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香水

 璃帆の会社では、4月の末頃、5月からの人事異動が発表される。

 4月は新入社員が入ってくるので、それが落ち着いた頃、毎年この時期が1番大きな異動になる。璃帆たちも例外ではなく、組織が大きく変わる場合は、異動もある。結構、社内全体が緊張する時期なのだ。


「冴木さん、契約更新できそう?」

「はい、お陰様で。これで、一年安心です」

「よかったねぇ」

「来年が、怖いです。多分、一旦切られると思うので……」

 冴木さんは、派遣社員だ。法律が変わり、同じ会社での就業が、3年以上続いた場合、直接雇用しなければならなくなり、そんなことは実質ありえないので、一旦契約を終了させられることになる。そして、3ヶ月の期間を空けて、新たに0からカウントし直す。

 以前は、部署が変われば、カウントは0になったし、3年以上いても、直接雇用する必要がなかったので、よっぽどのことがなければ、契約を終了されることはなかった。派遣社員の中には、10年以上のベテランもチラホラいたのである。

「来年には、子供も小学校に上がるので、別の会社も探しやすくなりますけど……」

「折角、色々覚えてもらったのに、本当に現場サイドとしては、困るのよね……」

「とりあえずは、またお世話になります。引き続き、よろしくお願いします」

「こちらこそ。冴木さんにはいつも助けてもらっているので、よろしくお願いします」


「安田課長、日本に戻ってくるんだって」

「……どの部署ですか?」

「まだ正式には決まってないらしい。とりあえず、技術センター配属だって。課長補佐でアメリカに行ったから、戻ったら正式に課長ね」

「……」

 ランチの時間、社員食堂で隣の課の庶務係の、目黒さんが教えてくれる。彼女は、璃帆が入社したときにはすでに皆に一目置かれる存在の、女性社員だ。ただし、庶務なので、肩書きが上がっていく事は、まずない。本人も昇給試験は、一度きりしか受けていないと言っていた。独身である。

「イケメン独身が戻ってくると、またこのフロアも騒がしくなるわねぇ。私的には、目の保養になって嬉しいけどね」

 と、ニッと笑って周りの笑いを誘う。どうして独身なのか、「誰かに操を立てている」と、まことしやかに噂されている女性なのだが、璃帆は親しく思っている。


 結局、璃帆と同じ部署の、3つ隣の課長として配属された。璃帆は、どう対応するべきか良く分かっていたつもりだったのだが、実際、4年前とほとんど変わらない安田を前に、さすがに内心動揺していた。璃帆は安田と以前、付き合っていたのだ。


 璃帆が入社したとき、安田は直属の係長だった。東京に出てきたばかりの璃帆にとっては、本当に頼りになる上司で、彼の下で働くことが、大きなモチベーションの源だった。もちろん、目黒女史のおっしゃる通り、多くの女性社員のあこがれであり、璃帆もその1人だった。


 3年目にもなると、設計の男性社員は親会社との打ち合わせが多くなり、その代わりに、補助の璃帆が、設計の実質業務をかなり担うようになっていた。

「今枝さん。この設計の組付図、今週中になんとかなる?」

「正式に承認が降りるのは、いつ頃ですか?」

「う〜ん、木曜日中には、ってところかな」

「少しきついですね。先に仮図出して、変更部分を金曜日ってことでいいですか? 残業しても、大丈夫ですか?」

「悪いね。そうしてもらえると助かる」

「分かりました。金曜日、係長は出張でしたよね。どなたに、最終確認お願いすれば……」

「青村主任でいいよ。言っとく」

「はい。よろしくお願いします」

 あこがれはあこがれとして、璃帆も仕事に終われる日々で、会社と家を往復する毎日で、安田係長とは仕事以外の接点はなかった。

 璃帆は入社前、大学の先輩と付き合っていたが、璃帆が東京に出てきたことで、先輩とは自然消滅していた。それでも、1人が寂しいと感じる暇もなかった。


 金曜日、かなりの設計変更が入り、21時まで残業しても、ギリギリになると思われた。土曜日の休日出勤ができればいいのだが、なかなか会社はそれを許さない。20時までに図面を完成させて、主任のチェックを受け、現場になんとか渡せるのが21時といったところだ。休憩も、ランチも抜きで、何とか間に合いそうだったのだが、青村主任が15時頃やってきて、

「今枝さん、申し訳ない。親会社から呼び出しがあって。戻って来れそうにない。安田係長に連絡したら、なんとか出張から戻ってくれるとのことだから、21時まで待ってくれるかな」

