75話 マリオネットの災難
第75話 マリオネットの災難
昭和60年10月、都内にある高級クラブ『ハーピー・ナイト』のVIP用個室――。
さやかが朱雀組4代目組長・秋津イサオと会っていたところ、若頭の柘植と補佐の小鳥遊もその場に現れた。
さらにそこに青龍会の元幹部・魚住が乱入し、室内に無数の蛇を放った。
シューシューという聞き慣れない音と、水のようにするすると動く蛇の動きが、ぞわぞわとした悪寒を一同にもたらす。
「魚住、貴様――」
小鳥遊が一歩、前に出ようとしたので、さやかは慌てて止めた。
「動かないでください!」
戸惑う小鳥遊に対し、魚住がにやりと笑って言った。
「そうだぜ、動かないほうがいい。万が一、蛇を踏んづけでもしたら、即座にあの世行きだ」
小鳥遊の顔から血の気が引く。
魚住は、空になった発泡スチロールの箱をその場にポンと投げ捨てた。
「ここでてめえらが苦しみながらくたばる様を眺めていたいところだが、道連れにされるのは御免だ。あばよ」
「魚住っ!」
鋭い声で呼び止めたのは、柘植だった。
娘の仇を前にして、その瞳は強く見開かれている。
ワインレッドのスーツに手を入れると、柘植は拳銃を構えた。
黒光りするリボルバーに、さやかはこの場に蛇がいることも忘れそうになった。
――本物…!?
突きつけられた銃口に対し、魚住は怯みもしなかった。
「撃てるもんなら撃ってみろよ。音に反応した蛇たちが、争うようにてめえらに噛みつくぜ」
「………」
柘植は、微動だにせずに銃を構え続けている。
小鳥遊が、すぐ隣で不安そうに柘植を見つめる。イサオは何も言わない。辺りからは、蛇がシューシューと立てる音が絶え間なく聴こえてくる。
――柘植さん……。
さやかは、固唾を飲んで見守ることしか出来なかった。
どのぐらい、そうしていただろうか。
柘植が動かないのを見て、魚住はさっさと背を向けた。
「ふん、朱雀組の腰抜けが。自分の娘一人守れないような奴が、この俺を殺せるかよ」
バン、と扉が閉まり、続いて鍵がかけられる音が微かに聞こえた。
後に残されたのは――重たい沈黙と、無数の蛇に囲まれた4人の人間たち。
「若頭っ…」
気遣うように小鳥遊が声をかけると、柘植はようやく、構えていた拳銃を下ろした。
「………小鳥遊。我々は、何としても4代目をお守りせねばなりません。夏目さんのことも」
「は、はいっ」
柘植と小鳥遊は、さやかとイサオを囲むようにして身体を密着させた。
ずっと黙っていたイサオが、ぼそっと尋ねた。
「なして殺らなかった」
柘植はイサオを背中に庇いながら、静かな声で答えた。
「……この8年、ずっと奴に鉄槌を下す機会をうかがってきました。ですが、それは今ではありません。仕留めるならば確実に仕留めたい」
「ばかしゃべ。そったな悠長なこと言ってたら、海外にでも逃げられちまうぞ」
「復讐よりも、私には大事なことがあるのです」
そう言って、柘植はゆっくりとイサオを振り返った。
「朱雀組の未来です」
柘植の答えに、さやかは胸を打たれた。
――柘植さんは……お嬢さんの仇を討つことよりも、4代目を守ることを優先したんだ。
それはさやか以上に、柘植と仲の悪い本人であるイサオにとっては意外な結論だっただろう。イサオは、素直に驚きを口にした。
「ほへー。俺はてっきり、お前が俺を盾にして逃げるかと思ってたなや。俺が死ねば、お前が次の親分だろ?そっちのほうがお前には都合がいいでねが」
――そ、そこまで言うか。
明け透け過ぎるイサオの物言いに、さやかは聞いていてハラハラした。
柘植は動じることもなく、淡々と答えた。
「仰る通り。ですが、青龍会の卑劣な陰謀で4代目が命を落とすなど、断じてあってはいけません。私の誇りにかけて、4代目のことはお守り致します」
「柘植…」
イサオはちょっと感心したように言ってから、「だども」と声を落とした。
「お前、足ガタガタ震えるでねが。ホントに大丈夫け?」
「申し訳ありません、4代目。若頭は昔、マムシに噛まれてから蛇が大の苦手でして…」
「小鳥遊!余計なことを言うんじゃありません」
柘植の怒声が飛び、小鳥遊が「すみませんっ!」と肩を竦めた。
確かに、威勢とは裏腹に、柘植の顔は蒼白だ。娘の仇である魚住やイサオの手前、必死に気を張っていただけのようだ。
――実際、この状況はかなりヤバい。
「でっけえマムシだな。あいつ、どっからこったに調達したべか」
イサオの呟きに、さやかは「いえ」と言った。
「これはマムシではなく、ガラガラヘビです」
「ガラガラヘビ?なんだそれ」
「主に、アメリカで見られる毒蛇です。あの尻尾の部分を見てください」
「おお。なんか、あそこだけムカデみてえになってるな」
床をはい回る蛇たちは、いずれも茶色いまだら模様に、節の分かれた尻尾が付いている。時折、カタカタという音を立てながら移動している。
「このカラカラという音は、あの尻尾の部分から発せられている警戒音です。ガラガラとも聞こえることから、ガラガラヘビという名前なんです」
「ほー。リボンは物知りだなや」
呑気に感心するイサオをよそに、小鳥遊が震えながらさやかを振り返った。
「あ、あの、毒ってどのぐらい…?」
「……噛まれれば激痛、吐き気、血圧の低下、組織の壊死などが起こります。重症の場合、呼吸障害やショック症状、多臓器障害が発生することも…」
「つまり、噛まれたら死ぬってことかや」
イサオの表現は直截だったが、さやかは頷くしかなかった。
「…はい。必ずではありませんが、この数が相手では…」
「聞かなきゃよかった…」
とうなだれたのは、小鳥遊である。
さやかも、言わなきゃよかったという気持ちでいっぱいだ。
他人事みたいに説明したが、さやかだって蛇が怖くて仕方がない。柘植と魚住の緊迫のやり取りが終わってからは特に、蛇の恐怖が頭のてっぺんまで襲ってくる。
パニックに陥らずに済んでいるのは、イサオ、柘植、小鳥遊がいるからだ。
――誰も噛まれて欲しくない。落ち着いて、ここから脱出する方法を考えなきゃ…!
