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79話 マリオネットの変転

第79話 マリオネットの変転


 昭和60年、11月。

 若者たちでごった返す原宿の竹下通りに、ひときわ目を引くパステルピンクの店がある。

 お菓子の包装紙を思わせるアーケードには『MOMOKA SHOP』のロゴが白抜きされていた。

 店先には大きなテディベアが3匹、それぞれ椅子に座らされて少女たちを出迎えている。

 フラミンゴ色の毛並みに、朱色のリボンを首に巻かれたテディベア。

 ポピーレッドの長い毛に、『WELCOME MY HOUSE』と書かれたボードを持ったテディベア。

 真っ白なふわふわの毛に、モモカショップのグッズがたくさん詰まったバスケットを抱いたテディベア。

 街中の喧騒に紛れるように、3匹の間から声が漏れ聞こえた。

「青龍会四天王になるための試験…か」

 ポピーレッドのテディベアが、秋津イサオの声で呟く。

「そうなんだ。海堂会長はボクを推薦してくれたんだけど、藤浪から物言いをつけられてさ」

 フラミンゴ色のテディベアが、若い青年の声で喋った。

「紫鏡会会長の藤浪は青龍会若頭の最年長で、海堂の右腕と目されている男です」

 純白のテディベアが、中年の男の声で説明した。

 3匹のクマのぬいぐるみの影にいるのは、3人のオッサンだ。

 朱雀組4代目組長・秋津イサオ。

 その息子で青龍会に潜入している桃華組組長・秋津ユタカ。

 ユタカの懐刀である源清司。

 朱雀組と青龍会は不倶戴天の間柄であり、本来、イサオとユタカは敵対関係である。よって、密会するにあたっては、このように人目を忍ぶ必要があるのだ。

 ――クマのぬいぐるみに朱雀組の親分が隠れてるなんて、まんず誰も思いつかねえな。さすがはユタカ、頭の出来が違うなや。

 イサオは愛息の利口さに感心しつつ、ふむと顎を撫でた。

「ユタカが海堂の傍につけていい男かどうか、藤浪から警戒されてるってことか」

「ボクは青龍会の天敵・秋津イサオの息子だからね。いずれ、難癖はつけられると思ってたよ」

「で?試験ってのは、何させられるんだ」

 と聞いてから、イサオは一人にやりと笑った。

 ユタカからわざわざ呼び出された時点で、見当はついていたのだ。

「当ててやる。俺を殺れって言われたんだべ?」

「正解!すごいやパパ、何でもお見通しなんだね」

 はしゃぐユタカに同調するように、フラミンゴ色のテディベアが揺れる。

「実の父親を殺して、海堂会長への忠誠を証明しろ――藤浪の提案に、海堂会長も同意しました。藤浪の意見はさておき、海堂会長としては、組長の腕試しがしたいといったところでしょう」

 源の解説を、イサオははっと笑い飛ばした。

「東京者はしょねわりな。ま、俺が海堂や藤浪でも、同じことを言うだろうが」

「この試練を突破すれば、うるさい藤浪を黙らせることが出来る。海堂会長だって、ボクを信用…まではいかないまでも、ボクの覚悟ぐらいは買うだろう」

 何より、とユタカは声を低めた。

「青龍会四天王になれば、水瓶組の難波と肩を並べることができる。青龍会四天王の中で、奴が最も玄武会に近い」

 難波率いる愚連隊『ブルー・ワイバーン』及び人身売買カルテル『アラビアン・ナイト』が、玄武会に実験用の人間を提供していることも、ユタカは青龍会に潜入した9年で調べ上げていた。

「よし。せば、可愛いユタカのために殺されてやるべか」

 イサオが明るい声で言い、ユタカも「ありがとう、パパ!」と笑顔で答えた。

 通りを行き交う少女たちの色とりどりのファッションを前景に、テディベアに隠れた男たちの密談は続いた。



「ただいまー…」

 さやかが2週間ぶりに帰宅すると、台所からぱたぱたと母・夏目しづかが飛んできた。

「おかえりなさい、さやちゃん!お疲れ様」

「お疲れ…?」

 首を傾げるさやかに、しづかがねぎらうように頬を寄せた。

「こんなに急に塾の強化合宿が決まるなんて、大変だったわね。お母さん、さやちゃんに一回ぐらいお電話したかったけれど、たっくんからお勉強の邪魔しちゃ駄目って言われちゃって…」

 さやちゃんがいなくて寂しかったわ、と言って、母はさやかを抱きしめた。

「母さん…」

 母の匂いと温もりに安らぎながらも、さやかの脳裏にはあの嫌味ったらしい兄の顔が浮かんでいた。

「たっくん」

 平日だというのに、兄はリビングで工学関係の雑誌を読んでいた。

 あの胡散臭い製薬会社の仕事はどうなっているのだろうか、という疑問はさておき、さやかは自分の帰宅を待ちかねていたらしい兄の顔を覗き込んだ。

「お気遣いどうも」

「気なんか遣った覚えはない。母さんに余計な心配をさせたくなかっただけだ」

 たくみはそう言って、パタンと音を立てて雑誌を閉じた。

 高慢ちきな兄だが、母思いという点ではさやかと共通している。さやかだって、母を不安にするのは本意ではないのだ。

 ――それにしたって、たっくんは僕の失踪をどう思ってたんだか。普通、妹が2週間も帰って来ないのに、平気で親に嘘をつくか?

