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78話 マリオネットの誤算

第78話 マリオネットの誤算


 昭和60年11月、聖陵総合病院――。

 夕暮れが染める屋上で、朱雀組4代目組長・秋津イサオと、若頭・柘植雅嗣は、フェンス沿いに並んで立っていた。

 駆け付けた警察によって、魚住は既に護送されている。イサオと柘植はその場にいなかったことにして、ここで一服していた。

「小鳥遊は優しい奴だな」

 タバコの煙を吐きながら、イサオはそう呟いた。

 イサオの言わんとするところを察し、柘植が頷く。

「ええ。あれは意外と人の心を読む男で、どんなに陰気な場でも、明るく盛り上げようと張り切るところがあります」

 小鳥遊の家は父親が心を病み、いつも暗い空気に包まれていたという。小鳥遊は幼い弟妹を元気づけるため、人一倍、陽気に振る舞うようになったらしい。

 その小鳥遊の明るさに救われた――イサオも柘植もそう自覚するほど、あの霊安室で深い暗黒を見た。

「玄武会とのことですが」

 口火を切ったのは、柘植だった。

 イサオはフェンスに肘をついたまま、悪戯っぽく笑う。

「お前、信じるのけ?あったな与太話」

 玄武会――それは、古くから極道たちの間で語り継がれる幻の組織。

 と言っても、「夜更かしすると物の怪が出るぞ」程度の怪談として語られるような話で、玄武会が実在するなどと思っている者はいない。

 玄武会は江戸時代から存在しているとか、火を吐く人間や空を飛べる人間を作っているとか――誰もが笑い話として語りながら、何故か、玄武会の存在が忘れられることはなかった。

 そんな不可思議な存在と関わっているなんて、酔っ払いの吐く妄言に等しい。

 だが、柘植は笑わなかった。

「話自体は、信じがたいというのが正直なところです。ですが、私はあなたを信じます」

 柘植の瞳に映るイサオは、以前までの姿とは違っていた。

 東北の田舎から成り上がり、何の後ろ盾もなく朱雀組の親分に上り詰めた男。人を引き付ける太陽のような輝きは、強すぎるゆえに疎ましくすらあった。

 だが、今の柘植は――イサオの中にある苦しみを知った。

 玄武会から逃げたい、あんな化け物になりたくない。そう叫んだ魚住の悲鳴が、イサオにとって大切な何かを傷付けた。だからイサオは、衝動的に魚住を殴ったのだ。

 玄武会の伝説は半信半疑でも、あの時のイサオの瞳の暗さ――その奥にある深い悲しみは、柘植の心に確かに届いた。

「お前よ、前から言おうと思ってたが、その『あなた』って何だな。親分のこと『あなた』なんて呼ぶ奴、摩耶ぐらいだなや」

 イサオはまだ冗談めかそうとしていたが、柘植は真剣だった。

「4代目。4代目があそこまで玄武会を恐れられるのは、ご子息のことが関係しているのではありませんか」

「なしてそう思う。また、リボンがそう言ってた、なんて言うなよ」

 イサオの一人息子――秋津ユタカ。

 ユタカの存在も、柘植がイサオを疎んじる一因だった。青龍会に寝返った息子を野放しにしているイサオに、不信感を拭えなかったのだ。

 だが、イサオの語った青龍会と玄武会の繋がりが事実だとしたら――ユタカが青龍会に入ったことに、何らかの意味を探さずにはいられない。

「4代目は、玄武会を深く憎んでおられる。それなのに、玄武会が作ったといわれるものたちを貶められると、平静ではいられないご様子だった。私には、そんな4代目が何故か――私に似て見えたのです」

「お前にか」

 柘植は、10年前に娘を魚住に殺された。胸の奥底に抱え続けた悲しみが、あの時、イサオの中にあるそれと共鳴したのだ。

 愛する子を奪われた父親として生き続ける苦しみ――。

「摩耶に比べたら、俺はまだ幸せなのかもしれねえけどな」

 イサオもまた、柘植の中に自分と似たものを認めたのだろう。笑いを引っ込めて、改めて語り始めた。

 戦争中に陸軍の命令で玄武会の人体実験に参加させられ、そこで青柳蔵人――のちの海堂玖門と出会ったこと。

 戦後も玄武会に狙われ、自分を守ろうとした姉・秋津アカネが命を落としたこと。

 ようやく生まれた最愛の息子・秋津ユタカが心臓に欠陥があり、玄武会の力を借りざるを得なかったこと――。

「だが、俺もユタカも玄武会の奴隷として生きていくつもりはねえ。俺は朱雀組の親分として、ユタカは青龍会に潜り込んで、両方から玄武会を攻め落とす。何年かかるか分からねえが、必ず玄武会を滅ぼしてみせる。そう誓ったんだ」

「だから、青龍会と手を組もうと考えたのですか。結託して、玄武会を倒すために」

「そうだ。そのためにユタカを青龍会に送り込んだ」

「危険ではありませんか」

 柘植の問いに、イサオは首肯した。

「まあな。だども、海堂だってユタカのことは簡単には殺せねえ」

「何故です」

「魚住が言ってただろ。玄武会の作った人造人間は、どんなに優れた個体でも5年も生きられねえって。だが、ユタカは玄武会が作った心臓で、もう30年以上生きている」

「……!」

 柘植が目を見開いた。

「ユタカは、海堂にとっても玄武会にとっても、貴重な実験動物ってことだ。だが……」

 そこで、イサオの眼が危うげに揺らいだ。

「ユタカの心臓がいつまで保つか、それはもう誰にも分からねえ。ユタカは明日死んだっておかしくねえんだ。姉貴の血で作った心臓なんかを使った報いかもしれねえが、俺はユタカを助けてえ。どんな手を使ってでも、守りてえんだ」

