谷也修二とカリリン
冬はクラシック音楽のシーズンである。ヨーロッパの習慣が、そのまま日本でも受け継がれている。ただ、海外オペラの引越し公演や、海外オーケストラの日本ツアー、各国の各分野のソリスト達のリサイタルなどは、冬は本国での演奏が忙しいため、日本では夏の公演が多くなる。
よく、出稼ぎに来ると揶揄される。実際、ヨーロッパでも若者のクラシック離れは日本とさほど変わらず、どんどん聴衆が少なくなっているのが実情なので、はるばる世界の東の端まで、彼らはやってくるのだ。
「璃帆、すごいよ! 谷也修二のリサイタルのチケット、手に入った!」
藤崎はクラシックが好きだ。J−POPも、ジャズも、割と何でも聴いているが、1番良く聴いているのが、クラシックだった。たまにオペラも聴きに行っている。璃帆は、オペラだけは敷居が高く、今まで聞いたことがなかったので、最初は全く分からなかったのだが、藤崎に教えてもらっている間に、少しずつ分かるようになっていた。
その藤崎が、このところよく会話にしていたのが、谷也修二のことである。
どうやら、すごいテノール歌手らしく、先日海外でのオペラ出演が大成功し、今話題の音楽家らしい。とにかく、チケットが手に入らない。
「よかったね〜。前から、聴きたがってたもんね。私の分もありそう?」
「もちろん! スケジュール、空けといてよ」
「了解」スタンプと「おめでとー」スタンプのダブルを送っておいた。
演奏会場は満席である。ロビーでは、CD販売に列ができ、演奏会終了後には、CD購入者にサイン会も行われるらしい。会場全体が、熱気を帯びていた。
2人で席に着き、プログラムに目を通しながら、同封されているチラシを見ていた。
「これ見て! 8月に『連隊の娘』のオペラ公演がある。うわっ。エレナが来るんだ。この間、ヴェネチアのオペラ公演で、マリーを歌った人だよ。ライブ録音のCDのソプラノ。すごいな! 生で聴けるんだ……」
興奮した藤崎を見て、璃帆も嬉しくなる。例えるなら、きっと、ファンクラブでもめったには手に入らない「ジャニーズの『嵐』」のコンサートの、前から3列目位の席が手に入った、くらいの嬉しさなのだろうと、頭で変換しながら聞いていた。
「聴きに来ようね」
と声を掛けると、早速チラシをスマホで撮り、チケット販売開始日を、スケジューラーにインプットしていた。
「生命保険のCMで流れてる曲、知ってる?」
藤崎がメロディーを小さい声で口ずさむ。
「知ってる! 綺麗で、素敵な曲」
「あれ、谷也修二だよ。でもね、今や東京ではなかなか聴けなくなった、伝説の曲になってるんだ」
「何で?」
「はっきりとは分からないんだけどね、地方公演では、必ずアンコールで歌うらしいんだけど、東京では歌わないんだって。ネットじゃ、ちょっとした都市伝説になってるよ。今日も、聴けないだろうな〜」
「残念だねぇ……」
そんな話をしながら、開演のときを待った。
演奏が始まれば、なぜこんなに藤崎が興奮していたのか、素人の璃帆でも即座に納得した。
何度、鳥肌が立ったことか。オペラのことは良くわからないが、ロックのハイボイスやシャウトとは違った、綺麗で艶と強さを併せ持った高い声は、理屈抜きで人を感動させる。これが裏声ではなく、実声で出るとは、どうなっているのだろう。
「耳が、ビリビリする。これ、すごいね。オペラの人の声って、マイク使ったエコーみたいな残響があるよね。どうなってるの?」
「だろ! どうなってるかは、俺もよく分からないんだけどさ。色々他の日本人の声聴いたけど、オペラ歌手なら誰でもこんな風にできる訳じゃないことは、分かったよ。やっぱり、谷也修二はすごいよ」
と、休憩時間に話しながら、ドニゼッティやロッシーニ、モーツァルトを楽しんだ。
鳴り止まない拍手に答えて、アンコールとなった。
「さぁ、何歌ってくれるかな……」
と、小声で藤崎が呟いた。
まずは、ロッシーニらしい。谷也が舞台上で曲名を告げてから歌い出した。聴いたことがない曲だったが、とても早いテンポの曲で、ピアノ伴奏も大変そうなのに、軽々と歌っていて驚いた。それに、息継ぎなしでずっと歌っているかのように思える曲だった。
藤崎によると、今この曲をこんな風に歌えるは、世界でも数えるほどだと思うと、教えてもらった。
まだまだ納得しない聴衆に応えるため、続いては、モーツァルト。「コジ・ファン・トゥッテ」から1曲とのこと。これは、璃帆もどこかで聴いたことがあるかなという曲で、楽しめた。
