が「ホントよ」と釘を刺す。

「最後に、これが肝心なんだけど、雨が止んで、助かったことのお礼を言うのね。そして、私の愛は永遠ですって誓うの」

 藤崎は眉間にしわを寄せながら、唸った。

「う〜ん、俺のライバル、龍神さん?」

「龍ちゃんの方が上かな。だって、付き合いが長いもんねぇ」

 と、上目づかいにおっしゃる。

「それ、永遠に追い越せないぞ……。まあ、いっか。こうやって話してるだけでも、なんか璃帆のオーラが元気になってきたし」

 くっくっ笑いながら、璃帆が続ける。どうやら、お姫様モードは終わりらしい。

「龍一さんに会うまでの、私にとっての唯一の身近な神様だったから、『鰯の頭』ね。」


 お袋のいう事が正しければ、璃帆のいう事も正しいはずなのだが、藤崎はピンと来ない。何故って、そんな大きなエネルギーを分からないはずはないと、考えていたからだ。今日、璃帆に会ってから、色々波動を合わせてみたが、どれにも応えはなかった。

 だが、人はほんの些細なことで気持ちが変わる。エネルギーの流れも変わる。信心だろうが迷信だろうが、それで気持ちをコントロールできるなら、それは大切なものだと分かっている。


「江ノ島の帰りに、「龍口明神社」に寄るから、体力残しといてよ」

「頑張るけど……。今日1番、それが自信ないかも」

「おっ、『おばさん』自称した?」

「『おじさん』には、言われたくない」

「そんなこと言ってると、ショートカットしてやらない。地元住民の底力を、侮るな〜」

「わっ、そんな隠し玉……。卑怯者」

 璃帆の頭をポンポンする。藤崎も、久し振りに気持ちが晴れていた。やはり、海は人を浄化する力があるようだ。ちょっと近頃、忙しすぎた。


 江ノ島に着いて、早々神社巡りとなる。本来なら、歩いて3社巡るのが正しい参拝方法だが、三十路カップルは躊躇なくエスカーを選ぶ。それでも、最後は大変なので、体力温存である。

「ねぇ、仲見世通りは、お休み?」

 ほら来た、と思いつつ、藤崎は答えた。

「帰りにします。だから、開店前の時間にしたの」

「え〜、楽しみにしてたのになぁ。ぐっさんも、石ちゃんも、みんなここで食べてたよ〜」

「だからでしょ。まずは、参拝です」

 こんなところを開店中に通ったら、璃帆は間違いなく引っ掛かる。何時間あっても、参拝は終わらない。ショートカットの第1地点だ。

 口を尖がらせて不機嫌な璃帆を、なだめにかかる。

「今日の璃帆、なんかいつもと違わない? なんだろ、洋服?」

「こういうの、嫌い?」

 ガウチョを広げながら、不安そうに聞く。この間、ネクタイを買った日に購入した、青いガウチョに白いオーバーブラウスだ。今日は、ストロー素材の帽子も被っている。

「いいえ。とっても、お似合いです。璃帆は、何を着ても美しい」

「……わ、なだめようとしてるな。姑息な……」

 声を出して笑っているうちに、「辺津宮(へつみや)」に着く。江ノ島3姉妹弁財天の、三女がおわすところだ。「茅の輪」を八の字に周り、参拝をする。やはり、神社の領域に入ると空気が変わる。これは、きっと藤崎でなくても、感じることはできるだろう。

 隣の「奉安殿」で、2体の弁財天に会う。今日は高い波動の皆様とのコンタクトは、封印していた。鎌倉もそうだが、全てにエネルギーを合わせていては、さすがに藤崎がもたない。

 本日の目的は、璃帆のエネルギー回復ツアーだ。コンダクターとしては、先を急ごう。


 次女のおわす「中津宮(なかつみや)」を参拝する。朱が華やかな社殿である。

 水琴窟を楽しむ。こんなささやかな音を愛でる民族であることを、我ながら愛おしく感じる。ついでに「水みくじ」を引き、「大吉」の璃帆に、「末吉」の藤崎は深々と拝礼する。「よしよし」と頭を撫でられ、「あれ、以外に心地良い」などと、不謹慎な感想を抱きつつ、高台からの海の景色を楽しむ。ここから見えるヨットハーバーは、間違いなく璃帆が喜ぶ。

「ふわ〜。綺麗〜!」

 ほらね。後ろから、そっと璃帆の腰を抱く。少し驚いて、璃帆ははにかんだ。

 何度も来た江の島が、別のものになる。この一瞬が、全てなのかもしれない。

 

