74話 マリオネットの舞踏
第74話 マリオネットの舞踏
昭和60年10月――朱雀組4代目組長・秋津イサオが殺される3か月前。
さやかは、都内の屋台でイサオと斑鳩に囲まれて、ラーメンを食べていた。
「どんとけえ。今日は俺のおごりだ」
そう言って、イサオは大きな笑顔で笑った。
イサオが笑うと、そこだけ真昼のように明るく見える。さやかは、不思議に思わずにはいられなかった。
――この人があの朱雀組の組長……秋津イサオなのか…。
写真週刊誌で何度も見かけた顔と名前だが、実際に見るとひどく現実味がなかった。
イサオがいるのは狭苦しい、安っぽい屋台だ。さっきから質素な醤油ラーメンを音を立てて啜っては、旨そうに頬を上げている。
気さくな東北弁といい、青龍会とこの国を二分する大物ヤクザだとはとても思えない。
「4代目…って、本当にあの朱雀組の組長なんですか」
さやかが思わず率直な疑問を口にすると、イサオは豪快に笑った。
「ははっ!そうビビんなって。俺なんか、田舎の小せえ組の親分さ。なあ、斑鳩」
「冗談きついですよ、ボス。大羽の秋津一家から、天下の朱雀組にまで上り詰めたのは、どこのどなたですか」
斑鳩の言葉に、さやかは週刊誌で読んだ秋津イサオの立身伝を思い出した。
秋津イサオが朱雀組の4代目を襲名した時、それはもうどの雑誌も大きく話題にしたものだった。
何故なら、イサオは東北の彩北の出身、それも貧しい大羽という町の、秋津一家という小さな組から成り上がったからだ。
「週刊誌に書いてあったことって、本当なんですね」
「ばかげ、あったなもの読むな。俺について、あることねえこと書かれてるんだからな」
「ボスだってよく読んでるじゃないですか、スポーツ新聞に週刊誌。パシらされてるのは俺なんだぜ」
斑鳩に突っ込まれ、イサオはまた「ばかげ」と言った。
「あれはな、あねこたちの乳だの尻だのが見てえから買ってんだ。俺たちのことが書いてあるページなんざ、ケツ拭いて流すぐらいしか役に立たねえよ。あんなもん読んでたら、何が本当か分からなくなっちまう。何せ、嘘のほうが面白いと来てるんだからな。どいつが敵で、どいつが味方なのか…。俺は、みんな信じてえんだけどな」
有名人も大変、ということだろうか。ビールを口にするイサオの横顔に哀愁を感じて、さやかは思わず励ましてしまった。
「雀卓ではいつも一人です。みんな、自分の信じたいものを信じるしかありませんよ」
一瞬、その場がしーんと静まり返った。
やがて、イサオがふっと噴き出した。
「はははっ。今の返し、俺の弟そっくりだ」
だども、と言って、イサオはグラスに口を付けた。
「お前はまだまだ子供だな。確かに、雀卓じゃ誰もが一人だ。周りはみんな敵、四面楚歌って奴だ。だが、力を貸してくれる奴は、必ずいるんだぞ」
「そうでしょうか」
イサオのように、苛烈な裏社会の最前線を走る男がそんな風に言うのは、さやかには意外だった。
イサオは、とんとんと自分の額を差した。
「俺の頭ん中にいる奴らさ。若い頃の自分かもしれない、昔会ったことのある奴かもしれない。家族や恋人かもしれない」
深く皺の刻まれた顔は、さやかよりずっと多くの出会いと別れを繰り返してきた証だろう。さやかは、イサオがここにはいない大切な人たちを想っているように見えた。
「人は、その場で会うのが全てじゃねえのさ。形を変えて、俺の一部になっていつも共にいる。時には、それが厄介なこともあるが」
イサオの話は抽象的で、さやかには少々難しい。それでも、何とか理解しようと試みた。
「うーん…。たった1枚の麻雀牌でも、確かに卓にある135枚の牌の仲間ですものね。そういうことですか?」
「お前、麻雀強いのにホントにバカだなあ」
イサオからしげしげと言われ、さやかはむくれた。
それをフォローするかのように、イサオは話を今夜の麻雀勝負に転じた。
「お前、しったげ強かったなあ。本当に、うちの弟……ミノルを見てるみてえだった」
さやかの隣に座る斑鳩が、レンゲを振って説明した。
「ミノルさんっていうのが、うちの一番の代打ちだ。今日闘った雉丸さんとは比べ物にならないほど強いぞ」
「…雉丸さんより、ですか?」
斑鳩の持ちかけた『腕試し』の相手である雉丸は、歴戦の経験をうかがわせる強さの持ち主だった。今回は辛うじて勝てたものの、毎回勝てるレベルの相手ではないというのが正直な感想だ。
その雉丸よりも『比べ物にならないほど強い』男――ミノルに、さやかは興味を抱いた。
「ミノルさんと打つことは出来ないんでしょうか」
思ったことをそのまま口にしたさやかに、斑鳩が「バカ」と呆れたように言った。
「ミノルさんはな、ただの代打ちじゃないんだ。うちの――なんつったか――とにかく、すごくえらい立場の人なんだぞ。それに、ボスの弟でもある」
「えっ…」
さやかは、その『ボス』――秋津イサオの顔をまじまじと見た。
よくぞ聞いてくれた、とばかりにイサオがにんまりとどんぶりを持ち上げた。
「おう。秋津ミノルつってな、俺の14歳下の弟だ。つーことは、今年で45歳か。んだってのに、まんだ嫁の一人もいなくってよ。若ぇ頃から麻雀一筋、麻雀命な男なんだ。麻雀牌とは結婚できねえぞって、いっつも言ってるってのに」
「素敵な人ですね」
さやかは思わずそう言ってから、ちょっと口元を手で押さえた。
イサオはさやかの発言を特に訝しむ様子もなく、「そうかぁ?」と言った。
「ミノルはうちの最高顧問やっててよ、今は中国さ行ってて忙しいんだ。んだども、お前はもううちの代打ちになったんだから、いずれ会えるべさ」
「…それは、楽しみです」
言葉を選び選び言ったさやかの肩を、イサオがばしばしと叩いた。
「あっはっは、ホントにお前、ミノルさそっくりだな。斑鳩がスカウトした気持ちが分かる」
「はあ」
「俺も、半信半疑でしたが……まさか本当に、雉丸さんに勝つとは」
未だに驚きを隠せない様子の斑鳩に対し、イサオも「んだな」と頷いた。
「だが、こいつの勝ちはまぐれなんかじゃねえ。それは、お前も分かったべ」
「はい。何というか、今までのうちの組にはいなかったタイプの代打ちだと思います。少なくとも、若頭の子飼いにこんな若い代打ちはいないでしょう」
斑鳩の口から「若頭」というワードを聞いて、さやかはまた週刊誌のページを思い出した。
――朱雀組の若頭……確か、組長とは対立してるって言われてたな。
朱雀組はイサオが組長に就任する前、長い内乱状態にあったという。
内部分裂の一方の雄がイサオの上役であり、もう片方がその若頭の後ろ盾だった。詳しい経緯は知らないが、イサオが組長になった以上、敗者の側となった若頭に、遺恨が残ったということか。
――僕って、もしかして結構、複雑な権力争いに巻き込まれようとしているのか?
