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77話 マリオネットの幽閉

第77話 マリオネットの幽閉


 昭和60年、11月の夜。

 さやかが連れて来られたのは、郊外にある広大なお屋敷だった。

 ――どこだ、ここ…。

 愚問かもしれないが、そう思わずにはいられなかった。

 夜目にも眩しい朱色の柱が何本も並び、見渡す限り青磁色の屋根が続く。中国の宮殿、と言われたほうがまだ納得できそうだ。

 共にグロリアから降りると、イサオはリラックスした様子で言った。

「ここは俺ん家だ。ながめれながめれ」

「イサオさんの…?」

 朱雀組4代目組長の邸宅――そう聞いて、さやかはこのゴージャス御殿っぷりに納得した。

 長いアプローチは丁寧に芝が刈り込まれ、白い一本道がくねりながら玄関へと続く。

 運転手が扉を開けると、中で和服姿の女たちが頭を垂れた。

「おかえりなさいませ、4代目」

「ん。飯の支度は出来てらか」

「はい。お客人の分も」

 そう答えたのは、女たちの中でもひときわ背が高く、美しい女性だった。

 艶やかな黒髪を一つにまとめ、白磁を思わす肌に、紅色の口紅をきりりと引いている。表情は厳格そうだが、匂い立つような色気がある。

 辺りを払うような風格から見ても、恐らく彼女がイサオの妻なのだろう。さやかは、ぼんやりとそう思った。

 釣り灯篭が揺れて、廊下に桃色の光を落とす。万華鏡のように派手な模様の描かれた廊下を進んでいると、ひどく現実味がなかった。

 大広間にはさやかとイサオ、そして妻の分の膳が並べられていた。

「いただきます!リボンも遠慮しねえで、どんどんけえ」

「……いただきます」

 とても食事をする気分ではなかったが、ここでイサオに逆らうほど自暴自棄にもなれない。或いは、イサオの能天気なオーラに引きずられただけかもしれない。

 膳の上に並んでいるのは、本当に一人分か?と疑うぐらいボリュームたっぷりの和食だ。

 主菜はブリの照り焼き、焼き蟹、牛すき焼き。これだけでも食べきれるか疑問なのに、戻りガツオの刺身に茶碗蒸し、マイタケやレンコンの天ぷら、銀杏の素揚げに、4種類の小鉢に土瓶蒸しまでついてくる。しかも、ご飯は松茸ご飯ときている。

 ――ずいぶん豪勢なんだな。さすが朱雀組の親分……。

 皿が多いせいで、食卓全体が湯気でほかほかと温かい。食欲などないはずなのに、どの料理も口に入れただけで意識が飛ぶような美味しさだ。

 ――それでいて、旨味だけじゃない美味しさがこれらにはあるような気がする。何だか、愛情がこもってる、っていうか。

 さやかがもそもそと箸を使う横で、イサオと妻は普通に談笑していた。

「例の再開発だけどよ、青龍会の奴らが嫌がらせしてくるどって困ってるみてえだ」

「『ブルー・ワイバーン』…水瓶組が率いている若者たちですね」

「んだなや。こっちでも人どこ遣わしたども、いたちごっこだなやー。近隣住民から苦情来るのはこっちだもんで、腹悪いな」

「若頭はどうされてますか」

「ま…柘植か。うん、あいつも青龍会の下請けと裏でちょこちょこ話し合って、利害の調整してるみたいだな。ま…じゃねえ、柘植に任せてりゃ、まんず上手くいくべ。あと少しの辛抱だども、現場の苦労どこ思うとな」

 さやかを誘拐し――そして、恐らくこれから何らかの残虐な行為をする――とは思えないほど、イサオも妻も平和そのものだ。

 逆に、この呑気さが本物の裏稼業だという感じがして、さやかは納得した。

 ――この人たちにとって、僕の命なんか屁でもないんだろうな。

 おかげで、さやかもこれから殺されるという実感が薄い。聞くとはなしに、秋津夫妻の話に聞き入ってしまった。

 ――『ブルー・ワイバーン』って、あの不良集団か。ヤバい奴らだとは噂になってたけど、本当に青龍会の配下なんだ…。

 カツアゲや盗み、暴走族、麻薬の密売、美人局。ありとあらゆる不良たちを、裏で操っている組織――それが『ブルー・ワイバーン』だ。

 話の規模があまりにも大きすぎて、さやかはその存在を疑っていたぐらいだ。しかし、その実態は、さやかの想像以上に危険な集団のようだ。

 ――それじゃあ、都内のほとんどの不良が青龍会に支配されてるってことか。だとしたら、一度非行に走ったが最後、簡単には抜け出せなくなる……。

 ほんの悪ふざけのつもりが、裏にヤクザが絡んでいたのでは、東京の若者の多くが取り返しがつかないほど道を踏み外してしまう。少年も少女も、搾取される側とする側を同時に強いられることになる。まさに地獄絵図だ。