 そう言うイサオの唇は、震えている。幾重にも抱えた業の重さに、押し潰される寸前のように見えた。

「4代目…」

 柘植には、今のイサオはひどく脆く見えた。

 いや、今まで気付かなかっただけで、本当はイサオはずっと疲れ果てていたのだ。息子を失う恐怖と、極道としての誇りの狭間で闘い続けたことで。

 そして――柘植は反省した。

 ――私は今まで、己のことしか考えてこなかったのかもしれません。

 娘を失ったこの10年間――娘の無念を忘れないためにと称して、悲しみに溺れ続けた。

 魚住を殺したところで、娘が帰ってくるわけではない。この復讐心に終わりがないことは、柘植自身も分かっていた。

 しかし今、柘植は見つけた。自分には、救うべき人がいることに。

 柘植は、おもむろにシャツの下を探ると、じゃらじゃらと鳴るそれを取り出した。

 夕焼けに輝く、金色の数珠と十字架――ロザリオだ。

「4代目。これをお持ちになっていてください」

「んあ?」

 柘植はイサオの返事を待たず、さっさとイサオの首にロザリオをかけた。

 イサオが十字架をしげしげと見て、眉をひそめる。

「俺、仏教だなや」

「構いません。私からのお守りだと思っていてください」

「お守りねえ」

 ほっそりとした十字架を、イサオはぎゅっと手に握り込んだ。

「ボス」

 いつの間にか、そこに斑鳩が立っていた。

「!?」

 柘植が思わず驚いたのも、「そこ」というのが本当にイサオと柘植の至近距離で――今までいたのに気付かなかった、などということはありえない場所だったからだ。

 イサオは十字架を握り締めたまま、乾いた横顔を斑鳩に向けた。

「なした」

「リボンを…夏目さやかを返してください。所長が心配しています」

 斑鳩が所長、と呼んだのを聞いて、イサオが眉間に皺を寄せた。

「分からねな。なして、お前だはそこまであの娘にこだわる。あいつもお前がたの仲間なのか?」

「さあ、俺には何とも。とにかく、そろそろあいつを解放してくださいよ。でないと」

 と言った瞬間、斑鳩は両腕をイサオに向かって突き出した。

 パーン!

 斑鳩の手が、イサオに触れたか触れないか。

 その残像すら見えないまま、気が付けば屋上のフェンスが吹っ飛び、イサオの身体が宙に投げ出されていた。

「4代目!」

 柘植の叫びが響いた。

 ぐにゃりと曲がったフェンスの影法師のように、イサオも同時に落ちていく。

 転落するイサオを、斑鳩が何の感情もこもっていない瞳で見下ろしていた。

「貴様…!」

 柘植がすかさず拳銃を抜き、斑鳩を撃った。

 パン!