「分かりました。現場には、1時間データ遅れる旨、連絡しておきます。現場は動いてるんですよね」

「ああ、今、夜勤体制だから、データ部門もいるよ。よろしく頼むね」

 と、慌しく外出していった。


 21時を過ぎると、ほとんどの社員は退社する。ましてや女性社員が残っていることはない。省エネのため、終了した部署はドンドン消灯していってしまうので、最後には璃帆のいるCADブースだけの明かりが点いていた。22時以降は、会社全体が消灯させられる。研究開発部門は、本当に大変だと思う。

 結局、璃帆も20時45分頃まで出図とチェックに掛かかった。まだ安田係長は帰社しておらず、なんとか間に合ったと安堵のため息をついていた。後は、安田係長の帰りを待つばかりとなる。周りも暗く、昨日も21時まで残業していたため、璃帆はうっかりウトウトしてしまった。


 安田は、21時15分頃に会社に到着した。急いで自分の席に戻るが、璃帆がいない。

「まだ、CADブースか……」

 と言いつつ、向かう。もう、ほとんど人は残っていなかった。


 ポツンと明かりが点いている下で、璃帆が机に突っ伏して寝ていた。

 安田はそっと近づていき、隣の席に腰を下ろした。図面が用意され、設変(せっぺん)内容の書類も整理され置かれている。どうやら、終わっているらしい。璃帆を起こさないように、チェックを始めた。

「よく、寝てるな……」

 思わず微笑んでしまう。


 入社した頃の璃帆を思い出す。綺麗な顔立ちなのに、どことなく暗い印象を与える、そんな女性だった。後で分かったが、父親亡き後、面倒を見てくれていた義理の母親が、璃帆の就職を期に、再婚したらしい。そのため璃帆は、1人きりになった時期だったのだ。

 

 それが、この3年で、随分垢抜けた。最近は仕事も順調にこなしてくれるようになり、あまり女性に期待をしていない我が社にしては、かなり期待株になりつつあった。

 頑張っている1人の部下としてだけ見ていた安田だったが、いつだったか、飲み会の帰り、ひっそり彼女が泣いているのを見てしまった。彼女の視線の先には、オフィス街にある託児所から出てきた、小さい子を抱いたお父さんの姿があったのだ。

 安田は心が動かされていた。


 いつのまにか彼女を特別視するようになり、しかしそれは、やはり立場的にはよくないことだと自制していたのだが、こんな無防備な顔を見せられては、さすがに自然に体が動いてしまった。

 璃帆の頭に、そっと触れた。そのまま、優しくなでる。髪を、手で梳かすように……。その目元は、どこまでも優しい。


 璃帆が、目を覚ます。係長が目の前にいて、驚いて謝る。

「申し訳ありません。居眠りなんて……」

「いいよ。お疲れさん。チェック終わったから、このまま現場にデータ流してくれる」

「あっ、ありがとうございました。よかったぁ、間に合って」

 はじけるような笑顔に、降参した安田は、

「食事した? 今枝さんのことだから、どうせ、食事もしないで、頑張ってたんでしょ。僕もまだだから、これからどう?」

 と、誘っていた。その途端に、璃帆のお腹が鳴る。

「ひゃっ!」

 真っ赤になった璃帆の頭をポンポンして、

「ははっ。体は正直だ」

 と、笑い飛ばしていた。


 近くの居酒屋に入った。もうこの時間では、アルコールなしの店はやっていない。

 焼き鳥やお刺身、つまみを並べて、ビールで流す。璃帆も疲れていたが、安田も出張帰りで少し疲れていたのだろう。大して飲んでもいないのに、電車で帰るのが辛く感じ、タクシーにすることにした。璃帆を送り、そのまま帰宅すればいい。そのつもりだったのだが……。


 タクシーの中で、璃帆がウトウトし始めた。酔いが、安田の心を緩めていたのだろう。璃帆の頭をそっと抱え、自分の肩に引き寄せる。そのまま、手を外せなかった。璃帆の髪をずっと撫でていた。寝ていると、思っていたから……。