 とか何とか考えていたら、イサオと妻が、揃ってさやかの顔をまじまじと見ていた。

「リボン。お前、何難しい顔してんだ」

「口に合いませんでしたか」

 妻のほうから気遣うように言われ、さやかはハッとした。

「あ、いえ、美味しいです。その…青龍会って怖いんだな、って思って」

 さやかが正直に答えると、妻が溜息を吐いた。

「堅気の娘御の前でする話ではありませんでしたね。4代目」

「なんもなんも、こいつは堅気じゃねえ。ミノルの嫁さん候補だ」

 平然とそんなことを言ってのけるイサオに、さやかはぎょっとする。

 ――これから殺すなり売るなりする相手に対して、ずいぶん悪い冗談だな。ミノルさんに失礼だし。

 妻が、呆れたように言った。

「4代目はお戯れが過ぎます。最高顧問も確かに彼女に興味を示しているようですが、年が離れすぎでしょう」

「んだか。なあリボン、お前、独り身の姉ちゃんとかいねのか」

 イサオに水を向けられ、さやかはああ、と何も考えずに答えた。

「姉はいませんけど、兄ならいますよ。ちょうど独り身の」

「ばかげ、ミノルに男どこ嫁さ迎えろってか。はは…」

 冗談めかして笑ってから、一瞬、イサオが何かを思い出したように真顔に戻る。

「…?」

 だが、イサオはすぐに表情を戻し、食卓に並んだ豪勢な膳へと話を移した。

「嫁と言えばよ、この飯は全部、そこにいるカグラが作ったんだぞ」

「えっ…そうなんですか」

「私一人の力ではございませぬ。侍女たちにも手伝ってもらいました」

 控えめに断ってから、妻は改めてさやかに自己紹介した。

「申し遅れました。4代目の妻、秋津カグラと申します」

「あ、どうも…夏目さやかです」

 ぺこりと会釈したさやかに、イサオの妻――カグラが、微かに唇を綻ばせた。

 さやかは、ずらりと並んだ料理に技術だけじゃない温もりを感じた理由を察した。

 ――イサオさんの奥さん……カグラさんの愛情がこもってるんだ。

 料理は愛情、なんて現実主義者のさやかは信じてこなかったが、カグラの料理には説得力があった。

 ――どれも今が旬の食材ばかりだし、お皿の形や模様に至るまで考え抜かれてる。これを日常的にやってるんだとしたら、カグラさんって凄すぎる…。

 陽気なイサオとは対照的に、カグラは表情も口数もクールで控えめだ。

 だが、そこに確かにイサオへの深い愛があることが、さやかにも伝わった。



 ――なんて、イサオさん夫婦の仲睦まじさに感心してる場合じゃないはずなんだけど。

 デザートの栗きんとんを食べた後、さやかはカグラによって部屋に案内された。

「客間です。手狭ですが、風呂とお手洗いも中にあります。外に侍女を控えさせておりますゆえ、入り用の際は遠慮なく申し付けてください」

 カグラが『手狭』と形容した客間は、ホテルだったらダブルツインと称されるレベルの広さだった。壁には何故かぐるりと金の扇子が並び、黒い漆塗りの格子が嵌められた窓からは庭が望める。

 テレビまであるし、と何となく目をやったさやかに、イサオがニヤニヤした。

「悪ぃな、うちはホテルじゃねえから、エロビデオまでは置いてねえんだ。俺の秘蔵のコレクションならあるけ、持って来ようか?」

「…結構です」

 イサオの悪ノリに呆れながら、さやかは疑問を抱かずにはいられなかった。

 至れり尽くせりの晩餐に、監禁場所としては贅沢過ぎる個室――。

 ――殺す前の温情にしては、サービスが細かすぎないか?

「イサオさん。結局、僕はこれからどうなるんでしょうか」

 さやかが率直に尋ねると、イサオは肩をゆすって笑った。

「ははは。リボン、お前はミンチだ」

「は?」

 ミンチ――。

 真っ赤なひき肉、ハンバーグなどが次々に頭に浮かぶ。

 さやかは、聞いたことを後悔した。

 ――朱雀組だって、青龍会と肩を並べる暴力団だ。それを忘れたわけじゃなかったのに…。

 確かに、死体はバラバラにしたほうが始末しやすい。精肉工場などを使えば容易だし、一般家庭でも、根気があれば不可能ではない。朱雀組なら人手もあるし、切れ味のいい刃物にだって事欠かないだろう。

 あの贅沢な御膳の数々から、察するべきだった。ひき肉そのものはなかったが、刺身とかすき焼きとか、『次はお前がこうなる番だ』というメッセージだったに違いない。

 ――まあ、いっか。

 そんな諦念に至ったのは、カグラの作ってくれた御膳が美味しかったことだけが理由ではない。

 ――僕は、三船をこれ以上ないぐらいに傷付けた。相応の報いじゃないか……。

 などなどなど、短時間であらゆる想像を巡らせていたさやかの前で、イサオが「おーい」と手をひらひら振った。

「リボン。お前はまんず、人質だ」

「…人質?」

 我に返ったさやかは、イサオの言う意味を測りかねた。

 イサオは、ビッと指を1本立てた。

「人質だから、むげにはしねえ。この家――迦陵殿さいる限り、好きにしてていい」

 そう言って、イサオは指を2本立てた。

「なんてったって、お前は俺の友達で、朱雀組の代打ちだからな。仮だども」

 3本の指を立て、イサオはニッと歯を見せて笑った。

「ヒトジチ、トモダチ、ダイウチ。チが三つでミンチだ。分かったか?」

 なはは、と笑うイサオに、さやかはがくっと脱力した。

「…それを言うなら、ちが3つで緻密とかじゃないでしょうか」

「そうとも言うな。そうだ、ついでにもう一つ」

 イサオは、4本目の指を立てた。

「これはバクチだ。血の博打」

「博打…?」

 柘植を殺そうと企んだ時のことも、イサオは『バクチ』と表現していた。

 あの時、イサオは柘植の命と自分の命、両方を天運に任せて賭けに出た。

 ――僕がここにいることにも、何か大きな裏があるってことか。

 さやかは、東京中の男が三船に手を出せないよう、イサオに願った。その代償は、さやかの身体や命などといった、ちっぽけなものには留まらないのかもしれない。

「チが4つだとなんて言うんだ?ヨンチってか?」

 イサオは軽口のようにそう言ったが、さやかの頭に浮かんだのは死地という言葉だった。



 それから本当に、この大宮殿――迦陵殿での生活が始まった。

 迦陵殿が朱雀組代々の私邸だということは、後にカグラが教えてくれた。

「本来であれば、先代の――3代目が隠居所として使うはずでした。しかし、あのお方は長く続いた内乱の責を取り、組を巡る一切から身を引くことを選ばれたそうです。味方同士の争いを見続けたことで、この世界に倦んでしまったことも大きいようです。今はご家族と共に熱海でご隠居され、この迦陵殿は4代目――イサオ様に譲られることとなりました」

 そういった裏事情から、今日の天気やさやかの体調、食の好みに至るまで、カグラは寡黙ながら何かとさやかに話をしてくれた。

 一目で上物と分かる和服姿に、ひと筋の乱れもない結い髪。一見、カグラはいかにも極道の妻といった感じの怖い女性だが、さやかに対する態度は優しく、却ってさやかのほうが申し訳なくなるほどだった。

 ――こんなわけのわからない状況で居候してる僕に、ここまで親切にしてくれるなんて…。

 食事は料亭顔負けだし、掃除も洗濯も風呂の支度も全部、カグラに仕える侍女たちがやってくれるので、さやかはやることがなかった。

 それでも、退屈だとは思わなかった。扇子の並んだ部屋でぼーっと過ごしているうちに、黒い格子の向こうが暗くなったり明るくなったりしていく。何も考えずとも、時間はただ流れていった。