 至近距離から撃たれた斑鳩が、糸の切れた操り人形のように引っ繰り返って倒れる。

「4代目!」

 柘植が慌てて、イサオのいた場所から下を見下ろした。

 そこにあった安全用のフェンスは変形し、だらりと外側に垂れ下がっている。

 白い蜘蛛の糸のようになったフェンスの先に――イサオの赤いスーツが揺れていた。

「摩耶のおかげで命拾いしたなや……」

 そう呟くイサオの首には、柘植が捧げたロザリオが光っている。

 斑鳩によって吹き飛び、ちぎれたフェンスの先端に、ちょうどロザリオの数珠が引っかかったのだった。

 その後、イサオは何とか自力でフェンスをよじ登り、柘植によって屋上まで引き上げられた。

 いくら体力自慢の極道とはいえ、60歳近い2人が崖登りの真似事をするのは流石にきつい。イサオも柘植も、冷たいコンクリートの上に座り込んでしまった。

「4代目。よくぞご無事で…」

 荒い息でそう言う柘植に、イサオは「お前のおかげだ」と言って、ロザリオを掲げた。

「あの者は一体…」

 斑鳩の姿を探した柘植は、周囲を見回して愕然とした。

 撃たれて倒れたはずの斑鳩の姿が、屋上内のどこにもないのだ。

 柘植の言わんとするところを察して、イサオが溜息を吐いた。

「斑鳩は玄武会の手先だ。ただの人間じゃねえ」

「あれが…」

 柘植は、呆然と斑鳩のいた場所を凝視している。

 ロザリオを指先でくるくると回しながら、イサオは斑鳩の考えを測った。

 ――ま、殺す気はねがったんだろうな。派手な警告する奴らだなー…。

 とはいえ、これで柘植にも玄武会の脅威を実感させることができた。今なら、あの話にも首を縦に振ってくれるだろう。

「摩耶、これでお前も分かったべ。玄武会と張り合うためには、青龍会と手を組むしかねえ」

 イサオは当然、「はい」という返事が返ってくるのを期待していたが、柘植の横顔は強ばっていた。

「……それは承服致しかねます」

「何っ!?お前、まだ強情張ってるのかや」

 柘植は首を横に振り、物憂げな眼差しを夕焼けに向けた。

「あのような得体の知れない者たちと、軽率に闘うのは危険です。もっと奴らの情報が欲しい」

「情報つったって、俺だってお前に話したこと以上は知らねえよ」

 と言ってから、イサオと柘植が同時に「あ」と声を上げた。

「…斑鳩は、夏目さやかさんのことを話していたようですが…彼女も、玄武会の関係者なのですか?」

「そうだ、それだなや。実は、俺もそこがずっと疑問だったんだが…」

 イサオは、斑鳩たちがさやかにこだわっていることに気付き、さやかを迦陵殿に監禁した。その結果、こうして警告を受けた――という事情を柘植に明かした。

「夏目さやかさんのことを調べる必要がありますね」

 柘植が頷き、イサオは眼下に広がる街を睨んだ。

「これだけじゃ終わらねえぞ。化け物はもう一匹いる」

 片割れの斑鳩がやられたのだ。あの女も必ず動く――。

 そう確信し、イサオは膝を払って立ち上がった。



 その頃、朱雀組の隠居所である迦陵殿に監禁されていたさやかは、イサオの苦難など知る由もなかった。

 与えられた自室でさやかがやっていたのは、新聞各紙や週刊誌の精読である。

 ――仮にもヤクザと関わっちゃったんだから、少しは青龍会や朱雀組の動きに目を通しておかないと。

 さやかの監視につけられた侍女たちは親切で、さやかが欲しいと言ったこれら新聞や雑誌の類を、快く買って来てくれた。

 ――あとでお金払わないとな……僕が生きてればの話だけど。

 テレビも自由に見られることを考えると、イサオは外部の情報を遮断するつもりはないらしい。さやかにはイサオの意図がよく分からないが、考えても仕方がない。

 この分だと、頼めば本や参考書も買ってもらえそうだが、今は勉強する気にはなれなかった。

 ――問題集とか見ちゃうと、三船のことを思い出してしまうから。

 この迦陵殿に幽閉されて2週間が過ぎ、さやかは当初の自暴自棄な気分から、少しは脱した。身だしなみに気をつけるようになったし、見張りの侍女の許可を得て、邸内を散歩して身体を動かすようになった。

 それでも、目の前で三船に首を斬られたという事実は、重石のようにさやかの心にのしかかっていた。

 ――現実逃避していることに変わりはないけど、どうせなら前向きに逃避したほうが合理的だ。

 そう思って、さやかは新聞や雑誌を片っ端からチェックしたが、目ぼしい情報はなかった。ホテル『セレスト・キャッスル』の建設に青龍会が関わっていることなんて去年から話題になっていたし、朱雀組の長年にわたる内部分裂など、関係者になってしまったさやかにしてみれば「まだやってるのか」というぐらい同じ話の繰り返しだ。

 ――イサオさんも言ってたけど、この手の雑誌って本当にでまかせばっかりなんだな。

 先日の『ハーピー・ナイト』の火事を取り上げている記事もあった。恐らく、雛子に絡んでいたあの記者が手掛けたものだろうが、あの時、記者が豪語していた以上の内容はなかった。朱雀組4代目・秋津イサオと若頭・柘植雅嗣の対立は、週刊誌の新たな飯の種になった、ということ以外は何も伝わってこない。

 ――イサオさんと柘植さん、今頃どうしてるんだろ。ミノルさんが帰って来たなら教えて欲しいんだけどな。

 そんなことが言える立場じゃないことは分かっているが、あくまで妄想である。三船への買春を止めてもらった以上、イサオにどうされても文句を言うつもりはないが、ミノルに会えないことだけは残念なのだ。

 ――まさか、僕以外に有力な打ち手を見つけたりしてないよな。せめて一回、勝負させて欲しいんだけど。

 そんなことをだらだら考えていたさやかは、ふと、新聞の広告欄に目を止めた。

『一家に一本!ヤマタの健康軟膏』

 古臭い家族のイラストと共に、小さなケース入り軟膏の写真がモノクロで添えられている。

 ――ヤマタ健康研究所……たっくんの就職先か。

 誰でも知っている有名な企業ではあるが、大企業というほどのものでもない。おじいちゃんおばあちゃんが使っている常備薬や健康食品の類を扱っている製薬会社、というイメージだ。

 ――たっくん、工学畑のくせになんで製薬会社なんかに就職したんだろ。人見知りで面接下手くそだから、ここぐらいしか雇ってくれるところがなかったのかな。

 などと悪態をついてみても、兄が今のさやかの状況よりもずっとまともで優れた進路に立っていることは事実だ。どうあがいても兄に勝てない自分が、いっそ清々しかった。

 ジリリリリリリリリ!!

「うわっ!?」

 突如、鳴り響いたベルの音に、さやかは驚いて立ち上がった。

 一瞬、非常ベルでも鳴ったのかと思ったが、音の元は部屋にある黒電話だった。

 ――鳴るのか、この電話。

 監禁中ということもあり、誰かが自分に電話をかけてくるかもしれない、という発想自体がなかった。間違い電話ではないか、とも思ったが、玄関や大広間にはちゃんと個別に電話があったため、カグラやイサオに用があるならここにはかけてこないだろう。

 ――もしかして、内線かな。

 今までそんなことはなかったが、カグラや侍女たちがかけてきたのかもしれない。とにかく、鳴り続ける電話を無視することはできず、さやかは受話器を取った。

「もしもし」

「…会長?会長ですか?」

 その声と、自分のことを「会長」と呼ぶ人間に、さやかはすぐにピンときた。

「…越智?越智なの?」

「はい、私です!よかった、会長。無事だったんですね…」

 電話の向こうで安堵の息を漏らしているのは、さやかの同級生――葵山学院高等部3年、越智だった。

 共に生徒会で活動するメンバーでもある越智は、生徒会長であるさやかのことを「会長」と呼んでいる。

「越智。どうしてここの番号が分かったの?」

 というか、ここの番号なんてさやかも知らない。朱雀組の人間でも家族でもなく、真っ先にかけてきたのが越智というのが驚きだった。

 越智は「斑鳩って人が教えてくれました」と答えた。

「学校帰りに塾や書店で会長のことを探していたら、急に声をかけられて…。まさかとは思ったけど、本当に会長に繋がるなんて」

「…そうだったんだ」

 ――どうして、斑鳩さんは僕の連絡先を越智に教えたんだろう?