気持ちは焦るが、下手に動けば蛇の毒牙にかかる。
さやかたちはソファの上に固まったまま、未だ動けずにいた。その様はさながら、蛇の海に囲まれた孤島だ。
「俺だがこんな目に遭ってるっていうのに、斑鳩たちは何やってんだべな」
イサオのぼやきに、さやかは恐怖で忘れかけていた斑鳩と雛子の存在を思い出した。
「それなんですけど、4代目」
「なした、リボン」
「ひょっとして、魚住はここに来る前に、クラブのフロアにも蛇を放ったんじゃないでしょうか。それで、斑鳩さんと雛子さんは、他のお客さんと一緒に避難したのでは…」
「そしたら柘植と小鳥遊だって遭ってるべ」
と言うイサオに、柘植は「いえ」と硬い横顔で言った。
「我々はVIP用の出入り口から入ったため、フロアは通っていません。ここは防音が整っていますし、フロアで騒ぎがあったとしても聞こえなかったのでしょう」
高級クラブだけに、朱雀組御用達のエリアは、一般用とは隔絶されているということだろう。今回は、それが仇になったわけだが。
「さいっ…。お前がた、揃いも揃って役立たずだなや」
「面目ありません」
肩を落とす柘植に、イサオがあははと笑って背中を叩いた。
「ばかげ、そったに真に受けねくていい。こったなことになるなんて、誰が予想できるなや」
「はあ…ですが」
「だから、そった顔さねくていいって。お前、意外とめんけとこあるなあ」
イサオに温かく笑いかけられ、蒼ざめていた柘植の顔に、少しだけ生気が戻る。
「なあ、リボン。ガラガラヘビさ、弱点ってねえのか」
「弱点ですか…これと言ってないですけど、生き物ですから、普通に刺されたり撃たれたりすれば死にますよ。アメリカでは、銃や鍬を使って駆除する場合もあるそうですし」
でも、と言おうとしたさやかの続きを、イサオは待ってくれなかった。
「そうか。せば、やるぞ」
イサオは壁になっている柘植と小鳥遊をどかすと、テーブルの上から酒瓶を取り上げた。
「お前がた、危ねえからちょっと離れてろ」
そう言って、イサオは酒瓶をテーブルの角に叩きつけて割った。
パーン!
周囲にいた蛇から威嚇するようにカタカタという音が響き、柘植と小鳥遊の顔が引きつる。
「4代目、待っ――」
さやかの制止を聞かず、イサオは「それっ」と言って、割れた瓶の切っ先で蛇を刺した。
「シャーッ!」
蛇が大きな雁首をもたげて、イサオに噛みつこうとする。さやかは、今にも悲鳴を上げそうだった。
「ほれ!ほれ、暴れるなって、こいつ!」
イサオはさっぱり怯む様子もなく、手当たり次第に蛇を掴み、酒瓶で刺し、足元に来たのは踏みつけ、と取っ組み合いを繰り広げている。
さやかはもう見るのも恐ろしくて、顔を両手で覆っていた。
――ヤクザって、こんなに大きな蛇とも闘えるものなのっ!?それとも、4代目が田舎の出身だから!?
「おうおう、結構おもしぇぞ、これ。昔、山で青大将を捕まえたのを思い出すな」
青大将とガラガラヘビでは、危険度が全然違う!とさやかは叫びたかった。
それにしても、イサオはうなぎでも相手にするみたいに、平然とガラガラヘビと闘っている。
「………」
硬直していた柘植だったが、イサオの足に蛇がするするとよじ登っていくのを見て、ハッとした。
「4代目!」
柘植はテーブルの上からアイスピックを取ると、蛇とイサオの足の間に突っ込んで蛇を追い払った。
「おお。柘植、お前、意外とやるなや」
「無茶はなさらないでください!フロアにも蛇が出ているなら、いずれ警察と消防が来るはずです。今は大人しく、救助を待ちましょう」
そう言う柘植の顔は、冷や汗でびっしょり濡れている。
「そったなもの、待ってられるか!」
イサオはきっと眼を見開くと、蛇を握る手に力を込めた。
「うちの若頭がコケにされたんだぞ。俺ぁ、腹悪くてなんね!」
「4代目…」
「俺ぁ男だ。何もさねで助けを待ってるなんてできねえ!」
そう言って、イサオは「むん!」と、蛇を掴んだ両手に力を込めた。
ぶちぶちっ――。
蛇の身体が真っ二つに引き裂かれる様を、不幸にもさやかは見てしまった。
――ゆ、夢に見そう…。
もはや、蛇が怖いのか、イサオが怖いのか、分からなくなってきた。いずれにせよ、蛇に囲まれたこの空間で、さやかにまともな思考は難しくなっていた。
イサオも柘植も奮闘しているものの、蛇がシューシューと唸る音は一向に減る気配がない。むしろ、ガラガラヘビ特有の不気味な警戒音が、どんどん強まっている気がする。
「あいつ、一体何匹持ってきたんだ。これじゃ、キリがねえ」
ビタン!と激しく蛇の頭部を床に叩き付けながら、イサオがぼやく。
そこでようやく、さやかの思考回路が少しだけ復活した。
――そうだ、目を閉じてる場合じゃない。4代目や柘植さんがこんなに頑張ってるんだから、僕だって何かしないと…。
さやかが指の隙間からちらっと見たところ、確かに、動いている蛇の数は減っているとは言い難い。世界でも有数の毒蛇だけに、ちょっとやそっとの攻撃では死なないのだ。
大きな三角形の頭に、不気味な尻尾を持つガラガラヘビは、見ているだけで頭が真っ白になるほど怖い。
思考回路がストップしそうになるのを、さやかは何とか堪えようとした。
――落ち着け。ここにいるのは蛇じゃない、ちょっと細長い麻雀牌だ!