「ひどい顔をしていますよ」

 そんなさやかを、ある日、カグラがそう言って心配した。

 白魚のような手で、そっとさやかの頬に触れる。

「鏡を見なさい。己の顔を見ながら、これからどうするかを考えるのです」

 さやかは、ぼんやりとカグラに言われたことの意味を考えた。

 ――ひどい顔、かぁ。ご飯だって十分すぎるぐらい頂いてるし、ふかふかのお布団で寝てるし、健康そのものだと思うんだけど。

 それに、これからどうするか、と言われても、さやかに考えるべき未来などあるのだろうか。

 ――三船は自殺未遂したし、僕はヤクザに監禁されてる身の上だ。明日のことだって分からないのに、何をどう考えろっていうんだ…。

 明日――と考えて、さやかはあれっ、と思った。

 ――ここに来てから、どのぐらい経ったっけ。

 どうせすぐ殺されると思っていたので、日にちを数えていなかった。部屋には時計もカレンダーもないため、食事に呼ばれる時だけがさやかが時間を意識するタイミングだった。

 ――あれから何回、ご飯を食べたっけ……いや、そんなことよりも。

 さやかは、部屋にあるテレビをつけた。見ようと思えばいつでも見られたが、気が向かなくて今まで触ったことがなかったのだ。

 ちょうど、夕方のニュースが放送していた。週間天気予報が流れ、さやかはやっと今日の日付を認識した。

 ――僕がここに監禁されてから、もう8日も経ってる。

 てっきり2、3日程度だろうと思っていたさやかは、自分の時間感覚のズレに愕然とした。

 ――これじゃ、浦島太郎もいいところじゃないか。身体に異常はないはずなのに、どうしてこんな…。

 そう考えかけて、さやかは改めてカグラの言葉を思い出した。

 ――そうか。僕は本当に、『ひどい』状態なんだ。

 自分では冷静なつもりでも、実際はボロボロだったようだ。頬に、自嘲の笑みが浮かぶ。

 ――しょうがないじゃないか。正気に戻ったら、三船のことを考えてしまうんだから……。

 あの日、一緒に街を歩いたこと、デパートで遊んだこと、エレベーターの中で手を握ったこと――そして、目の前で三船が首を切ったこと。

 瞼を閉じればそれらが目に浮かんで、さやかの胸を引き裂いた。

 ――出来ることなら、僕だって首を掻き切ってしまいたい。だけど、それは出来ない。

 死んでしまったら、イサオとの『約束』を破ることになる。この期に及んでイサオに義理立てている自分が、ちょっとおかしくはあるが。

 テレビ画面の向こうでは、交通事故や芸能人のスキャンダルなど、他人の日常がだらだらと流れていく。

 それを見ているうちに、じわじわと、さやかの中にも日常感覚が戻ってきた。

 ――そういえば、学校はどうなってるんだろう。母さんは…?

 さやかはもう、1週間以上も学校を欠席していることになる。それ以前に、家族はさやかの行方不明をどう受け止めているのだろうか。

 自暴自棄になっている間に考えないようにしていたあれこれが、急速にさやかの中で渦を巻き始めた。

 ――学校はともかく、母さんはすごく心配しているはずだ。どうしよう…。

 どうせ、学校では三船の自殺未遂が、あれこれと噂になっているに違いない。行きたくもない学校と違って、母のことは気がかりだった。

 だが、学校には行けないし、母には連絡も取れない。それが、さやかの現実だった。

 ――僕、大変なことをしちゃったんだな…。

 素人がヤクザと関わるということは、こういうことなのだ。犠牲にしたものの大きさを、さやかは改めて思い知った。

 さやかは、部屋にある洗面所に行って、鏡の前に立った。

 ――うわっ。ブス……。

 そこに映っていたのは、髪はボサボサで顔はむくみ気味、クマの出来た目はどろんと濁っていて、肌も唇も荒れた不細工な女だった。

 こんな顔であの美貌のカグラに会っていたのかと思うと、さやかは恥ずかしさで消えたくなった。

 何より、瞳に覇気がない。雀荘で日銭をチマチマ稼いでいるだけのオッサンたちのほうが、よほど闘志が感じられるぐらいだ。

 ――これが最期の顔になるのは、耐えられない。

 鏡に映った情けない自分の姿を見ているうちに、さやかの中で折れたはずのプライドが、むくむくと頭をもたげ始めた。

 ――僕はこれでも、朱雀組の代打ちたちを破った雀士だ。自業自得で死ぬ身だとしても、せめて誇りを持って死にたい。

 パン!

 気合を入れるために頬を両手で叩いたら、思いのほか痛くてさやかは顔をしかめた。



 その日の夕食の席で、さやかは自分からカグラに話しかけた。

「カグラさん。あの…最近、イサオさんはこちらに帰って来られましたか」

 思えば、もう何度も食事を共にしているのに、さやかのほうからカグラに話しかけたことはなかった。監禁中の身の上だから遠慮していた、というのもあるが、それだけ気力を喪失していたのだろう。

 サンマの有馬煮の入った小鉢をコトリと置いて、カグラは答えてくれた。

「4代目はご多忙ゆえ、なかなかこちらには戻って来られませぬ。何か、ご用でもありましたか」

「いえ。僕の今後についてはっきりして欲しいとは思ってますけど、急かせる立場じゃないですから」

 苦笑いするさやかに、カグラがふっと目元を緩めた。

「ようやく、元気が戻ってきたようですね。4代目のせいで貴方のように若い少女が暗い顔をしているというのは、妻としては居たたまれぬものですから」

「あ…。すみません、その節は」

 つい変な答え方をしてしまったさやかに、カグラがくすりと笑った。

「食事が終わったら、良いものをお見せしましょう」

 そう言って食後、カグラは別室から、漆塗りの立派な箱を持って来た。

 一見、職人が使う道具箱のようにも見えるが、さやかはその形状からすぐにその正体を察した。

「麻雀牌ですか!?」

「開けてもいないのに、よくわかりますね」

 カグラから目を丸くされ、思わず前のめりになったさやかは、慌てて身体をひっこめた。

「あ、いや、その…。骨董屋さんで、似たものを見たことがあるので」

 さりげなく骨董屋で古い麻雀牌を物色していることまで自白してしまったが、さやかはそれより目の前の箱に釘付けになった。

 中から出てきたのは、艶やかな光沢を放つ象牙の麻雀牌セットだった。

「すごい、裏側が朱色になってる。こんな牌、初めて見ました」

 興味津々のさやかに、カグラが説明してくれた。

「この麻雀牌は、4代目が朱雀組を襲名した際、最高顧問――4代目の末弟である秋津ミノル殿が、祝いにと贈ってくださったものです」

「ミノルさんが…」

 ――ミノルさんって、本当に麻雀好きなんだな。プレゼントのセンスが抜群!

