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76話 マリオネットの禁じ手

第76話 マリオネットの禁じ手


 昭和60年、10月も終わりに差し掛かる頃。

 ベイエリアにある朱雀組本部ビルで、組長・秋津イサオと、若頭・柘植雅嗣、若頭補佐の小鳥遊が一堂に会していた。

「申し訳ございません、4代目」

 慇懃な声で詫びて、柘植は頭を下げた。

「先日の魚住による襲撃、背後にうちの頭だった菱喰がいることがわかりました」

 菱喰は柘植組の若頭という立場を利用し、組の金を横領していた。事態が露見しても反省するどころか隠蔽工作や逃走に及んだため、破門処分となっていた。

 組を追われた菱喰は再起を図り、出所した魚住と結託。柘植に強い憎しみを持つ魚住を利用して、柘植を亡き者にしようと企んだ。

「菱喰と魚住を結び付けたのは、恐らく青龍会の人間でしょう。成功すれば青龍会に幹部として迎える、とでも唆されたに違いありません。朱雀組の若頭を葬れば、大手柄ですからね」

 小鳥遊はそう言って青龍会の非道をアピールしたが、柘植は顔を上げなかった。

「破門した者とはいえ、身から出た錆です。4代目を巻き込んでしまった責は、私にあります」

 柘植は頭を垂れたまま、微動だにしない。

「………」

 イサオはタバコを口から放すと、ふーっと長い煙を吐いた。

「なんもだ。柘植が気にすることじゃねえ」

「4代目。しかし」

「しかしもなんもねえ。ここで俺たちが仲違いしたって、青龍会が喜ぶだけだ。違うか」

 柘植は下を向いたまま、「…仰る通り」と認めた。

 ピン、とイサオが指で弾いたタバコが、くるくると回りながら銀の灰皿に落ちた。

「それに、俺はむしろラッキーだったと思ってる」

「ラッキーだった…とは?」

 意外な言葉に、柘植がちょっと顔を上げる。

「俺はこの件で、柘植雅嗣って男の心底が分かった。お前はどんな状況でも、プライドを失くさねえ。どったに俺のことが嫌いでも、どったに蛇が怖くても、男であることを投げねえ奴だ」

 それが分かったんだから、いいことだ、とイサオは微笑んだ。

「4代目…」

 柘植は背筋を正し、「それを言うなら、私のほうです」と言った。

「大蛇の群れを前にしても恐れることなく、勇敢に闘った4代目のお姿…未だにこの目に焼き付いております。秋津イサオは確かにこの朱雀組の4代目に相応しい男だということ、この柘植雅嗣、しかと肝に銘じました」