そう考えた時、さやかの中で解が見えた。
「蛇を全部殺す必要はありません」
さやかが言うと、イサオ、柘植、小鳥遊の3人が揃って振り返った。
「僕たちの目的は、ここから脱出することです。そのためには、あそこにあるドアまで辿り着ければ十分。柘植さんの持ってた拳銃を使えば、ドアを壊して外に出られるかもしれません」
幸いにも、柘植は無数の蛇を相手にしても、一度も発砲していない。残っている弾を全て使えば、ドアを壊せる可能性はある。
さやかの出した解に、イサオが「んだなや」と顎をさすった。
「ここでこいつら相手に相撲取ってても、いずれ噛まれてお陀仏になるのがオチだなや。あのドアまで辿り着けばいいんだな」
「ですが、4代目。ドア周辺は蛇がうようよいて、とてもじゃないけど近づけませんよ」
小鳥遊が、泣き出しそうな声で言うのも無理はない。
魚住がドアの前で蛇を解き放ったため、さやかたちは蛇から逃げるように、反対側の壁際に追い詰められる形になった。蛇のほうも人間を避けて、ドア付近に集中している。
イサオはしばらくじっと室内を凝視した後、傍らにいる柘植を振り返った。
「柘植。俺が道をこさえるから、お前があっこまで行ってドア壊せ」
「無茶です、4代目。私には…」
柘植の顔色は冴えない。ただでさえ蛇が苦手なのに、その蛇の真っ只中に飛び込めと言われたのだから、当然だろう。
そこに、イサオのあの大きな笑顔がパッと灯った。
その場にいるだけで、辺りを真昼のように照らし上げてしまうようなあの笑み。
「お前のことは、俺が守ってやる。どーんと行って来い」
「4代目…」
柘植は呆然とイサオを見つめた後、表情を引き締めた。
「承知しました。私も男です。必ずや、成し遂げます」
「おう。行くぞ!」
裂帛の気合を入れると、イサオはひらりとテーブルの上に飛び乗った。
残っていた酒瓶数本を手に取り、今度はそれらを割るのではなく、中身をまとめて床にぶちまけた。
シャーシャーと警戒する蛇たちには構わず、イサオは懐からタバコとライターを取り出すと、タバコに火をつけた。
「ふーっ。こんな時でもタバコはうめえな」
優雅に一服して見せてから、火のついた紙巻を酒で濡れた床へと投じる。
一瞬、ふわっと赤い火が閃き、蛇たちが一斉に左右に分かれた。
「今だ、柘植!」
イサオの命と同時に、柘植がテーブルを飛び越え、イサオの作った火の道へと降り立つ。
火の勢いは弱いが、床に渦巻くガラガラヘビを散らす程度の効き目はあった。元々それほど広くない部屋であり、柘植はあっという間にドアへと辿り着いた。
ガン!
立て続けに銃声が響き、さやかは耳を塞ぐ。
蝶番が片方、壊れたが、分厚い扉は開きそうで開かない。
そうこうしているうちに、蛇たちがするすると柘植の足元に滑り込んできた。
「若頭!」
小鳥遊が叫び、ドアと格闘している柘植が気付いて振り返る。
大きく口を開けた蛇の毒牙は、すんでのところで柘植に届かなかった。
勢い良く跳躍したイサオが、着ていたコートを振って蛇を追い払ったからだ。
「4代目!」
「言ったべや、お前のことは俺が守るって。急がなくていい、しっかりやれ」
コートの裾に噛みつく蛇をぶんと一振りで追い払い、イサオは柘植を安心させるように微笑む。
「…はい」
柘植は一つ頷くと、再び銃でドアを撃ち、傾いたところを足で蹴倒した。
バン!
やがて、大きな音を立てて、VIPルームのドアが外れた。
「やった――」
と、一同が喜びかけた時だった。
イサオが足で踏みつけた蛇の一匹が、突如、目にも止まらぬ速さで首をもたげた。
「危ない、4代目!」
後ろから見ていた小鳥遊が悲鳴を上げたが、イサオも、傍にいた柘植も、間に合わなかった。
カッ――。
イサオの手の甲に、ガラガラヘビの大きな三角頭が噛みついた。
さやかも、小鳥遊も、悲鳴を上げそうになり――。
一瞬、時が止まったかのように、その場が静まり返った。
「4代目!」
柘植がすかさずイサオに駆け寄り、その手に食らいついている蛇を素手で払い落とした。
「噛まれたなや」
呆気に取られているイサオに対し、柘植が真っ青な顔で肩を掴んだ。
「なんという……4代目、お気を確かに!今、助けを呼んで来ますから」
「お、おう」
事態が信じられないのか、イサオはきょとんとして噛まれた手を見つめている。
「おのれ、忌まわしき地獄の蛇め……4代目の命を狙おうなどとは、不敬の極み……」
呪いのように呟きながら、柘植が倒れたドアを乗り越え、廊下へと飛び出そうとした時だった。
ドザーッ……。
突如、凄まじい量の水が、滝のようにVIPルームに流れ込んだ。
さやかたちが斑鳩たちと再会したのは、サイレンが鳴り響く消防車の前でだった。
「ボス!ご無事でしたか」
「なぁ~にがご無事だ、これがご無事に見えるかってんだ!」
イサオはシャンプー後の犬のように、濡れた髪の毛をぶるぶる振った。
イサオだけでなく、さやかも柘植も小鳥遊も、頭の先から靴の中まで、全身ずぶ濡れだ。
さやかは、自分の読みが外れたことに溜息を吐いた。
――まさか、あの魚住って人が、お店に火をつけてたなんて。
さやかの予想とは裏腹に、魚住がフロアに放ったのは蛇ではなく、火だった。
魚住はVIPルームに来る前、『ハーピー・ナイト』の裏手に油を撒き、放火に及んでいたのだ。
幸いにも、早い段階でボーイが火事に気付き、消防に連絡したため、怪我人は出なかったという。ただ、煙がフロアにまで流れたため、店内が大騒ぎになり、斑鳩たちは逃げようとする客たちに押し流されてしまったそうだ。
火はさほど広がらずに済んだものの、昨今の消防意識の高まりもあり、消防士たちは念入りに放水してくれた。それこそ、VIPルームが水没するほどに。
おかげでさやかたちはびしょ濡れになり、勇敢な消防士たちは、VIPルームから飛び出してきた蛇の大群に悲鳴を上げる羽目になったのだが。
「ボスたちがそんなことになってたなんて…気付かなくてすみません」
小さくなる斑鳩に、イサオは濡れたコートを絞りながら言った。
「まあ、いい。雛子はなんとだ」
「あいつは他のホステスと一緒に、事情聴取に呼ばれました」
雛子はこの『ハーピー・ナイト』に勤めているらしい。雛子の無邪気な笑顔を思い出し、彼女が無事で良かった、とさやかはほっとした。