 何となくだが、イサオには許可を取っていないのではないだろうか。そこまでして、斑鳩にはさやかと越智に連絡を取らせたい理由があるのか?

 その『理由』らしきものは、越智の口から明かされた。

「副会長が…三船さんが、退院されたそうです」

「…!三船が…」

 そう言ったまま、さやかは後が続かなかった。

 さやかの外側にあったはずの現実が――数日ぶりに、さやかの内側へと押し寄せてきた。

 ――良かった、って喜ぶべきなんだろうな。

 三船が生きていて、怪我が回復したこと自体は、さやかだって嬉しくないわけではない。

 それでも、三船が自分の意志で自殺未遂をしたことを知っているさやかにしてみれば、それはある種の「失敗」だとも分かっていた。

 ――三船は今、どんな気持ちでいるんだろう。僕のことを、どう思っているんだろう。

 越智のためらうような口ぶりから、学校で三船の自殺未遂が噂になっていることは察せられる。さやか以外には売春していることなんて一切悟らせなかったから、他の生徒や教師からは「優等生が受験ノイローゼで自殺を図った」とでも思われているだろう。

「副会長、退学するそうなんです」

 越智の言葉に、さやかのセンチメンタルは一瞬で砕け散った。

「三船が?退学?本当に?」

「は、はい。副会長本人が職員室で担任と話しているのを聞いたので」

 越智はその後、直接、三船本人に問いただしたという。

「あの…退学って、本気なんですか」

 三船に様々な事情があることは越智にも分かってはいたが、さやかのためにも聞かずにはいられなかった。

 三船は首に包帯を巻いたまま、以前と変わらぬ酷薄な笑みで頷いた。

「うん。敗者は去るのがセオリーでしょう?」

 その言葉を聞いて、さやかは受話器を手から落としそうになった。

 ――僕は――こんなところにいる場合じゃない。

 三船がいなくなる。さやかの前から、さやかの手が届かない場所へと、いなくなってしまう。

 さやかは三船から『売春』を奪った。その結果、三船は自殺未遂をした。

 さやかは自分を責め続けた。今も、自分がしたことが正しかったのか、過ちだったのか、解は出ていない。

 それでも今、はっきりと分かったことがあった。

 ――僕と三船の勝負は、まだ決着がついていない。

 少なくとも、さやかは自分が勝ったなどとは思えない。このまま、三船が学校を去ってしまえば、勝負は一生お預けのままだ。

 ――とにかく、三船に会わなくちゃ。

「会長、今どちらにいるんですか。副会長も知らないっていうし、私、心配で…」

 という越智の声が、途中でプツッと途切れた。

「越智?」

 その瞬間、ひゅうっと冷たい夜風が室内に吹き抜けた。

 振り返ると、目の前にひどく綺麗な――そして虚ろな、美女のあどけない顔があった。

「リボンちゃん。迎えに来たよ」

 抜いた電話線を華奢な指にくるくると巻きつけ、雛子は笑みを浮かべた。



 格子窓から網タイツをはいた足をしなやかに下ろすと、雛子はさやかの手を握った。

「待たせちゃってごめんね。ヒナ、鈍臭いからさ。さあ、ここから出よう」

 さやかは呆然と雛子を見つめていたが、ハッと我に返った。

「ま、待ってください、雛子さん」

「どうしたの?あ、トイレ?」

 雛子は至極能天気だが、さやかの脳内コンピューターには大量の疑問が渋滞していた。

「えっと…ちょっと整理させてください。雛子さんは、どうしてここに…迦陵殿に僕がいると分かったんですか?」

「リボンちゃんがここにいるから」

 雛子はけろっとそう返した。

「雛子さんが僕を迎えに来たというのは、その…イサオさんの意志でしょうか」

「違うよ。ボスがこんなことするから、ヒナがリボンちゃんを迎えに来たんだよ」

 雛子の答えは要領を得ない。さやかは頭痛を覚えたが、頭の中に情報の断片をかき集めた。

 ――斑鳩さんがここの番号を越智に教えたことと、雛子さんが今ここに来たこととは無関係じゃないはず。でも、どうしてこの兄妹がイサオさんの意志に背くようなことをするんだ…?

 斑鳩はイサオの部下で、雛子はイサオの愛人ではないのだろうか。そう考えたさやかは、今更ながらに気付いた。

 ――僕は、この2人が『自分は秋津イサオの部下です』なんて言うところは一度も聞いたことがない。

 斑鳩の名刺には肩書きが書かれていなかったし、この2人は『ハーピー・ナイト』の騒ぎでも真っ先にその場を離脱していた。それらの事実が、今になってさやかの背筋を冷たくさせた。

「あなたたちは…何者なんですか」

 さやかの問いに、雛子は不思議そうに首を傾げた。

「それって、そんなに大事なこと?」

「え…」

「ヒナは、リボンちゃんを助けに来たんだよ。お兄ちゃんはトチっちゃったから、代わりにヒナが来たの」

 ふわり、と香水の香りがさやかを包んだ。

 雛子の細い腕が、さやかの身体に絡みついた。

「リボンちゃんだって、お外に出たいでしょう?このままここでグズグズしてたら、お友達がいなくなっちゃうよ」

「…!」

 電話の内容を聞かれていたのか。いや、そもそも、三船との関係までも雛子たちには知られていたのか。

 さやかが凍り付いたところで、部屋の扉が勢い良く開け放たれた。

「その方から離れなさい!」

 鋭い声と共に入ってきたのは、薙刀を手にしたカグラだった。

 カグラの背後から、同じく武装した侍女たちが次々に部屋に入り、あっという間にさやかと雛子を囲んだ。

 その尋常ならざる警戒っぷりに、さやかは度肝を抜かれた。

 ――ちょっと、女の人ひとり相手にやり過ぎじゃない…?