「んだべ?これが俺の実力だなや」

 朱色のスーツの腕を叩いて、イサオはわっはっはと笑った。

「なぁーに、娘の仇は俺が必ず討たせてやる。んだから、うちと青龍会との手打ち、考えてくれねか」

 柘植はにっこりと笑った。

「ご冗談を。それとこれとは、話が別です」

「んあ……」

 やっぱりか、と、この強情張り!という気持ちが入り混じり、イサオは言葉が出てこない。

「4代目が非常に手強い相手だということは、あの件でよく理解しました。これは、私も本気を出さなければ、4代目の暴挙をお諫めすることは出来ませんね…」

 柘植は面白そうに笑って、イサオの肩にそっと触れた。

「愛しの4代目と対立するなど、本意ではありません。私のお気持ち、ご理解いただけるでしょうか」

「お前の気持ち……?」

 あんまり理解したくない、と言いかけたイサオに、柘植が顔をずいと迫らせた。

 英国ブランド物の香水の香りが、イサオの鼻先に届いた。

「……もしも私の愛を受け入れてくださるなら、青龍会との提携、前向きに検討させていただきましょう。色よい返事を待っていますよ」

 また頬に口づけされかけ、イサオは「いぃっ!」と首を曲げて避けた。

 柘植は平然として、傍らにいる小鳥遊に命じた。

「小鳥遊。例のものを」

「はっ」

 小鳥遊が外で待機していた若い衆を呼んで、柘植にそれを渡した。

 艶めかしい紫色のリボンがかかった、大輪のバラの花束――。

 花束を胸に抱き、バラの香りを胸いっぱいに吸い込んでから――柘植は、花束をうやうやしくイサオに捧げた。

「これは、ほんのご挨拶代わり……。私の愛を語るには、あまりに質素なものですが」

 では、と言って、柘植は小鳥遊を連れて出て行った。

 後に残されたイサオは、しばらく呆気に取られ――。

 一拍遅れて、バラの花束がどさりと手から落ちた。

「うだてぇーーーーーーーーーーっ!!!!」

 朱色のスーツの下は、鳥肌だらけだ。なしてこったみょんけたことに、とイサオは頭を抱えた。

 ――柘植は俺のことが嫌いなんじゃなかったんだか!?いや、あれが奴なりの嫌がらせなんだか。なんっという、しょねわりだ……。

 と、思わずしゃがみ込んでいたイサオの視界に、4本の足が映った。

 黒い革靴と、スカーレットのピンヒール。

 いつの間にか、そこに斑鳩と雛子が立っていた。

「ボス。例の……リボンが、ボスに会いたがっています」

「ボス。リボンちゃんを助けてあげて」

 そっくりの顔で、2人は同じことを言った。

 ガラス玉のような4つの眼に、イサオは表情を歪めた。

 ――はん。気色悪さで言ったら、柘植よりこいつらのほうが上だなや。

 イサオはゆっくりと立ち上がると、ぱんぱんとスーツの膝を払った。

「んだか。お前だがそったに可愛がる女なら、力になってやるけ」

 部屋を出て行くイサオに、斑鳩、雛子が続く。

 打ち捨てられたバラの花束だけが、その一部始終を見ていた。



 さやかはその夜、雀荘『ジャンジャン』にいた。

 打つのにも飽きて、カウンターでイライラと待つこと数時間――壁に掛けられた時計は、23時を差していた。

 ――分かってる。僕なんかが、そう簡単に会える相手じゃないってことぐらい…。

 それでも、さやかにはこれしかなかった。朱雀組の人間がコンタクトを取ってくるとしたら、この店しかない。

 ――『ハーピー・ナイト』はお休みだし、『金糸雀』は会員制で、僕一人じゃ入れない。向こうだって、僕と会うなら真っ先にこの店に来るはずだ。

 店内を流れる明るいポップスが、今はひどく耳障りだ。席代代わりに注文したサンドイッチには手もつけず、エアコンの風にパンが干からびていくのをただ眺めた。

 店のマスターも客たちも、そんなさやかを見て見ぬふりをしている。さやかがスジ者と会っているところを何度も見ているため、敬遠しているのだろう。

 ふと、隣の客がタバコを吸っているのがさやかの目に留まった。

 ――いいな。僕だって、吸えるんだったらタバコぐらい吸いたい気分だ……。

 少し考えてから、さやかは椅子から立ち上がった。

 階段を降り、『ジャンジャン』の外にある自販機へと向かった。

 ――三船を殴った奴は、今頃、平気な顔して肩で風切ってるんだ。僕が喫煙することぐらい、誰が咎めるもんか。

 自販機にコインを入れると、さやかは適当な銘柄のボタンを押した。

 出てきた箱を手に取り、1本取り出してから、さやかはライターがないことに気付いた。

「ちっ…」

 ぐしゃっ、と手の中の箱が潰れる。

 ――僕は、どこまで間抜けなんだ。

 窓ガラスに映る自分は、子供そのものだ。さやかがくわえていると、タバコがおもちゃみたいに見える。

 気持ちが腐りそうになるのを、さやかは拳を握って耐えた。

 ――諦めない。三船を傷付けた連中に復讐するまで、何日だってここで待つ。

 さやかは、ふーっと深呼吸した。

 あまり効果はないが、少しは冷静になったふりができる。

 幼さの証拠みたいなタバコを箱に戻し、その辺にでも捨てようとした時だった。

「おう、リボン。なんだお前、タバコ吸うのけ?」

「……4代目!」

 斑鳩でも雛子でもなく、そこにいたのは今、さやかが一番会いたい相手――朱雀組4代目・秋津イサオその人だった。

 トレンチコートを夜風に靡かせ、イサオはにっと笑った。

「こったな時間に、なした?男と逢い引きでもしてたか」

 イサオの軽口に、さやかは真剣に返した。

「いいえ。僕は、4代目をお待ちしていました」

「おお。そんなら、その辺の店でしけ込むとするか」

 イサオはさやかの肩を軽く抱くと、近くにある小さなビルに入った。

『スナック ナイトジャー』と書かれた看板こそ小さいが、中は重厚なマホガニーのカウンターとビリヤード台のあるクラシカルな作りで、大人の遊び場といった雰囲気だ。

 葉巻の並ぶ棚の前を歩き、イサオは奥のソファにどっかと座った。

「リボン。お前には、言いてえことがいっぺある」

「…なんでしょうか」

 言いたいことがいっぱいあるのはさやかのほうなのだが、今はイサオの話を聞いたほうがいいらしい。

「何から話すべや……おい、俺のボトルと、適当なつまみさけれ。こいつにも、適当な飲み物を」

 イサオはボーイに命じ、ふーむと腕組みをした。

「そうだ、こないだのヘビ事件だなや。大儀だったな、あの時は」

「…その節は、どうも。4代目のお怪我は、いかがですか」

 さやかが一応心配すると、イサオは噛まれた手をひらひらと振った。

「なんもね。あったな牙の抜かれたヘビたち相手に大騒ぎしてたのかと思うと、バカみたいだな」

「…牙がなくても、危険なことに変わりはありませんから。あの時は、4代目と若頭のおかげで助かりました。ありがとうございます」

 頭を下げたさやかに、イサオが苦笑いした。

「なんっと、年寄りみてえな口の利き方すること。お前、ホントに女子高生け?ヘビさ囲まれても冷静だったし、やっぱりミノルそっくりだな」

「…冷静じゃなかったですよ。4代目と若頭たちがいたから…」

「だっから、その『4代目』だの『若頭』だの、やめれって。お前みたいな若え女から呼ばれると、背中がむずむずしてくる。イサオでいい、イサオで」

「イサオさん…ですか?」

 流石に、天下の朱雀組組長を名前で呼ぶのは、なれなれしいのではないだろうか。イサオは確か59歳で、さやかの父親よりも年上だ。

「言ったべや、俺は家族が多いって。『秋津さん』だと、俺だけじゃなくてススムもタケルもミノルも『秋津さん』だなや。リボンは堅気で、俺の身内でもねえんだ。普通に呼べ」

「はあ…じゃあ、イサオさんで」

 呼び方問題が決着したところで、イサオは話を『ハーピー・ナイト』の件に戻した。

「リボンは、ミノルみてえに賢い奴だなや。お前なら、あの事件の黒幕は誰だと思う」

「黒幕…ですか」

 一般人のさやかは、イサオや柘植を巡る利害関係に詳しいわけではない。それでも、自分自身も殺されかけた事件について、考えずにはいられなかった。

 イサオも柘植も、地方から東京に上り詰めてきた成り上がり者だ。その過程では幾多の人間を踏みにじってきたのだろうし、両者を殺そうとする人間は多いだろう。

 鍵となるのは、あの魚住という男だ。

 柘植の娘を殺害し、最近まで刑務所に入っていた魚住に、朱雀組幹部の動きをあそこまで正確に掴むのは難しいだろう。ガラガラヘビの入手だって、魚住一人では不可能だ。

 魚住の古巣である青龍会が背後にいるのは間違いない。だが、犯人がバレないようにわざわざガラガラヘビなんて手段を使うのは、朱雀組の宿敵として名高い組織らしくない。

 ――確かに青龍会は、手段を選ばない冷酷な組織だ。だけど、せっかく朱雀組の幹部2人を殺るんだったら、もっと派手に討ち取るんじゃないだろうか。

 そのほうが、全国のヤクザへのアピールにもなる。ガラガラヘビで事故に見せかけて暗殺しました、では『手柄』とするには弱い。

 口にするのはためらったが、さやかは単刀直入に答えた。

「僕だったら、身内が手引きした可能性を考えます」

「身内か。なしてそう思った」

「魚住の狙いは柘植さんです。あの日、柘植さんは僕とイサオさんがいると知ったからこそ、『ハーピー・ナイト』に来ました。僕はヤクザでも何でもありませんし、僕とイサオさんがあの店で会うことを事前に知るのは不可能です。よって、柘植さんが来ることを予想するのも、外部の人間には困難でしょう」

 ガラガラヘビの入手といい、魚住の犯行は事前に計画されたものだ。つまり、何者かがあの店で魚住と柘植が遭遇するよう仕組んだと考えたほうがいい。

 怪しいのは、柘植と入れ替わりになるようにVIPルームを去った斑鳩と雛子だが、あの2人を疑いたくない自分がいる。

 ――それに、あの2人には動機がない。

 斑鳩と雛子は恐らく、かなり特殊な生い立ちだ。朱雀組の世話になっているという立場を考えれば、わざわざ青龍会と手を組んでまで柘植を殺すのは、リスクが大きい。

 小鳥遊が寝返ったというセンもなくはないが、魚住は店内に放火している。失敗すれば自分も死ぬわけで、その場にいた小鳥遊が容疑者の可能性は低い。昔から柘植と親しい小鳥遊に、柘植を殺害する動機があるとも思えない。