そこに、ざっざっと大勢の足音が響いてきた。
繁華街の一角とはいえ、ただの酔客の団体ではないことぐらいは、さやかにも伝わった。
――なんだ、この異様な雰囲気…!
さやかが振り返ろうとしたのと同時に、斑鳩が立ち上がった。
「若頭……!」
噂をすれば、だ。
件の「若頭」が誰なのかは、一目瞭然だった。ずらりと並んだ色とりどりのスーツ姿の男たちを引き連れ、その中央に座す長身の男。
赤みのかかった明るい色の髪に、ワインレッドのスーツがいかにも貴族然として映る。
どこか親しみやすいイサオとは対照的に、この男――若頭は、気位の高そうな表情をしていた。
若頭は、重々しく口を開いた。
「4代目」
「おう、柘植。なんだ、こった時間に」
先ほどまで上機嫌でラーメンをすすっていたイサオが、露骨に顔をしかめている。
柘植と呼ばれた若頭は、ふっと冷ややかな笑みをもらした。
「探していたんですよ、4代目のことを。まさか、こんな場末の屋台にいらっしゃるとは思わなかったものですから。……朱雀組の4代目ともあろう方が」
柘植の口調には、たっぷりとした含みがあった。
どうやら、週刊誌に書かれていたイサオと柘植の確執は本当らしい。さやかは、居心地の悪さを感じた。
――なんか、イヤ~な雲行き……。
「……。………!?」
イサオからふと、さやかに目線を移した柘植が、そこで初めてさやかの存在に気付いたかのように、ぎょっと目を丸くした。
信じられないものでも見るかのような柘植の目付きに、さやかは慌てて顔を伏せた。
――まずい。気付かれたか…!?
柘植とさやかの無言のやり取りには気付かず、イサオはどんぶりを乱暴に置いた。
「やがましなあ、俺がどこで何食おうが勝手だなや!どうせお前、俺が新しい代打ちをスカウトしたって聞いて、面でも拝んでやろうと思ったんだべ」
「…ええ、おっしゃる通り」
柘植はとりあえず、イサオとの論戦に集中することにしたらしい。気を取り直すかのように、スミレ色のループタイに触れた。
「雉丸では栄えある朱雀組の代打ちとしては力不足だ――というのは、以前から私も憂慮しておりました。4代目の懐刀である最高顧問は、今や麻雀よりも、交渉事で多忙の極み。最高顧問に次ぐ代打ちがいるべきだ、と考えるのは、朱雀組の者として当然のことでしょう」
柘植の回りくどい言い方に、イサオが眉間に皺を寄せる。
「お前、あれだべ?自分とこから代打ちを出そう、って企んでたんだべ」
「…ええ。ご存知でしょうが、我が柘植組には、関西で鳴らした打ち手が揃っていますから」
関西でも有数の雀士たち――。想像したさやかは、ちょっと惹かれた。
「雉丸はしょせん、4代目の話し相手がせいぜいの田舎者ではないですか。ああ、これは4代目が田舎者だ、という意味ではありませんが」
柘植は嫌味たらしく笑ってから、「それで?」と言った。
「4代目が、私のお勧めした代打ちたちを退けてまで引き抜いたという、新しい雀士はどちらに?」
「ここにいるべさ」
「えっ?」
戸惑った様子の柘植に対し、イサオはぐいっとさやかの肩を引き寄せて、指で差してみせた。
「こ・れ・が!俺の新しい代打ちだ。名前は、えーっと…」
言いかけたイサオの語尾に、柘植の笑い声が重なった。
「くくく……はっはっはっは!」
「あ?何笑ってんだ、お前」
というか、声とは裏腹に、柘植の顔は全く笑っていない。
その冷ややかな無表情のまま、柘植はじろりとイサオを見下ろした。
「これは、とんだお笑い草ですね。天下の朱雀組の4代目ともあろうお方が、うら若き少女を代打ちにしようだなどとは」
「うら若き……ショウジョ?」
ショウジョ、ともう一度言ってから、イサオ、そして斑鳩の目線が、両側からさやかを射抜いた。
「お前、女だったのか!?」
男2人からステレオ状態で驚かれ、さやかは憮然とした。
――騙したのは僕が悪いけど、ちょっと失礼じゃないかな……。
さやかは当時、男装して雀荘に通っていた。
はじめは兄・たくみの服を拝借していたが、神経質な兄の目を誤魔化すのが面倒になってきたため、高校生になって小遣いの額が増えてからは、自分で男物の服を揃えるようになった。
それも、親から借りたダボダボの背広を着る――なんて、不良中学生のやるようなお粗末な変装ではない。
男性向けのファッション誌を精読した結果、さやかの体格をそのまま生かした、『小柄でスマートな少年』路線が一番自然になった。
髪は帽子で隠し、服はさやかが普段着るのと同程度の、無理のないサイズを選んだ。よく見れば女だとバレてしまうかもしれないが、そもそも格好に不自然さがなければ、相手からそこまで観察されることもない。
無理に『男』を演じるのではなく、『女』だと意識されない服装。それが、さやかの出した最適解だった。
――まさか、朱雀組のヤクザまで騙されるとは思わなかったけど。
むっつりとするさやかを中央に、イサオと斑鳩は口々に驚きの声を上げた。
「おい、斑鳩。お前、こいつが女だって知らずに声かけたのへ?」
「いやその、……はい。まさか、女だなんて思わなかったもんだから」
「あいしかーっ。いや、これはたまげた。これが女……」
そう言うイサオの目線は、明らかにさやかの胸元に向けられている。さやかは、思わず手で胸元を覆った。
――どうせ、ここだけは男装いらずですよーだ。ふん!