「どうぞ、お手に取って眺めてください」

「えっ!?いいんですか!?」

 カグラに許可され、さやかは手をハンカチで拭いてから、恐る恐る朱色の麻雀牌を手に取った。

「わあ。見た目だけじゃなく、手触りもいいですね。これ、オーダーメイドですか?」

「ええ、そのように伺っております。朱雀組だから、特別に朱色に塗らせたものだと」

「素敵!あっ、花牌や百塔まである!」

 さやかが目を吸い寄せられたのは、日本の麻雀ではほとんど用いられない牌――春夏秋冬の四季を描いた『花牌』と、ジョーカーのような役割を持つ『百塔』だ。

 ――こんな牌まで入れるなんて、ミノルさんって本当に洒落てるなあ。

 うっとりと牌に見入るさやかに、カグラが目を細めた。

「4代目から聞いてはいましたが…夏目殿は、本当に麻雀がお好きなのですね」

「はい!」

 朱雀組のための特別な麻雀牌なんて粋だなあ、きっとこの迦陵殿で身内だけのシークレット麻雀大会とかやってるんだろうなあ、などと想像に胸をふくらませながら、さやかは頷く。

「夏目殿は何故、4代目からここに留め置かれているかをご存知ですか」

 カグラから改まって聞かれ、さやかは正直に答えた。

「……いえ。イサオさんに僕の身柄を好きにしていいという『約束』はしたんですけど、イサオさんの具体的な目的まではさっぱり」

 ミンチ、という冗談はさておき、イサオの言った4つのチのうち、『人質』と『博打』はさやかには意味がわからない。

 ――柘植さんとの交渉かとも思ったけど、2人の関係はだいぶ軟化したみたいだし、わざわざ僕を引き合いに出す必要はない。

 本当に思い当たる節がないため、さやかはカグラに謝ることしか出来なかった。

「すみません。事情もよく分かってないのに、お世話になってしまって」

「いえ、夏目殿が気にすることではございませぬ。4代目の気紛れには、私たちもよく困らされておりますゆえ」

 カグラは本当に寛容だと、さやかは思う。夫がどこの馬の骨とも知れない若い女を連れて来て、気分がいいはずがないのに。

 同時に、さやかのことをわざわざ組の私邸で本妻に見張らせている、という状況の異様さに、今更ながら思い至った。

 ――僕を監禁したいだけなら、マンションでも雑居ビルでも適当なところに閉じ込めて、組員にでも見張らせれば十分なはず。

 イサオは、どうしてさやかをここに留め置いているのか――それは、さやか自身の疑問として、改めて胸に降りてきた。

 さやかが悩み始めたのを察して、カグラが話題を変えた。

「この迦陵殿には、麻雀卓もございますよ。見に行かれますか」

「…はい!ぜひ」

 確かなことは、ここが監禁場所としてはあまりにも居心地がいいことだけだ。頭の片隅にイサオへの疑問を抱きながらも、さやかは素直にカグラに従った。



 実際、その頃のイサオは『ご多忙』で、さやかどころではなかった。

 朱雀組若頭補佐・小鳥遊が銃撃されたのだ。

 報せを受けたイサオは、すぐさま愛車のグロリアに乗って病院へと駆け付けた。

 聖陵総合病院――。

 都内でも有数の大病院の広い玄関口で、朱雀組の組員たちが頭を下げて出迎える。

 その筆頭に立つ若頭・柘植が、かつかつとイサオに歩み寄った。

「4代目。御足労頂き、痛み入ります」

「小鳥遊のあんべはどうだ」

 イサオが小鳥遊の具合を尋ねると、柘植は冷静に答えた。

「幸い、命に別状はありません。意識もありますので、本人の口から詳しく話を聞けるかと」

「分かった」

 2人はエレベーターに乗り、小鳥遊のいる5階の外科病棟へと入った。

「4代目、若頭!すみません、わざわざ足を運んで頂いて」

 ベッドから起き上がろうとする小鳥遊を、イサオが制した。

「まんず、ながまってれ。大儀でやったな」

「この程度、どうってことありませんわ。にっくき菱喰をムショにぶち込めたんですから、安いもんです」

 そう言って、小鳥遊は撃たれた太ももをパンパンと叩いた。

 小鳥遊を銃撃した犯人は、菱喰――かつての柘植の部下であり、組の金を横領して逃げたあの男である。

 菱喰は先日の『ハーピー・ナイト』の事件後、行方をくらましていた。朱雀組・警察双方が血眼になって捜索していたものの見つからず、高飛びしたのではないかと言われ始めていた矢先だった。 

「例の再開発工事現場を視察していたところ、菱喰が現れ、拳銃を乱射したそうです」

 柘植の説明に、イサオは顔をしかめた。

「ふむ。つまり、菱喰はこのまま尻尾巻いて逃げようって腹だったが、青龍会からケツを叩かれたってわけか」

「4代目と私の暗殺に失敗していますからね、奴は。再開発を妨害すれば、高飛びに必要な金ぐらいは与えるとでも言われたのでしょう」

 青龍会にしてみれば、ていのいい尻尾切りだ。菱喰もそれは分かっていただろうが、お尋ね者のヤクザに断る選択肢はなかった。

 結局、菱喰はその場で現行犯逮捕された。菱喰は武装した警察官らにもみくちゃにされながら、どこか安堵の表情を浮かべていたという。

「『これで奴らから逃げられる』と、菱喰は呟いていたそうです。あいつ、よっぽど青龍会が怖かったんでしょうね」

 小鳥遊はそう言ったが、イサオは別のことを考えた。

 ――『これで奴らから逃げられる』……まさか、青龍会は菱喰たちのことまであそこに送るつもりだったのか?それで、菱喰はわざと騒ぎを起こして、警察に捕まったんじゃ……。

 怪我人は小鳥遊だけで済んだものの、めでたしめでたしとはいかない。柘植は言った。

「元はうちの者だった菱喰が騒ぎを起こしたせいで、警察から警戒されています。朱雀組はまた、大規模な内輪揉めを起こしているのではないか、と」

 青龍会が菱喰を使ったのも、それが狙いだろう。朱雀組が身内同士の抗争で血を流していたのは、さほど遠い昔の話ではない。

 だが、イサオにとってはそれ自体は想定内だ。どうせ極道と警察はつかず離れずの仲であり、互いの腹を探り合っているのはいつだって同じだ。

「それより、魚住はどさ行ったんだべな」

 イサオの発言に、柘植も小鳥遊もハッとした。

「奴は『ハーピー・ナイト』への放火容疑で、警察から指名手配されてるはずだなや。青龍会がしくじった菱喰を切るんだったら、主犯である魚住のことだって切らねえとおかしいべさ」

 イサオの後を、柘植が引き取った。

「菱喰が動いたということは、魚住も我々の前に姿を現す可能性がある。4代目は、そう仰っているのでしょうか」

「んだ」

 ベッドの上の小鳥遊が、11月だというのにパタパタと扇子で顔を煽いだ。

「おっかないこと仰いますなあ、4代目は。菱喰と魚住とじゃ、危険度が段違いでっせ」

 菱喰は長年、柘植に仕えてきただけあって、気性は柘植に近い頭脳派だ。金の横領からその後の逃亡まで、その手管は狡猾だった。今回のような拳銃での銃撃など、計算高い菱喰の本領ではなかっただろう。