 柘植が死んで得をする、という意味では――最も容疑の濃厚な人物が、一人だけいる。

 ――なんて、イサオさんだってヘビに噛まれて殺されかけたんだから、ありえないけど。

「俺だ」

 イサオの呟きが耳に入った瞬間、さやかはとっさに反応出来なかった。

 驚いて見つめ返すさやかに、イサオはにっこりと笑った。

「魚住を利用して柘植を殺そうとした黒幕――それは、この俺だ」

 とんでもない真相に、さやかは空いた口が塞がらなかった。



「…冗談ですよね、イサオさん」

 さやかは、氷の入ったグラスを手にして引きつった笑みを浮かべた。

 対するイサオは、微動だにしない。

「うんにゃ。俺は、本気で柘植のことを殺そうと思ってた」

「どうして……青龍会との和解に、邪魔だからですか」

「そうだ」

 リボンは話が早えな、と言って、イサオは相好を崩した。

「柘植が親分やってる柘植組ってのは、不動産でぼろ儲けして、国内でも有数の金持ちだ。その財力で、我の強い西の荒くれどもをねじ伏せた実績もある。正直、潜った修羅場の数なら、俺より柘植のほうが上だろうよ。奴ぁ、手強い」

 そんな手強い男が、自分とはそりが合わないと来ている。イサオにとって、柘植は目の上の瘤だったに違いない。

「だども、朱雀組は長い内輪揉めからやっと脱したばっかりだ。ヘタに柘植とことを構えりゃ、また元の分裂状態に戻っちまう。真正面からやり合って、柘植に勝てる保証もねえ」

 それで、イサオは魚住と青龍会を利用して、柘植を始末することを企んだという。

「ちょうど、柘植んとこには菱喰っていう裏切り者がいてよ。暗殺に必要な金と手段は、奴が用意した。二重三重に人を使ったから、誰も俺が黒幕だなんて知らねえ。菱喰も魚住も青龍会も、自分こそが首謀者だって信じ込んでるだろうよ」

 こともなげに語るイサオに、さやかは言葉が出てこなかった。

 ――でも、確かにあの時、イサオさんはこう言ってた…。

「とことん憎み合って、いがみ合って、やり合って、その結果なら、柘植も承知するだろ。俺たちは、力で答えを出すしかねえんだ」

 あの時のイサオの言葉が意味するところを、さやかは今になって悟った。

「賭けだったんですね。あの事件そのものが」

「そうだ。成功すれば柘植を殺せるが、失敗すれば俺もお陀仏だ。身内を殺そうってんだから、そのぐらいの危険は冒さねえと、バチが当たるべさ」

 カッコ良く目配せしてから、イサオはちょっと照れくさそうに頭をかいた。

「なんてな、ホントのところは後付けだ。最初は、柘植だけをあの店で殺すつもりだったんだ」

 イサオが計画を変えたきっかけは、中国にいる末弟――秋津ミノルの説得だったという。

「前の日、なんか計画が上手くいくか不安になってきてよ、ミノルさ電話したんだ。そしたら、『親分が若頭を殺すなんて、馬鹿げたことはするな』って、しったげごしゃがれてよ。『柘植を殺すぐらいなら、青龍会と和解なんてしなくていい』とまで言われちまった」

「ミノルさんが…そんなことを」

 会ったことのない秋津ミノルの聡明さに、さやかは胸を打たれた。

 ――ミノルさんは麻雀だけじゃなく、人としても優れているんだ。

 14歳も年下の弟に叱られたことが気に入らないのか、イサオはちょっと拗ねたように唇を尖らせた。

「俺だって別に、ミノルにごしゃがれたから柘植を殺すのをやめたわけじゃねえど。柘植を殺せば、ミノルもススムもタケルも、俺を見限るって気付いたからやめたんだ」

 ミノルは良心を重んじ、ススムは経済的な目的で柘植との融和を推している。三弟のタケルは潔癖な気性で、身内を暗殺するような真似は好まない。

 弟たちの存在が、イサオを踏みとどまらせたのだった。

「だども、菱喰や魚住はもう動き出しちまってるし、今更計画を変更するわけにはいかねえ。そしたら、俺が黒幕だって青龍会にもバレちまうしな」

「だから、ご自身も現場に出ることにしたんですか」

「そうだ。こいつは一世一代、乾坤一擲のバクチだった。俺が死ぬか、柘植か死ぬか。或いは、2人とも死ぬか。もしも、2人とも生き延びたなら――そん時は、2人で力を合わせれ、っていう、神様からの思し召しだべ」

 イサオはにっと笑って、皿からスモークサーモンをひょいとつまんだ。

「まあ、菱喰が用意した武器がガラガラヘビだったってのは、俺も想定外だったなや。菱喰は長えこと柘植に仕えてきたけ、柘植の一番嫌えなもので殺そうとしたんだな。西の男はしょねわりな」

 それでも、そのガラガラヘビは毒牙を抜かれていた。つくづく、柘植は悪運が強い、とイサオは唸る。

「西の雄は伊達じゃねえってことだな。やっぱり、リボンを使って柘植と和解しろ、っていうミノルの考えに乗るしかねえようだ」

「…僕を?」

 ミノルが自分の存在について言及したことを、さやかは初めて知った。

 ――でも、僕を使って柘植さんと和解しろ、って、どういう……。

「リボン。お前も知ってるだろうが、柘植の死んだ娘は、ちょうどお前と同い年だ」

「…はい」

「お前が女だって知った時、これは使えると思った。現に柘植は、お前のことを一目見た時から気にかけてる。その話もミノルに電話したっけ、リボンを使って柘植を丸め込め、と言ってきた」

 イサオの話を聞くうちに、さやかの全身がすーっと冷えていった。

「じゃ、じゃあ…僕を代打ちにするって話は、嘘だったんですか」

「嘘ではねえ。その辺の若え娘っ子を連れて来たってだけじゃ、柘植から白い目で見られるだけだべ?組の代打ちっていう理由がありゃ、柘植だって本気でお前と向き合おうとする。お前がいたから『ハーピー・ナイト』の事件もうまくいったんだ」