 もっとも、それを言うとさやか自身に巨大なブーメランが返ってくるため、わざわざ口には出さない。兄が口裏合わせをしてくれて、助かったのは事実だ。

「学校にも適当に言ってやっておいたから、ボロを出すなよ」

「うん。ありがとう」

 さやかが素直に礼を言うと、たくみは嫌そうに眼鏡の奥の瞳を細めた。

「礼なんか言われるより、最初っから行方不明になんかならないで欲しいね。いつ帰るかぐらい、連絡するのが常識だろ」

「おっしゃる通り」

 ヤクザに監禁されてたのに、いつ帰るかなんて分かるわけないだろ、と心の中で突っ込みつつ、今は兄上様に逆らわないでおく。

 兄との会話は早々に切り上げ、さやかは2階の自室に向かった。

 2週間ぶりの自分の部屋――という感慨にふけっている暇はない。睡眠は迦陵殿でしっかりとったし、休息の必要はない。

 さやかはとっとと制服に着替え、母に断ってから学校に出向いた。

「あら、さやちゃん。今から学校に行くの?」

「うん。三船のことで、ちょっと」

 さやかは、包み隠さずに答えた。イサオや柘植との関わりは打ち明けられない分、それ以外はなるべく母に正直に伝えておきたかった。

 さやかの友人である三船の自殺未遂と退学については、母の元にも話が聞こえていたらしい。母は、心配そうに表情を曇らせた。

「大丈夫?お母さんも一緒に行きましょうか」

「いいよ。三船と、最後に2人で話したいんだ」

 さやかの返事に、母はぽんと優しく肩を叩いてくれた。

「気を付けて行ってらっしゃい」

「うん。行ってきます」

 そう言ってさやかは家を出て、バスに乗り、制服姿でいつもの通学路を歩いた。

 ――なんだか、違う世界を行き来してるみたい。

 イサオと会った後は、いつもこうだ。こうして日常生活に帰還すると、あの華やかな迦陵殿や、雛子との対峙が、遠い夢だったように思えてくる。

 ――夢じゃないんだ。三船が首を斬ったことも、僕がイサオさんに監禁されてたことも、全部。

 母に対して余計な言い訳をしなかったのも、さやかがこれらの現実を背負うしかないからだ。

 ――覚悟なんてできてない。それでも、前に進むしかない。時間は止まらないんだ……。

 さやかが遅い登校をすると、職員室の前に彼女は立っていた。

「重役出勤だね、夏目。もう帰っちゃおうかと思ってたよ」

「…待たせてごめん、三船」

 包帯のせいで、三船の首がいっそう細く見える。尖った顎は、前よりもさらに痩せたように見えた。

 三船は、本当に死にかけたのだと――今更ながらに、その事実がさやかの胸にずしりとのしかかった。

「退学するんだってね」

 さやかが切り出すと、三船はやれやれと肩を竦めた。

「参ったよ。担任は勿論、学年主任や看護教諭からも止められちゃってさ。考え直せって何度も説得されて、今日までに7回も三者面談が開かれた」

「…それは、大変だったね」

 そう相槌を打ちながら、三船の退学を止めようとしない自分にさやかは驚いた。

 ――分かってるんだ。僕が止まらないように、三船のことも止められないって。

 じゃあ、自分はどうして今、三船に会いに来たのだろうか。そう考えたら、さやかは口を開いていた。

「三船。決着はまだ、ついていないよ」

 さやかの唐突な言葉に、三船が眼鏡の奥の瞳をちょっと丸くした。

「僕はこれからも、三船に身体を売って欲しくない。三船に、誰からも傷付けられて欲しくない。その気持ちは変わらない」

 それは、実質的な告白だったかもしれない。恥ずかしさや甘酸っぱさは皆無の、血を吐くような告白だった。

 ――僕はもう戻れない。だけど、三船のためならなんだって……。

「………」

 三船は微かに微笑み、そして、ゆっくりとさやかに近寄った。

 正午の近い、人気のない廊下で――静寂の中に、三船の声だけが響いた。

「夏目が男の子だったらよかったのにね……」

 耳元から流し込まれた毒に、さやかは慄然として立ち尽くす。

 三船はそのまま、さやかの横を通り過ぎて行く。

 これが最後になると分かっていたのに、さやかは振り返ることすら出来なかった。