「気持ち、いい……」

 璃帆が、呟いた。そっと、頭を上げて、安田を見つめる。目が、潤んでいる。安田は、璃帆のアゴを上げて、そのままキスをした。

「璃帆……」

 初めて、安田に名前を呼ばれた日である。


 我が社は、社内恋愛禁止ではない。社内結婚は、結構ある。だから、2人が付き合いだしても、特段周りに隠す必要はなかった。しかし、それを止めたのが、璃帆の方である。


「別に、君がイヤならいいんだけど、僕は皆んなに知られても構わないよ」

「ごめんなさい。まだ、勇気が出ない……。係長は、皆んなの憧れの的だから」

 安田の部屋に入ってからの会話だ。安田はベッドに腰掛け、璃帆はそのまま手を引かれ、安田の前に立つ。

「僕が、璃帆を好きになったんだから、皆んなは関係ないでしょ」

 といって、璃帆の体を引き寄せた。

「だって……」

「だっても、あさっても、ないの!」

 と、璃帆のブラウスのボタンを外していく。そのまま、スカートに手を掛ける。

「会社で平静装うの、そろそろ限界だよ、僕は」

 璃帆の体を、そのままベッドに押し付けた。

「うん……。もう少しだけ、待って下さい、係長」

「2人でいる時は、名前でしょ」

 そのまま、どんどん脱がされて……、安田の手と唇は、優しく璃帆を誘っていく。

「ダメです。この間、会社で思わず名前で呼びそうになったから、やっぱり、係長……」

「しょうがないなぁ。璃帆を、他の男に渡したくないんだけどな」

「私は、大丈夫です。モテませんから……」

「そう思ってるのは、本人だけだよ。どれだけ僕が目を光らせてると思ってるの」

 安田もネクタイを外し、カッターを脱ぐ。

「ふふっ。大丈夫ですってば。今まで、本当に誰も誘って来ませんよ」

「僕が、そのチャンスを潰してるの。係長特権、発動しまくりなんだぞ」

「もうっ。誰が誘ってきても、係長だけですってば……」

「……、ずるいな。今日は覚悟してよ。寝させない」

「はい……」


 璃帆に女性としての喜びを教えてくれたのは、安田だ。この時安田は31歳で、男盛りだった。女性の扱いも、焦りもなく丁寧で、とても優しい。ときには激しくて、璃帆はそれがどんなに幸せなことだったのか、失うまで分からなかったほどだ。


「係長って、子供好きですよね……」

 結局、内密なまま付き合い続け、1年近く経った頃、課のメンバーとその家族らで、バーベキューをした時のことだ。子供が何人か来たのだが、どの子にも懐かれていたし、扱いも上手かった。

「ん〜、若い頃からかな。弟と妹がいるからね。小さい時から、下の面倒見るの、慣れてるかもね」

 璃帆は、不安だった。小さい子は、自分では守り切れないとの漠然とした恐怖があり、自分が子供を育てることは、到底考えられなかったのだ。

「璃帆は、子供苦手? できたら、きっと好きになるよ」

「……」

「僕と、結婚してくれない?」

 本当に、何気なく、言われた。バーベキューの片付けをしながら、ふと2人きりになったときに、まるで、「旅行にでも行かない」と言っているかのように。

「係長……」

「僕は、本気だから。ちゃんと、返事欲しいからね」


 1週間後に、安田のアメリカ行きの人事異動が発表された。

 なぜ、突然のプロポーズだったのか、やっと納得した。

「璃帆。一緒に来てくれるよね。結婚式は、向こうに言ってからでもいいし、日本に帰ってきてからでもいい。とにかく、籍だけ入れれば、会社的にも問題ない」

 どんどん話を進めていく係長に、璃帆は心が付いていかない。

「……。私、係長のこと、本当に好きです」

 予想と違う第一声が返ってきて、安田は初めて想定外のことだと、焦り出した。

「……、それって……」

「私、係長のこと、幸せにできない……。一緒には、行けません」

「待って、璃帆。どういうこと? 僕は充分に幸せだよ。何が、不安なんだ!」


 璃帆は、帰りの電車の中で、4年前のことを思い出していた。今なら分かる。子供への不安は良太のことがあったからで、あの漠然とした恐怖がなくなった今、ふと思ってしまうのだ。

「もし、あの時既にカルマが解消されていたなら、私は係長について行ったのだろうか」


 安田の歓迎会が行われることになった。璃帆は課が違うので、断ることもできたのだが、「元部下として一言もらえると、ありがたいです」と幹事に言われ、出席せざるを得なくなっていた。以前の同じ課の他のメンバーは、もうこの技術センターにはいない。