 一方の魚住は、青龍会きっての過激派として知られた男だ。柘植を襲撃し、娘を殺害した事件でも手榴弾を使うなど、その手口は残忍だ。

「小鳥遊には、このまま護衛をつけておく。今後のことは俺だに任せて、ゆっくり養生してけれ。まんず、お前が生きててよかった」

 イサオから微笑まれ、小鳥遊が感極まったようにぶるっと震えた。

「ありがたいお言葉です。4代目のことをお守りできるよう、一日も早く怪我を治します」



 病室を後にしたイサオと柘植は、並んで廊下を歩いた。

「お前が生きててよかった…ですか。4代目らしからぬお言葉ですね」

 柘植からぽつりと言われ、イサオは鼻白んだ。

「何だ、お前。小鳥遊がくたばったほうが良かったってか」

「これはこれは。菱喰と魚住をけしかけて、私と小鳥遊を蛇で殺そうとしたのはどなたですか、4代目」

 柘植の言葉に、イサオは一瞬、眉をぴくりと動かした。

 ――ちっ。こいつ、やっぱり気付いてたか。

 さやかに推理出来たことを、柘植が考えないはずがない。

 いや、そもそも、柘植は事件が起きた時点で気付いていたに違いない。

「……この借りは、必ずお返ししますよ」

 あのセリフは、イサオに助けてもらったという意味ではなく――覚えてろよ、この野郎、という捨て台詞だったのだ。

 愛だのなんだの言っていても、イサオのことを最も疑っているのは、やはり柘植だ。とはいえ、イサオとしても、はいそうですかと認めるつもりはない。

「人聞きの悪いこと言うなや。どこに若頭を殺そうとする親分がいるってんだ」

「おやおや。4代目はもう、先代と菊戴さんのことをお忘れになったのですか」

 柘植は追及の手を緩めない。イサオもまた、しぶとくしらばっくれようとした。

「やさがねなあ、摩耶からそったこと言われると思わなかったなや。俺が摩耶のこと殺そうとするわけねえでねが」

 イサオとしては精一杯、媚びを売ったつもりだったが、柘植は一瞥もしない。

「夏目さんはそう仰っていましたよ」

「何っ!?リボンの奴、お前さバラしたのか!?」

 と言ってしまってから、イサオはしまったと自分の口を押さえた。

 鎌にかかったと喜ぶでもなく、柘植の眼差しはアラスカ並みの冷たさだった。 

「…………呆れたものです。どうせなら、もっと上手く嘘を吐いて欲しいですね。朱雀組の4代目であられるのですから」

「お、親分のことを疑うからには、証拠はあるのか、証拠は!」

「今、ご自身の口から話してくださったと思いますが」

 柘植は、やれやれと呆れたように溜息を吐いた。

「そんなに私が邪魔ですか」

「もう過ぎたことでねが。俺と摩耶は仲良しこよしの親子盃、青龍会とも手を取り合って、朱雀組の新時代の幕開けだ」

 なれなれしく肩を抱いたイサオに、柘植がハッと冷笑した。

「しらじらしい。私は青龍会との同盟には反対だ、と申し上げたはずですが」

「頑固だなや。お前、金勘定が好きなくせに、青龍会と手を組むメリットが分からねえのか」

「義理がなければ、いくら金を積み上げたところで紙切れの山ですよ」

 柘植は、険しい表情でイサオを睨んだ。

「私だけなら耐えられますが、小鳥遊にまで累が及んでは、黙っていられません。あれは私のことも4代目のこともよく理解し、心から支えようとしている男です。4代目はそんな男が撃たれても、青龍会と手を組めと仰るのですか」

 柘植から真剣に迫られ、イサオは返す言葉がなかった。

 軟化したはずの柘植との関係は、逆戻りどころか悪化している。イサオは頭を抱えたくなった。

 ――いっぽ進んで二歩下がる、じゃどっかの行進曲だなや。頼みのリボンは動かせねえし、かと言って殺すのもミノルから駄目だって言われたし、どうしたら…。

 並んで立ったエレベーターホールに、重たい沈黙が落ちた――その時だった。

「大変です、ボス、若頭!」

 ばたばたと階段から駆けつけてきたのは、1階で待機させていたはずの斑鳩だった。

「なした、そったに慌てて」

「2階の内科病棟で、立てこもり事件が発生しました。犯人は、魚住です」

 とんでもない報せに、イサオと柘植は思わず、顔を見合わせた。

「4代目の勘が当たりましたね」

「魚住の噂なんか、するんでねがったな」

 溜息を吐くと、イサオは「状況は」と斑鳩に尋ねた。

「魚住は2階にいる患者と看護婦らを人質にして、205病室に籠城しています。清掃業者を装って院内に侵入したらしく、清掃用具を運ぶワゴンの中に、マシンガンやダイナマイトなどを隠し持っているようです」