 さやかが女だと分かった瞬間から、イサオの中ではさやかは『代打ち』から、『柘植を口説き落とすためのコマ』に変わっていたのだ。

 ――イサオさんも、僕のことをバカにしてたんだ。麻雀の実力なんて、これっぽっちも評価されてなかったんだ。

 怒りで、頭がぐらぐらと煮えたぎる。自然、さやかの声は硬くなった。

「僕は、柘植さんをおびき出すための餌だったってことですか。僕が女で、柘植さんの娘さんと同い年だから」

「ま、まとめるとそういうこったな」

 イサオは悪びれもしない。酒を一口、旨そうに口にした。

 さやかは、座り心地の良いソファから立ち上がっていた。

「ふざけないでください!僕は、そんなつもりで朱雀組の代打ちになろうとしたわけじゃありません!」

「おお、おそろし。なぁーに、そんたに怒ってるんだ?何の後ろ盾もねえ娘っ子が、本気でうちの組で打てるとでも思ってたんだか」

 イサオの低い声に、さやかはぐっと返答に詰まった。

 屈辱と動揺で、頭の中が真っ白になる。

 ――ヤクザなんかを信じた僕がバカだったんだ。騙されて、利用されて、殺されかけて…これじゃ、本当に間抜けだ。

 わなわなと拳を震わせながら、さやかはイサオに背を向けた。

「帰ります」

「おい、待てよ。俺の力が借りてえんじゃねえのか」

 核心を突かれ、席を離れようとしたさやかの足が止まる。

 イサオに対する憤りで沸騰していた脳内を、三船の面影が冷ましていく。

 握った拳の裏側で、爪が手の平に食い込んでいる。

 それでも、プライドの痛みより、三船を傷付けられた憎しみのほうが深かった。

「………」

 ――そうだ。僕には何の力もない。悪魔に魂を売らなければ、僕は三船を救えない……。

 さやかはゆっくりと振り返ると、イサオを見た。

 朱色のスーツに身を包み、好奇心に輝く眼でこちらを見つめている男。

 太陽のような熱さと、心臓が止まるほどの冷たさを、さやかはイサオに感じた。

 ――この人なら、三船を守れる。この人の力さえあれば……。

 胸が、真っ二つにちぎれそうだ。その痛みを抱えたまま、さやかはその場に膝をついた。

「お願いします。イサオさんの――朱雀組4代目の力を、僕に貸してください」



 土下座したさやかのことを、イサオはどんな顔で見下ろしていたのだろうか。

 頭上に降ってきた声は、軽口めいていた。

「リボンはホントに、色気がねえなあ。女が男に頼み事するっつったら、裸になるとか、泣き落とすとか、やり方がいろいろあるべ」

「お望みなら、そうしますが」

 さやかは絨毯に顔をつけたまま、そう答えた。

 イサオは首を横に振った。

「いらねえ。お前みたいな痩せっぽちのちゃっけ胸、見るとこねえでねが」

「むっ」

 どうせ、さやかの寸胴スタイルは、色仕掛けには向いていない。自覚はあるが、口にされると腹立たしいことこの上ない。

 イサオは「リボンに言いてえことが、もう一つある」と言った。

「柘植がよ、あれからおかしくなったなや」

「柘植さんが…?どうしたんですか」

「俺に色目を使ってくるようになった」

 さやかは『色目を使う』が、自分の知らない何らかの方言であって欲しいと思った。

 だが、イサオが言っているのは、さやかが知っている通りの意味だった。

「隙あらば接吻しようとしてくるし、バラの花束なんか寄越されたっけよ。挙句の果てには、柘植の愛を受け入れれば、青龍会との和解も考える、ときたもんだ」

「柘植さんの愛を……受け入れれば」

 復唱したさやかは、あの日、写真週刊誌が撮り損ねたあのシーンのことを思い出した。

 ――やっぱり、あのキスは僕が見た幻じゃなかったのか……。

「お前のせいだぞ、リボン!」

「えっ?僕ですか?」

 イサオに顔を指差され、さやかは床に座り込んだまま、首を傾げた。

「んだ。お前があの夜、もっとキャーとかイヤーッとか言って、柘植にしなだれかかりゃよかったべや。それがお前、妙に落ち着き払って、蛇どこ解説する先生役さなってたねが。それでもおなごか!」

「…どういう理屈ですか、それ。僕から言わせれば、原因はイサオさんにありますよ」

「なにっ?」

 口答えされると思っていなかったのか、イサオが泡を食った。

 さやかはあの事件の日、密かに思っていたことを明かした。

「柘植さんはあの時、『娘の仇である魚住』と、『大の苦手とする蛇』の二つに遭遇して、かなり異常な精神状態にあったと思われます。しかも閉じ込められて、命の危機に瀕していた。そんな状況の柘植さんに、イサオさんは『若頭がコケにされて黙っていられない』とか、『守ってやる』とか、柘植さんを口説くみたいな発言を繰り返していました」

「口説いてねえ!あれは、柘植に乱心されたら危ねえから、励ましてただけだべ」

 イサオは必死に否定したが、さやかには柘植の豹変も分からないではなかった。

 ――イサオさんには、無条件に人を惹き付ける力がある。

 天性のオーラとでもいおうか。慕うにせよ、嫌うにせよ、誰もがイサオに引き付けられずにはいられない。

 さやかだって、イサオのこの太陽のようなエネルギーにあてられたから、ヤクザの代打ちになろうなんて血迷った野望を抱いてしまったのかもしれない。

 柘植については、さやかは一つの仮説を提唱した。

「吊り橋効果です」

「吊り橋ぃ?」

「危険な吊り橋の上でドキドキした男女は、恋に落ちやすいって説です。あの日、極限状態にあった柘植さんは、苦難を共にしたイサオさんに対して、それまでとは気持ちが180度変わってしまったのかもしれません」

「ばかしゃべ!誰があんな60前のオッサンと恋に落ちるかってなや!」

 イサオは手足をじたばたさせて抵抗感を示したが、さやかは前向きな考えを示した。

「いいじゃないですか。柘植さんは、愛を受け入れればイサオさんの言う通りにするって言ってるんでしょう?僕みたいな堅気の女を使って篭絡するより、ずっと手っ取り早いですよ」