「まだ、仕事?」

「どうした?」

 歓迎会当日、璃帆は逃げるように藤崎にLINEする。

「うん。会いたいなって」

「ごめん。来週、棟上と竣工式が重なってて」

「それは、大変だ」

 『大変だー』と動き回る、猫のスタンプも付ける。

「日曜には、なんとかなると思う」

「大丈夫。頑張って。きちんと落ち着いてからで、いいよ」

「ごめん」

「謝らない約束だよ。その代わり、会った時、わがまま聞いてもーらおっと!」

「了解。何なりと」

 璃帆が、ハートを送り続ける、熊のスタンプを送り終了となる。

 思わず、璃帆はため息をついてしまった。ちゃんと藤崎に気持ちを告げてから、安田と対峙したかったのだが、逃げるわけには、いかないらしい……。


 歓迎会は、チェーン店の居酒屋で行われた。

璃帆は元部下としての挨拶も終わり、会は順調に進んでいく。安田とは、随分離れた席だったので、少し気が楽だった。それでも、主役である課長にお酌をしないわけにもいかず、ビールをもって、あいさつに行った。

「変わりなさそうだね。いや、前より綺麗になったかな……」

 お酌を受けながら、安田が声を掛ける。璃帆は首を横に振りつつ、苦笑いをして答えた。

「課長も、アメリカで随分ご活躍だと、お聞きしておりました。お元気そうで、なりよりです」

「少しは、気にしてくれてたんだ……」

 と言って、まっすぐに見つめられる。それ以上の視線に耐えられず、思わず目を伏せ、眉を歪めた。

「今枝さん、コップは? 何飲んでるの」

 と話題を変えられる。

「レモンサワーにしようかと。大丈夫です。さっき、幹事さんに頼みましたから」

「じゃ、それが来るまで、これ飲んだら。アルコール度は低いから、そんなに酔わないよ」

 と、透明でよく冷えた小さいコップを渡された。これを飲んだら、席に戻ろうと一口飲む。日本酒でもないが、とても飲みやすい。一度飲んだことがあったような……、と考えるが、思い出せないお酒だった。

「おいしい……」

「でしょ。それは、璃帆が好きなお酒だから」

 と耳元で、昔の呼び方で小さく囁かれた。思わず離れて、もう一度安田の顔を見る。何もなかったかのように、幹事にビールの追加を頼んでいた。早く席に戻りたくて、そのグラスを空けた。

 自分の席に戻った璃帆は、ひどい眠気に襲われ始める。

「ダメだ……、あれ、ウォッカだ……」

 意識が途切れた。


 璃帆は、机に突っ伏して、寝ている。

「今枝さん。大丈夫ですか? 起きて下さい……」

 困った様子で、幹事が璃帆を起こしに掛かる。それを、安田は止めた。

「いいよ。僕が送ってくから。2次会は皆んなで楽しんで」

「いや〜課長! 主役がいないんじゃ、2次会になりませんよ」

「もう、そんなに若くないからなぁ。体がついていかないよ。今枝さんの家、分かる人いる?」

「いえ、それが今枝女史は、ハードル高くて、飲み会もほとんど参加されませんし。今日は、割と無理言って参加してもらったんです。だから、みんなよく知らなくて……」

「そうか……。大丈夫。起こして聞くよ。さて、皆にお礼を言って、送り出すか」

 と、外で待っている他のメンバーを、2次会に送り出す。もちろん、課長としてのカンパを渡すことは、忘れない。

「課長、ありがとうございま〜す。お疲れ様でした〜」

「皆んな、ありがとう。これからもよろしく。ご苦労様でした!」

 無事、1次会は終了した。安田は、店内に1人戻った。


 安田は、よく寝ている璃帆の横に座る。その姿をずっと眺めて、そして、そっと頭に触れた。そのまま、髪を梳かすように、撫で続ける。初めて、璃帆とキスをした夜のように。

「璃帆……。はじめから、やり直そう……。どんなに、この日を待っていたか……」

 今にも泣いてしまいそうな苦痛な顔で、ひとり呟いた。


 藤崎はまだ図面と格闘中である。棟上と竣工式の案件は、逆に片付いているのだが、まだ建て始めたばかりの現場監督としての仕事の方が、大変だった。

「珍しいよな。璃帆があんなLINE送ってくるの……」

 さっきから、ずっと頭に引っ掛かっていたことが、急に思考の中で倍増して、不安になった。ふと、誰かがいるような気がして、後ろを振り返る。もう、今日この部屋には誰もいない筈だ。