さやかたちの背後を、檻や長い棒を持った警察官たちがバタバタと通り過ぎて行く。店内に放たれたガラガラヘビを捕獲しに来たのだろう。
斑鳩が声を潜めた。
「魚住は逃げたようです。今、手分けして探してます」
「まんず、見つからねえべな。敵ながら、お見事な手際だなや」
イサオが絞ったコートから、ぼたぼたと零れた水がアスファルトを濡らす。そこだけ赤いサイレンに照らされて、血だまりのように見えた。
いきなり冷たい水を被ったせいか、さやかは頭がぼーっとした。さっきまでのことが、全て夢だったように思えてくる。
――あんなガラガラヘビの大群から逃げ延びたなんて、現実とは思えないというか。
「4代目!消防車も来てることですし、すぐに病院に行きましょう」
小鳥遊がそう言うのを聞いて、ぼんやりしていたさやかはハッとした。
――そうだ。4代目が、ガラガラヘビに噛まれて…。
というか、今までそれを忘れていたのも、当の噛まれたイサオがけろりとしているせいだ。何なら、平然とその噛まれた手で濡れたコートをぞうきんみたいに絞っている。
噛まれたはずのイサオの手が少しも腫れていないのを見て、さやかは「もしかして」と思った。
「4代目を噛んだ蛇は、毒牙がなかったんですか?」
「ん?ああ、そうかもな。柘植に蛇を叩き落されるまで、噛まれたって気付かなかったなや」
ガラガラヘビの牙は、ナイフと見紛うほど大きい。噛まれて気付かないということは、まずない。
――自然に毒牙が外れていた可能性もあるけど……。
思えば、あれだけの数のガラガラヘビに囲まれていたにも関わらず、イサオ以外は誰も噛まれずに済んだのは不自然だ。
大蛇の群れ自体が恐ろしくて怯えてしまったが、今になって冷静に考えてみると、攻撃的なガラガラヘビにしては妙に大人しかった気もする。
その答えは、避難客に押し出されて、外で周辺を調べ回っていた斑鳩が教えてくれた。
「さっき聞いたんですが、この近くで経営している秘密クラブで、ガラガラヘビが盗まれたと騒ぎになっているようです。ショー用に密輸したものなので、毒牙は抜いてあったとか」
そちらにもうちの者を行かせてあります、と斑鳩は付け加えた。
さやかを始め、一同の間に考え込むような沈黙が降りた。
柘植への復讐を目論む魚住が、たまたま近所にガラガラヘビが密輸されることを知って、盗みに入った――というのは出来過ぎだろう。
そもそも、柘植が今日、『ハーピー・ナイト』に来ることを事前に知っていなければ不可能だ。
この事件は、かなり周到に計画されたもの――それも、朱雀組の情報を正確に掴んだうえで実行されたものだ。
――もしもガラガラヘビに毒牙があって、魚住の計画が成功していたら……。
脱走したガラガラヘビによる不幸な事故、に仕立て上げることも、不可能ではなかったかもしれない。魚住が敢えて武器の類を使わなかったのも、それを見越してのことだろう。
さやかの背筋が冷えたのは、身体が濡れているせいではなかった。
――青龍会は、バレないように綿密に計算して人を殺す。そういう組織なんだ。
映画に描かれるヤクザ同士の派手な抗争など、しょせんはフィクションの世界だ。現実の彼らはもっと冷酷で、陰険で、手段を選ばない――そのことを、さやかはこのとき悟った。
不意に、ふわり、とさやかの肩に温かいものがかかった。
「!柘植さん…」
「夜風は冷えます。じきにうちの車が着きますから、それまではこれで我慢しなさい」
柘植が羽織らせてくれたワインレッドのスーツからは、ほんのり男物の香水の匂いがした。
――香水つけてる男の人って、初めて見たかも……。
さやかに背を向け、柘植はつかつかとイサオに歩み寄った。
「4代目。毒牙はなかったとはいえ、念のため医者にかかられた方がよろしいかと。私が昔、蛇に噛まれた時も、毒ではなく細菌で傷口が腫れましたから」
「あー、うだてぇ。ツバつけとけば治るべ」
イサオが平気さをアピールするように手の甲をひらひらさせると、柘植がその手を取った。
ぎょっとするイサオをよそに、柘植はにこやかに続ける。
「4代目のご英断には、私もいたく感心させられました」
「ご、ゴエーダン?」
「もしも私が主張した通り、あのまま部屋に閉じこもって助けを待っていたら――我々は焼け死んでいたかもしれません。ここでこうしていられるのも、4代目が闘う選択をなさったおかげです」
「ああ…うん…」
イサオは手を放して欲しそうだが、柘植は握って離さない。
「4代目をお諫めするはずが、逆に助けられてしまいましたね……」
次の瞬間、柘植がイサオの手の甲にキスをした。
――えっ……。
さやかも斑鳩も、目の前の光景が信じられず、凍り付いた。
「げあっ…」
イサオが短く悲鳴を上げて、柘植の手から自身の手を引っこ抜いた。
逃げるように後ずさったイサオの襟元を、柘植がガッと掴む。
そのままぐっと引き寄せられ、イサオと柘植の顔が至近距離に迫った。
柘植は、イサオの耳元で囁いた。
「……この借りは、必ずお返ししますよ」
そして、柘植はイサオの頬に口づけた。
「えっ……」
さやかも、斑鳩も、目が点になった。
「んぎゃっい!!!!」
奇声と共に、イサオが拳をぶんと突き出した。
それを悠然と避けて、柘植はくるりとターンした。
「小鳥遊。夏目さんをお送りして差し上げなさい」
心なしか上機嫌で去っていく柘植の背中を、さやかは呆然と見送った。
それから数日、さやかは平穏な日常を過ごした。
学校では受験に向けて強化講習を受け、生徒会長としてこまごまとした雑務をこなし、放課後は生徒会の後輩たちにアドバイスをする。その後は塾で夜まで勉強し、終われば雀荘で気の向くまま打つ。
そんな生活を繰り返していると、さやかの中で、何もかもが夢だったような気がしてきた。
――狐につままれた気分、って、こういうことなのかな。
思えば、さやかのような普通の女子高生が、あの朱雀組の大幹部に声をかけられたこと自体、信じられない出来事だった。ガラガラヘビの大群と共に閉じ込められたことに至っては、荒唐無稽な作り話のようだ。
――蛇にも噛まれてないし、あんなに濡れたのに風邪もひいてないし。やっぱり僕、幻でも見てたのかな…。
自室のベッドに寝そべったさやかは、目線だけ机の上に向けた。
そこに畳まれた新聞の日付は、あのガラガラヘビ事件の翌日。ほんの目立たないところに、都内のクラブで火事、の記事が短く載っていた。