「あい、腹悪ぃ!お前、憎まれ口までミノルそっくりだなや!」

 気を紛らわせるように酒を呷ってから、イサオは自分の隣をポンポンと手で叩いた。

「…まあ、柘植のことはいい。リボン、いつまでもそったとこさ座ってねえで、こさながめれ」

「…はい」

 さやかは、言われた通りにイサオの隣に座った。

「俺の力が欲しいって言ったな。朱雀組の4代目として手を貸す以上、はいどうぞって訳にはいかねえ。わけを聞かせてけれ」

 イサオの言い分は、もっともだ。

 さやかは、全てをイサオに打ち明けた。

 同級生である三船亜弓に、秘めた想いを寄せていること。三船はさやかの麻雀狂いの唯一の理解者で、とても頭が切れること。

 その三船は、何の理由もなく男に身体を売るような、酷薄で不条理な少女であること。さやかがいくら説得しても、それをやめてくれなかったこと。

 そして、三船が自分を買った男・外科医の鯖栄に暴力をふるわれたこと――。

 話していくうちに、さやかはどんどん気が高ぶっていった。

 誰かに三船とのことをこんな風に明かすこと自体、初めてのことだ。言葉にして追体験することで、これまでに何度、三船を諦め、何度、三船を男に汚されたか――その屈辱が、津波のように押し寄せてきた。 

「僕はもう、誰にも三船を傷付けさせたくない。三船を汚す男たちを、一人残らず消してやりたい。三船に触る男なんか、全員殺してしまいたい!!」

 血を吐くような叫びが、さやかの喉を焼いた。

 激情が全身を荒れ狂って、自分でも歯止めが効かない。

「お願いします。あの鯖栄って医者を潰してください。お願いします」

 そう言って頭を下げたさやかのことを、イサオは静かに見下ろした。

「なんだ。リボンは謙虚だなや」

「……?」

「どうせなら、そいつ一人だけでなく、東京中の男がその娘に触れられないようにすればいいべや。惚れてるんだべ?」

 イサオの大きな瞳に覗き込まれ、さやかは戸惑った。

「でも…そんなこと、できるんですか」

「誰にもの言ってるなや。俺は、朱雀組の親分だぞ」

 次の瞬間、イサオの大きな手が、ガッとさやかの顎を掴んでいた。

「……!」

「約束する。東京中の男が、三船亜弓に触れられないようにしてやる」

 その代わり、と言って、イサオは指に力を込めた。

「もしお前の望みを叶えたら、お前の身柄、もらったぞ。いいな」

「………」

 さやかは、瞳を見開いた。

 ――『身柄』ってことは、僕はどこかに売り飛ばされるんだろうか。それとも、臓器売買か…?

 いずれにせよ、さやかに選択肢はなかった。ここで約束しなければ、三船は夜の汚濁の中で、永遠に穢され続ける。

 さやかは、真っ直ぐにイサオを見つめた。

「約束します」

「おう。リボンはなりは女だが、魂は男だな」

 それは誉め言葉なのか、皮肉なのか。イサオの笑みは大きすぎて、さやかにはどちらとも分からなかった。



 ところが、その数日後、イサオが聞かされたのは悪い報せだった。

「例の鯖栄という医者なんですが…」

 斑鳩が続けて告げた事実に、イサオの口からぽろっとタバコが落ちた。

「何ぃ!?先代若頭の主治医だと!?」

 朱雀組先代若頭・菊戴――。

 菊戴こそ、長く続いた朱雀組分裂の当事者であり、現在の若頭である柘植の後ろ盾だった。

 菊戴は、戦前・戦後の血生臭い裏社会を生きた、伝説の極道の一人だ。元は旧財閥に連なる名家の子息で、強引な手腕で表の世界から裏の社会へと勢力を広げたという。

 切った張ったの鉄火場は勿論、菊戴は狡猾さでもずば抜けており、政財界の大物たちの弱味をたらふく握っているらしい。第一線を退いた今も、その影響力は計り知れない。

 その菊戴が寵愛し、この世界に引き抜いた男が、柘植雅嗣だ。両者には家が金持ちで利に聡い、という共通点もあり、柘植は菊戴に敬服していた。

 なんなら、菊戴と柘植には、肉体関係があるなんて噂もあったが――イサオは、それについては考えないことにした。

「あい、まずいことになったべや。リボンさ約束しちまったのに、菊戴じゃ相手が悪すぎる…」

 イサオと菊戴の因縁は、10数年前の朱雀組分裂まで遡る。

 野心家の菊戴は、朱雀組の若頭という地位には満足しなかった。柘植を始めとした西日本のヤクザたちを率いて、先代の組長に反旗を翻した。

 元々、朱雀組は地方ヤクザの集合体である。東には自分たちこそ日本の中心という驕りがあり、西には東への強い敵愾心がある。菊戴はそこに付け込んで、この機に朱雀組を、西日本の組として固めようとしていた。

 とはいえ、我の強い西のヤクザたちを一つにまとめるのは、容易なことではない。菊戴と柘植は奮闘したものの、先代組長とイサオが率いる東側の結束力に敗れる形となった。

 菊戴は己の首と引き換えに、柘植たち西のヤクザたちへの恩赦を求めた。

 先代としても、西側の人員を全て失うのは痛い。味方同士で揉めている間に、青龍会にずいぶんと勢力を削がれてしまった現実もあった。

 菊戴は無期限謹慎という名の隠居、先代は引退――それが、朱雀組分裂の決着だった。

 先代組長は、菊戴の追い落としに貢献したイサオを次の組長に据えた。北の出身であるイサオを組長にすることで、東西間の緊張を和らげる目的もあっただろう。

 菊戴にしてみれば、極道人生を賭けて狙った組長の座を、ぽっと出のイサオに横からさらわれた形だ。イサオの襲名式の日、菊戴は自宅でイサオを模した人形を日本刀で滅多切りにしていたという。

 ――要するに、菊戴は俺のことをしったげ憎んでる。

 触らぬ神には祟りなし、ということで、これまでイサオは菊戴には丁重かつ、最低限の礼を持って遠ざけてきた。実際、向こうだってイサオの顔など見たくないだろうし、イサオが何も連絡しなくとも、柘植があれこれと耳打ちしているに決まっている。