 そこに、璃帆がいた。


 さすがの藤崎も驚く。それは、もちろん実体の璃帆ではない。体から抜けた状態の、魂の璃帆だ。いわゆる、生霊いきりょうである。ただじっと、藤崎をぼんやり見つめていた。

「璃帆……」

 そこで、フッと消えてしまった。その瞬間、声がした。聞いたことのない、男の声。


「璃帆は、返してもらう!」


 誰……だ!? 何だ、この香り……? 男物の香水……。

 弾かれたように藤崎は我に返る。慌てて璃帆に電話を掛けた。

「璃帆。今、どこにいるんだ!」

「藤崎君……? どしたの……?」

「……酔ってるのか!?」

「うん。そうらしい……。ふらふらするよ。う〜ん」

 そこで、後ろの方から声が聞こえた。

「璃帆。タクシーが来たから、行くぞ」

「あっ、課長。すみません……。じぁね、藤崎君」

と、切れてしまった。

 今の声は、さっきの男の声だ! なんで、璃帆を呼び捨てなんだ……! どうして、あんなに酔ってるんだ……。藤崎の全ての神経が、この状況をおかしいと叫んでいた。

「璃帆!」

 もう一度、電話を掛けるが、電源が切られてしまっていた。


 安田は璃帆のスマホの電源を切りながら呟く。

「邪魔は、させない……」


 タクシーから降りた安田は、璃帆を抱えるようにして部屋に連れてきた。そこは、安田の部屋だった。

 璃帆をベッドに寝かす。璃帆の前髪をそっとかき上げ、おでこに、瞼に、頬に、順にキスをする。そして、ゆっくりと唇を重ねた。あぁ、璃帆だ……。この柔らかく、下唇がふっくらした、吸い付くような感触。どれほど、夢に見たか……。

「う……ん……」

 璃帆が、腕を首に巻きつけてくる。もう一度、キスをする。からませれば、応えてくれる。ああ、本当に璃帆だ。もう、止められない。

「早く、目を覚まして、璃帆。君が僕を呼ぶ声が、聞きたい」

 安田は、そのまま璃帆の体を愛撫していく。懐かしむように、優しく、そして、愛おしいく。セーターまで脱がせ、ふと気が付いた。

「どうしたんだ、この傷は」

 腕に残った縫った傷痕。これは4年前にはなかった。そして、デコルテにある印を見つける。

「キスマーク……」

 その時、璃帆がうわ言をいう。

「藤崎君……、この香水、ヤダ……」

「璃帆……」

「いつも、こんなの、つけてない……」

 璃帆は顔を歪ませながら、呟き続ける。この香水は、もうずっと変えていない。璃帆に会う前から、使い続けているものだった。安田は、恐る恐る聞く。

「どうして……、イヤなの?」

「また、置いていかれる……」

 といって、体を丸めてしまう。

 安田の動きが、止まった。

「来てくれなかったのは、君だ……」

「もう、あんなの、二度と……、や……」

 璃帆は、泣き出してしまった……。安田は、それを呆然と見つめた。

「……僕たちは、どこですれ違ったんだ……。ずっと、ずっと、君だけを思ってきたのに……。もう僕の手の中には、戻ってこないのか……、璃帆!」

 安田はベッドから降りた。膝をつき、そのまま声も立てず、泣き崩れてしまった。


 藤崎は、璃帆のアパートに来ていた。階段の上がり口に座って、璃帆を待った。

「何があったんだ……」

 藤崎は、イヤなことばかりが頭に浮かび、どうにかなりそうだった。

 会いたいっていったのは、こんなことを予測していたのか……。どうして俺は、すぐに会いに行かなかったんだ。くそっ! 万が一、璃帆に何かあったら、どうする!? 俺は変わらずにいられるのか! そもそも、あの声は誰なんだ! 返してもらうって何だ! 堂々巡りの自分の声が、頭の中で止まらない。