「そうです。『今』が、全てなのです。楽しみなさい」


 いつもの声が届いた。全ては、変わる。魂が、思っている通りに。

「来て、良かった……」

 藤崎に耳元でそっと言われて、璃帆はまた少し驚いた。今日はずっと、藤崎が璃帆のために力を尽くしてくれている。藤崎だって、ここのところずっと忙しくて、疲れているはずなのに、江ノ島まで連れてきてくれて、しかもこんな言葉までくれる。

 幸せだなぁ、と言葉にするのもためらわれる。腰に回された手の上から、そっと手を重ねた。


「さぁ、最後の難関だよ。覚悟して」

 と、藤崎の号令で頂上を目指す。シーキャンドルも庭園も、今回はパス。

 御岩屋道を歩く。アップダウンがあり、大変な15分ほどの道のりだが、両脇にあじさいやお土産屋があり、璃帆はショッピングを満喫する。ここで、小さな置物を購入した。弁天様かな? あの飾り棚に置くのだろう。真剣な面持ちで見極めているので、先を急がせるのは止める。まぁ、想定内だ。

 

 長女のおわす「奥津宮(おくつみや)」に到着する。

 社殿に向かう。途中、「亀石」の前で藤崎は足を止めた。

「この石、分かりやすいな。前は、全然分からなかったけど」

「何?」

「ちょっと、エネルギーが出てる。写してみようか」

 といって、璃帆のスマホを手に取る。

「わぁ、龍一さん撮ると、ほんと綺麗」

 石の周りに白いモヤの様なものが写り、少し光が入っている。

「割と強いパワーだから、その写真、入れとくといいよ」

「ふふ。ありがと」

 藤崎と石に感謝し、参拝に向かう。社殿天井にある「八方睨みの亀」を「あらやだ。ほんとに見られてる」などと楽しみ、参拝をすませた。


 ここからは階段で下る。これが足に来て、実は結構きつい。まぁ、筋肉痛は明日以降だろうが。

 稚児ヶ淵に到着する。海が光を弾いて、キラキラしている。確かに、傘は必要なさそうだ。

「ここ、岩屋のエネルギーがすごい……」

 本来の神域である岩屋のエネルギーが、ここに立つと直接感じられる。どんどん、体に充満していく。藤崎は、璃帆の手を取って、波動を少し上げた。

「わぁ、何!? 揺らめくよ」

 正しい日本語だ。エネルギーが充満し、まさしく体が揺らめく。藤崎は深く深呼吸をして、これ以上大きくならないように、エネルギーを収める。


「また、いらっしゃい」


 あっ、と思わず藤崎は振り向いた。ここには、本当に神様がいらっしゃる。

「璃帆、一緒に挨拶して」

 といって、璃帆と共に感謝の礼を執る。「ありがとうございました」その一言に尽きる。


 食事をし、仲見世を改めて見る頃には、さすがに疲れが出始める。これも想定内だ。「たこせん」は、またでいいと璃帆が言う。行列に並ぶ気は、出ないらしい。よし、よし。

「さて、今日の本当のメインイベトに向かいますが、準備はいいですか?」

「はい。先程のスイーツで、エネルギー充電は、完了しました。軍曹殿」

 江ノ島大橋を渡りながら、璃帆が敬礼をする。

「えぇ、せめて、仕官クラスにして」

「ハッ、失礼しました。意外と名誉欲がおありの、中尉殿」

「よろしい! では、出発!」


 龍神が眠るという「龍口明神社」に向かう。さっきまで、あんなに綺麗だった青空に、雲が掛かり始めた。璃帆も、藤崎も、全く気が付かなかった。

 モノレールを降り、徒歩で向かう。閑静な住宅街に、突如鳥居が現れる。藤崎によると、昔はもっと江ノ島の近くにあったそうだが、現在はこの地に移遷されたとのこと。江ノ島の弁天様に恋をした、五頭の龍神が祀られている。

「どうして、ここに来たの?」

「ご夫婦だからね。江ノ島を参拝したら、こちらも参拝するのが正しいやり方。地元の人間なら、大抵知ってる」

「そうなんだ。龍一さんも、来たことあった?」

「俺は、初めて。でも、さっき弁天様に見送ってもらったから、こちらにも挨拶しないとな、とは思った。それに、璃帆が来た方がいいんだって。お袋、曰く……」

「そうか、龍ちゃんだ。付き合ってくれて、ありがと、龍一さん」


 確かに、先ほどから璃帆のオーラが、何かに反応している。今も璃帆と手を繋いだのだが、ピリッと刺激が走る。今までこんなことは、一度もなかった。

「璃帆、何ともない?」

 なーに? と言うように、首を傾ける。璃帆には、感じないらしい。

 手水舎を出て、社殿に向かう。「あ、うん」の狛犬が、両サイドにある場所に差し掛かった時、それは始まった。


 いきなり体の中心に、電流の様なものが走る。あまりの衝撃に足の力が抜け、膝を付きかけたが、それを許さないかのように、もう一度、今度は下から衝撃が走る。腕どころか、指1本動かせない。瞼すら、開けられなかった。