ここまでで終わりかと、アンコールの拍手を送りつつ諦めかけたが、観客の拍手が鳴り止まない。とうとう、手拍子になり、客席が一体化してしまう。これでは、挨拶に出てくるだけでは、収まらないだろう。藤崎がそう思っていたら、ピアノ伴奏者が椅子に座った。それを見て、拍手がピタリと止まる。もう一曲、歌ってくれるのだ。
流れてきた前奏を聴いて、客席から割れんばかりの拍手が沸いた。それは「カッチーニのアヴェ・マリア」だったのだ。あの、伝説の曲である。
「やった……」
藤崎が隣で、小さく拳を握る。嬉しそうに璃帆にうなずき、ステージに視線を戻した。
歌が始まった途端、会場のあちこちから金色の粒子が立ち上がり始めた。どれもゆっくりと円を描きながら、上方に登っていく。浄化の光である。
今日の演奏会の途中、観客のオーラの輝きがどんどん増していったのは良く分かっていたが、この光が立ち上ることは、なかった。
藤崎は思わず璃帆を見る。璃帆にもこの光が見えているか確認しようとしたのだが、何のことはない、璃帆まで泣いていた。やはりエンパスの璃帆には、こういうとき押えきれない感情が、押し寄せてくるのだろう。そっと、視線を会場に戻した。
曲が終わると、一瞬の静寂があり、その後爆発したような拍手が上がった。あちこちで、涙を拭っている人々がいた。それは、女性ばかりではなく、男性も混じっている。藤崎は、隣で涙を拭いている璃帆の頭を、ポンポンとした。
「聴けて、よかったな」
「うん……。ほんとに……」
演奏会後のサイン会には、大変な列ができていた。新発売のCDは、藤崎も開演前に購入していたのだが、さすがに諦めて帰ることにした。璃帆は、並ぼうと言ってくれたが、せっかくの演奏会の余韻がなくなっていくようで、やめようと即断した。またいつかチャンスはあるだろうと、こだわることはやめた。
ホワイエに向かっていた2人の少し先にいる、杖をついた小さい白髪の女性が、ふらついているのが目に留まった。こういうときの璃帆の動きは、早い。藤崎をとっとと置いて、女性のそばまで小走りで近づいた。
「ご気分でも悪いのですか?」
「あら、ご親切に。大丈夫ですよ。膝がね、ずっと座ってたから、なかなかスムーズに歩けないだけなんですよ」
と、笑顔で答える。璃帆も、追いついた藤崎もホッとして、近くのソファに誘った。
「お1人ですか?」
「えぇ、チケットが取れなくてね。孫が譲ってくれました。ファンなのを知ってまして」
「今日の演奏も良かったですね」
と、藤崎が話し掛ければ、ご婦人は仏様のような笑顔になった。
「まさか、カッチーニが聴けるとは思いませんでした。冥土の土産になりました」
「本当に。俺も、今日聴けて、ラッキーでした」
と、さすがファン同士の、「暗黙の了解」話をしていた。
「どうやって、お帰りになられるのですか?」
と、璃帆が問えば、その孫が車で駐車場まで、迎えに来てくれるという。今時、優しいお孫さんだ。ただ、渋滞で遅れていると連絡が入ったという。
「じゃ、一緒に待ちましょうか」
と、簡単に藤崎が言うのを聞いて、璃帆は内心惚れ直す。こういう優しさは、相手が若い女性なら嫉妬も妬くが、そうでないなら、心から歓迎する。
藤崎は藤崎で、きっと璃帆も同じことを考えているだろうと、同意も取らない。修道女気質なのは、きっと2人とも同じだよな、などと、自嘲気味に内心笑っていた。
「まあ。お優しいお2人ね。神のご加護を」
と自然につぶやくご婦人に、藤崎は目を瞠った。
あの修道女の時に一緒にいた1人だと、画像が伝わってきたからだ。彼女は前世で、同じ修道院でコーラスを歌っていた。「袖振り合うも他生の縁」を実感し、自然に笑顔になっていた。あとで、璃帆にも教えてあげよう。
しばらく、膝を伸ばしてもらい、今日の演奏のことなどを楽しくお話した。彼女はとても話が上手く、自分のことも隠さずに話す。オープンマインドを絵に書いたような女性であり、明るくお茶目な性格から、きっと地域コミュニティでも人気者だと感じさせる。
もう、嫁いで60年近くなったが、実家は広島の尾道だということまで分かり、藤崎の仕事先だと伝えると、その縁の深さを皆で笑いあった。
あっと言う間に30分が過ぎ、そこでお孫さんから連絡が入った。駐車場に到着したとのことだ。
「ついでですから、駐車場までお送りしますよ。ここの駐車場は広いですから。迷うと大変です」