 原宿におけるテディベア3匹の密談――もとい、イサオとユタカ、源の話し合いは、以下のようにまとまった。

「ボクと源がパパを奥多摩の山中に拉致して、生き埋めにする。海堂会長には、そう伝えてあるんだけど…どうかな?パパ」

 平然と父親殺害計画を語るユタカに、これまたイサオも平気で頷く。

「うん、いいんでねが。ここのところ、天気もいいし、虫がうるせえ季節でもねえ。生き埋め日和だなや」

「でしょっ!?海や川だと人目につきやすいし、パパが怪我でもしたら大変だからさ。3メートルぐらいの深さなら、パパ、自力で這い出て来られるよね?」

「俺どこ誰だと思ってる。カグラと夫婦喧嘩した時なんか、井戸に突き落とされたこともあったぞ」

「さっすがパパ!怒ったママに本気出されて、生きて帰って来られるのは地球上でパパぐらいだよ!」

 常識外れの父子の会話を聞きながら、源が「ところで」と口を挟んだ。

「柘植は大丈夫なんですか」

「ああ、ま…柘植か。そんだなぁ、あいつにこったな計画をバラすわけにはいかねえもんな」

 イサオと玄武会との関係、ユタカが青龍会に潜り込んでいることなどは、柘植に打ち明けたばかりだ。

 柘植はイサオとユタカの事情を理解はしてくれたものの、青龍会や玄武会との協同には未だ慎重な姿勢を通している。

 フラミンゴ色のテディベアの裏で、ユタカが唇を尖らせた。

「ボク、あいつ嫌い。パパはどうして、あんな『ロリコン伯爵』なんかを野放しにしてるのさ」

「俺も同感です。朱雀組の名が下がると思いますが」

 ユタカといい、源といい、柘植は青龍会ではとことん嫌われ者だ。

 それというのも、柘植が圧倒的な資金力で神戸の中心街と西日本のヤクザを傘下にしているため、青龍会は未だに西日本では二番手に甘んじているせいだ。

 しかも、その柘植は大の青龍会嫌いで、懐柔の余地もないときている。青龍会の間で柘植の悪評が高いのは、そういう事情があった。

「しょうがねえべ、あいつは朱雀組一の金持ちなんだから。手ぇ組んだほうが何かと便利だなや」

「寝首を掻かれなきゃいいですね」

 失礼なことを言ってのける源を、イサオとユタカが横目で睨んだ。

「……まあ、柘植のことは心配さねくていい。あいつは今、東京にいねえからな」

 娘の月命日だから墓参りがしたい、と言って、柘植は地元である神戸に帰っていた。

 これまでも柘植はちょくちょく神戸に戻っていたが、その理由をイサオに明かしたのは初めてだ。

 柘植との距離は縮んでいる一方、肝心の話は前に進んでいない。イサオとしてももどかしいばかりだが、今は柘植と対立しないことが大事だ。

「柘植が里帰りしてる間に、ユタカに埋められて、自力で東京に戻ってくる。そんで、ユタカは晴れて青龍会四天王の仲間入りだ。いやあ、こったな簡単な話はねえな」

「パパのおかげだよ。当日は、一緒に頑張ろうね!」

「おう!」

 生き埋めは数日後の夜に決行することに決まり、イサオとユタカと源は、モモカショップの裏を通って別れた。

「!」

 そのままグロリアの前まで戻ってきたイサオは、車の前に短髪の若者が立っているのを見つけた。

「よう、斑鳩。生きてたか」

「お疲れ様です。ボス」

 斑鳩は何事もなかったかのように頭を下げ、イサオもまた、何事もなかったかのように迎えた。

 聖陵総合病院の屋上で斑鳩がイサオを突き落とし、柘植によって撃たれたのはつい先日の話だ。

「雛子はどうした」

 斑鳩が一人なのを見て、イサオはそう尋ねた。

「あいつなら、一人でいじけてますよ。『せっかく助けに行ってあげたのに、リボンちゃんなんか嫌い』ですって。リボンと…夏目さやかと何かあったんですか?」

「さあな。おなご同士のことは俺にも分がらね」

 斑鳩が話したそうな様子だったので、イサオは並んでグロリアに背を預けた。

「俺はボスがうらやましいです」

「なんだ、いきなり」

 嫌味かと思ったが、斑鳩の横顔は真剣だった。

「ボスは普通の人間です。俺とは違う。戸籍があって、自分を生んだ親がいて、法律や人間のルールに縛られながら、銃で撃たれたり、病気になったりすれば簡単に死ぬ脆弱な身体で生きてる。なのに、俺より自由だ」