 直立不動で動かなくなってしまった藤崎に、璃帆も歩みが止まった。

「龍一さん……? 龍一さん、どうしたの!」

 一瞬、眉間にしわが寄り、ピクリとも動かない。どうしたのか……?


「璃帆、離れて!」


 かすかに、心に声が届く。

「何、どうしたの……。龍一さん!」

 ポツリ、ポツリと雨粒が、璃帆の顔に当たった。いつの間にか、上空に黒い雲が集まっていた。すぐ先の住宅街の空は晴れているのに、ここだけが暗く、危うい……。

 あっという間に土砂降りになる。璃帆は持っていた長傘を、藤崎に差し掛けた。瞬間、突風で傘が飛ばされてしまう。それでも、藤崎は動かない。いや、動けないのだと、璃帆には分かった。


「この娘(むすめ)を、どうする気だ」

 大音声ではないのに、腹に響く声だった。閉じた瞼の前に、強いパワーの塊がいた。蒼いエネルギーだと何故だかわかる。

 藤崎は、その塊から嵐が巻き起こされていて、体ごと吹き飛ばされるかと思った。どんな相手なのか、確認しようにも、あまりの激しさに掴み切れない。何度か高次のエネルギーに接してきたが、これほど荒ぶる強いエネルギーに触れたことはなかった。

 藤崎が、まるでつむじ風の中心にいるかのように、周りを風がうねり、渦巻いている。踏ん張らなければ、いや、藤崎のエネルギーを地に繋ぎ止めなければ、飛ばされてしまう。必死だった。

 

「一緒に、いたい……」

「ふん。大して力もないお前が、一緒にいて何になる」

「あなたは、誰ですか」

 その瞬間、鋭い風の塊が、藤崎の頬を張るように、吹きすさぶ。

「わきまえるがいい」

「龍神……、『龍ちゃん』……」

 もう一度、頭から電流が走った。

「その名を口にしていいのは、この娘だけだ」

 やはりそうなのか……と、覚悟を決めた。

「……ずっと、璃帆と一緒にいたい……。それだけだ!」

「この娘は、永遠を我に誓っている。もとより、我はこの娘を守ることに捧げられた存在だ。お前に何ができる」

「愛を、愛おしさを、一緒にいる幸せを。それ以外には、ない!」

 藤崎の周りの暴風が、更に強くなった。息が、できない……。


 璃帆は、今度は、藤崎が持っていた傘を、その手からもぎ取り、広げた。藤崎にしがみつくように、風と雨から守る。藤崎は、何度も顔を歪ませている。まるで、何かの苦痛に耐えているかのようだ。どうすればいいのだ……。

「龍ちゃん、やめて! この人を、傷つけないで!」

 心の中で叫ぶ。龍ちゃん、お願いだから……。真剣に、璃帆は懇願した。


「璃帆が、そばにいる。傷つけないで、くれ」

「まったく、社殿に入ればいいものを……。聞き分けのない……」


「そこまでで、よい」

 地から湧き上がるような、さらなる力強い声が、体中に響いた。

 目の前から、先ほどのエネルギーの塊がいなくなるのと同時に、更にその奥に、赤く強いエネルギーの塊が存在するのが分かった。

 地中深くに、その存在はあった。藤崎は、やっと瞼を開けることができる。遠くに、2つの赤く小さな光が、ひたと藤崎を見つめていた。

 徐々に、その2つが分かれていく……。最後には、10の光がこちらを見つめた。その無言の圧力に、体中の痺れと震えが止まらない……。しかし、藤崎は丹田に力を籠め、高い波動を保ち続ける。今、逃げてはいけない! 今、逃げては、いけない!