 さやかの戸惑いをよそに、雛子を睨むカグラの眼差しはどこまでも真剣だった。

「ここは、あなたのような者が来る場所ではありませぬ。立ち去りなさい」

「おばさん、こわぁーい。うちの所長が言ってたよぉ?リボンちゃんみたいな女の子を閉じ込めるなんて、朱雀組はとっても悪い人たちだって。あと…なんて言ってたっけか。あ、そうだぁ!」

 雛子はパンと手を叩いて、キャンディみたいな華奢な人差し指をカグラに突きつけた。

「お・ん・し・ら・ず」

「………!」

 カグラが柳眉を逆立て、薙刀の刃を突き出した。

 ふわっ。

 雛子は天井近くまで跳躍し、カグラの刃を避けた。その手に、さやかの手を掴んで。

 雛子と共に一瞬、空中に浮いたさやかは、呆然とカグラと侍女たちを見下ろした。

 ――えっ?えっ、えっ?

 すたっと着地した時には、雛子とさやかは部屋の出口、カグラや侍女たちの背後に回っていた。

「バイバイ、おばさん」

 捨て台詞を残して、雛子はさやかの手を引いて、猛然と走り出した。

「夏目殿!」

 カグラの叫びが、すうっと吸い込まれるように遠のいた。

 朱塗りの柱がびゅんびゅんと目の前を通り過ぎ、朱雀模様の絢爛たる廊下が、どんどん後ろに延びていく。

 さやかはただ、雛子の手に提げられたバッグのようにぷらぷらとぶら下がっているばかりだ。

「あっれぇ、おかしいなぁ。ヒナ、どこから来たんだっけ。迷子になっちゃった」

 そう言って雛子が足を止めた時、ようやく、さやかの両足が地面に着いた。

 ――いったい、何がどうなってるんだ…?

 さやかが乱れた髪を手櫛で梳いていると、雛子は目の前の部屋に興味を示した。

「わあ、このお部屋、おもしろーい。お魚がいっぱいいるよ」

 そう言って雛子が足を踏み入れたのは、三方の壁いっぱいに水槽が広がる部屋だった。

 水族館のような巨大なものから、熱帯魚を入れた小さなものまで、様々なサイズの水槽が、パズルのように壁に埋め込まれている。

 常夜灯の青い光に照らされて、魚たちのシルエットが不規則に室内を踊る。影たちが揺らめく下にあるのは、いくつかのビリヤード台と麻雀卓だ。

「ここは――遊技室です」

 さやかは、思い出したようにそう呟いた。

 少し前、カグラにここに連れて来てもらったことがある。

 魚を鑑賞しながら遊べる場所だ、とカグラは説明してくれたが、さやかには水槽が生け簀に見えて仕方なかった。

 ――ゲームに負けた人間を、あの水槽の中に入れる、とかじゃないよな…。

 流石にそこまでカグラに聞くことは躊躇われたし、それよりその時のさやかは、麻雀卓が気になった。

「自動卓なのですが、使い始めてすぐに故障してしまいまして。4代目は修理を面倒臭がって、そのまま普通の卓として使っておりまする」

 カグラにそう言われ、麻雀卓を上から下までチェックしたさやかは仰天したものだった。

「もったいない!これ、最新モデルの『雀夢』じゃないですか!しかも、まだ少ししか使ってない」

「ええ…。確か、それを最後に使った時、4代目も皆さんも相当酔っておられました。恐らく、戯れに牌や点棒を中に突っ込んだのが原因かと」

「なんてひどい」

 憤りのあまり、さやかは本音を口に出してしまっていたが、カグラは咎めなかった。

 さやかは卓を点検し、カグラの言う通り、異物が中に詰まっているのが故障の原因だと推測した。

「これなら、僕でも直せます。工具箱はありませんか」

「なりませぬ。お客人に、そのような真似をさせるわけには」

「ダメですか…」

 しゅんとするさやかに、カグラが微苦笑した。

「夏目殿がそこまで仰るのであれば、よいでしょう。お好きにしてください」

「…ありがとうございます!」

 それからさやかは四苦八苦、カグラにも手伝ってもらいながら、壊れた自動卓と格闘した。

 点棒が洗牌をする箇所の奥の方に挟まっており、それを引っ張り出すのに苦戦したが、ようやく直った時には思わず歓声を上げてしまった。

「やったー!ちゃんと動きますよ、カグラさん!」

「お見事です、夏目殿」

 工学やっててよかった、僕は自動卓を修理するために工学をやってたのかもしれない、なんてひとしきりはしゃいでから、さやかはハッと我に返った。

「…す、すみません。差し出がましい真似をしました」

「そのようなことはございませぬ。夏目殿の腕前はご立派です」

 カグラは紅色の唇を綻ばせ、さやかの頭を撫でてくれた。

「夏目殿の楽しげなお顔が見られて、私も嬉しゅうございます」

「カグラさん…」

「夏目殿が卓を直してくださったこと、きちんと4代目にもお伝え致しますよ。最高顧問にも」

 カグラはそう言って、熱いお茶を入れてくれた。

 その時の記憶が、昨日のことのようにさやかの頭を駆け巡った。

 ――僕は……ここから出ていいのか?