「そうけ?隣の芝生は青く見えるって言うど」

 イサオが茶化しても、斑鳩の目付きは真っ直ぐなままだった。

「ボスは魚住に襲われても、俺から突き落とされても、自力で生き残ってきました。その姿を見ていたら、俺は玄武会の捨て駒なのかもしれない、って考えるようになったんです」

「捨て駒か。そりゃそうだべ」

 11月の空はうすら青い。イサオの口元からタバコの煙が、空にぷかぷかと吸い込まれていった。

「そりゃそうです。でも、今まで考えたこともなかった。当たり前だと思ってたから」

 誰も斑鳩や雛子に、他の可能性など与えなかった。玄武会の言いなりになって生きること以外、2人は知らなかった。

「玄武会に逆らおうなんて、考えたことなかったのに。ボスが闘ってる姿が、カッコよく見えちまった」

「闘いは人間の本能だからな。リボンだって、女の身で闘ってるぐらいだ」

「…そうですね。あいつと出会ったことも、俺をおかしくしちまったのかもしれません」

 普通、女と出会っておかしくなったと言えば恋愛だろうが、斑鳩からはそういう色気は感じられなかった。

 ――まあ、リボンに女っ気がねえからな。雛子のほうがよっぽど色っぺえ。

 とは口に出さず、イサオは斑鳩の言葉の続きを待った。

「俺は無意識に、あいつに夢を託していたのかもしれません。堅気でも、女でも、自分のやりたいようにやれる。自由に生きたい、何者かになりたいのは、俺のほうだった」

 自分が何をすべきか、人生をかけて見つけ出したい。そう斑鳩は語った。

「まんず、今は何がしたい?」

 さやかもそうだが、斑鳩が自分に会いに来たのも、イサオに伝えたいことがあるからだろう。もっと言えば、『朱雀組4代目』の力が欲しいからだ。

 斑鳩はきっぱりと告げた。

「俺も、玄武会と闘います」

「ほう。抗うか、お前の親に」

「…俺はボスと違って、玄武会を憎んでいるわけじゃありません。ただ、このまま飼い犬でいるのはもう飽きたんです」

「ははは、反抗期ってか」

「そんなところです」

 少し笑ってから、斑鳩はとんでもないことを打ち明けた。

「玄武会は今年の春、ある技術者を引き入れました。まだ若いですが、とんでもない天才です」

「天才か。そいつがいれば、複製人間に羽根でも生えるのか?」

 イサオの軽口に、斑鳩は至極真面目に答えた。

「いえ。奴は機械工学の天才で、今までの玄武会にはなかった、近代的な機械を開発させられているようです」

「機械?コンピューターか」

「詳しいことは分かりません。俺にも秘密にするぐらい、玄武会が奴のことを大事にしているのは確かです」

 幻の組織とも呼ばれる玄武会と、最新鋭の機械技術の天才――。

 最初はピンとこなかったが、話しているうちに、イサオの中でもイメージが湧いてきた。

「玄武会の近代化か。自動車工場みてえに短時間で大量の複製人間を作ったり、戦車でも作らせたりするつもりか。いずれにせよ、玄武会は何か新しいことをしようとしてるってことだな」

「はい」

 この国に巣食う巨大な化け物が今、その身を大きくよじらせようとしている――。

 胸騒ぎはするが、イサオはこれをチャンスだと思った。

「でっけえ悪だくみをしようとしてる時には、必ずスキが出来る。玄武会と闘うっていうお前の願い、叶うかもしれねえぞ」

「はい。ボスと一緒なら」

 そう笑ってみせてから、斑鳩は不意に表情を曇らせた。

「ただ一つ、気になることがあるんです」

「ん?まだ何かあるのか」

 タバコの煙の向こうに、何かを思い出そうとする斑鳩の顔が浮かんだ。

「その天才技術者の顔を、一度だけ見たことがあるんです。眼鏡をかけた若い男で…特に変わったところはないんですが」

 技術者と遭遇した後、斑鳩はイサオの命で若い雀士を探し、男装したさやかに出会った。

「あの時、男装していたとはいえ、なんでリボンのことを男だって思い込んだんだろうとずっと不思議だったんですが………リボンは、あの男に似ていたんです」

「何だと?」

 イサオの表情が変わった。

 脳裏に浮かぶのは、長い髪に白いリボンをつけた少女――夏目さやかの笑み。

「知っている男に顔が似ていたから、無意識にリボンのことも男だと決めつけていたんです。偶然かとも思ったんですが、所長からは夏目さやかを守るように言われたんです。ボス、これって」

 答えを求めるような斑鳩の眼に、イサオはただ沈黙する。

 さやかが迦陵殿で言っていた言葉が、その耳にこだましていた。

「姉はいませんけど、兄ならいますよ。ちょうど独り身の」

 ――リボン、お前は何者だ?