 その菊戴の主治医を潰したとなれば、面倒な年寄りの逆鱗に触れるのは勿論、柘植との関係も再び険悪なものになりかねない。イサオは頭を抱えた。

 ――なっしてリボンの奴、よりによって菊戴の主治医なんかと揉めたんだべか。

「ボス、諦めるの?リボンちゃんが困ってるのに」

 いつの間にか雛子が後ろにいて、そっとイサオの肩にもたれかかった。

「ボスなら何とか出来るんじゃありませんか。あいつのこと」

 斑鳩もまた、妹そっくりのガラス玉のような眼で、イサオを見ている。

 執務机の前と後ろから双子の兄妹に挟まれながら、イサオはふんと鼻を鳴らした。

 ――リボンは、こいつらの正体を分かってるんだべか。化け物どもめ……。

 イサオは、首を後ろに回した。

 東京湾を臨む窓際には、いつの間にか花瓶が飾られている。重たげに咲く大輪のバラは、柘植が寄越したものだ。

 続けて、執務机の上に目をやる。そこには、紫色のカードが無造作に置かれている。

 柘植が花束の中に入れたメッセージカードには、流麗な筆記体で英語が一言、書き添えられていた。

 英語嫌いなイサオでも理解できるフレーズ。

 I love you――。

 思わず顔を背けてから、イサオはきっぱりと告げた。

「餅は餅屋だなや。柘植と会う」

「はっ」

 すぐに、斑鳩が連絡を取りに外へと向かった。



 気味の悪いことに、柘植は二つ返事でイサオとの会合を承知した。

 場所は高級レストラン『ゴールド・マーリン』。都内の超高層ビルにある、会員制の店だ。

「菱喰の行方は、未だ追跡中です。我が組の誇りにかけて、組のもの総出で追っております」

 柘植は真っ先にそれを報告したが、イサオはもう菱喰のことなどどうでもよかった。

「まんず、いい。今日は、お前に頼みがあって来た」

「何でしょうか」

 柘植は皮肉の一つも言わず、素直に話を聞きに入った。

 心なしか、柘植の視線が熱っぽく感じられて――イサオは、顔が引きつりそうになるのを堪えた。

 ――お前には外国人の嫁とか、くたばり損ないの老いぼれとかがいるでねが!俺のことを狙うんでねえ!

 などとは口にせず、イサオはさやかと鯖栄という医者の揉め事について話した。

 アペリティフを口にしようとした柘植の手が、ぴたりと止まった。

「鯖栄……ですか。好かない男だとは思っていましたが、よもや、そこまで腐っていようとは…」

「知ってるのけ、お前」

 柘植は「ええ」と頷いた。

「鯖栄は菊戴さんの主治医ではありますが、あくまで義理に過ぎません。鯖栄の義父が菊戴さんと交流があり、その縁で、婿養子である鯖栄を雇ってやっているに過ぎません。しかもこの鯖栄という男は藪医者で、菊戴さんは密かに、別の腕利きの医者に診てもらっているほどです」

「ふーん。菊戴の叔父貴も、苦労してるなや」

 ステーキをぱくぱく食べながらイサオが言うと、柘植は溜息を吐いた。

「鯖栄はいずれ、都内の大病院を継ぐことになっていますからね。それがなければ、菊戴さんだってあんな男とは縁を切りたいと思っていますよ」

「菊戴の叔父貴が、鯖栄に女を斡旋してるってことはねが?」

 不躾な質問に、柘植が片眉をぴくりと上げたが、返事は穏やかなものだった。

「……それはないでしょう。菊戴さんと鯖栄の仲は、上辺だけのもの。鯖栄のほうも我々のような稼業の人間に弱味を握られることを恐れて、深入りは避けているようです」

「ほー」

 じゃあ、鯖栄をどうこうしたところで、菊戴にとってはそれほどのことでもないか――とイサオは算段する。

 ――だども、よりによって憎たらしい俺が自分の主治医さ手ぇ出したってなったら、叔父貴だって面白くねえよな…。

 下手をすれば、偏屈な年寄りに、イサオに対する反逆の口実を与えかねない。

 イサオが悩み始めたところで、柘植が口を開いた。

「私からも、お伺いしてよろしいでしょうか。夏目さんは何故、そのような下賤の輩と関わり合いになったのでしょうか」

 柘植の表情に父性めいたものを感じて、イサオはふむと思った。

 ――親としての情は、本物みてえだな。リボンみてえな赤の他人にまで親身になるぐらい、娘の死が堪えてるのか……。

 だからこそ、柘植は手強いのだ。この国有数の成金ヤクザでありながら、柘植は金や利権などの欲得づくでは動かせない。

 イサオは、さやかと三船という少女の話を、洗いざらい柘植に打ち明けた。

「リボンは、その娘に惚れてるんだと」

 イサオがそこまで明かしても、柘植は黙って聞いていた。

「…夏目さんは、正義感が強いのですね。彼女の切なる訴えを叶えようだなんて、私は4代目を見直しました」

「まあな。うちの代打ちになるかもしれねえ女だもの、なおざりには出来ねえ」

 さやかとの『約束』については伏せて、イサオは話を進めた。

「鯖栄を潰すのは簡単だ。金で娘っ子を買うような奴だ、叩けばいくらでもホコリが出てくるべ。問題は、菊戴の叔父貴だが…」

「それについては、私から菊戴さんに話を通しておきます。菊戴さんもお年ですから、無能な主治医にそこまでこだわりますまい」

 菊戴と親しい柘植が言うのであれば、間違いないだろう。イサオは、ほっと胸を撫で下ろした。

「あい、助かった。俺はてっきり、お前からは反対されるかと思ってたなや」

「何故です?若頭として、4代目に従うのは当然のことかと」

「だって、お前はその……菊戴の叔父貴とねん、昵懇だったでねが」

 ねんごろ、と言いかけて、イサオは慌てて言い直した。

 それを知ってか知らずか、柘植は淡く笑う。

「言ったでしょう?菊戴さんもお年だと。今の私には、引退したあの方より、4代目をお支えすることのほうが大事なのです」

 何だか『体力のない老いぼれの相手より、精力横溢しているイサオのほうが相手のし甲斐がある』とでも言われているように聞こえて、イサオは顔をしかめる。

 とにかく、柘植が力になってくれるというのだから、素直に喜べばいいのだ。イサオは言った。

「お前に借りが一つ出来たな」

「この程度のこと、貸したうちには入りません。私は、あなたの愛が欲しい」

「ぶふっ!」

 辛口の白ワインが、イサオの口から霧状になって噴出された。

 ――あ、あ、『あなた』?あ、あ、あ、『愛』?