と、同行することになる。藤崎達がホワイエを通り抜ける頃には、サイン会の列も終わりに近づいていた。人の波がそろそろ収束する頃だ。改めて、今日の演奏会はいい演奏会だったと、会場を後にした。
駐車場で無事ご婦人をお孫さんに送り届け、2人は帰途につくことにした。
すると、少し先のほうで、上階から駐車場に降りてきた2人に目が留まった。
男性は両手に荷物を持ち、女性は花束を両手に持ちきれないほど抱え、車に向かっている。
「あれ、谷也修二だよね……」
「ほんとだ……」
2人は思わず、顔を見合わせる。どちらからともなく、今演奏を終えたばかりの世界的スターに小走りになった。
「あの、今日演奏を聴きました。とても、素晴らしくて、感動しました」
藤崎が、興奮を隠しきれずに話しかけていた。握手をお願いする。
「ああ、ありがとう」
思ったより気さくに対応してくれたことに気をよくして、
「サイン、ご迷惑でしょうか? 余りに列が長かったので、諦めたんですが……」
と、思わず聞いていた。
「いいですよ。皆さん熱心に並んでくださって、嬉しいんですが、やはり諦める方も多いようで、いつも気にしてました」
と答える。璃帆も思わず、お礼を言った。
「カリリーン、サイン用のマジックある?」
と、花束を車に押し込んでいる女性に呼びかける。
「はーい。今、持って行きますね」
待っている間、璃帆が、どうしても聞いてみたかったことを言葉にしていた。
「あの……、あのカッチーニは、誰かのために、歌ってらっしゃるんですよね。そうとしか、思えなくて……」
谷也も藤崎も、思わず璃帆を見た。璃帆は、まっすぐ谷也の目を見つめていた。
そこへ、カリリンと呼ばれた女性が、小走りでやってくる。とても綺麗で、柔らかい笑顔の女性だった。華やかな美しさと言うより、どちらかと言うとマリア様に近い、慈悲深い美しさというべきだろうか……。思わず璃帆は見とれていた。
谷也は、花梨の腰を引き寄せ
「ええ。彼女のために歌ってます」
と、答えた。それを聞いた花梨は、花のような笑顔に包まれる。夫婦なのだと、何も言わなくても、璃帆にも分かった。
2人の間に、あっという間にエネルギーの太い繋がりが出来上がる。これほど同化したエネルギー体は、珍しい。お互いに、あの璃帆のような光の花びらを纏わせ合い、それが1つになる瞬間は、更に強く綺麗な光を一瞬放つ。その後、2人の境界がなくなるのだ。エネルギー体の色も、紫色と金色が混ざったような、ぼかし染めの様なものになる。それは、もちろん美しく輝いて、藤崎は、その光景に言葉が出なかった。
「こちらのお嬢さんが、カッチーニは誰のために歌っているのかと、お聞きになるのでね」
と言われた花梨は、少し申し訳なさそうに続ける。
「私がいなくても、皆さん待ってらっしゃるんだから、歌ってあげてとお願いしてるんですが……」
と、谷也の顔を見ながら微笑んでいる。
「君がいなきゃ、ああは歌えないの」
という谷也の言葉を聞いて、璃帆が思わず同調した。
「本当にそう思います。あれは、愛を伝え合うための歌ですから、同じ空間にいないと……、バランスが崩れてしまう……」
「まぁ」「璃帆……」
花梨と藤崎は同時に声を出した。2人は思わず目を合わせる。谷也は、「おっ」と片眉を上げている。花梨は微笑むと、璃帆に語りかけた。
「ありがとう。あなたも、きっと素敵な恋をしているのね」
と、藤崎と璃帆を優しく見つめた。璃帆の顔が、思わず赤くなる。それを見ながら、谷也に聞いていた。
「この可愛いお嬢さんに、お花をあげてもいい?」
「いいよ。あ〜、そうだ。確か銀ちゃんからのがあったから、あれあげて」
「もぅ、せっかく聴きに来てくれたのに……」
と、璃帆を連れて車まで行ってしまった。
改めて、CDにサインをしながら、谷也が藤崎に話しかける。
「綺麗なお嬢さんだ。しっかり捕まえとかないと、誰かに掻っ攫われるよ」
「えっ……」
「僕だって、カリリンを手に入れるのは、苦労したんだ。君はまだ若いから、敵は多いよ。健闘を祈る!」
と言いながら、サインを終えたCDを藤崎に渡す。
「はい。誰にも渡しません」
「手を、離すなよ」
「璃帆さんでしたね。あなたは、彼のことをなんて読んでるの?」
突然の質問に、うろたえながらも璃帆は答える。
「あの……、藤崎君と」
「それ、すぐ変えたほうがいいわ。下の名前を呼んで。私、それでとっても苦労したの。結婚したら、困るわよ」