「恋する若者よ。お前には、我々の言葉が届くようだな。前の世より、この娘との縁があると、そなたの守り人達が申しておる。相違ないか」

「はい」

「そなたにできることは、愛おしむことだけだと?」

「はい」

 一陣の風が、藤崎の周りを取り巻くように吹き過ぎる。

「承知した。その思いを叶えるがよい。ただし、我に誓った以上、そこから逃れることはできないと、心得よ」

「はい、決して! ……ありがとう、ございました」


 藤崎の周りが白い光に包まれる。この温かみは、高次のマスター達のものと変わらなかった。やはり、本質は同じなのだろうと、全身の力が抜けた。

 一瞬、最初に藤崎を取り巻いていた蒼く激しいエネルギーが、画像となって脳裏をかすめた。それは、美しく若く力強い、龍の姿に違いなかった。


 気が付けば、雲が晴れていた。璃帆が、へたり込むように、藤崎の横で座り込んでいる。

「璃帆……」

「龍一さん……、動ける? 痛いところはない? 大丈夫?」

 璃帆の手を取り、立たせる。

「お許しを、もらったよ……」

「何?」

「……なんでもない。璃帆は、大丈夫?」

「びっくり、したね……。傘、役に立ったね……」

 藤崎は、「そこ?」と、笑い出した。


 よく見れば、藤崎のスラックスはびしょ濡れだった。上半身は、なんとか璃帆の傘が功を奏し、歩いている間に渇く程度の濡れ具合で済んでいたが、璃帆も、あの下から降るような雨の中では、足元が濡れるのは避けられなかった。

 藤崎の「実家に、寄っていいかな」の提案により、実家で着替えを借りることになった。さすがにこのまま、東京まで戻るのは、藤崎が気の毒だ。しかし、実家と聞いて、璃帆はにわかに緊張した。


「いらっしゃい」

 藤崎の父、公毅《こうき》が迎えに出た。優しそうなお父さんだ。璃帆は、緊張が解ける。背が高い。龍一の身長は、父親の家系からきたらしい。龍一と同じくらいだろうか。

「はじめまして。あなたが璃帆さんですね、美千代から聞いてます。噂通りの、可愛らしいお嬢さんだ」

「はじめまして。今枝璃帆と申します。突然、お邪魔してしまって……」

「いやいや、来るだろうと話してましたからね。楽しみにしてました」

「何で来るって分かったの? それより父さん、悪いんだけど、着替え貸してくれない」

「あれ、お前スラックスだけか、濡れたの?」

 何故か既にタオルを準備してくれていた父からそれを受け取りながら、龍一は靴下を脱いで玄関を上がった。龍一に促され、璃帆もそれに続いた。

「俺の時は、全身ずぶ濡れだったけどな」

「はぁ、何それ、俺の時って……。聞いてないよ」

 璃帆も目を丸くした。何だか、全てが予定通りと言わんばかりだ。

「まずは、着替えてこい。用意してあるから。璃帆さんは、大丈夫ですか?」

「はい、足だけでしたから。タオルをお借りできれば、助かります……。すみません。」

「いやいや、その程度で良かった。でも、璃帆さんも濡れたんですねぇ? 母さんは、全くだったがなぁ……」

「あぁ、お父さん。璃帆さんが困ってるわ。話はあとで。まずは、座ってゆっくりして」

 母美千代が、奥から出迎えた。


 入ってすぐ左手に、大きな洋室がある。フローリングに、六芒星が描かれたマットが何枚か敷かれ、浄化用に使われる「リン」も何本か置かれている。アロマの香りも、残っていた。