「アカネと同じか…」
イサオがぽつりと呟いたが、繁華街の喧騒にかき消されて聞こえなかった。
そこで、柘植がおもむろにさやかの頭上に手を伸ばした。
「!あっ…」
ひらりと帽子を取られ、さやかの長い髪が夜風に舞った。
その姿を見て、改めてイサオと斑鳩が「女っ…」と息を呑む。
驚いて顔を上げたさやかは、そこで柘植の意外な表情を目にした。
優しげな――労わるような瞳。
「行きましょう。ここは、あなたのような乙女がいるべき場所ではありません」
さっきまでのイサオに対する高飛車な態度とは、まるで別人のようだ。何なら手まで差し伸べられて、さやかは反応に困った。
――この柘植って若頭……もしかして、悪い人じゃないのか?
柘植の手を取るべきか否か、さやかが迷っているうちに、イサオがわざとらしい声を出した。
「あーっ、お前、こいつをどさ連れて行く気だあ?この『ロリコン伯爵』ぅ!」
「ボス、ちょっと!」
斑鳩が悲鳴のような声を上げた。
柘植の周囲にいた若衆たちが、さっと顔色を変える。
『ロリコン伯爵』――。
さやかも、そのあだ名を知らないわけではなかった。なんなら、知っているからこそ、柘植という男に若干、警戒心を抱いていたのだが。
「………」
本人の前で言ってはいけない言葉だということは、柘植の表情にありありと滲んでいた。
「女だろうが何だろうが関係ねえ!お前のロリコン相手にされるぐらいなら、俺が愛人にするべさ!」
「ボス、胸の小さい女には興味ない、って言ってませんでしたっけ?」
イサオも斑鳩も、柘植の顔からどんどん光が消えていくのが見えないのだろうか。
さやかにも若干腹の立つようなことを言い合う2人に、柘植は静かに告げた。
「……とにかく、私は彼女を新しい代打ちにすることには、断固反対致します。女性を、しかもこんな年端も行かない少女を組の道具にするなど、人の道に反する行為です」
じゃりじゃりと音を立てながら、柘植はスーツの胸元を探った。どうやら、ネクタイの下にネックレスでも着けているらしい。
「やはり4代目は野蛮過ぎる……悪魔の手先と変わりない……」
誰にも聞こえないような声で呟いてから、柘植は若衆に命じた。
「お前たち。そこのお嬢さんを、車で送って差し上げなさい」
「はっ」
うやうやしく頷いたスーツ姿の男たちに囲まれて、さやかはちょっと慌てた。
「ま、待ってください!その…柘植さん!」
「なんですか。ああ、うちの者たちは厳しくしつけていますから、女性に対して粗相はしませんよ。ご自宅までは遠いですか?」
柘植は、さやかに対しては意外と親身になってくれる。それだけにちょっと言いづらいが、さやかはハッキリさせずにはいられなかった。
「僕は、その……4代目の下で、麻雀を打ちたいんです!ですから、朱雀組の代打ちをやらせてください!お願いします!」
立ち上がって頭を下げたさやかに、柘植が言葉を失った。
「なんという……!4代目!」
柘植はヒステリックな声を上げると、汚いものでも見るかのように顔を歪めた。
「こんないとけない少女に、あなたは一体どんな卑劣な脅しをかけたのですか!」
「えっ!?いやその、違います、これは僕の意志で」
柘植の思わぬリアクションにさやかは面食らったが、柘植は止まらない。
「恐ろしい…。神をも恐れぬその所業、いずれ天罰が下るでしょう」
「ロリコンにバチが当たってねえなら、大丈夫だなや」
イサオはイサオで、売り言葉に買い言葉だ。横で斑鳩が、頭を抱えている。
バチバチッ、と、イサオと柘植の間に稲妻が走るのが見えた気がした。
「……」
「……」
しばしの睨み合いの後、イサオがふと、思い出したように聞いた。
「お前、名前なんて言うんだ」
「あ、夏目…さやかです」
これまでは、苗字でしか名乗っていなかった。男だと誤解されたままのほうがちょうどいいと思っていたからだ。
斑鳩がまた、「やっぱり女か」などと呟いた。
「さやか、か。歳はいくつだ?」
「えっと…高校3年生です」
「高3か…」
ふむ、とイサオは顎に手を上げると、にんまりと笑った。
「そうだ、お前、ミノルの嫁さなってけれ!そうすりゃ、夫婦で朱雀組の代打ちやれるぞ。ミノルは晴れて独身卒業できるし、朱雀組は負けなしだし、一石二鳥だべ!どうだ?柘植」
真昼みたいなイサオの笑顔に対し、柘植は明けることのない夜みたいな暗さで答えた。
「地獄に落ちますよ、4代目」
屋台のラジカセから流れる演歌が、しーんとしたその場を虚しく滑っていった。
さやかが雀荘『ジャンジャン』で斑鳩と再会したのは、その数日後のことだった。
「斑鳩さん!」
卓から立ち上がって駆けてきたさやかに、斑鳩は驚いた様子を見せた。
「お、おう」
「先日はどうも。それで、4代目のご意見はどうですか」
真顔のさやかに詰め寄られ、斑鳩ははぁと溜め息を吐いた。
「お前……なんか、裏で金渡してくる政治家みたいだな。本当に女子高生なのかよ」
「どうなんですか。やはり、僕が朱雀組の代打ちになるのは難しいんでしょうか」
斑鳩は頭の後ろをぽりぽりと掻くと、「ここじゃなんだから」と言って、さやかと共に店を出た。