青龍会の名前も朱雀組の名前もなく、ガラガラヘビのことさえ書かれていない。淡々とした記事は、さやかからあの日の記憶の現実味を奪った。
――斑鳩さんからも音沙汰がないし、代打ちになるって話は自然消滅したのかな。
もはや、悔しいともあまり思わない。あの日に色々なことがありすぎて、代打ちにこだわる気持ちはどこかへ行ってしまったようだ。
――これで、良かったのかもしれない。
夢のように思えるほど、イサオや柘植はさやかとは違う世界の――さやかのような平凡な少女が関わってはいけないたぐいの人間だった。
それを痛感出来たのだから、いい勉強になったと思えばいい。君子危うきに近寄らず、さやかはこのまま、平和な人生に戻ればいいだけだ。
そんな風に自分を納得させながらも、その日、さやかの足はあの『ハーピー・ナイト』へと向かっていた。
――僕は、何を期待してるんだろう。こんなところに来たって、4代目や柘植さんに会えるわけじゃないのに…。
というか、自分は彼らに会いたいのだろうか。それも、さやかには分からなかった。
昼間に見る『ハーピー・ナイト』は、パーティーが終わって脱がれた後のドレスのように、煌びやかな抜け殻の様相を呈していた。
火事があったのは裏手の厨房周辺らしく、ぱっと見はあんな騒ぎが起こった場所とは思えない。ただ、入り口ドアには『当分の間、営業を休止させていただきます』という張り紙がされていた。
――営業休止か。雛子さん、どうしてるのかな。
さやかは、無意識に頬に触れていた。
出会った直後、雛子にキスされた場所――今は、別のキスシーンが頭をよぎって離れないが、あれは悪い夢だったと思うようにしよう。
その直後、さやかの耳に女の尖った声が飛び込んできた。
「もうっ、しつこいなー。ヒナはなんにも知らないってばぁ」
「そう言わずに、話だけでも聞かせてくださいよ。あなた、朱雀組の親分の愛人なんでしょう?」
声がしたのは、さやかのすぐ近く――行き交う人の群れの中で、ショッキングピンクのボンテージに身を包んだ雛子と、カーキ色のジャケットを着た男が対峙していた。
男はペンと手帳を握っており、雛子の挙動一つも見逃さないとばかりに目をぎょろつかせている。
――週刊誌の記者か。あの火事に朱雀組が巻き込まれたことを嗅ぎつけたんだな……。
雛子が困らされているのを見た途端、俄然、さやかは怒りが湧いてきた。
「ちょっと、そこのあなた」
ずんずんと近寄ったさやかは、週刊誌の記者に声をかけた。
「彼女、嫌がってるじゃないですか。強引な取材は犯罪ですよ」
「なんだ、君は。彼女の知り合いか?」
男はさやかをじろじろ見ると、肩に提げたバッグから記事のゲラを取り出した。
「ほらこれ、大スクープだぞ。『朱雀組の組長と若頭、あわや殴り合いか』」
「これは……」
繁華街のネオンを背景に、柘植がイサオの襟元を掴むシーンが、モノクロで大写しにされている。
男が言った大見出しが派手に誌面を躍り、『組幹部同士の極秘密会!店内で本能寺の変か!?』の一文も添えられている。
イサオが柘植に拳を振り上げるところも撮られているが、ちょうどこの2枚の中間にあたる、あの衝撃的なシーンは抜けていた。
――やっぱり、あれは僕の見間違いだったのかな…。
ゲラに見入るさやかに、記者の男は自慢げに胸をそらした。
「面白いだろ?不仲って噂の朱雀組の幹部同士が店で密談していたうえ、その店から火が出て、挙句の果てに場外大乱闘だ。こりゃ、朱雀組の分裂も時間の問題だな」
「そうですか…」
さやかはふと、イサオがラーメン屋の屋台でぼやいていたことを思い出した。
「あんなもん読んでたら、何が本当か分からなくなっちまう。何せ、嘘のほうが面白いと来てるんだからな」
――4代目がああ言う気持ち、ちょっと分かるかも。
いくらヤクザだからって、こんな風に事実を脚色して喧伝されてしまっては、仲が良いものも悪くなりかねない。
そもそも『密談』自体がデタラメだ。あの夜、柘植があの店に来たのは、さやかがあそこでイサオと会っていたからであって――。
そこまで考えたさやかは、ちょっとばつが悪くなってきた。
――4代目と若頭の間がややこしくなってるのって、僕にも責任があるんだよな…。
「もちろん、次の号もこの話で特集を組むつもりさ。火事のあった『ハーピー・ナイト』で何があったのか、そこを詰めて記事にしたいんだよ。そのための取材なんだから、邪魔しないでくれ」
ゲラを鞄に突っ込むと、記者は手で追い払う仕草をした。
さやかは「ふぅーん」と、露骨にバカにしたような声を出した。
「取材ですか。いるんですよね、あなたみたいな人」
「は?」
「自分は雑誌の記者だとか言って、女の子をホテルに連れて行こうとするスケベなおじさんですよ。あなたの顔、覚えましたから。そこの交番に、似顔絵ぐらいは描いてもらうことが出来ますよ」
男は、さやかをじろっとにらんだ。
「何?君、俺がナンパしてるって疑ってるわけ?ゲラ見せただろ」
「あんなもの、どうとでもでっち上げられるじゃないですか。出版社に勤めてるお友達からもらったとか」
「こんなの、友達にあげたりするわけないだろ。君に見せたのだって、出血大サービスなんだぞ」
「じゃあ、名刺見せてくださいよ。取材をするなら、名刺ぐらい見せるのが礼儀でしょう」
さやかの正論に、男は渋々、スーツから名刺を取り出した。
男の名と共に、大手出版社の電話番号と、有名週刊誌の編集デスクの肩書が記されている。
「ほら。これで信用してくれた?分かったら、もうあっち行ってよ。こっちだって忙しいんだから」
名刺をためつすがめつ眺めたさやかは、納得できないという風に首を傾げた。
「これ、本物ですか?怪しいなあ」
「まだ疑うっての?どうすりゃ信用してくれるんだよ」
「ここに書いてある電話番号に、電話してみせてください。そしたら、信じますから」
さやかが近くにある電話ボックスを指差すと、男は嫌そうに顔を歪めた。
「なんで、俺がそこまで」
「いいじゃないですか、電話ぐらい。報連相は社会人の基本でしょ?真面目にお仕事してます、って職場にアピールするだけですよ。それとも、やっぱりこれはあなたの名刺じゃないのかな」
意地悪く笑うさやかに、男は憮然として電話ボックスに足を運んだ。
男が10円玉をチャリンと入れたのを確認すると、さやかは外から思いっきり扉を閉めた。
バン!