 イサオと斑鳩の頭上では、素知らぬ顔で白い雲がいくつも流れていた。



「生徒会長!」

 声をかけられて、さやかはようやく我に返った。

 三船が目の前を去って、どのぐらい経っただろうか。

 それすら分からなくなるほど、さやかは身も心も凍り付いていた。

 職員室の前の廊下で立ち尽くしていたさやかを呼んだのは、髪の長い女子生徒だった。

 眉の上で切り揃えた前髪が、可憐な顔立ちをより幼げに見せている。自由な校風から派手な女子も多い葵山学院においてはちょっと貴重な、清楚な美少女だ。

 ――この娘は…確か…。

 葵山学院の生徒会長として、さやかは全校生徒の顔と名前を記憶している。結構、好みのタイプの女子となれば、忘れるはずがない。

「1年A組の珠洲さんですよね。どうしました?」

「あの、生徒会長にどうしてもご相談したいことがあって…その、受験前でお忙しいとは思うんですけど」

 最上級生のスケジュールを気にする辺り、育ちの良さが伺える。お嬢さんっぽいのは、見た目だけではないようだ。

 三船と別れたばかりで、心の余裕などない。そのはずなのに、さやかは目の前の女子生徒――珠洲をむげにする気にはなれなかった。

 ――三船とはあんなことになっちゃったし、せめて人助けがしたいな…。

 こんな自分で役に立てるなら、協力は惜しまない。さやかは、珠洲が話しやすいよう、人気のない渡り廊下へと誘った。

 三船にフラれて傷心のところに可愛い女の子が現れて、つい飛びついてしまった――とさやかが自覚するのは、後のことだ。



「生徒会長は、こちらのサークルはご存知でしょうか」

 そう言って珠洲が広げたのは、薄い冊子の最後にある奥付のページだった。

 そこには、同人誌『魔の棲む森へ』というタイトルと、サークル名『朱死夜』の記載がある。

「朱死夜…って、あの自殺サークルですか」

 驚きと共に、さやかの胸に小さな痛みが走った。

 さやかに『朱死夜』の存在を教えたのは、誰であろう三船だった。

「この本を書いてるサークル主ってさ、実は懸巣っていう、有名な恐怖小説家なんだ」

 かつて、三船はそう言って、『朱死夜』の発行した同人誌の表紙を見せた。

 暗く湿った森を背景に、白い肌に血を流したおどろおどろしい女のイラストに、さやかは閉口した。

「三船、よくそういうの読んでるよね。怪談とか」

「うん。特に、懸巣先生の小説は実際の取材を基にしてて、読みごたえがあるよ。商業小説は作り話がメインだけど、同人誌ではほとんど実話を扱ってるみたいだね。名前や地名は変えて、フィクションってていにしてるけど」

「詳しいね、三船」

「私もよく行くから。『出る』って言われてるところ」

 やめたほうがいいと思うけどなあ、というさやかの心配をよそに、三船は「ここだけの話」と声を潜めた。

「懸巣先生は、過去に起こった事件や伝承を追いかけるだけでは満足できなくなったみたいで、最近じゃ、実際に怪談を作る側になったらしいよ」

「…怪談を作るって、小泉八雲みたいに?」

 小泉八雲も三船の愛読書だが、三船は首を横に振った。

「ほら、この奥付のところ、見て」

「『人生に悩んでいる方、居場所を探している方、心の交流をしませんか』…?」

 その文言に続いて、懸巣の私書箱の住所や、ファックスの番号が記されている。

「懸巣先生は悩める若者の人生相談に乗ってあげてるんだ。ご親切にも、死に場所まで用意して」

「冗談でしょ、三船」

 それこそ怪談でも聞かされているような気分だったが、三船は「これが本当の話でね」と笑った。

「都内の山や森林で、もう何度も集団自殺が起きてる。そのうち、一命を取り留めた人間が、自分たちは『朱死夜』の同人誌を通じて知り合った、と証言しているそうなんだ」

「…でも、それだけじゃ、その懸巣先生とやらが関わってる証拠にはならないんじゃない?ファンが勝手に思い詰めただけかもしれないし」

 さやかは三船が『朱死夜』に興味津々そうなのが気になって、つい三船の説を否定した。

「それがね、一連の集団自殺の後に発表された懸巣先生の同人誌は、いずれも自殺を扱ったノンフィクションなんだ。決行場所となった場所の由来から、自殺者たちの経歴まで、事細かに書かれてる。死に顔の描写なんて、実際に見た人間じゃなきゃ書けないリアルさだよ」