ほど近い喫茶店『ダイアモンド』で、さやかと斑鳩は奥の席に座った。
「まず、お前が代打ちになる話は、まだ望みがある」
「本当ですかっ!?」
前のめりになったさやかに、斑鳩はちょっと顔を引きつらせながら、事情を説明した。
「いくらうちのボスが大らかだと言っても、流石に女子高生を代打ちにするのは抵抗がないわけじゃないさ。だが、若頭の横槍で優秀な代打ちを諦める、という流れには、もっと抵抗があるんだ。ボスと若頭は犬猿の仲だからな」
「それって、先代の組長と若頭の争いが原因って言われている話ですか」
さやかが週刊誌でよく目にする説を口にすると、斑鳩は手をひらひらと振った。
「あんなの、お二人にとってはもう昔の話さ。そりゃ、きっかけはそれだけど、今はあんな年寄りどものことなんか頭にないだろう。ボスと若頭は、根本的にウマが合わないんだ」
さやかにも、分からなくはない。何せ先日、イサオと柘植の気質の違いを目の当たりにしたのだから。
東北の貧しい田舎の出身で、天真爛漫、豪放磊落な風雲児――秋津イサオ。
一方、神戸の富裕な港湾エリアを背景に持ち、厳粛で謎めいた都会のエリート――柘植雅嗣。
生い立ちから性格まで、とにかく両者は真逆だ。そこに過去の確執まで絡めば、険悪な関係になるのも無理はない。
――でも、それが僕にとってはチャンスになるかもしれない。
この数日、斑鳩から何の連絡もなく、不安な日々を過ごしていたが――事情を知った今、さやかは俄然、前向きになってきた。
「つまり、若頭に僕の実力を認めてもらえれば、4代目も鼻が明かせますよね」
「お前、何考えてるんだ?」
さやかは自信たっぷりに、策を開陳した。
「若頭の下には、ご自慢の素晴らしい代打ちたちがいるんでしょう?だったら、僕とその人たちで勝負しましょうよ。僕が勝てば、若頭だって女だからどうの、とは言えなくなるはずです」
すると、斑鳩がはあっと肩から力を落とした。
「呆れた奴だな。自分が負けたらどうなるか、ってのは考えないのかよ」
「僕は負けませんから。負けた後のことより、敗北自体が僕にとっては破滅です」
斑鳩はやれやれ、と額に手を当てた。
「話をする手間が省けたな。ボスも、お前と全く同じことをおっしゃった。若頭も了承して、勝負は明日の8時だ」
「やったー!」
「ただし!」
喜ぶさやかを遮るように、斑鳩は人差し指を立てた。
「お前が負けたら2週間、教会で掃除とバザーの奉仕活動をしてもらう。それが、若頭からの条件だ」
「別にいいですよ」
あっさり受けたさやかに、今度は斑鳩が前のめりになる番だった。
「マジかよ。お前、奉仕活動って言葉の意味、分かってんのか?タダ働きだぞ」
「分かってますよ。僕でお役に立てるんでしたら、別に勝負がなくても行きますけど」
「ええっ……」
理解できない、という風に、斑鳩が頭を横に振った。
「…お前という人間が、分からなくなった」
「どういう意味ですか」
「だってお前、金欲しさに麻雀打ってるんじゃないのか。それもうちの代打ちになりたいなんて、相当がめつい奴だと思ってたんだが」
歯に衣着せぬ物言いに、さやかは苦笑した。
「お金が欲しくないわけじゃありませんよ。対価があったほうが燃えますし、自衛のためにもお金は必要です」
雀荘で絡まれた際、腕力で対抗できないさやかは、よく金を渡して解決している。親からの小遣いをそんなことに使いたくはないので、雀荘で稼いだ金がさやかの生命線だ。
「でも、僕の目的は麻雀そのものです。面白い勝負がしたい、もっと強い相手と闘いたい。朱雀組の代打ちになれば、この国でもトップクラスの勝負が出来るでしょう?」
にっこりと言うさやかに、斑鳩は「驚いた」と口元を押さえた。
「ミノルさんみたいな麻雀バカが、この世にもう一人いたなんて……」
じゃあ明日の勝負で、と『ダイアモンド』で別れようとしたところで、さやかたちの前に見慣れない車が停まった。
「!」
サンタナから顔を覗かせたのは、眼鏡をかけた品の良い男だ。
――この人、確か若頭の傍にいたような……。
男はさやかに軽く会釈してから、斑鳩に言った。
「若頭がお呼びです。そちらの、夏目さやかさんと話がしたいと」
「だってさ。どうする?」
斑鳩に顎を向けられ、さやかはすぐに受けた。
「分かりました」
「じゃ、俺も行く。大事なボスの代打ちを、さらわれたりしちゃ敵わないからな」
さやかと斑鳩は、共にサンタナの広い後部座席に乗り込んだ。
眼鏡の男は、若頭補佐の小鳥遊と名乗った。
「いやあ、話には聞いてましたが、本当に普通の女の子じゃないですか。4代目も、何を考えておられるのやら」
どこか関西なまりのある小鳥遊の言葉は、嫌味というよりも世間話の陽気さがあった。あの陰気な柘植とは対照的に、軽やかな気性を感じる。
「若頭はどう考えてるんだ。こいつのこと」
斑鳩の直球の物言いにも、小鳥遊は顔色を変えずに答えた。
「ああ、若頭はそりゃもうカンカンですよ。いたいけな女子高生になんてことをさせるんだ、朱雀組は女衒商売じゃないんだぞ、って」