 ――藤崎君が、教えてくれたんだよ。信じるやり方


 不意に、璃帆の言葉が浮かんできた。あれは、智美の時の璃帆の言葉だった……。

 藤崎は、俯いていた顔を、いったん空に向ける。そこには、璃帆の大好きな、星空がキラめいていた。

「ふーっ。そうだな、『大丈夫。信じる』だな……」

 アパートの前に、一台のタクシーが止まった。璃帆の電話が切れてから、3時間は経っていた。


 安田は、タクシーを先に降りる。奥でウトウトしている璃帆を降ろそうと、声を掛け、腕を掴んだ。

「どいてくれませんか。俺がやります」

 後ろから声を掛けられた。今にも殴りかかりそうな目をした、藤崎だった。随分背が高い。安田より10cmは高いか……。安田は、思わず璃帆から離れた。


「璃帆、しっかりして。なんでこんなに酔うまで、飲んだんだ……」

 藤崎は璃帆をタクシーから降ろし、腕を肩に回し、腰を支えた。それを安田は、じっと見ていた。こいつが「藤崎君」か……。

「知らないのか? 璃帆は、ウォッカを飲めば、必ずこうなる」

「……知ってて、飲ませたのか!?」

「返してもらおうと、思ってね。そんなことも、知らない奴から」

「……、渡さない」

 一瞬、藤崎の圧力に押されそうになったが、安田も一歩も引きはしなかった。

「偉そうに言うが、どうせ、君には何にもできない。あの腕の傷はなんだ。君がそばにいても、防げなかったんだろう?」

 藤崎は思わず璃帆の洋服を見る。セーターの上にジャケットを着ているから、あの傷は何かの拍子に見えることはない。頭に血が上る。

「……っ! まさか、寝てる璃帆を無理やり……」

「見くびってもらっては、困る。君は、愛してる女を、そんな風に扱えるのか」

「ここまで飲ませる奴を、信用はできない」

 お互いに、睨み合う。

「まあ、いいだろう。そうやって、自滅すればいい。手間が省ける」

 藤崎は、殴りたい衝動に駆られたが、璃帆を抱えていて、それもできない。

「君は、甘い。璃帆を欲しがってるのは、僕だけじゃない」

「それは、璃帆が選ぶことだ」

「随分な、自信だな」

「璃帆を、信じてる」

「僕だって、そうだったさ。信じて、このザマだ……」

 知りたくもないのに、安田が1人で慟哭している姿の映像が、藤崎に伝わる。しかも、璃帆の慟哭の姿まで伝わってきたのだ。二人とも、今より少し若い時だ……。

「……っ、そんなに愛してたなら、手を離すべきじゃ、なかった……!」

 2人の間に、沈黙が落ちる。

「今日は、引き下がるが、今度はそうはいかない」

「礼は言わない! 今度もない! これ以上璃帆を、苦しめるな!」

 その言葉を受けた安田の心の痛みが、割れるような頭の痛みとして、藤崎に伝わった。藤崎は、思わず顔を歪める。

 安田は悲痛な顔で、そのまま待たせていたタクシーに乗って、帰っていった。


「今日の夜、会いに来る。俺も1日頭を冷やしてくるから。

 ちゃんと、話を聞きたい。

 仕事で遅くなるけど、必ず来るから」


 璃帆が目覚めたのは、9時を過ぎていた。ひどい二日酔いで、身動きが取れない。

 テーブルにあった手紙を見ても、何が何だか、すぐには分からなかった。

 シャワーを浴び、軽い昼食を取り、ミネラルウォーターで残ったアルコールを抜いていくうちに、記憶がポツリポツリと戻ってきた。璃帆は青ざめた。

 最後に記憶に残っているのは、藤崎にこのベッドまで運んでもらったこと。昨日は歓迎会に出ていたし、藤崎は仕事で会えないと言っていたのに、どうしたのだろう。

 優しい手に、頭をずっと撫でられていた気がする。藤崎君だったんだよね……。ちゃんと、確かめないと……。でも、香水……。あれはやっぱり、イヤだったな。いつも、香水なんか付けないのに。しかも、課長と同じ「BOSS」だった。