 三船には会いたい。だが、イサオとの約束は守らなければならない。

 卓の上には、あの箱が――朱雀組最高顧問・秋津ミノルからの贈り物である、朱塗りの麻雀牌が収められた箱が置いてある。

 さやかがいつでも見られるように、とカグラがそこに置いてくれたのだ。

 ――カグラさんは、僕に破格の誠意をもって接してくれてる。それを裏切ったら、雀士失格だ…。

「雛子さん」

 さやかが呼び止めると、水槽を眺めていた雛子が振り返った。

「僕は、ここから出て行くことはできません。少なくとも、イサオさんの許可なしには動けません」

 さやかの発言に、雛子がチューリップレッドに塗られた唇を尖らせた。

「えぇ~っ?リボンちゃん、どうしてボスとの約束なんか守ろうとするの?ボスはヤクザなんだよ」

「………」

 雛子がここに来るのは初めてらしいこと、カグラの異様な警戒、そしてこの発言。

 ――やっぱり、雛子さんは朱雀組の人間じゃない。少なくとも、イサオさんの味方ではない…。

 同時にさやかは、雛子のほうが正しいのかもしれない、とも思った。

 確かにイサオはヤクザで、さやかがここに監禁されていることは、少なくとも表の世界の規律に反している。

 それでも、さやかは首を横に振った。

「イサオさんと取り引きをしたのは、僕の意志です。今、ここにいることも含めて、僕が自分で決めたこと。だから…」

 言いかけたさやかの唇を、雛子の指が塞いだ。

 舐めたら甘そうな、しっとりとして弾力のある人差し指。

「リボンちゃんの言ってること、ヒナには難しくてわかんないよ。リボンちゃんは、自由が欲しくないの?」

 雛子の幼げな瞳が、潤みながらさやかを見つめている。

 頷いてしまいたくなる誘惑を振り切り、さやかはきっぱりと告げた。

「…自由も大事ですけど、筋は通したいんです」

 その直後、常夜灯だけで照らされていた部屋を、真っ白な蛍光灯の明かりが覆い尽くした。

 パッ!

 照明のスイッチを付けたのは、バタバタと侍女たちを引き連れたカグラだった。

「夏目殿!」

 薙刀を構えたカグラ、侍女たち、そしてさやかを見回し――雛子の相貌が、怒りに歪んだ。

「…いいもん。ヒナはヒナの勝手にする。秋津イサオはいずれヒナたちに殺されるんだから」

 雛子の発言に、カグラの白磁のような肌が蒼ざめた。

「貴様…!」

 カグラが突き出した刃に向かい、雛子はあるものを盾にした。

 バキッ!

 薙刀が貫通したのは、あの木箱――ミノルが贈った麻雀牌の収められた箱だった。

「あっ――」

 さやかの目の前で、朱色の麻雀牌が、花弁のように舞い散った。

「ふん」

 なおも木箱を振り回して暴れようとする雛子に、さやかはカッとなった。

「やめろ!」

「っ!?」

 さやかに飛び掛かられ、虚を突かれた雛子が倒れ込む。

 そのスキを逃さず、カグラと侍女たちが2人の上になだれ込んだ。

 雛子の手足に組み付いたさやかの鼻先を、甘い香水の香りがくすぐる。

 雛子も負けじと手足をばたつかせ、ううっと犬のように唸った。その力ときたら、さやかは猛獣でも相手にしているような気分だった。

「観念しなさい!」

 カグラたちから刃の切っ先を向けられ、雛子は喉奥から絞り出すように叫んだ。

「あ~~~っ、うるさいうるさいうるさーーーい!ヒナを邪魔する奴なんか、みんな死んじゃえばいいんだぁっ!」

 その叫びに呼応するように、一瞬、ゴゴッと地鳴りのような音が響いた。

「……!?」

 不吉な予感がさやかの胸をかすめた直後、パンパンと何かが割れる音が四方八方から聞こえた。

 部屋を囲む大小いくつもの水槽の表面に、無数の亀裂が走り――稲妻のようなその模様を確かめる暇もなく、次の瞬間にはパンとガラスが砕け散っていた。

 ガシャーン!

 どおっと水が流れ出し、部屋はあっという間に洪水状態と化した。

 足を、腰を、胸を水が襲い、さやかは渦巻く水流に飲み込まれた。

「……!」

 それでも、雛子の手を握り続けた。何故かは分からないが、ここで雛子を離したら負けだと思った。

 ――水泳なら自信がある。部屋の扉は開いているし、水はいずれ流れ切る。こんなこけおどしに屈するもんか…!