「ゼゲン?」
「女の人をかどわかして、夜のお店に斡旋する人のことです」
さやかが解説すると、斑鳩が「はーん」と頷いた。
「相変わらずお堅いな、若頭は。俺たちはヤクザだろ」
「斑鳩さん、くれぐれも若頭の前でそんなことは言わないでくださいよ。若頭は若い女の子をとにかく心配する方なんですから」
小鳥遊の言葉に、さやかの脳裏に浮かんだのはイサオが言った『ロリコン伯爵』という暴言だった。
「ロリコンだからか」
案の定、斑鳩が爆弾発言を口にしたので、さやかは舌を噛みそうになった。
それまでは涼しい顔で話をしていた小鳥遊が、急に怖い顔になった。
「口の利き方には気を付けて欲しいですね。おたくらがそういう言い方をするから、若頭と4代目の間がややこしくなるんでしょうが」
「ややこしいのはそっちだろ。やましいところがなきゃ、ハッキリそう言えばいいんだ」
「やましいところはありません。これでええでっか」
バックミラーに、舌を出す小鳥遊の顔が映った。
どうやら、イサオと柘植の不仲は本人同士のみならず、部下たちの間にも亀裂を生んでいるようだ。
――大物ヤクザなのに、なんか、ちょっともったいない気がする。
イサオも柘植も、そしてここにいる斑鳩と小鳥遊も、癖はあるがそれなりに賢い人たちだ。さやかがこれまで雀荘で打ってきた市井のオッサンたちとは、人間としての格が違う。
イサオと柘植が和解すれば、朱雀組はきっとさらに勢力を拡大できるだろう。
そんな風に思ってしまうのは、「大きくなった朱雀組で、女性初の代打ちになり、あわよくば日本一の代打ちに」という野心がさやかにあるせいかもしれない。
――なんていうか、居心地がいいんだよな。この人たちの傍にいると。
学校は、模試の成績だの親の機嫌だの、デートだのクラスメイトの陰口だの、生徒も教師も、目の前の小さなことに汲々としている連中ばかりだ。校舎はあんなに広いのに、学校にいると瓶詰めにされたピクルスみたいな気分になってくる。
雀荘も同じだ。さやかにとっては最大の戦場とはいえ、いるのはやっぱり、日銭や目の前の勝ち負けにとらわれたオジサンばかり。麻雀は好きだが、オッサンのだらしなさがゴム風船のように無限に膨らむ雀荘という空間は、気分のいいものではなかった。
――朱雀組でなら、僕は気持ちよく麻雀が打てるのかな。
5か月後には高校を卒業し、晴れて誰の目も気にせずに雀荘に通える身分になる。将来を考えずにはいられない時期だからこそ、さやかは朱雀組との関係に真剣に向き合う気になった。
――僕はちょうど、4代目と若頭の価値観がぶつかるところにいる。その僕なら、2人を和解させることができるかもしれない…。
ぼんやりとしていたさやかの思考が、徐々に形を成していく。車もちょうど、柘植の待つホテルに到着するところだった。
柘植が待っていたのは、およそさやかのような女子高生には縁のない、超高級外資系ホテル『ニュー・シグナス』だった。
白鳥の形に刈り込まれたトピアリーが並ぶヨーロッパ風の庭園を抜け、回転扉をくぐった。
エントランスに一歩、足を踏み入れただけで、都会のごみごみとした喧騒が遠ざかる。代わりに、シャンデリアの煌めく灯りと、どこまでも続くふかふかの絨毯が、さながら舞踏会のようにさやかを出迎えた。
海外からの客も多く、ホテルマンが流暢な外国語で応答している。ゴージャスなロビーを背景に、身なりの良い客たちがさざめく様子は、映画を見ているようだ。
しかも、さやかが案内されたのは、最上階にあるスイートルームだった。
このまま上昇し続けたら、天国まで行ってしまうのではないか。そう錯覚するほど長いエレベーターを降りると、しんと静まり返った最上階フロアに出た。
「失礼します。例の方をお連れしました」
小鳥遊が紹介し、さやかは軽く頭を下げた。
スイートルームの大きな窓の傍に腰かけた柘植が、ゆっくりと頷いた。
「どうぞ、楽にしてください。あなたは私の客人なのですから、気を遣う必要はありません」
「はい…。失礼します」
さやかがぎこちなく座ると、小鳥遊がにこやかに聞いた。
「お茶にしますか。コーヒーでも」
「じゃあ、ホットを一つ。ブラックで」
「かしこまりました」
斑鳩が「おい、俺は?」と言ったが、小鳥遊は無視してフロントに電話をかけた。
面々を見回した柘植が、物憂げに溜息を吐いた。
「…若い女性を男3人で囲むというのは、あまり気分のいいものではありませんね。女性を同席させるべきでした」
「あ、いえ、お気遣いなく…」
ルームサービスからコーヒーを受け取った小鳥遊が、手早くさやかの前にカップを置く。にっこり笑顔つき。
対照的に、柘植の表情はどこまでも陰鬱だ。さやかに対してというより、これがこの男の地のようだ。
「夏目さやかさんでしたね」
「はい」
「今日は、あなたにお伺いしたいことがあってお呼び立てしました」
やはり、面接か。さやかは、少しだけ身構えた。
これでも受験生だ。面接の練習なら、もう200回はやっている。
――しかも、これは僕の麻雀人生を賭けた面接だ。絶対に間違えることは出来ない…!