 2階から逃げ出した数名の患者や看護婦が目撃していたという。イサオは尋ねた。

「警察は?」

「既に通報したようです。1階では外来患者を避難させていますが、2階より上の階は魚住を刺激しないよう、警察が到着するまでその場で待機するようにとのことでした」

 そこで、柘植が訝しげに斑鳩を見た。

「斑鳩は1階にいたはずですが、よくここまで辿り着けましたね」

「みょんけた話じゃねえ。こいつはそういう奴だ」

 イサオが吐き捨てるように言うと、柘植は釈然としないながらも、それ以上は聞かなかった。

 斑鳩は平然として、見てきたかのように正確に状況を報告した。

「魚住は、若頭との対面を要求しています。14時までに来なければ、人質を一人ずつ殺すそうです」

 魚住はかなりの興奮状態にあり、警察が来たら人質もろとも爆死しかねない、と斑鳩は付け加えた。

「警察が来る前に何とかせねばなんねな」

 イサオのセリフを待たず、柘植はつかつかと階段へと向かった。

「無関係の人間を巻き込むわけにはいきません。すぐに行きます」

「待て、摩耶」

 柘植を呼び止め、イサオも階段へと歩を進めた。

「俺も行く。補佐が撃たれた上に、若頭までやられたんじゃ、朱雀組はお終いだ」

「4代目…。お気持ちはありがたいですが、それこそ、4代目の身に何かあってはいけません。魚住とは、私が決着をつけます」

 真剣に諭す柘植に、イサオは苦笑した。

「お前、自分が言ったこと忘れたのか?菱喰と魚住をけしかけたのは俺なんだから、俺に行かせてお前は逃げればいいでねが」

「それは私の流儀ではありません。4代目とは、正々堂々と闘いたいですから」

「正々堂々ねえ」

 ――チューとか花束とか変な名前で呼ばせることが、こいつの『正々堂々』なのか……。

 柘植の考えていることは、イサオにはよくわからない。ただ、柘植が根っからの悪人ではないことだけは確かだ。

 ――摩耶がやられたら困るってのは、世辞じゃねえ。こいつがいなくなったら、西のヤクザはほとんど青龍会に寝返っちまう。

 朱雀組の先代と若頭・菊戴の長い対立の後、イサオが4代目に、柘植が若頭に就任したのは、極道界のバランスを取るためでもある。

 ――西日本で絶大な財力と権力を誇る柘植雅嗣がいきなり朱雀組の親分になったんじゃ、朱雀組の分裂は西の勝利だって言っちまうのと同じだ。摩耶にはむしろ、縁の下の力持ちになってもらったほうが、朱雀組のためになる。

 すなわち、西と東が支え合い、東京を中心に日本を席巻する青龍会に対抗するのが肝要だ。それを、朱雀組に属する全てのヤクザに分からせる――そのために、西でも東でもないイサオが4代目を襲名したのだ。

 ――つまり、摩耶を殺させるわけにはいかねえ。

「青龍会に教えてやるか。正義は勝つ、ってな」

 イサオが言うと、柘植の横顔に微かに笑みが浮かんだ。



 魚住が立てこもっている2階は、異様な雰囲気に包まれていた。

 205病室の人間以外は全員、逃げ出したのかと思ったが、白衣姿の看護婦や医師たちは何名か残っていた。皆、緊張した面差しで、205病室の様子を伺っている。

「斑鳩。皆さんに、危ないから病室から離れているよう、話して来なさい」

 柘植が命じ、斑鳩は頷いた。

「こんだけ医者がいりゃ、俺だに何かあってもすぐに手当てしてもらえるな。ははは」

 軽口を叩くイサオに、柘植がぼそっと呟いた。

「ダイナマイトを使われたら、我々も医者も皆殺しですよ」

「縁起でもねえこと言うなや」

「事実を申し上げたまでです」

 そう言う柘植の表情は暗い。裏切り者の菱喰はまだしも、娘の仇である魚住に対しては、感情を引きずられるようだ。

 その柘植の暗さに、イサオはふと――34年前の自分自身の姿が重なった。

 大羽の陰気な産院で、揺り籠で眠っていた息子の小さな顔を、手足を、何度も何度も目でなぞったことを思い出す。

 ――そうだな。我が子を奪われた悔しさは、何年経っても消えるもんじゃねえ。

「摩耶」

 205病室の前で、イサオは静かに言った。

「お前の娘が魚住に殺されたこと、俺は一度も軽く思ったことはねえ。魚住は許しちゃいけねえ。お前に一生消えねえ悲しみを背負わせた奴を、俺は絶対に許さねえ」

 それは、柘植に対する利害を超えた、イサオの本心だった。

 もっとも、柘植からすれば単なる美辞麗句、お涙頂戴にしか聞こえなかったかもしれない。それでも構わなかった。

「………」

 柘植はただ黙って、205病室の扉を開けた。

「来たか。遅かったじゃねえか、柘植よ」

 カーテンで区切られたベッドが6つ並んだ大病室の、窓際の最奥に魚住はいた。

 患者たちはそれぞれ自分のベッドの上に座らされ、包帯で手足と口を拘束されている。それをやらされたであろう看護婦たちも、同様に縛られて床の上に座り込んでいる。

 怯え切った様子の人質たちに、柘植が顔を歪めた。

「魚住。こうして私が来たのです、人質を解放しなさい」

「都合のいいこと言うなよ。どうせじきにサツが来るんだ、こいつらはここに籠城するための道具だ。俺がムショで味わったのと同じぐらい、じわじわ苦しめてやる。長期戦になるぞ」

 マシンガンを両腕で抱きながら、魚住は涎を垂らしている。血色は悪いのに、目だけがギラギラと血走っていた。

 何か言おうとした柘植を制し、イサオが一歩、前に出た。

「おい。長期戦なんてさせねえぞ」

「なんだ、朱雀組の親分までおいでなすったか。ちょうどいい、柘植もろともハチの巣にしてやる」

 マシンガンを向けた魚住に、柘植が身構える。

 鈍色に光る銃口を見つめながら、イサオはにっこりと笑った。

「いいのか?俺だを殺しちまったら、お前、助からねえぞ」

「何っ?」

「俺だに助けて欲しくて来たんじゃねえのか?『タカマガハラ』は恐ろしいもんなあ」

 イサオの発言に、魚住が顔色を変えた。

「お前っ……知ってるのか、あそこのことを」

「おう、知ってら知ってら。朱雀組の親分だもの、青龍会と玄武会が手ぇ組んで人体実験してることぐらい、よっく知ってるわ」

 歌うようにイサオが言うと、魚住が明らかに狼狽した。

「そ、そこまで言っていいのか。口にしたら、殺されるかもしれないんだぞ」

「そったことねえ。あいつらだって、別に隠してねえよ。言ったって誰も信じねえもの」

 イサオはぐるっと首を回して「なあ、摩耶」と話を振った。

「玄武会が『タカマガハラ』で死んだ人間とそっくりの人間を作ったり、手足が8本もある人間を作ったり、頭が2つもある人間を作ったりしてるなんて、信じられねえよなあ?」

「………」

 柘植はどう返答してよいか分からない、という様子だ。

 イサオは「なっ」と柘植の顔を指差して笑った。

「魚住。お前と菱喰は、『ハーピー・ナイト』で俺だを仕留め損ねた。その落とし前として、青龍会から『タカマガハラ』さ連れて行かれそうになった。だから、今度こそ俺だを殺って、『タカマガハラ』行きは勘弁してもらおうと思った。違うか?」

 イサオの力強い目線に射抜かれ、魚住が寸時、硬直する。

 やがて――マシンガンを抱いたまま、がっくりとその場に崩れ落ちた。

「助けてくれ。俺はあんなところに行きたくねえ。助けてくれ、朱雀組の4代目」

 泣きじゃくる魚住を、イサオの後ろで柘植が呆然と見下ろしていた。



 イサオと柘植、そして魚住の3人は、205病室を出て地下へと向かった。

「こったとこさいても、すんぐに警察に捕まっちまうだろ。地下なら逃げやすいし、人に話を聞かれる心配もねえ」

 イサオの説得に、魚住は素直に従った。

 とはいえ、その手にマシンガンが握られていることに変わりはない。魚住のふらつく背中からは、精神の危うさが透けて見えるようだった。

 やがて、一行が辿り着いたのは、地下1階の霊安室だった。

「何も、こんな所で…」

 厳粛な柘植が苦言を呈したが、イサオは笑顔でまあまあと肩を叩いた。

「ここなら、生きてる人間が巻き添え食うこともねえべ。さあ、魚住」

 冷たい床にどっかりと腰を下ろし、イサオは上目遣いに魚住を睨んだ。

「まずは、お前と菱喰が『タカマガハラ』さ連れて行かれそうになったいきさつを詳しく教えてけねが。お前を狙ってるのが青龍会の誰なのか、それが分からねえことには俺だも守りようがねえ」