 水流に髪を乱しながら、雛子はそんなさやかを不思議そうに見つめている。

 長い髪をなびかせる雛子が――その手の感触が――さやかの中で、三船と重なった。

「私の感触、覚えていてね」

 エレベーターの中で囁かれた声が、さやかの耳元に蘇る。

「私も夏目の感触、忘れないから。手、握って」

 誘われるまま、三船の――雛子の手を握り締めながら、更にさやかはあの日の三船の声を追う。

 デパートの屋上で、剪定鋏を手にした三船が最後に言った言葉。

「夏目の勝ち。私の、負け」

 ――そうか。これは、勝負なんだ。

 さやかが三船の売春を止めたことも、三船がさやかの前で首を斬ったことも――すべては、さやかと三船の、自分自身を賭けた勝負だったのだ。

 さやかは三船を守りたかった。だが、三船にとって売春を止められることは、自由を奪われるのと同じことだった。

 さやかには、三船の考えが理解できない。三船も、さやかの想いは受け入れられない。

 罪悪感で自分を責めるなんて、甘かったと今になって悟る。

 住む世界の違う三船を求めた瞬間から、さやかの戦いは始まっていたのだ。

 胸の痛みと共に、さやかの脳裏をよぎったのはイサオの言葉だった。

「とことん憎み合って、いがみ合って、やり合って、その結果なら、柘植も承知するだろ。俺たちは、力で答えを出すしかねえんだ」

 ――そうか。僕と三船も、同じだったんだ。

 価値観の違うさやかと三船の、唯一の共通点。それは、どんな手段を使ってでも、目的を遂行すること。

 さやかはヤクザの力を借りて三船の自由を奪い、三船は自分自身を傷付けることでさやかに報復した。

 2人の物語に、ハッピーエンドはあり得ない。それは辛くて、悲しくて、なのに果てしない自由でもあった。

 ――出来あいのハッピーエンドなんかいらない。たとえ刺し違えてでも、僕らは自分を貫き通す。

「………」

 さやかを見つめていた雛子の瞳が、水流と泡に覆われ――やがて見えなくなった。



 気が付くと、さやかは温かい膝の上で寝かされていた。

「……!」

 意識が戻るのと同時に、ぐっと息が詰まるような感覚があった。思わず、げほげほと咳き込む。

「ご無事ですか。もうすぐ、医師が参りますゆえ」

 そう言って背中をさすってくれたのは、カグラだった。

「う……」

 瞬きを何度か繰り返したさやかは、クリアになった視界にカグラ以外の2人の男がいることに気付き、ぎょっとした。

「…イサオさんに、柘植さん!?」

「おう。生きてたか、リボン」

 カグラに膝枕されたさやかを、イサオと柘植がしゃがんで見下ろしていた。

 さやかが慌てて起き上がろうとすると、柘植が手で制した。

「そのままで結構。我々は、現場を確認しに来ただけですから」

「というより、出遅れたなや。雛子の奴、逃げ足が速ぇな」

「申し訳ございませぬ」

 頭を下げるカグラに、イサオは首を横に振った。

「なんもだ。あったな奴、追っかけたところでどうにもなんね。いずれ、また奴らのほうから顔見せるべや」

 イサオ、柘植、カグラに囲まれ、桃色の釣り灯篭を見上げているうちに――じわりと、さやかの目に涙が込み上げた。

「うっ…ごめんなさい、イサオさん」

「なんた」

「ううっ!」

 こらえ切れず、さやかは両手で顔を覆って嗚咽した。

 カグラから心配そうに髪を撫でられながら、さやかは、泣いて謝罪した。

「すみません!僕のせいで、ミノルさんの麻雀牌が…!」

「ああ?麻雀牌ぃ?」

 イサオ、柘植、カグラまでもが、ぽかーんと呆気に取られた。

 三者の戸惑いをよそに、さやかは涙ながらに無念を語った。

「あんなに特別な素晴らしい牌はこの世に二つとないのに、箱が壊れた上に水に流されてしまって…僕、悔しいです。こんなことになって、本当にミノルさんに謝りたい…。イサオさん、ミノルさんの麻雀牌は、責任を持って僕が拾い集めます。ああ、そうだ、自動卓も水に浸かっちゃったんだ…せっかく修理したところだったのに。イサオさん、僕、弁償しますから。一括では無理かもしれないですけど、必ず…」

 うわごとのように繰り返すさやかの口を、カグラの手が優しく塞いだ。

「あむ」

「…夏目さんはお疲れのようですね。私はこれで失礼します」

 お大事に、と言って、カツカツと革靴を鳴らしながら柘植が立ち去った。

 イサオもまた、呆れた表情でさやかを見下ろしていた。

「………まんず、今夜はうちに泊まってけ。医者さ診てもらって、身体に異常がないようなら、お前は晴れて自由の身だ」

「あむ?」

 カグラの白魚のような手の下で唇をむにゃむにゃ動かすさやかに、イサオは念押しした。

「ここから、解放してける。一旦な」



 翌朝、さやかはイサオ、カグラと共に朝食を囲んでいた。

 相変わらず贅沢な膳が並んでいたが、さやかはそれに舌鼓を打つどころではなかった。

「小鳥遊さんが銃撃されて、イサオさんと柘植さんまで魚住の人質にされたんですか…!?」

 聖陵総合病院での顛末を聞かされたさやかは、思わず箸を止めてしまった。

 イサオはもぐもぐと炊き立ての白米を頬張りながら「んだ」と頷く。

 ついでに新聞を放って寄越され、さやかは広げられた記事を凝視した。

『朱雀組幹部 銃撃される』の見出しと、『病院で男立てこもり 元青龍会組員の犯行か』の見出しが、別々に取り上げられている。

 それぞれ犯人である菱喰・魚住の名は出ていたものの、両者の柘植との因縁については伏せられていた。また、後者の立てこもり事件に朱雀組の組長であるイサオや柘植が巻き込まれたことも書かれていない。

「ま、それは前振りでな。本題はこっからだ」

「本題…?」

 首を傾げるさやかに、イサオは斑鳩によって屋上から突き落とされた件を語った。

「斑鳩さんが……」

 さやかは雛子の言っていた「お兄ちゃんはトチっちゃった」の意味を悟った。

 ――だけど、どうして雛子さんと斑鳩さんは、そこまでして僕のことを助けようとしたんだ…?