「えっ……! 課長と同じ……!?」

 それからの時間は、恐怖だった。自分で自分が分からない恐怖……。

「龍一さん……、あれは、あの部屋は、龍一さんの部屋だったんだよね……」


 藤崎が来たのは、23時に近かった。璃帆は、とても疲れた顔で玄関に立った藤崎に、とにかく涙だけは見せないように、必死に言葉にする。

「龍一さん、私……、私……」

 藤崎は一度大きく息を吐き、璃帆の頭をそっと胸に抱いた。

「大丈夫。ゆっくり、話を聞かせて」

 といって、靴を脱いだ。


「お茶、もらえるかな」

 震える手で、お茶を淹れる。藤崎が好きな、ほうじ茶。

「おいしいよ。ありがとう」

 璃帆をやさしく見つめる。

「どこまで、思い出した?」

「わたし、昨日ずっと藤崎君といっしょだったんだよね……」

「どうして、そう思う?」

「髪を……、頭をずっとやさしく撫でられてた気がする……」

「ん……」

「藤崎君、どうして昨日、あんな香水付けてたの? それがイヤで、私泣いた気がするの」

「あの香り、嫌い?」

「ダメなの……」

「……課長と一緒だから?」

 璃帆は、瞠目する。呼吸が止まる。口を両手で覆い、顔を歪めて、目を閉じた。

やっぱりあれは、安田課長だったのか。どうして……。

「課長のこと、聞きに来た」

 声が、藤崎の声が、一瞬震えているように聞こえた。


 手の震えが、止まらなかった。藤崎に知られるのが、なにより怖かったのだと、今になって分かる。

 名前は安田耕二。今年で36歳になる。4年前付き合っていたこと、プロポーズされたことを話す。そして、それを断って、アメリカには付いていかなかったと告げた。

「好き……、だったんだろ。どうして?」

「私、子供が怖かったの。でも、課長は、子供好きで……」

「あぁ、良太だね……」

 璃帆は、ゆっくり頷いて、そっと笑った。

「課長は、子供なんて、できればきっと好きになるよって、その1点張りで……」

「そうだろうな……」

「嫌いになれたら、楽だったと思う……」

 静かに聞いていた藤崎の顔が、一瞬苦痛に歪んだ。

「こんなの、龍一さんに話したくないのに……。本当にごめんなさい……」

 藤崎は、俯いてしまった璃帆を、見つめた。


「アメリカに渡った課長は、1ケ月後に、現地在住の日本人女性と、結婚したの」

「えっ……」

「当然の報いだと思った。課長を非難する権利は、私にはないから。ひどいことをしたんだから……。あんなに大切にしてもらったのに」

「璃帆……」

 昨日一瞬見た、少し若い璃帆の慟哭の姿が、脳裏をかすめた。藤崎は、言葉が出ない。

「あぁ私は、人を好きになっちゃいけないんだなって、あの時思ったの。誰かを巻き込んでは、いけないって」

 藤崎は、考える。璃帆と一度別れた時、幸せになろうとしない自分を、どうしてあんなにすんなりと、璃帆が受け入れてくれたのか、今になって分かった気がした。

「じゃあ、彼は今、幸せなんだよな?」

「……そのあと、半年もせずに、離婚したって噂で聞いた」

「そういう、ことか……」

 容易に、安田の気持ちは想像ができた。きっと、璃帆を忘れられなかったのだろう。逃げるように他の女性と一緒になったが、そんなものはいつまでも続かない。本当に璃帆を愛していたのだろう。いや、きっと今も愛している……。


「私、昨日、藤崎君を裏切ったの……?」

 声の震えが、止まらないまま、璃帆は続ける。

「どうして、藤崎君は、課長のことを知ってるの? 私、どうすればいい……?」

 とうとう、涙が溢れてしまった。璃帆の押し殺した泣き声だけが、響いていた。


「ウォッカ……」

 藤崎の言葉に、璃帆が顔を上げる。

「飲んだの覚えてる?」

「頼んでない。あれ、私、意識が飛ぶから……。あっ……」


 ――それは、璃帆が好きなお酒だから


「安田さんに、何か勧められなかった?」

「どうして、分かるの……」

「安田さんが、自分で言ったんだよ」

「会ったの? いつ」

「璃帆は、安田さんにタクシーでここまで送ってもらった。俺は、ここで待ってたから」

「待ってた……」


 ということは、あの香水の香りがしていた間は、ずっと相手は安田課長だった……。

「ほんとに、ほとんど覚えてない。香水がイヤだって泣いて、その次の記憶は、タクシーに乗ったこと……。ごめんなさい。なんにも……、言い訳もできない……」


「安田さんがね、そんなことは、してないって、俺に言った」

「えっ……」

「それに……」

 藤崎は、そっと璃帆の鎖骨の下辺りを確かめる。指でやさしく触った。

「この間、俺、ここにキスマーク付けたんだ。それがまだ残ってるから。大抵の男は、それを見たら気持ちが冷める」

 柔らかく笑う。

「そうなの……? 本当に……? 私、まだ藤崎君の、そばにいられるの?」

 微笑んだまま、藤崎はうなずいた。


「でも、ちょっと条件を付けるよ」

「はい……」

「これから、お酒は、俺が一緒じゃない時は、飲まない」

「はい」

「それと、キスマーク。ほんとは、もう止めようと思ってたんだけど……。子供っぽいからな。好きだから、思わず付けちゃうんだけどさ。でも、やっぱり止めないから。信用してないわけじゃないけど、何があるか分からないし」

「はい。お願いします」

 と言って、畳に手をついて頭を下げる璃帆を見て、少し可笑しくなった。

「もう、いいよ。とにかく、大事には、至らなかった。それに……」

 藤崎は、言い淀む。逡巡しているように見えるが、璃帆は言葉が掛けられない。

「安田さんは、今でも本当に璃帆を愛してると思うから、君を傷つけることは、しない」


 安田が璃帆を見ている時のオーラは、悲しみと、愛情とが、ない混ぜになっていたと知っていた。そこに、怒りはなかった。あの頭の痛みを感じれば、イヤでも安田の悲しみは分かる。だからこそ、あの時「信用できない」とは言ったが、実はあの言葉は、信じることができていたのだ。