 口をぱくぱくさせるイサオに、柘植が唇に人差し指を当てて笑う。

「4代目。私のことは『摩耶』と呼んでいただけませんか」

「ま……まや?」

「私の本当の名前です」

 店内を飾るシャンデリアが、急に眼にチカチカしてくる。困惑を隠せないイサオに対し、柘植はワインを美味そうに飲んだ。

「…私が生まれる時、祖父が地元の摩耶山から名前を取ろうとしたそうです。しかし、父が男の名にマヤは変だ、と言って、今の雅嗣という名になったのです」

「ほあーん。山みてえにでっけえ男になれ、って意味だったんだべか」

「ええ、きっと。誰にも呼ばせたことはありませんが、4代目には私をこの名で呼んで欲しいのです」

「ああ……」

 柘植の熱視線に、イサオは今すぐこの場から逃げ出したい衝動に駆られる。

 ――なんか、『摩耶』って呼んじまったら、後はもう抱かれちまう気がする……。

 不安におののくイサオの脳裏に、さやかの「吊り橋効果」という言葉が蘇った。

 ――そうだ!リボンが言ってたでねが、柘植は気が変になってるだけだって。

 きっと、イサオに対する怪しい態度は、一時の気の迷いなのだろう。そうに違いない、そうであってほしい、とイサオは願った。

「摩耶。かっこいい名前でねが。俺は好きだぞ」

 イサオが渾身の笑顔を見せると、柘植もまた、恍惚とした笑みを浮かべた。

 帰り際、グロリアに乗り込むイサオを、柘植自ら見送った。

「夏目さんには、安心するようにお伝えください。いつでも力になる、とも」

「おう。恩に着るぞ、摩耶」

 さやかのおかげで、柘植との関係がかなり円滑になった。それを実感できて、イサオは悪い気分じゃなかった。

 ――敵に回せば手強いが、味方にすりゃこれだけ頼もしい男もいねえな。

 改めて、柘植殺しに反対したミノルは、正しかったと認めざるを得ない。柘植を殺すより、こうして仲良くしたほうが、よほど得が大きい。

 パワーウィンドウを上げようとしたイサオに、柘植がずいと顔を迫らせた。

「4代目」

 居並ぶ若衆たちに聞こえないほど小さな声で、柘植が低く囁いた。

「……次は、4代目のほうから私に口付けを。それが、私たちの愛の証明となるでしょう」

 蒼白になって振り返るイサオに、柘植は無言で頭を下げた。

 それが合図だったかのように、窓は閉まり――組員たちの礼に見送られながら、グロリアは発進した。

「………」

 ――今度は俺から、柘植に――…摩耶に、 チュー……。

 うだてえええっ!と叫んだイサオに、運転手がぎょっとして振り返った。 



 そして、昭和60年11月。

 腫れた頬がすっかり元通りになった頃、さやかは三船をデートに誘った。

「今度の日曜、一緒にどこか遊びに行こうよ。その…2人で」

 教室の窓から差す冬の陽光が、三船の細い頬を斜めに照らす。鯖栄という医者にやられた三船の顔も、綺麗に治っていた。

「いいね。そろそろ、冬物のコートでも見に行こうかなと思ってたんだ。夏目、一緒に選ぼうよ」

「うん!」

 三船からOKをもらって、さやかは内心、飛び上がらんばかりに喜んだ。

 ――ホントは、浮かれてる場合じゃないのかもしれないけどね。

 さやかの見たところ、あれから三船が男とホテルに行く様子はない。平日の放課後はそのまま塾か家にいるようだし、寄り道してもせいぜい本屋で参考書を眺めている程度だ。

 こっそり後を尾けていたさやかは、三船のほっそりとした背中を窓越しに見つめながら、ほっとしていた。

 ――イサオさんは、本当に約束を守ってくれたんだ。

 ということは、さやかの『身柄』も、じきにイサオによって拘束されるのだろう。何をされるのかは分からないが、三船を守ってもらった以上、さやかに抵抗するつもりはない。

 自由でいられるうちに、三船と一緒に過ごすこと。それが、さやかの最後のワガママだった。

 ――少しだけでいい。三船が僕のものになったって、錯覚していたい。

 日曜日までの間、さやかは雀荘にも行かず、美容院で髪を整えたり、ブティックで服や靴を選んだりと、デートの準備にいそしんだ。

「さやちゃんったら、楽しそうね。息抜きも大事だもの、お友達といっぱい遊ぶのよ」

 母・しづかからにこにこと髪を撫でられ、さやかは「うん」とはにかみながら頷いた。

 当日、待ち合わせの15分前からそわそわと待っていたさやかの元に、三船が片手を上げてやってきた。

「お待たせ。夏目は早いね」

「ううん。なんだか目が覚めちゃって、早く来すぎちゃった」

 正直に言ったさやかに、三船がくすりと笑った。

「今日の生徒会長は、何だかかわいらしいね。鬼の霍乱ってやつかな」

「ひどいなぁ。僕だって、休日ぐらいはリラックスしてるんだよ」

 これが三船と会える最後のチャンスかもしれないから、出来るだけ素直でいたい。そんな本音は内に秘めて、さやかは三船の手を引いた。

「あそこのベーカリー、今なら焼き立てだって。行こう」

「うん」

 白い息を空気に散らしながら、2人は評判のパン屋へと向かった。

 それからの時間は、さやかにとっては夢のようだった。

 近くの公園で、寒いねと言いながらパンと缶コーヒーを味わったり。

 気になっていた古書店を覗いたものの、思いのほかつまらなくて、忍び足で店を出たり。

 デパートのブティックの冬物コートはなんだか子供っぽく見えて、試着しながらお互いに『中学生みたい』『お母さんに買ってもらった服』などと言って、笑い合ったり。

 切れ長の瞳を細めて笑う三船から、さやかは目が離せなかった。

 ――三船の目には今、僕しか映ってない。この時間が、永遠に続けばいいのに…。

 やがて、2人はデパートのおもちゃ屋にやって来た。

 商品が並ぶ棚の前に、様々なおもちゃの試遊品がディスプレイされている。その中から、さやかはカラフルな六面体を手に取った。

「ルービックキューブ。この間、三船が僕の誕生日にプレゼントしてくれたよね」

「そんなこともあったかな」

 歌うように言う三船に、さやかは声を上げて笑った。

「まだ2か月前のことなんだから、忘れないでよ。僕、あれからめちゃくちゃハマってさ。けっこー速い時間で揃えられるようになったんだよ」

「凝り性の夏目らしいね。てっきり、麻雀にしか興味がないのかと思ってた」

「心外だなぁ。僕はあのルービックキューブを、改造したいと思ってるんだから」

「改造?」

 知恵の輪で遊んでいた三船が、意外そうに手を止める。

「そんな大した改造じゃないけどね。中に麻雀牌が入るようにするつもり」

 さやかは、手の中にある試遊品のルービックキューブをそっと見つめた。

 家にある三船からもらったルービックキューブは、さやかの宝物だ。三船からの贈り物に、さやかは自分の魂を託したかった。