「斑鳩さんと雛子さんって、何者なんですか」

 さやかは単刀直入に切り出したが、イサオからは怪訝そうな顔付きをされた。

「俺が聞きてえ。お前、なして玄武会なんかに狙われてんだ」

「玄武会…?」

 聞き覚えのない名前に、さやかは眉根を寄せた。

「リボンよ。玄武会ってのはな、もう40年以上、俺にしつこく付きまとってる連中のことだ」

 それから、イサオは自身と玄武会にまつわる因縁について教えてくれた。

 戦時中の陸軍と玄武会による人体実験のこと、そこにのちの青龍会会長・海堂もいたこと。

 話を聞き終えたさやかは、すっかり冷めた味噌汁を呆然と見下ろした。

「斑鳩と雛子は、玄武会が俺につけた見張りだ。お前も知ってる通り、奴らは普通の人間じゃねえ。玄武会が作った人造人間ってやつだ」

「………」

 信じがたい話だったが、さやかには腑に落ちるところもあった。

 ――斑鳩さんの言っていた『戸籍がない』という話。それに、雛子さんが部屋中の水槽を手も触れずに割ったこと…。

 理解が追い付かないものの、とりあえず、今はイサオの話を頭に入れておくことにした。

「リボン。お前、俺がここまで話しても、まだ自分は玄武会なんか知らねえってシラを切るか」

 イサオからじっと瞳を見つめられ、さやかは困惑した。

 ――そんなこと言われても、僕には本当に心当たりが……。

 いや、待てよ、と、さやかの頭の中で一つの解が見つかった。

「分かりました。僕がその、玄武会とかいう人たちに狙われる理由が」

「おお。なんだ」

「麻雀です!」

 一瞬、前のめりになったイサオは、さやかの返事を聞いてがくっと脱力した。

「麻雀~?」

「はい。斑鳩さんは、雀荘で僕に声をかけてきました。きっと、玄武会は麻雀で裏社会を制覇するつもりなんですよ。そこで僕をスカウトして、朱雀組の皆さんと打たせて腕前を確認した後、本格的に玄武会の代打ちとして迎えようと……」

「ねねねねねねねねね」

 否定を意味する「ね」を連発して、イサオはぶんぶんと首を横に振った。

「リボンよ、お前の脳みそには麻雀牌しか詰まってねえのけ?ミノルよりひでえぞ」

「褒め言葉だと思っておきます」

 さやかが嫌味で答えると、イサオははあとため息を吐いて2杯目の納豆をかき混ぜた。

「ばしこぎしてる様子もねえし、本当に何も知らねえみてえだな。あい、使えねえおなごだな」

「悪かったですね、ご迷惑をおかけして」

「んだんだ、迷惑だ。お前がいるとカグラまで危ねえっけ、今日でここから追い出してやる」

 さやかは昨夜、朱雀組の主治医によって簡単な診察を受けた。雛子との水中での乱闘はあったものの、かすり傷もなく健康体との診断だった。

 自由の身になったのは嬉しいが、さやかはすっきりしなかった。

「…でも、それじゃあ、僕とイサオさんの約束はどうなるんですか?それに、代打ちのことだって…」

「あい、業突く張りだこと。約束は約束だ、いずれお前には何らかの形で借りは返してもらう。代打ちの件も忘れてねえ、ミノルが結構乗り気だからな」

「本当ですかっ!?」

 ミノルが乗り気、と聞いて、さやかの瞳がぱあっと輝いた。

 ――うふふっ。うまくいけば、僕、ミノルさんのお弟子にしてもらえるかも!

 露骨に上機嫌になったさやかに、イサオが呆れた。

「肝の太え女だなあ。こったなことがあっても、まだ俺だと関わりてえのか」

「中途半端になるのが嫌なだけです。僕だって、生半可な覚悟でイサオさんとお知り合いになったわけじゃないですから」

 さやかのきっぱりとした返事に、「面白ぇな」とイサオは笑った。

 食後、イサオはグロリアに乗ってさっさと事務所に向かった。

 監禁していたさやかを解放するというのに、「警察に言うなよ」とか「逃げられると思うなよ」のような脅し文句の一つもない。実際、さやかも逃げたり通報したりする気はないので、意思疎通は出来ていると言える。

 ――僕より、イサオさんのほうがよっぽど面白い人だと思うけど。

 イサオとはまた会うだろうが、カグラと会うのはこれが最後かもしれない。さやかは、頭を下げた。

「お世話になりました。たくさんご迷惑をおかけして、申し訳ありません」

「迷惑など一つもかけられておりませぬ。夏目殿、これからもお元気で」

 カグラの優しい言葉に、さやかは胸がじんと熱くなった。

 それから、カグラは平たい箱に入った麻雀牌を見せてくれた。

「あっ…!ミノルさんの麻雀牌!」

「はい。今朝、侍女たちと共に部屋の片付けをしながら、拾い集めたものです。幸いにも、一つも欠けることなく見つかりました」

「よかった…!」

 さやかは朝日に輝く朱色の麻雀牌を見下ろし、安堵の息を吐いた。

「もしもご縁がありましたら、また迦陵殿にいらしてください。歓迎致しまする」

「はい!ありがとうございます、カグラさん!」

 どう考えても監禁されていた人間の会話ではなかったが、さやかはどうでもよかった。

 ――青龍会に玄武会。朱雀組の周囲には、得体の知れない連中がうようよしてる。

 三船のこともある。さやかがこれから歩む道は、平坦なものではないのかもしれない。

 それでも、不安より闘志が勝るのは――やっぱり、イサオの陽気さにあてられたのだろうか。

 ――闘うしかない。これが、僕の選んだ道なんだ。

 きっと、イサオも同じ気持ちでいるはずだ。

 さやかは、青空が輝く迦陵殿の外へと、2週間ぶりに踏み出した。

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