 霊安室の小さな燭台の前で、魚住は訥々と話し始めた。

「………『ハーピー・ナイト』でお前らを仕留め損ねてから、菱喰とは別々に動いていた。2人でいたら、すぐに見つかっちまうからな。俺は都内の空き家に潜伏していた。青龍会はまたすぐに次のチャンスをくれると思っていたが、甘かった」

 青龍会の元組員である魚住は、がっくりと項垂れた。

「空き家にガキ共がやって来て、俺を力ずくで車に乗せた。後から、奴らは『ブルー・ワイバーン』だと分かった。青龍会四天王の一人、難波友和が率いる不良軍団だ」

 青龍会四天王――その名が出て、イサオの眉がぴくりと動いた。

 魚住は、難波の組である水瓶組事務所で菱喰と再会したという。

「難波は、俺と菱喰を『タカマガハラ』に連れて行く、と言った。玄武会っていう謎の組織がやってる研究施設だ。俺は『タカマガハラ』の名こそ知っていたが、あれは単なる噂だと思っていた。この時も、難波は俺たちを殺すことをカッコつけてそう言っただけだろうとタカをくくっていたんだ」

 だが、実際に『タカマガハラ』に連れて行かれ、その現場を見た魚住は驚愕した。

「あそこは人間の行く場所じゃない。あんなこと…あそこに行ったら、化け物にされちまう」

 言葉にするのも恐ろしいのか、魚住は『タカマガハラ』の詳細は語らなかった。

「難波が『タカマガハラ』を統括しているのか」

 イサオの問いに、魚住は震える声で「そうだ」と答えた。

「難波の下には『ブルー・ワイバーン』のガキどもと、『アラビアン・ナイト』という一大カルテルがある。どっちも『タカマガハラ』に送るモルモットを仕入れるためのカモフラージュだったんだ」

 化け物だ、化け物だ、と魚住は何度も頭を掻きむしった。

「『タカマガハラ』で生まれた化け物たちの多くは、そう長くは保たない――難波はそう言っていた。最初から『失敗』して、生き物の形を成してない奴もいれば、どんなに優れた『強化人間』や『複製人間』でも、5年も生きられない。改造された人間に至っては、発狂して自殺する奴がほとんどだって」

 想像してみろよ、と魚住はイサオと柘植に訴えた。

「あの『タカマガハラ』で作られた化け物たちの臓器や身体の一部を、自分の肉体に植え付けられるんだぞ。30年前に死んだゾンビだの、普通じゃない人間だのと合体させられるんだ。こんなの、人間をやめるのと何が違うって言うんだ。俺は絶対そんな風にはなりたくない。奴らの実験動物にされるなんて御免だ」

 魚住と菱喰は必死で命乞いをし、最後のチャンスとして菱喰は小鳥遊の襲撃を、魚住は柘植の襲撃を命じられた。

「朱雀組に殺されるか、『タカマガハラ』で化け物にされるか選べ、ってことだ。ハハハ」

 そこで、俯いていた魚住が急にマシンガンを構えた。

 銃口が向けられた先は、柘植だ。

「柘植。こうなったのも、10年前に貴様を殺し損ねたせいだ。ガキ一人殺ったぐらいでムショにぶち込まれて、挙句の果てに化け物にされるっていうんじゃあんまりだろ。俺はこんなところで終わりたくねえ。俺の命は、ちっぽけなガキなんかより尊いんだ」

「……!」

 じゃりっ、と数珠が擦れるような音と共に、柘植がスーツの胸元を強く握り締めた。

「魚住」

 そこで、イサオがふらっと立ち上がった。

「!動くな、死にてえのか」

 魚住がマシンガンをイサオに向けたが、イサオは微動だにしない。

「玄武会から逃げてえか」

「当たり前だ!そのために、お前らを生かしてやってるんだ」

 だが柘植は殺す、とか何とかのたまう魚住を、イサオは大きな手で遮った。

「いいこと教えてやる」

 次の瞬間、イサオの歪んだ笑顔が――魚住の目の前にあった。

 薄暗い霊安室にわずかに残っていた光が、温もりが、空気が――イサオの真っ黒な瞳に、全て吸い込まれていく。

「ねえよ」

「ねえ…?」

「逃げ場なんてねえ。玄武会からは逃げられねえ。奴らはいずれ、この国全てを覆い尽くす」

 イサオの声音に尋常ならざるものを感じ、柘植がハッと腰を上げる。

 魚住すら何も言えなくなり、ただイサオを見上げるばかりだ。

「逃げ道があるんだったら、俺が教えて欲しいぐらいだ。だが、どさ逃げたって、奴らは一生追いかけてくる。あの戦争でさえ、奴らは生き延びた」

 苦渋を声音に滲ませた後、イサオはふっと笑みを浮かべた。

「化け物か。5年も生きられねえ、発狂して自殺する……化け物か」

 それは、蝋燭の灯が消える瞬間のような笑い方だった。

 そして、真っ暗なイサオの面差しから、低い声だけが響いた。

「お前の命は尊いか。だったらその尊い命、俺がここで踏みにじってやる」

 ゴン!