 三船が開いたページには、写真と見紛うような緻密なイラストが載っている。さやかは、思わず顔を背けた。

「…もしも三船の説が本当なら、自殺幇助だよ。そんなに大っぴらに集団自殺を唆してるなら、警察に捕まるんじゃない?」

「そうならないといいな。先生の小説が読めなくなったら困る」

 三船は同人誌をぱらぱらめくって、ふと思いついたように言った。

「私も行ってみようかな。懸巣先生の集団自殺」

「ダメだよ!三船、死にたいの?」

「そういうわけじゃないけど。懸巣先生が選ぶ自殺場所は有名な『出る』地帯だからさ、自分の目で見てみたくって」

 無邪気すぎる三船に、さやかは「ダメっ!」ともう一度言った。

「第一、自殺志願者たちなんて、普通の精神状態じゃないんだよ。そこに女の三船が行ったら、どうなるか分かるでしょ」

「確かに。一理あるね」

「それに、その懸巣とかいう先生はほとんど殺人鬼じゃない。作品のためなら、どんなおぞましいことだってやってくるかもしれない」

「ふむ。まあ、今のところ先生の作品にことさら猟奇的な趣はないけど、今後エスカレートしていく恐れはあるね。自由にできる人体があれば特に」

「でしょう?とにかく、『朱死夜』には関わらないほうがいいよ。怪談が好きなのはいいけど、自分が幽霊になっちゃったら、怪談だって面白くなくなるよ」

 さやかの最後の一言が、特に三船の心に響いたらしい。

 三船は目を細めて笑った。

「そういう見方もある、か。夏目の忠告通り、『朱死夜』については今後も読む専門でいるよ」

「それがいいよ。こういう話を楽しめるのは、部外者の特権なんだから」

 不謹慎な言い方になったが、さやかの本音だった。三船が無事なら、他の連中などどうでもいいのだ。



 ………という三船との会話も、いつのことだっただろうか。今となっては、遠い昔のようにも思える。

 束の間の回想から覚めたさやかは、珠洲に話の続きを促した。

「もしかして、珠洲さんの知り合いが、この『朱死夜』に?」

「…はい、そうです。私の中学の同級生で、児玉早苗という子なんですけど」

 児玉は珠洲とは違う高校に進学したが、2人はよく連絡を取り合っていたという。

「児玉は学校になじめないみたいで、悩んでいました。転校したいけど、親に迷惑がかかるから、って」

「それで、自殺を考えるほど思い詰めてしまったんですか」

 さやかの直截な問いに、珠洲の表情が翳った。

「…分からないんです、私にも。児玉はマイペースで、好奇心旺盛で、一人で知らない場所にいても、全然平気なタイプなんです。高校生活は確かに不便かもしれないけど、そのぐらいで心が折れるような子ではないと思うんです」

 さやかは、児玉が好奇心旺盛、というのが引っかかった。

 かつて、三船もまた、好奇心から『朱死夜』に興味を持ったからだ。

「児玉さんって、趣味とか好きなものは?」

「読書…かな。本も漫画も、ジャンル問わず幅広く読んでるみたいです。その、ちょっと恥ずかしいんですけど、自分で作ったりもしてるんです。こういう同人誌」

 珠洲は『朱死夜』の同人誌を持ち上げてから、溜息を吐いた。

「…断片的にしか話してくれなかったけど、どうも、本屋さんで同人誌を探している時に、『朱死夜』を知ってる人に声をかけられたみたいなんです。その人と学校のこととかを話しているうちに、だんだん、その気になっちゃったみたいで…」

 恐らく、児玉に声をかけたのは懸巣本人だろう。若い女の死に顔は絵になるから、積極的に探しているのかもしれない。

 ――若い女の子なら、親に言えないような悩みの一つや二つは抱えてる。そういう子たちの孤独につけこんで、死ねば楽になれる、と誘導してるんだ。

 さやかの想像以上に、『朱死夜』は悪質だったようだ。これでは自殺幇助どころか、殺人と変わらない。

 そうして児玉は、『朱死夜』の主催する集団自殺に参加することにしてしまったのだという。決行は数日後の夜らしい。

 珠洲は何度も電話で説得を試みたが、児玉からは「珠洲には分からない」と切られてしまったそうだ。

「私、児玉と電話や手紙のやり取りをいっぱいしてたのに、児玉のことを全然わかってあげられなくて…、今でも分からないんです。なんて言えば、児玉を助けてあげられるのか」