それから、雛子の手を掴んで、猛然とその場から走り去る。
「あっ、おい…」
受話器を掴んだまま、男が叫ぶのが微かに聞こえる。だが、さやかは振り向かずに走った。
さやかと雛子は、繁華街の人混みの中を走り抜けた。
気が付けば、よりいかがわしい店の並ぶ一角で2人、荒い息を吐きながら、肩を上下させていた。すぐそばでは24時間営業の薬局が、のんびりと閑古鳥を鳴かせている。
「リボンちゃん、すごいねえ。記者さんを撒いちゃった」
チューリップレッドに塗られた唇を、雛子がにいっと笑みの形に変えた。
雛子とこうして話すのは、あのガラガラヘビ事件の直前以来だ。それからすぐに事件があり、雛子とは離れ離れのまま、時間が経ってしまった。
「雛子さん、あれから大丈夫でしたか。その…警察から、事情聴取とかされたんですよね」
「うん。でもヒナ、お兄ちゃんと一緒にお店の外に避難したから、ほとんど喋ることなかったよー」
雛子はおかしそうに笑う。羽織った黒い毛皮がずれて、華奢な肩がむき出しになった。
「ヒナよりも、お兄ちゃんのほうが大変そうだよ。ボスたちをハメた犯人を追いかけて、あちこち探し回ってるみたい」
「そうですか」
その辺を突っ込んで聞いていいか分からず、さやかはあいまいな返事に留める。
「雛子さんはお店が休みの間、どうしてるんですか」
「何にもしてないよ。いつもはボスが遊びに来るけど、今はお兄ちゃんと同じで忙しいみたい」
それを聞いて、さやかは改めて、先日の事件の重さを認識した。
――朱雀組の組長と若頭が襲われたんだ。抗争に発展したっておかしくない…。
いやむしろ、抗争の準備をしているから、イサオや斑鳩は姿を見せないのか。朱雀組と青龍会の抗争になったら、東京じゅうがハチの巣になるのではないか――不穏な想像に、さやかの胸がざわついた。
「どうしたの?暗い顔して」
「あ、いや、その…」
「もしかしてリボンちゃん、ボスに会いたかったの?それとも、お兄ちゃん?」
悪戯っぽく微笑まれて、さやかはとんでもない誤解をされかけていることに慌てた。
「ちっ、違います!僕は、男の人には興味ありません!」
「えっ、そうなの?」
「あっ……」
つい口が滑ってしまった、とさやかは口を押さえたが、後の祭りだ。
笑われるか、気持ち悪がられるか――覚悟したさやかを待っていたのは、そのどちらでもなかった。
「リボンちゃん、ヒナに会いたかったんだ~!嬉しい!」
「えっ…」
「ヒナもね、リボンちゃんに会いたかったんだよ。リボンちゃんいないかなーって、お休みの間毎日、雀荘やこの辺りをぶらぶら歩いてたの」
「そうなんですか…?」
雛子はえへへ、とパーマのかかった髪を指先でくるくると巻き付けた。
「ヒナ、バカだよねえ。リボンちゃんは学校に通ってるんだから、平日のお昼にこんなところにいるわけないのに。ヒナ、学校に行ったことがないから、お兄ちゃんに言われるまで分かんなかった」
照れくさそうにぺろっと舌を出す雛子に、さやかの胸はきゅんとした。
――雛子さん、僕のことを探してくれていたんだ…。
バカ正直に学校になんか行かなきゃよかった、とさやかは悔やんだ。
『ジャンジャン』で朝から晩まで斑鳩を待つなり、『ハーピー・ナイト』の周辺をうろつくなりして、朱雀組の人間と接触できるチャンスを、自分で作ればよかったのだ。
――結局、僕はビビってたってことか。朱雀組に関われば危ないって、知ってしまったから。
裏社会の男たちに囲まれているうちに、無意識に萎縮していたのかもしれない。天真爛漫な雛子を前にしていたら、そんな自分が急に情けなくなってきた。
「ねえ、リボンちゃん。リボンちゃんが通ってる学校って、どんなところ?」
雛子に上目遣いに顔を覗き込まれ、さやかはどきりとした。
「ヒナね、テレビの中で見たことあるよ。学校って、みんなが同じ制服を着て、同じ年の子が同じ教室に集められてるんでしょう?動物園みたいだ、ってお兄ちゃんが言ってたよ」
「動物園…ですか。斑鳩さん、うまいことを言いますね」
さやかも時々、同じことを考える。檻に入れられた動物と、教室に閉じ込められた自分たちとは、何が違うのだろうかと。
雛子は肩を竦めた。
「お兄ちゃんだって学校に行ったことないくせに、知ったかぶりしてるだけだよ。ヒナはね、学校って面白そうだなって思うよ。学校に行けば、感情が出来るんでしょう?」
「カンジョウが…できる?」
思いもよらない表現に、さやかはちょっと戸惑った。
雛子は笑顔で「うん!」と頷く。
「友達と『友情』が出来たり、好きな人と『恋』したりするんでしょ?ヒナは感情って分からないから、学校で感情を作れるみんながうらやましいな」
感情が分からない――さやかはふと、斑鳩が以前言っていた言葉を思い出した。
――斑鳩さんは戸籍がどうとか言ってたし、この兄妹って、相当訳ありなのかもしれない。
「あっ!あの子も『制服』着てるね」
雛子が指さした先を目で追ったさやかは、一瞬で凍り付いた。
――三船!