「単刀直入に聞きましょう。あなたはなぜ、朱雀組の代打ちになりたいと思ったのですか」
「朱雀組でなら、この国で一番面白い勝負が出来ると思ったからです」
柘植、小鳥遊、斑鳩の三者から、空気が抜けるような気配がした。
困惑の色を滲ませながらも、柘植はなお表情を変えずに続けた。
「麻雀がお好きなのですね。雀荘では満足できませんか?」
「僕はまだ18です。今後の人生、麻雀で生きていけるチャンスがあるなら、それを逃したくはありません」
とことん攻めの姿勢のさやかに、脇で見ている小鳥遊が目を見開いている。
そこで柘植が、つと冷徹な目になった。
「死ぬかもしれませんよ。或いは、死よりも重い代償を払うこともあるでしょう」
ヤクザの代打ちになれば、命を賭けた勝負を強いられることだってある。女であるさやかなら、身体を賭けさせられることだってあるかもしれない。柘植は、暗にそう言っていた。
さやかとて、ヤクザの代打ちになる危うさを考えなかったわけではない。
だが、それを考えるたびに、頭をよぎるのは三船の顔だった。
金もいらない。肉体の快楽さえも必要としない。ただ息をするように、男の手で自分の身体を汚す。さやかには理解不能の領域にいる少女の、薄情で美しい横顔。
「僕は、力が欲しいんです。男から、何も奪われないための力が」
それは、言ったさやか自身でさえ驚くような、心の奥底に隠れていた本音だった。
さやかより遥かに優秀な兄・たくみ。雀荘でさやかを見下す、傲慢な男たち。
そして、さやかの愛する三船を金で買う男たち。
彼らによって、さやかのプライドがどんなに抑圧されてきたか――今、さやかはようやく自覚した。
そのためなら、ヤクザの力を借りることすら辞さぬほど、さやかは追い詰められていたのだ。
――だけど、こんな理屈、『男』の側にいるヤクザに通用するわけがない。
というか、いい笑いものだろう。何の力もない女子高生が、「男に勝つ力が欲しい」なんて言っているのだから。
さやかの脳裏に、たくみの取り巻きたちの笑い声が蘇る。
しょうがないよ、さやかちゃんは女の子なんだから――。
これからも、お兄ちゃんの助手として頑張ってくれよ――。
さやかは、ぎゅっと膝の上に置いた両手を握り締めた。
だが、笑い声は、どこからも起こらなかった。
斑鳩も、小鳥遊も、柘植も、ただ静かにそこにいた。
「あなたが思うほど、我々は強い存在ではありませんよ」
ぽつりと柘植が言ったのは、しばしの静寂の後だった。
「男社会は、女性が思っている以上に残酷なものです。弱者は強者に骨の髄まで搾り取られ、弱者はさらに自分より弱いものを虐める。弱者のレッテルを貼られることを恐れ、常に自分以外の誰かを蹴落とそうと躍起になっている。卑しい世界です」
柘植は、訥々と自分の話を始めた。
「私もかつては、強者に虐げられる側の人間でした。家は貿易商をやっていましたが、あの忌まわしい戦争で家も店も失い、家計は火の車。生き残るためには、どんな怪しい商売にでも手を出さざるを得ませんでした」
柘植は裏社会で金を稼ぐ傍ら、独学でビジネスについて学んだ。家業に生かすために、簿記や外国語も習得したという。
「当時の私の原動力になったのは、プライドでした。私はあの戦争で、不当に己の人生を奪われたという屈辱がずっと胸に残っていました。もう惨めな想いはしたくない、誰にも見下されたくない。その一心で、休む暇もなく駆け抜けていたように思います」
やがて、家業がそれなりに復調してきた頃、柘植は取引先の一つだった海外商社の娘と結婚した。
「彼女はとても強い女性です。それこそ、彼女の悋気に触れるようなことがあれば、生爪を剥がされるぐらいのことは平気でありました」
それは「強い女性」というより、「怖い女性」と言うのでは、とその場にいる誰もが思ったが、口にはしなかった。
「ですが、彼女は誰よりも私を信じ、私の背中を押してくれました。今の私があるのも、妻の存在があればこそです。そして……」
そこで、柘植は一瞬、虚ろな瞳になった。
だが、すぐにその気配を消し、さやかに向き合った。
「夏目さやかさん。あなたの覚悟は、よくわかりました。あなたが朱雀組の代打ちになることを応援は出来ませんが……もしもあなたが明日の勝負を制したなら、私から文句を言うことは難しくなるでしょう」
健闘を祈ります、と言って、柘植は話を締めくくった。
帰りの車の中で、小鳥遊が神妙な調子で話し始めた。
「私からお話ししたってことは、若頭には内密にして欲しいのですが」
そう前置きして、小鳥遊は柘植が話さなかった過去を打ち明けた。
「若頭には、亜里沙さんという一人娘がいたんです。たいそう利発でお美しいお嬢さんで、若頭も姐さんも、それはもう可愛がっておられました」
ですが、と言って、小鳥遊は顔を曇らせた。
「10年前、亜里沙さんは殺されました。青龍会に。まだ8歳でした」
あまりにむごたらしい事実に、さやかは声も出なかった。
小鳥遊は事情を説明した。
当時、柘植は朱雀組の中でも反青龍会派の急先鋒であり、青龍会にとっては最大の標的だった。青龍会は柘植を襲撃することで、朱雀組全体に釘を刺そうと企んだのだ。
そして、悲劇は起こった。
「その日、若頭は自ら、亜里沙さんを学校へお送りしていました。その車が、青龍会の連中に囲まれたんです。若頭は事態を収めるべく、亜里沙さんを車の中に残して、若い衆と共に外に出ました」
乱闘のような事態になった後、青龍会の組員の一人が、柘植の車に手榴弾を投げ込んだ。
想像したさやかは、思わず瞑目した。
「…辺りは、騒然となりました。爆発に巻き込まれて、うちからも青龍会からも怪我人が出ました。若頭が燃え盛る車の中に飛び込もうとするのを、私たちが必死でお止めしました」
小鳥遊の声は、まるで事件が昨日のことかのように沈痛だった。
「若頭のお嘆きようは、見ていられないほどでした。あの事件が起きる前の若頭は、それはもう底が抜けたように明るくて、冗談のお好きな方だったんです。それが、あんな形でお嬢さんを失ってからは、別人のように変わってしまわれた…」