銀ちゃんからの花束を探し当てたカリリンは、中にあったメッセージカードを取り出し、1度その花束に軽くお辞儀をして、そのまま璃帆に手渡した。
「結婚は……、まだ何の約束もしてないですし……」
「ふふ。見てれば分かります。いずれ、しますよ。どちらも、お互いをとても大切に思っているもの。あなたはとても感受性が強そうだし、彼は誠実そうだし、お似合いだわ。だから、準備しといてね」
「……ありがとうございます。頑張ります……」
そこに、上階から長身イケメンが1人、駐車場に降りてきた。
「間に合ってよかった。花梨さん、花束1つ、伴奏の須田さんの方に混ざってました」
「あら、千葉さん。ありがとうございます。まだ、片付けは終わりませんか?」
「もう少しで、撤収できます」
「じゃあ、写真撮って下さいませんか?」
といって、璃帆の背中を軽くエスコートしながら、谷也と藤崎の元に戻る。
「申し訳ありませんが、SNS等へのUPはお断りしておりますが、お約束頂けますか? でなければ、特に花梨さんと一緒の写真は、許可できません」
「千葉さん、大丈夫ですよ。このお2人なら」
「いえ、花梨さん。こういうことは、はっきりしておきませんと。一般人なんですから……」
「もちろん、どこにも出しません。2人の宝物にします」
と、藤崎が即座に答えていた。璃帆も隣で、コクコクと頷く。
無事4人の写真を千葉が撮り、彼は上に戻っていった。
「本当に、ありがとうございました。今日のことは、2人共一生忘れません。今度の「連隊の娘」必ず聴きに行きます。楽しみにしています」
と藤崎がお礼を言い、璃帆たち2人は、谷也夫妻を見送った。
「藤崎君、あのね……。これから、り……龍一さんって呼んでいい」
と、言いにくそうに、真っ赤になって璃帆が聞く。
「何、どうしたの?」
「やっぱり……、イヤだよね」
「イヤじゃないけど、どうしたの? そんなに璃帆が照れると、俺にまでうつる」
と、藤崎もすこし照れながら答えた。
「花梨さんがね、そうしろって……」
「また、なんで……」
「今は……、内緒。でも、そうしたほうが、いいかなって、私も思ったし……」
「内緒って……。まあ、璃帆が照れずに言えるなら、いいよ」
と、内心まんざらでもないなと思いながら、藤崎は微笑んだ。
「うん……。頑張るね……。そういえば、私が花束貰ってるとき、谷也さんと何話してたの?」
「……。こっちも、内緒かな……。男同士の話」
「何、それ。なんか、ずるくない」
「お互い様だろ」
と、どちらもぎこちない。顔を見合わせて、笑い出した。
「何だか、2人に圧倒されちゃったね」
「あの2人さ、ツインレイだよ。もともと、1つの魂が2つの体に分かれてこの世に生まれてきたっていう、あれ。ほんとにいるんだな、初めて見た。オーラもそっくり。2人のエネルギーの繋がり方見たら、感動するよ。さっきの、璃帆に見せたかったな……」
「カッチーニの時ね、歌のほかに音がしてたの。曲とは、別の音……」
「別の音?」
「地球、ふ……、龍一さんが見せてくれたことあったでしょ」
「あぁ、あの時も、そんなこと言ってたな」
「うん。よく似た音。きっと、すごくエネルギーのバランスが取れた時だけ聞こえる、地球に繋がってる音のような気がする。会場がね、その音に満たされてたの」
「だから……」
泣いてたのかと、納得した。
「浄化の粒子が、あちこちから上がってたの、見えてた?」
「うん。綺麗だった。ふ……、龍一さんといると、ほんとに色々見えて、いいことばっかり」
と、藤崎の腕にしがみつく。
「なんか、いちいち名前言い間違えられるの、新鮮だな……」
「からかってるでしょ。頑張って、早く慣れよー!」
「うん。名前で呼ばれるの、意外と嬉しいかも」
ちょっと驚いて、璃帆はまじまじと藤崎を見つめた。
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃ、本当に頑張るね」
「ん……、頑張れ」
その夜、藤崎の腕の中で、最初は「龍一さん」と呼んでいた璃帆は、最後はやはり「藤崎君」と呼んだ……。
本当はどちらでも心地よいことは、璃帆には伝えないでおこうと決める。何のためにだか分らないが、とにかく一生懸命頑張っている璃帆は、やっぱり可愛いから……。
腕の中で眠っていく璃帆を見ながら、「頑張れ」と囁いた。