日中の繁華街で、三船は制服姿で男と並んで歩いていた。学校と同じように、頬に酷薄な笑みを浮かべて。
男は高級そうなスーツを着て、三船と腕を組んで歩いて行く。2人の行く先にあるのは、ホテル街だ。
最悪の白昼夢に、さやかは眩暈がしそうになった。
「リボンちゃん、知り合いだったの?」
雛子にバレるほど、動揺が顔に出ていたらしい。さやかは、取り繕う気力もなかった。
「…ええ、まあ。学校の、友達です」
口の中が乾いて、言葉がもつれた。
三船の眼鏡がきらりと光る残像が、いつまでも目に焼き付いている。
「じゃあ、追いかけようよ!」
思いもよらない提案に、さやかは一瞬、言われた意味が分からなかった。
「えっ?」
「お友達なんでしょ?ほら、早く行こう!」
腕を引っ張って歩き出す雛子に、さやかは驚いた。
「ま、待ってください、雛子さん。追いかけるのはまずいです」
「なんで?お友達でしょ?」
自信たっぷりの雛子に、三船のことをどう説明したらいいか分からない。ただ、このまま三船を追ってはまずいという本能だけが、さやかの口を動かした。
「追いかけたりしたら、嫌われる……から」
自分の口をついて出た本音に、さやか自身が驚いた。
――僕は、そんな理由で三船のことを諦めていたのか……。
今まで、どんなに説得しても、三船は売春をやめてくれなかった。
三船はさやかの唯一の理解者だが、さやかには計り知れない理屈で生きている人間だ。だから仕方がないと、さやかは半ば諦めてきた。
それが言い訳に過ぎなかったことを、目の前の無邪気な笑顔が教えていた。
「じゃあ、『ごめんなさい!』って100万回言えばいいよ。そしたらきっと、許してもらえるから」
それが『友情』でしょ?と言って、雛子はぐんぐんと前に進んで行く。
黒の毛皮を羽織った背中と、足元を飾るピンクのハイヒールが、急に大人びて見える。
――ヤクザの愛人って、肝が据わってるんだな…。
それから、ガラガラヘビと勇敢に闘ったイサオや柘植の姿も、さやかの脳裏をよぎった。
――僕だって、1回ぐらい逃げない選択をするべきだ。
100万回の『ごめんなさい』が、三船に通じる自信はない。それでもさやかは、雛子と共に前に進むことを決めた。
さやかたちは、漆黒の宮殿のようなホテル『淫宮』にやって来た。
休憩5千円、のネオンに、さやかの喉がごくりと鳴る。
――三船はいつも、こんなところで男たちと……。
三船が住まう混沌の深さに、さやかは怯みかける。
家族以外の男と手を繋いだこともないさやかにとって、この手の場所は魔境も同然だ。
さやかの緊張をどう解釈したのか、雛子がうふふっとほくそ笑んだ。
「レズのカップルだって言えば、受付で通してもらえるよ。さ、行こ」
「あ、は、はい」
まるで無防備な雛子を見ていたら、緊張している自分が変なのか、という気がしてきた。
ところが、出入口に繋がる階段の前で、スーツ姿の男2人が立ちはだかった。
「ちょっと、君たち。今、そこの男女を追いかけて来たよね」
男たちは、随分前からさやかたちの尾行に気付いていたらしい。
体格の良さと、訓練されたような整然とした佇まい。さやかは、三船を連れていた男が、金持ちそうな高級スーツを着ていたことを思い出した。
――ガードマンか。女を買ってるところを、他人に嗅ぎ回られないようにするためだな…。
つまり、三船を買った男には、人に知られてはまずいことをしている、という自覚があるわけだ。嫌悪感が、さやかの頭いっぱいに広がった。
「違うもん。ヒナたち、普通のレズカップルだもーん」
雛子に腕を取られ、ぼよんと身体に当たる胸の感触に、さやかはちょっとときめいた。
だが、スーツ姿の護衛たちは、眉一つ動かさなかった。
「誤魔化さなくていいよ。時々いるんだ、君たちみたいな子は」
で、いくら欲しいんだ?と言われ、さやかはカチンときた。
「お金なんかいりません。それより、中に通してください」
「ダメだ。よそのホテルに行け」
「営業妨害ですよ」
「ホテル側に許可は取ってる。我々は仕事でやってるんだ」
「未成年買春なんかしている人を守るのが、あなたたちの仕事ですか」
声を荒げたさやかに、男たちが眉をひそめる。
男たちの向こう側には、安っぽい照明が煌めくロビーがある。
さらにその奥には、さやかが想像もしたくないような光景が広がっているのだ。さやかが愛する少女の裸身を主人公にして。
――それが三船の意志だったとしても、僕には耐えられない。
この恐怖に比べたら、目の前にいるガタイがいいだけの木偶の坊2人なんて、恐れるに値しない。その気持ちは本物だった。
だが、次の瞬間――。
パン!という音が、さやかの心の表面にあった何かを割った。
それが平手打ちを受けた音だと気付いたのは、アスファルトに倒れ込んでからだった。
「リボンちゃん!」
雛子に肩を支えられ、さやかは呆然と顔を上げた。
頬の熱さがじわりと広がり、遅れて鼻から冷たい血が伝ってくる。
「ごめんね、痛かった?でもさ、君たちが悪いんだよ」
「これ以上しつこくするようなら、もっと痛めつけることになるよ」
男の片方が手の関節をボキボキと鳴らし、冷ややかにさやかたちを見下ろした。
蝋人形のように固まったさやかを、雛子が抱きかかえるようにして、その場を後にした。
それから、雛子とどこでどう別れたのかは覚えていない。
「さやちゃん、どうしたの?」
帰宅すると、出迎えた母が悲鳴を上げた。