さやかは、柘植がいつも暗い表情をしている理由を悟った。柘植が、さやかのような若い少女をとても気遣う理由も。
――若頭はずっと、亡くなったお嬢さんのことを…。
「夏目さん」
小鳥遊が、バックミラー越しにさやかのことを見た。
「あの事件で青龍会のみならず、若頭とお嬢さんも世間からバッシングを受けました。ヤクザの娘なんだから、ヤクザに殺されるのは当然だ、迷惑だから一般市民を巻き込むな、といった調子でね」
「そんな…」
「うちと関われば、夏目さんもお嬢さんのような目に遭うことがあるかもしれません。何かあっても、世間は夏目さんを庇ってはくれない。堅気の皆さんからは、白い目で見られる稼業です」
小鳥遊の声は、さやかの胸の奥深くに染み入った。
「今なら、まだ引き返せます。命を粗末にしないでください」
「つったって、なあ」
小鳥遊の車を降りた後、駅前のベンチに並んで座った斑鳩は、至ってドライだった。
「若頭は、死んだ娘が恋しくてロリコンになったってだけだろ。お前、あんなお涙頂戴に引きずられるなよ」
斑鳩のセリフはあまりにも無神経だったが、それでさやかはちょっと冷静にもなった。
――確かに、あの話は若頭側の戦略なのかもしれない。
柘植の娘の死は事実なのだろうが、それを今、さやかに話すのには意図があるだろう。
すなわち、ヘタに脅せばかえって強情を張りかねないから、泣き落としでさやかに代打ちを諦めさせようというわけだ。
そう考えると、さやかは若干腹が立ってきた。
「引きずられませんよ。若頭のお話には同情しますけど、僕には僕の未来がありますから」
「そうこなくっちゃ」
斑鳩はズボンの膝をパンと叩くと、おもむろに立ち上がった。
「ボスは田舎の出身でありながら、今や天下の朱雀組の親分にまで上り詰めた。成り上がり物語は、何も男だけのものじゃないよな?」
いたずらっぽくこちらを覗き込む斑鳩の眼を、さやかは真っ直ぐに見上げた。
「僕が代打ちになれば、僕をスカウトした斑鳩さんもお手柄ってことですか?」
「バーカ、こんなことぐらいで手柄になんかならねえよ。それに、俺は出世とは無縁の人間だ」
「どうして?4代目の側近じゃないですか」
斑鳩の名刺には、肩書きが書かれていなかった。さやかはてっきり、斑鳩は表向きにはしない類の、親衛隊のようなポジションなのだと思っていたのだが。
斑鳩はそれには答えず、「明日、頑張れよ」とさやかの肩を叩いた。
「4代目はお前のことを気に入ってる。きっと何もかも上手くいくさ」
斑鳩の瞳は、澄み渡って眩しい。それはイサオが放つ太陽のようなオーラではなく、光を通すガラス玉に似ていた。
その日の勝負も、あの高級麻雀クラブ『金糸雀』で行われた。ここは、朱雀組の息のかかった店なのだろう。
さやかが柘植の用意した代打ちたちとの勝負を制したのは、午前4時を回った頃だった。
朱雀組4代目・秋津イサオと、若頭・柘植雅嗣が直々に観戦する、という異様な光景だったが、さやかはあまり緊張していなかった。
――話のスケールが大きすぎて、頭がついてこないだけかもしれないけど。
さやかにとっては大物ヤクザたちの威光より、雀卓の上で何が起こるかのほうが重要だ。さやかは、事前にあれこれとシミュレーションをし、徹夜で麻雀ノートにびっしりと対策を書き込んで、今日の勝負に臨んだ。
が、実際の勝負は意外とあっさりしたものだった。もしやと思って警戒したイカサマ行為や暴力の類もなく、代打ちたちはみな、無駄なことは一切しなかった。
――雉丸さんもいい人だったし、一流のヤクザは一流の代打ちを雇ってるってことか。
感心したものの、正直、柘植の代打ちたちはあの雉丸より強いとは思えなかった。確かに経験豊富で技術も優れているが、トリッキーだった雉丸よりも手が読みやすい。何というか、ヤクザの代打ちにしては、打ち回しがお上品すぎる印象だ。
拍子抜けしたさやかだが、負けたのにどこかホッとした様子の代打ちたちの表情を見て、その理由が分かった。
――そうか。4代目と若頭の前だから、みんな緊張してたんだ。
それは臆病ではなく、極道に仕える者たちの覚悟の重さだ。彼らがこの勝負に――さやかにとっては腕試しに過ぎない勝負にも、人生を賭けて挑んでいたことに、さやかは終わってから気付いた。
彼らと比べて、無邪気に麻雀を打っていただけの自分が、とんでもなく幼稚に思える。
萎みかけたプライドを、さやかは鼓舞した。
――未熟さも含めて、僕の武器だ。4代目だって、それを見込んでくれているはず。
さやかがイサオを見ると、ちょうど目と目が合った。
「いんやあ、すっげえ勝負だったな。久々に胸がスカッとした。柘植の代打ちなんか、お前の敵じゃなかったな」
イサオが高らかに笑うと、さやかに負けた代打ちたちが、所在なさげに俯く。
柘植はと言えば、はぁっとこれ見よがしな溜め息を吐いた。
「…どうやら、長い間、大きな勝負を最高顧問任せにしていたせいで、うちの代打ちたちは腑抜けてしまったようですね。嘆かわしい」
「んだ、負け惜しみか?」
ニヤニヤと笑うイサオに対し、柘植はどこまでも重たい空気で答える。
「そう受け取っていただいて結構。私は、未だに4代目の正気を疑っています」
「おいおい、お前、それはねえべや」
柘植は、あの悲しみを含んだ目でさやかを見た。
「こんな可憐なお嬢さんに我が組の命運を預け、敗れたら全てを奪う……4代目は、娘を失う親の気持ちがお分かりにならないのでしょうか」
柘植のまとう悲しみは、まるでブラックホールのようだ。
娘の惨死をさやかの将来に投影する柘植が、さやかは少し恐ろしくなった。
――泣き落としっていうより、普通に脅しかもしれない…。
自分に対する柘植の態度は、優しさや労わりとは別種のものなのかもしれない。さやかは、ようやくそれに気付き始めた。
「分かるさ」
イサオがぼそっと呟いたが、気に留める者はいなかった。
代わりに、ブラックホールの存在など意にも介さず輝く太陽のような笑みを浮かべる。
「なぁ~に、俺だってこったな小娘をすぐにうちの代打ちにしようなんて考えてねえさ」
「えっ?」
と言ったのは、さやかである。
――は、話が違う…!