 三船は「夏目って変態」と言って笑う。

「哀れ、ルービックキューブはパズルから、麻雀牌ケースに強制転職か」

「パズルとしての機能もちゃんと残すもん。僕、これでもまあまあ器用なんだからね」

「知ってるよ。工学大会に出すロボットを作ってる時の夏目は、まるでマッドサイエンティストみたいだった」

「『マッド』は余計」

 あははと笑いながら、さやかはちょっと涙が出そうだった。

 ――僕が麻雀好きなのも、工学をそれなりに頑張ってたのも、三船は全部見てくれてる。

 三船が分かってくれるなら、兄や世間の人間から何と言われようとかまわない。これまでの悔しい経験が、全部いい思い出だったような気がしてきた。

 おもちゃ屋を冷やかした後、ぶらぶらしていた2人の目に『ダリア展』のポスターが目に入った。

「屋上でやってるんだって。ちょっと見に行こうよ」

「いいね」

 日曜日だけあって、エレベーターはそこそこ混んでいる。さやかと三船は、身を寄せ合うようにして並んだ。

「…!」

 三船の手が、滑り込むようにさやかの指に絡みついた。

 三船の指は、しっとりと冷たくて細い。まるで蛇のよう――この間のガラガラヘビみたいな凶暴な害獣ではなく、小さくて神秘的な蛇の手触り。

「夏目」

 小さな声で、三船が耳元で囁く。

「私の感触、覚えていてね」

 ぎゅっ、と手を握られ、さやかの心臓が跳ね上がる。

「私も夏目の感触、忘れないから。手、握って」

「…うん」

 聞こえるか聞こえないかぐらいの返事だったが、三船はくすりと笑ってくれた。

 さやかが三船の手に指を絡めると、さやかの手にかけられた三船の指が、より深いところまで食い込んだ。

 繋いだ手と手の間が、じわりと湿っていく。

 エレベーターの中がどんどん狭くなって、世界でさやかと三船の二人だけになっていくような気がした。

 ――このままずっと、三船とこうしていたい。

 三船のことも、この時間も、この手に掴んで離したくない。そう願うあまり、握る手に力をこめすぎて、三船の手に爪を立ててはいないかが心配になる。

 屋上です、というアナウンスが流れ、エレベーターが停まった。

 外から冷たい風が吹き込むのと同時に、三船の手がするりとほどけた。

 たったそれだけで、ちくりとした痛みが、さやかの胸を刺す。

 屋上は、『ダリア展』を見に来た客でごった返していた。

 淡い縹色の空の下、赤やピンクを始めとした、色とりどりのダリアの花が並んでいる。

 ひゅうっ、と――。

 三船の長い髪が風に舞い、ミストブルーのカーディガンから細い背中が日に透けた。

「教えて、夏目」

 黒いダリアの花の前で、三船が立ち止まった。

「夏目は一体、どんな手を使って私の売春を封じ込めたの?」

 さやかは、息が止まりそうになった。

 眼鏡の奥の三船の瞳は、刺すように冷たい。

 真昼の屋上で、さやかの立っている場所だけぐらりと傾いた。

 足元の影が、やけにどす黒い。さやかを責めているかのようだ。

 それでも、さやかは意を決して口を開いた。

「僕は、間違ったことをしたとは思っていない。僕は間違ってない」

 三船の笑みは動かない。

 さやかは、震える足で三船に近寄った。

「三船は、あんなことしちゃダメだ。三船はもっと、自分を大事にするべきだ」

 触れるか触れないかの距離まで迫った時、三船は笑顔でこう言った。

「夏目の勝ち。私の、負け」

 その瞬間、まるで鏡合わせのように、2人の動きは同調した。

 目線の先には――鉢植えの傍に無造作に置かれた、剪定鋏。

 なんでこんなところに鋏が――さやかがそう訝しんだ時には、遅かった。

 バシュッ!

 噴き出る血が、花を、さやかを、三船を濡らした。

 バレリーナがターンするように、ゆっくりと回りながら三船が倒れる。

 赤い滴をまき散らし、三船は自分の首を引き裂いた鋏をぼとりと落とした。

「いやああああああああ!!!三船っ!!!」

 さやかの絶叫から、波紋が広がるように周囲から悲鳴やざわめきが起こる。

 血に染まった花弁が1枚、ぼとりと落ちた。



 救急外来の待合室は、別世界のように静まり返っていた。

 三船が救急車で運ばれた後、すぐさま駆け付けた三船の両親は、ひどく動揺していた。

 どうしてこんなことに――亜弓から何か聞いていないか、と蒼白な顔の2人に問われたが、さやかは首を横に振った。

「わかりません」

 医師や看護師たちにも当時の状況や三船の様子について尋ねられたが、さやかに教えられることは何もなかった。

「わかりません」

 警察からも簡単な事情聴取を受けたが、さやかは質問の内容すら頭に入ってこなかった。

「わかりません」

 ――僕には三船がわからない。

 分からないから、三船はさやかを拒絶した。さやかではなく、自分自身を殺すことで、さやかを殺した。

 売春を奪ったさやかに対する、それが三船の復讐だった。

 ――僕には三船がわからない。

 三船は集中治療室に入れられ、輸血を受けている。祈るように両手を組む親たち、事件について話し合う医師と警察官たちが、さやかの前を通り過ぎてゆく。

 やがて時間が経ち、三船が助かったと医師が報せ、三船の両親が手を取り合って喜んでも、さやかはその場から動けずにいた。

 さやかと三船の関係は、もう取り返しがつかないほど壊れてしまった。たとえ三船の怪我が治っても、2人の間に起こったことはなかったことにはならない。

 ――僕には三船がわからない。

 底なしの絶望に、さやかは落ちていった。

 


 どのぐらいの間、そうしていただろうか。

 真っ暗になった院内に、非常灯だけが宇宙船のようにぼんやりと灯っている。

 そこだけ、世界から忘れ去られてしまったような片隅で、さやかはただ座っていた。

 何かを待っていたわけではない。もう、待つべきものなど何もない。

 それでも、彼はさやかを待っていた。さやかが、約束を果たすことを望んでいた。

「リボン」

 暗闇に、ぼんやりと朱色のスーツが浮かび上がる。

 今のさやかには、それは忌まわしい血の色に見えた。

「約束、守ってくれるか?」

 秋津イサオは、そう言ってさやかに顔を近付けた。

 イサオに縋り付いたことが、今は深い後悔となってさやかの胸をかきむしる。

 ――約束。僕がこんな人に願ったせいで、三船は自分の首を切った……。

 イサオと出会ったこと自体が、間違いだったのかもしれない。だが、時間は戻らない。

「お好きにどうぞ」

 さやかが吐き捨てるように言うと、イサオは愉快そうに笑った。

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