「ここで、ヒーリングの講習会なんかをしてるのよ。カモミールのお茶、どうぞ」

「ありがとうございます。いい香り……、いただきます」

 隣のリビングに落ち着いた。更に奥が、台所の様だ。

「明るいお部屋ですね。お庭からの風が、気持ちいい……」

 庭には、やはりあじさいが植えてあった。顎あじさいが多い。ボッテリした西洋あじさいも綺麗だが、璃帆はこの顎あじさいの方が、奥ゆかしくて好きだった。

「今日は、梅雨の晴れ間だから、貴重な空気の入れ替え日だと思って、開けたの。まぁ、あなた達2人は、違ったでしょうけどねぇ」

 といって、笑っている。まるで、神社での出来事が、分かっているかのような言い方である。どうしてだろう……。

「これ、食べませんか。家で生ったビワだけど」

 竹篭にひと山、優しいオレンジ色が、こんもり載っている。それを片手に、公毅が顔を出した。

「おっ、今年も豊作だった?」

 着替えを終えて、龍一が戻ってきた。早速、ビワを手に取り、食べ出している。

 いつもより、随分くつろいでいる龍一を見て、璃帆は微笑んでしまう。実家にいると、子供に戻るんだなぁ。

「何、璃帆? ビワ、嫌い?」

「ううん、いただきます」

「で、さっきの話、ちゃんと聞かせて貰うよ。どういうこと?」

 ビワを頬張りながら、公毅が答える。

「あぁ、お前、龍神さんに会っただろ」

「……」

「俺も、母さんと一緒になる前、しっかり挨拶させられました」

 龍一と璃帆が、同時に固まった。先に動いたのは、璃帆の方だ。

「えっ、じゃあ、お母さんにも、龍ついてるんですか?」

「まあね」

 美千代が、サラッと答える。

「俺、知らない……」

 龍一が唸る。美千代が「雨女」だと聞いたこともなかったし、「見える」ようになってからも、全く気配は感じなかった。

「龍神さんは、よっぽどのことがない限り、コンタクトとってくれないのよ」

「それで、気が付かないのか……。お袋が璃帆の龍神さんのことを分かったのは、お袋にもついてるから?」

「そういうことなんでしょうねぇ」

「俺は今日、初めて分かったよ。驚いた……。体、動かせなかったからね」

「そうそう。思い出すよ。で、神社の周りだけ、土砂降りだろ! あれこそ、神業っていうんだよなぁ。帰りの電車で、恥ずかしかったぞ〜。母さん、全く濡れてないしなぁ」

「だから、今日、傘持ってけって言ったわけ!?」

「そうよ。役に立ったみたいね。よかったじゃない」

「俺はどのみち、動けなかったから。璃帆が、差しててくれたんだけどね」

「お前、良かったなぁ。璃帆さん、優しい人で。だから、璃帆さんも濡れたわけだ。母さんなんて、俺のことほったらかして、自分だけ社殿で、雨宿りだもんなぁ」

「だって、お父さん動かないんだもの。折り畳み傘しかなかったし。濡れたくないでしょ……。あらやだ、忘れてた。龍一も、何か飲む」

 と、慌てて台所に引っ込んでしまった。

 わっはっは、と大声で笑う公毅に、璃帆も思わず笑ってしまった。


「あの……、龍神さんは、お父さんに何を話されたんですか? 龍一さん、教えてくれなくて……」

 と、龍一を恨めしそうに見る。父も、龍一を見るが、龍一はその視線を外し、頭を掻いた。

「特に話はないんです。どちらかというと、釘を刺されるというか。自分の存在を、知らしめるわけです。絶対的な力でね。私の大事な子に、害が及ばない様に……とね」

「そうなんですか……。その後、会われたことは?」

「あれ、一回きりです。約束、守ってますからね……」

 といって、龍一を見た。大きく息を吐きながら、龍一は父に応える。

「分かってるよ。俺が望んだことだ。ちゃんと、守る」

「そりゃ、良かった。璃帆さん、すみません。これ以上、話せないんです。それも、約束でね」

「ね〜、聞きたいでしょ。私も未だに、教えてもらえないのよ」

 全くタイミングよく、美千代が戻ってくる。龍一にも、カモミール茶が出された。

「お前達は、龍神さんと対峙してないからな。あの威厳と威圧は、有無を言わせない」

「そうだな……」

 2人共、遠い目をして1点を見つめていた。

「いやねぇ。男同士、何だか同盟組んじゃって。いいわ。私は、璃帆さんと同盟組むから。この間のイベント、どうだった?」

「すっごく、楽しかったです。龍一さんが手伝ってくれて。部屋中、光の海で……」

「また、参加してくれる?」

「もちろん! いいよね、龍一さん!」

 と、それは無邪気に龍一に同意を請う。「こう来たか!」と、龍一は頭を抱えた。美千代はドヤ顔で、にんまりしている。

「お前、母さんに敵うと思ってるのか〜」

 と、公毅は大笑いであった。


 2人が帰る時、美千代と璃帆が先に玄関を出た。龍一は公毅に聞いてみた。

「父さん、俺の名前って、龍神さんと関係ある?」

「まあな。敬意を表してな」

「そうか……」

「母さんが、これ持ってけって」

 公毅が、ペットボトルとビワを龍一に渡した。

「清めた水だ。母さんが言ってたぞ。璃帆さんの龍神さんは、容赦なかったようだって。お前のエネルギー、結構傷ついてるらしい」

「……父さんは大丈夫だったのか?」

「お前程ではなかったらしい。それでも、3日寝込んだよ。お前も、今日はゆっくり休め」

「……そうするよ」

「まぁ、頑張れ。覚悟は、できてるみたいだから」

「……ああ」

 門のところで、美千代と楽しそうに話をしている璃帆を見ながら、藤崎は玄関を出た。

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