 硬い音と共に、イサオの豪速の拳が魚住の顔面にめり込んだ。

 魚住の身体が数メートル先まで吹っ飛び、マシンガンが遅れて床の上を跳ねた。

 更に、イサオは倒れた魚住に馬乗りになった。

「知ってるか?玄武会は戦争中に何人もの人間を実験動物さしたんだど。俺はそこさいたんだ。『愛国のための強化兵士製造・養成計画』つってな、旧陸軍の『第百八部隊』って連中が、玄武会とグルになってやってた人体実験だ。俺みてえな田舎の若ぇのが、お国のためって言われて集められてよ。8人ぐらいがでっけえ一つの肉の塊みてえな化け物にされたことがあってな、そいつが手足を振り回して大暴れしたことがあった。俺はそいつを殺した。そいつらは8人分のいろんなことを喋ってた。『愛国万歳!』とかな。その中で、母ちゃん、母ちゃんって母親のことを呼ぶ声が、いつまでも耳から離れなかった」

 イサオは、鼻血を流している魚住の胸倉をつかみ上げた。

「『タカマガハラ』から逃げ出そうとした奴らは、『第百八部隊』に殺された。奴らは軍の狂人どもの集まりで、玄武会の実験が本当に国のためになるなんて信じてやがったんだ。この部隊を率いていたのが、青柳蔵人――お前もよく知ってる男だ」

「知らねえよ、青柳なんて奴」

 血の泡を吹きながら喘ぎあえぎ答える魚住に、イサオは「うんにゃ」と言って目を細めた。

「知らねえとは言わせねえ。お前がたの前では、海堂玖門って名乗ってる奴のことだ」

「………!?」

 青龍会会長・海堂――その名が出て、柘植が戦慄する。

 イサオは、取りつかれたように話し続けた。

「戦争が終わっても、奴らは俺のことを忘れてなかった。奴らは俺の姉貴を殺した。俺よりでっけくて、殺しても殺せねえ女って言われてた奴をだぞ。そして…」

 一息に喋り終わった後、イサオはようやく正気に戻ったかのように、ふっと目元を緩めた。

「……奴らは、今も俺のそばにいる。4つの目玉を持つ化け物の格好でな」

 はっはっは、とイサオが高らかに笑い、足元の魚住がびくっと震える。

 それから、イサオの表情は笑みから急転し――冷ややかな目で、魚住を見下ろした。

「お前の命の尊さとやら、俺が試してける」

「試す…?」

 と魚住が言い終わるか終わらないかのうちに、イサオの拳が魚住の頬にめり込んだ。

 魚住が抵抗する暇もなく、次、また次、と重い一打がぶち込まれる。

「尊いかッ!尊いかッ!お前の命は、ここまでされても尊いかッ!?」

 何度も何度も、くぐもった殴打音が霊安室の低い天井にぶつかっていった。

「………」

 その光景を前に、柘植はしばらく凍り付いていた。

 イサオの話は、信じがたいほど衝撃的で――なおかつ、魚住は娘の仇で。

 柘植は、どうすればいいのか分からなくなっていた。

 スーツの下にある数珠を、無意識に手で何度も手繰り寄せながら――柘植は考えた。

 ――今、私がなすべきことは……。

 イサオの過去、柘植自身の過去、魚住への憎しみ――走馬灯のようにそれらが頭の中を駆け巡る。

 最後に柘植の瞼に浮かんだのは、娘が愛したステンドグラスの青さだった。

「過去にあったことが、朱雀組の未来よりも大事なことですか。朱雀組の人間は、過去にあったことをずっと引きずっていかなきゃいけないんですか」

 あの時、さやかが言っていた言葉が――微かな胸の痛みと共に、柘植を目覚めさせた。

「4代目!」

 柘植は、イサオの肩を強く引き寄せた。

「ああ?」

 魚住を殴り続けたせいで、イサオの手は血塗れだ。その下にいる魚住本人は、見るも無残な状態になっている。

 だが、そんなことより、今のイサオを覆う死人のような冷たさが、柘植を悲しくさせた。

「それ以上はなりません。もう十分です」

「何言ってる。まだ足りねえ」

 イサオはもはや、魚住の生死などどうでもよさそうに言った。

 ただ魚住を――魚住の命を、ぐちゃぐちゃに殴り潰してやりたい。そんな衝動だけが、イサオを突き動かしている。

 柘植はイサオの肩を握ったまま、首を左右に振った。

「いいえ。もうよいのです。これ以上続けても、4代目の手が汚れるだけです」

「どうでもいいでねが、んなこと。お前の仇だべ」

 柘植は、何度も何度も首を横に振った。

「こんな者のために、4代目が手を汚されることは私の望みではありません」

 震える指をイサオの肩に食い込ませながら、柘植は言った。

「4代目。私の名を呼んで頂けませんか」

「あ?」

 イサオはしばらくぼーっと黙った後、「摩耶」と呼んだ。

「もう一度」

「摩耶」

「もう一回」

「…摩耶」

「最後にもう一度」

「摩耶!って、何回呼ばせるなや、お前!」

 と言って拳を振り上げたイサオは、そこで初めて、自分の手に血がこびりついていることに気付いて目を丸くした。

「んあっ!ばっちい!」

 思わず背広の裾で拭こうとしたイサオに、柘植がそっとハンカチを差し出した。

「どうぞ」

「お、悪ぃな」

 シルクのハンカチで無造作に手を拭いながら、イサオの表情から少しずつ、毒気が抜けていった。

 イサオは、ぽつりと呟いた。

「ありがとな」

 いいえ、と小さく答えて、柘植は微笑んだ。

 痛みにも似た優しい沈黙が、2人の上に降りた。



 ガラガラガラガラ、と猛スピードで車椅子が走ってきたのは、その直後のことだった。

「4代目、若頭ー!!!ご無事でっかー!!!」

「小鳥遊!」

 小鳥遊は若衆を引き連れ、車椅子でキキッとイサオと柘植の前に停まった。

「参上が遅れて申し訳ありません。うちの者らがみんな不器用で、足の固定を外すのに手間取ってしまいまして」

 ぴしゃりと扇子で頭を叩いてから、小鳥遊は床に転がっている魚住を見つけた。

「あらら、もう片付けられた後でしたか。流石は4代目、少しは私たちにも出番を残しておいてくれても良かったのに。なあ、お前たち」

 そう言って、小鳥遊は若衆たちを振り向いてコロコロと笑った。

 その陽気さに、イサオと柘植の間にあった暗い空気が、柔らかくほぐれていった。

「そらそうと、警察がもう到着したみたいです。お2人とも、そろそろ撤収されたほうがいいかと」

「…分かりました。行きましょう、4代目」

「んだな。小鳥遊、わざわざ来てけてありがとな」

 イサオに肩をポンと叩かれ、小鳥遊が「いえいえ、お安い御用で」と笑いかけた後、ギャッと悲鳴を上げた。

「4代目、その手で触らんといてくださいなー!入院着に手形がついてしもたじゃないですか」

 血でべたべたの手で触ったせいで、淡い色の入院着の肩に赤い指の跡がついてしまっていた。

 イサオは、ぽりぽりと後頭部をかいて、悪びれもしなかった。

「わりわり。看護婦さんさ洗濯してもらってけれ」

「その前にこれ、どう説明しろっていうんでっか!?」

「小鳥遊、4代目の手形を頂いたのですから、名誉だと思いなさい」

「若頭まで、そんな殺生なぁ~」

 そんなことを言い合いながら、一行は気絶している魚住をその場に残し、引き上げたのだった。

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