 珠洲の悲痛な言葉は、さやか自身の心情とも重なった。

 ――僕も、三船のことを分かってやれなかった。何をしても、ヤクザの力を借りても、三船が僕から離れていくのを止められなかった……。

 女同士は不思議だ。

 心が溶け合うと錯覚するような瞬間があっても、ある日いきなり、月の裏側ほど気持ちが遠くへ離れてしまう。

 ――それでも、僕は僕に出来ることをする。

 三船には振られたが、児玉のために出来ることはまだある。

 さやかは、珠洲の肩をポンと叩いた。

「分かりました。児玉さんのことは、僕が何とかします」

「生徒会長…じゃあ、私も」

 珠洲は、涙を浮かべた目でさやかを見上げた。

「珠洲さんが来ると、却って児玉さんが頑なになるかもしれませんから、僕だけで行きます。赤の他人相手のほうが、児玉さんも素直になれるでしょうし」

 口にした以外にも、もう一つ理由がある。児玉だけならまだしも、2人の少女を自殺サークルから守り抜くなんて、さやかには自信がない。

 ――最悪、児玉さん一人だけなら、僕が身代わりになることも出来る。

 さやかの強い眼差しを前に、珠洲は逡巡した。

「でも、何もしないなんて…」

「児玉さんが正気に戻った時、傍にいてあげてください。生きている楽しさを教えてあげるのが、友達の役目じゃないですか」

 そう言って、さやかは身を屈めて珠洲に耳打ちした。

「実は、僕も作ったことがあるんです。同人誌」

「えっ?そうなんですか」

「友達のお手伝いをしただけですけどね。原稿が遅れて、印刷所に謝りに行かされましたよ」

「それは、大変ですね」

 珠洲の頬に、少しだけ笑みが浮かんだ。

「僕が児玉さんを説得して、連れ戻します。もし、決行の日の朝までに連絡がなかったら、警察に通報してください」

 さやかと連絡先を交換し、珠洲が頷いた。

 一人で自殺サークルから少女を連れ戻すなんて、無謀かもしれない。さやかの脳裏に、ちらっとイサオや柘植の顔が浮かんだ。

 ――でも、こんなことで動いてくれないだろうしなぁ。

 一介の女子高生の自殺ごとき、天下の朱雀組の幹部たちは歯牙にもかけないだろう。それに、こんなことで頼ったら、さやかに対する信頼も揺らぎかねない。

 ――あの人たちに、僕に対する信頼なんてものがあるかは分からないけど。

 児玉のためにも、話を大きくしたくはない。さやかは、ギリギリまで自分一人で動くことに決めた。



 時は流れ、昭和60年11月中旬――。

 ついにその日はやってきた。

「はっはっは、今夜はいい天気だな。月でも見て帰りてえから、お前がた、先に帰ってれ」

 夜、スナック『ナイトジョー』を出たイサオは、そう言って護衛たちを先に帰らせようとした。

 もちろん、あらかじめユタカと打ち合わせした筋書きだ。

 馴染みの店でたらふく飲んだ後、上機嫌になったイサオは、油断して護衛もつけずに夜道を歩く。そこをユタカ率いる桃華組に襲撃され、拉致されてしまう――。

 完璧なシナリオのはずだったが、護衛たちからは怪訝そうな顔をされた。

「そう仰いますが、4代目。今夜はひどい雨ですよ」

「ぐぬっ…」

 計画を立てた11月上旬は好天が続いていたのだが、今日になって急に天気が崩れたのだ。

 いくら酔って気分が良くなったとはいえ、こんな大雨の中をヤクザの親分が散歩する、というのはいささか不自然ではある。

 ――だども、めんけえユタカのためだ。無理でも通す!

「わがらね奴らだな、俺は一人になりてえっつってんだ。お前がたはとっとと帰れ」

「そういうわけにはいきませんよ。先日、小鳥遊補佐が襲われたばかりですし」

「若頭からも、4代目の傍を離れるなときつく言われてるんです」

「ぐぬぬっ…」

 護衛たちから正論で返され、またしてもイサオは言葉に詰まった。

 確かに、小鳥遊が襲撃され、イサオ自身も柘植と共に魚住に襲われた。このタイミングでイサオが夜、一人で外をぶらつくなんて、正気の沙汰ではないだろう。

 ――しょうがねえだろ!お前がたがいると邪魔なんだよっ!