 ――君は、愛してる女を、そんな風に扱えるのか


「龍一さん……。敵に塩、送りすぎだよ」

 藤崎は、急に気持ちが軽くなる。こういう時、璃帆はいつも思いがけないことを言う。思わず、笑ってしまった。


「私ね、課長が日本に帰ってきてから、ずっと考えてたの。もし、良太のカルマがもっと前に解消されていたら、私はアメリカについて行ったのかって……」

 つまりそれは、カルマが無くなった今、心が迷う可能性があるということだ。藤崎は、次の言葉を待った。

「答えが出なくて……。だから、質問を変えました」

「……」

「もし、龍一さんに何の力もなくて、カルマがあったままで出会って、もし、私が子供に恐怖を感じてるって伝えたら、龍一さんはどうするだろうって」

 藤崎は、「もし」を考えてみる。でもそれは、すぐに答えが出た。


「きっと龍一さんなら、『そんなに璃帆が怖いなら、無理しなくていいよ。2人で一緒に、ゆっくり考えよう』って言ってくれるなって……」

 藤崎は、真剣な目で璃帆を見つめた。

「当たってるでしょ」

 自信たっぷりに、璃帆が笑う。

「だから、もう私は課長の元には戻らない。龍一さんがいいって、龍一さんじゃないとダメだって、ちゃんと分かったの。昨日、LINEで会いたいって言ったのは、それを伝えたかったから……」

「璃帆!」

 藤崎は、璃帆を抱きしめる。心のわだかまりが解けていく。そう、璃帆が言った言葉は、本当にそっくりそのまま、藤崎の答えだったのだ。

 長いこと見つめ合って、そっとキスをした。やっぱり、璃帆とのキスは、溶けそうだ。


「ごめん。少し眠っていいかな……。昨日も、寝られなくて。安心したら……、もう……。少しでいいから……」

 といって、ゴロンと畳に横になってしまう。

「風邪引くから、ベッドで寝て。お願い」

「……うん」

 と、無理やりベッドに寝かせた。あっという間に眠りに落ちる藤崎の顔を見ながら、心に誓う。

「今度、必ず安田課長に、話をするね。『私が愛してるのは、藤崎龍一です』って」


 翌日、藤崎はお昼近くに目を覚ました。璃帆がいなくて、驚いたが、手紙と鍵があった。


「少し、出掛けてきます。

 トーストとコーヒー、よかったらどうぞ。セルフだけど。ハムエッグは冷蔵庫にあります。

 龍一さんが良ければだけど、お昼一緒に食べたいです。

 12時までには戻ります。お風呂、使ってください。着替えも、出しときますね。

 もし帰るなら、この鍵持っていって下さい」


 今、お互いに着替えとお泊りセットを、各々の部屋に置いている。シャワーを浴び、着替えを済ませ、璃帆を待つ。やはり、この部屋は居心地がいい。

 あの小物のコーナーに、この間、尾道で購入した小さなガラスの置物が、置いてあるのを見つけ、微笑む。こうやって、2人の時間は増えていくんだと、実感していた。


 階段を上る足音がして、璃帆が帰ってきたのが分かった。

「ただいまー。よかったー。龍一さん、まだいたー」

 玄関を開けた璃帆を見て、藤崎は、その場に立ち尽くしてしまった。

「璃帆。どうしたの、その髪……」

 肩より少し長かった髪が、ばっさり耳くらいの長さに切られていた。ふわりとカールしている。

「禊です……」

「みそぎって……」

「だって、髪撫でてたの、龍一さんじゃなかったんでしょ。だから、そんな髪は、さようなら!」

「璃帆……」

 藤崎は、もう呆れ顔が、止められない。

「もっともっと短くするって言ったんだけど、美容師さん達、皆んなで止められたの……」

「……」

「変……? 似合わない?」

 藤崎は、もうどういったらいいか分からず、玄関で立ち話をする璃帆の両手を掴んで、部屋の中に誘った。

「すごく、可愛いよ」

 抱きしめながら、笑い出してしまった。もう、本当に璃帆は、思いも掛けないことばかりする。藤崎は、やっぱりこの子を、誰にも渡さないと心に誓う。今日の記念にと、2人で写真を撮った。弾ける様な笑顔の二人の周りには、キラキラ光る大小の粒子がいっぱい写っていた。


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