玄関にある鏡を見れば、さやかの頬は腫れていた。ついでに、鼻血の跡も顔や服にこびりついている。
「転んだ」
母を心配させたくはなかったが、さやかはぶっきらぼうに答えることしか出来なかった。
とにかく気持ちがささくれ立っていて、母に八つ当たりしないようにするので精いっぱいだ。
洗面所で顔を洗っていると、後ろから「おい」と声をかけられた。
いつだって、さやかが不機嫌な時に、更に気持ちを逆撫でするようなことを言う男。振り返らなくとも、それが兄・たくみだと分かった。
「何」
「そんな顔で帰ってきて、母さんに説明の一つもなしか。無責任だな」
「転んだって言ってるでしょ」
さやかは、タオルで顔を覆った。今は、嫌味な兄の顔を見たくない。
「受験まで、あと何ヶ月だと思ってるんだ。こんな大事な時期に、無駄なことをするな」
「余計なお世話」
たくみは大学で工学の研究を続けていたが、来年、とある企業に就職することが決まった。
身内でのお祝いパーティーに、さやかがことごとく欠席を決め込んでいたのも、兄の機嫌を損ねたのかもしれない。
――たっくんはいいよね。
そんな情けないセリフが、さやかの口をついて出そうになった。
たくみは幼い頃から工学一筋で、情熱に才能もついてきた。この通り、人とのコミュニケーションには全くの無頓着だが、そんなたくみを評価する人間もちゃんといる。小中高大と確実に研鑽を積み、たくみは自分の力で、自分の好きなことで身を立てる道を築いてきたのだ。
一方のさやかはと言えば、兄と幼い頃にやった消しゴム麻雀がきっかけで麻雀にハマったというのに、兄をはじめ、誰もさやかの情熱を理解してはくれなかった。兄と共に続けてきた工学でも芽が出ず、将来の夢なんてない。イサオと柘植には忘れられたようだし、三船のことも守れなかった。
「お前みたいないい加減な奴が妹だと、僕が迷惑するんだ。少しはしっかりしろ」
いつもは腹の立つ兄の嫌味が、今のさやかには深々と刺さった。
――いい加減、か。本当にそうかもしれない。
朱雀組の代打ちも、三船とのことも、全てが中途半端だ。さやかは、そんな自分がつくづく嫌になった。
「ごめん。僕は、たっくんみたいに立派にはなれない」
さやかはそう言って、足早に自分の部屋へと向かった。
勉強もせず、雀荘にも行かず、さやかは悶々として夜を明かした。
――この顔を見られたら、三船になんて言われるだろう。
赤黒く腫れた頬は、我ながら見苦しい。それに、三船に尾行がバレていたのではないか、という懸念もある。
――ホテルまで追いかけておいて、中に入らなかった僕のことを、三船は軽蔑するかな。
そんな心配が、あまりにも浅はかな考えだったということを、さやかは学校で悟った。
「三船…!その怪我、どうしたの」
さやかが廊下で駆け寄ると、窓際にいた三船がおかしそうに肩をゆすった。
「夏目こそ、すごいご面相だね。生徒会長をそんな顔にするなんて、怖いもの知らずもいたものだ」
他人事のように言う三船だが、その顔はさやかより酷い。頬は青黒く腫れ、口元にはガーゼが張られている。首には、制服の襟では隠せないほどくっきりとした痣があった。
さやかの臓腑が、憎悪で音を立ててねじ切れそうになった。
「誰にやられたの。三船にこんなことした奴、ただじゃおけない」
「おお、怖。夏目が言うと、冗談には聞こえないね」
「冗談じゃない。殺してやる」
断言したさやかに、三船が笑みをひっこめた。
「私は、夏目を殴った相手も気になるんだけどね。我が校きっての優等生を傷物にしたのは、一体どこのどなた?」
「三船が昨日会った相手のガードマン」
さやかが正直に答えると、三船が「わお」とおどけて両手を上げた。
「驚いた。私たちは同じ日に、同じ場所で殴られたわけだ。これって運命だね」
「僕は答えた。三船を殴った相手のことも、分かる範囲で教えて」
さやかと違って、三船はさやかのことも、自分自身のことも、一切心配なんかしていない。だが、駆け引きには応じる。
三船は細い指で、制服のポケットから一枚の名刺をつまんだ。
それから、その名刺をおもむろに口にくわえた。
「…?」
戸惑うさやかに、三船はすっと距離を詰めた。
朝日が差す窓際で、さやかと三船の顔が近付く。
さやかの口に、三船は口で名刺を差し込んだ。
「相手がシャワーを浴びている間に、バッグの中から拝借した。本物だったら見ものだね」
三船は、そう言って腫れた頬を上げて笑った。
「……」
さやかは、ゆっくりと自分の口から名刺を外して見た。
そこには鯖栄という名前と共に、都内にある大病院の名と、外科医という肩書が記されている。
男が金持ちそうだったのも、ガードマンたちの高慢な態度も、さやかはこれで理解した。
――僕みたいな高校生が逆らえっこないって、奴らはそう思ってるんだ。
ふつふつと沸き上がる怒りが、さやかの中から全ての躊躇いを蒸発させた。
「三船。僕は今日、早退する」
「おやおや。私なんて、皆勤賞が欲しいから、こんな顔でも出て来たのに」
「三船も今日は帰ったほうがいいよ。そんな顔、人の目に晒して欲しくない」
さやかがそう言うと、三船はいよいよ楽しそうに眼鏡の奥の瞳を細めた。
「我らが生徒会長がどう動くか、楽しみにしてる」
猛然と学校の正門へと戻るさやかの髪が、秋の冷たい風に吹かれて靡く。
昭和60年の10月が終わろうとしていた。