 イサオの意を察したのか、傍らにいた斑鳩が助け舟を出した。

「ボス、せめて俺だけでもついて行かせてくれませんか。何かあれば、盾ぐらいにはなれますよ」

「斑鳩…!んだな、お前だば構わねえ」

 斑鳩には、ユタカとの狂言計画を話してはいない。だが、玄武会生まれの『化け物』たる斑鳩のこと、どうせお見通しなのだろう。

 玄武会に抗いたい、という斑鳩の言葉を、全て信じたわけではない。ただ、互いを利用し合えるなら、それも面白いとイサオは思っている。

 渋る護衛たちを何とか丸め込んで、イサオと斑鳩は蝙蝠傘で雨天の下に出た。

「分かってるとは思うが、斑鳩。お前は引っ込んでてくれるか」

 斑鳩が傍にいるところを青龍会の連中に見られると、計画に齟齬が出る。最悪、斑鳩が命を落としかねない。

 ――こいつは摩耶に撃たれても死ななかったぐらいだから、いらねえ心配だけどもよ。

 とにかく、ユタカの計画を完璧に遂行するためには、部外者は不要だ。そこは、斑鳩も承知しているようだ。

「はい。ここからは、周囲にバレないようにボスを尾行させてもらいます」

「おう。風邪引くなよ」

 軽口を叩くと、イサオは蝙蝠傘を軽く上げて、斑鳩と別れた。

 一人で雨のネオン街を通り抜け、やがて、人通りの少ない住宅街の近くに出た。

 酔っ払いか野良猫しかいないような路地に差し掛かった時、「動くな」と静かに声がかかった。

 イサオが振り返ると――そこには、桃華組の精鋭を引き連れた、青いスーツ姿のユタカが立っていた。

「ユタカ…!お前、なしてここに…」

 と言った拍子に、イサオは足を滑らせて尻餅をついた。

 バシャン!

「いでっ!」

 雨のせいでとんだ間抜けになってしまった。まあ、『決裂した息子との思わぬ再会に、激しく動揺する父』に見えなくもないかもしれない。

 ユタカが一瞬、心配そうな表情を見せたが、すぐに冷酷な青龍会の顔に切り替わった。

「今日で会ったが100年目だ。秋津イサオ、キサマにはここで死んでもらおう!」

「ええーっ!何だってえー!!?」

 降りしきる雨音に負けないようにと声を張ったら、耳の遠い老人のようなリアクションになってしまった。

「………?」

 若干、妙な空気が桃華組の組員たちに流れたが、それが違和感に変わる前にユタカが号令した。

「奴は一人だ!捕らえろ!」

 ちょっと不自然な流れにはなったものの、段取り通りに組員たちがイサオを囲み、ロープで縛り始めた。

 ――あいーっ、すっかりケツが濡れちまった。ユタカの車を汚したらしょしなあ…。

 夜風になぶられ、濡れたスーツが冷える。手で拭おうにも、拘束されてはそれも叶わない。

 そのまま、イサオは傍らに停めてあるユタカのマークⅡに押し込まれる――はずだったのだが。

「…!何だ!?」

 ユタカのみならず、その場にいた全員が、その轟音に足を止めた。

 ――土砂崩れか!?

 思わず、故郷の大羽にいた頃の感覚でそう思ってしまったイサオだが、ここは都内の街中だ。崩れるような裏山はない。

 ならば雷か、と顔を上げた瞬間、その音はより間近に、しかも空よりも低い位置から聞こえてきた。

 何なら、足元が微かに揺れており――いよいよ、異常な予感を全員に抱かせた。

 ゴゴゴゴゴゴ…。

 地鳴りとともに現れたのは、巨大な鉄の塊――カーキ色の戦車だった。

「………」

 ――どうなってんだ、こりゃ。

 雨に濡れる戦車のシルエットを、イサオは呆然と見上げた。



 時を同じくして、さやかもまた、巨大な鉄の塊の前に立っていた。

 ただし、こちらは戦車ではなく、旅情溢れる寝台特急――ブルートレインだ。

 東京駅のホームで、さやかを始めとする『自殺志望者』3人が集結した。

 一人は今回のターゲット、珠洲の友人である児玉早苗だ。快活そうなショートヘアの美少女だが、旅立ちを前にして、その表情は暗い。

 もう一人は、瞳の青い西洋人の男性だ。リュックのベルトを握ったまま、微動だにしない。

 そして三人目が、滑り込みで『朱死夜』に連絡を取ったさやかである。

 三人の前には、眼鏡をかけたダークジャケットの男――懸巣が待っていた。

「みんな、心の準備は出来たかな。旅費は全部僕が持つから、君たちは何もしなくていい。気楽でいてくれ」

 児玉たちと共に力なく頷きながら、さやかはじっと懸巣を観察した。

 ――まさか、自殺場所を都内じゃなくて、地方の山中に変えるとは…。

 さやかたちはこれから、列車で関西方面へと向かう手筈になっている。

 時間はかかるし、交通費もそれなりに高くつく。それをも厭わないほど、懸巣は警察の目を恐れているのだろう。

 ――人数も、これまでの集団自殺の規模に比べて少ない。この警戒ぶりを見ると、既に警察に狙われてるんだな…。

 それでもこうして集団自殺を扇動するのだから、懸巣という男はもう救えないところまできている。さやかは、気を引き締めた。

 ――母さんにはまた塾の合宿だって言ってあるし、多分たっくんが上手く口裏を合わせてくれるだろう。とにかく、明日までにこの自殺を止める!

 発車ベルが鳴り響き、さやかは四国方面行きの青い客車へと乗り込んだ。

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