さやかの戸惑いをよそに、イサオは大儀そうにソファから立ち上がった。
「うちの代打ちで一番強くて偉いのは、ミノルだ。ミノルに勝てたら、こいつを正式にうちの代打ちに決める」
「ミノルさんって、いつ帰国されるんですか!?」
思わず口を挟んださやかを、斑鳩が慌てて引っ込ませる。
さやかの疑問に答えたのは、柘植の横にいる若頭補佐の小鳥遊だ。
「そうですなあ、最高顧問は中国で超高層ビル建設の利権を賭けた大勝負の真っ最中ですから、年内に帰国出来るかどうか、ってところですかねえ」
あと2か月――。その間に、イサオや柘植の気が変わらないとも限らない。
さやかは、急に自分が壮大な茶番に立たされているように思えてきた。
「それまでは、こいつはうちの代打ち見習いだ。それでいいか?柘植」
柘植はイサオとは目を合わせず、リノリウムの床のさらに下、地の底を見つめるような調子で言った。
「くれぐれも、朱雀組の恥になるような真似は慎みますよう、衷心から申し上げます」
「お前の言うことはいちいち分かんねえんだよな。海外かぶれで日本語忘れたんでねえか」
再び、イサオと柘植の間にビシッと稲妻が走り――居並ぶ代打ちたちもさやかも、思わず身を竦めた。
結局、その場はそれでお開きとなり、終電を逃したさやかは朱雀組の車で自宅まで送られたのだった。
日曜日の雀荘『ジャンジャン』でさやかを待ち受けていたのは、斑鳩ではなく小鳥遊だった。
「昨夜はお疲れ様でした。もう雀荘に来るなんて、夏目さんは生粋の雀狂ですな」
鶯色のスーツも洒脱な小鳥遊は、関西なまりも隠さずに朗らかに笑った。
朱雀組の若頭補佐というだけあって、小鳥遊の周囲にはずらりとスーツ姿の若い衆がついている。卓で打っている客たちが、ヤクザの登場にちょっと目を丸くしていた。
「お楽しみのところすみませんが、お茶でも一杯、いかがですか」
「…はい、わかりました」
実際、小鳥遊の誘いはさやかにとってもありがたかった。
正直、柘植の代打ちたちと打った後では、雀荘に来るオッサンたちと打つのがひどく退屈だった。それに、朱雀組の代打ちになる件がうやむやにされたのではないかという気がして、麻雀に身が入らなかったのだ。
サンタナまで案内されたさやかは、中にいる人物を見てぎょっとした。
「…若頭」
「こんにちは、夏目さん。本日は、急にお伺いして申し訳ありません」
後部座席に座す柘植が、慇懃に頭を下げた。
「夏目さんをお連れしたい場所があります。ここから30分ほどのところにある、聖メリエンヌ教会です。お時間を頂けますか」
「は、はい」
雀荘から教会へ――。何だかバチが当たりそうだな、と思いつつ、さやかは車に乗った。
「あの、若頭」
さやかが切り出すと、柘植が首を左右に振った。
「あなたはうちの組員ではないのですから、私のことは柘植と呼んで結構です」
「はあ…じゃあ、柘植さん。柘植さんは、4代目と和解する気はありませんか」
いきなり直球をぶち込んださやかに、助手席の小鳥遊が驚いて振り返った。
柘植が、訝しそうに目を細めた。
「そのようなことを私に言えと、4代目があなたに命じたのですか」
「いえ。偉そうに聞こえるかもしれませんが、4代目も柘植さんも非常に頭の切れる方たちです。そんなお2人がいがみ合っているのは、朱雀組にとって損だと思うんです」
小鳥遊が、柘植の顔色を伺うように眼鏡の奥の瞳をきょろきょろさせた。
柘植の目線は、真昼の陽光溢れる車窓に向けられた。
「夏目さんは何故、男の格好をして雀荘に通っているのですか」
「えっ?えーっと…知り合いにバレないようにするのと、あと…雀荘に女が通ってて、いいことは特にないので」
さやかが正直に理由を述べると、柘植が表情をやわらげた。
「私も、夏目さんと同じです。私が私であることを通せば、4代目とは相容れないのです」
「そんな…」
「4代目が夏目さんに声をかけたのも、私との対立を念頭に置いているのです。私と意見が合わない事柄は、麻雀で決そうというおつもりなのでしょう」
斑鳩があんなに熱心にスカウトしてきたのは、そういう事情が背景にあったからなのか。さやかは納得すると同時に、イサオの考えに感心した。
――確かに、麻雀対決って形にすれば、どんないざこざであれ恨みっこなしだ。代打ちたちに打たせるんだから、本人同士でケンカするよりも禍根は残りにくいし、冷静になる時間も稼げる。
しかし、柘植はイサオのアイディアをより悪意的に受け取っていた。
「4代目には最高顧問という、麻雀の天才が付いていますからね。あの方らしい、浅はかな考えです」
「でも、そのミノルさんは中国に行っちゃって、いないじゃないですか」
「ですから、焦って後釜を探したのでしょう。あなたのような、何も知らない少女を騙すような真似をして」
柘植はとことん、イサオのやり方が気に入らないらしい。さやかは一応、フォローに回った。
「僕は、麻雀で解決するのはすごくいいと思います。4代目だって、柘植さんと仲良くやっていきたいってことでしょうし」
「どうでしょうね。自分が必ず勝てるやり方を選んだだけだと思いますが」
「柘植さんは、4代目と仲良くしたくないんですか?」
ずけずけと言ったさやかに、小鳥遊がまたも驚いた表情で振り返る。
柘植は少し考えるように沈黙してから、ふっと苦笑した。
「若頭という立場から言えば、4代目を全力でお支えするべきなのでしょうね。それは、重々理解しています。ですが、私とあの方が、真に分かり合える日は来ないでしょう。それだけ、私たちはあらゆる点で食い違っている」
「それは、過去にあったことが原因ですか」
イサオを可愛がっていた先代組長と、柘植の後ろ盾だった先代若頭の対立については、さやかも週刊誌のバックナンバーを読んで調べてきていた。
長い分裂状態にあった朱雀組を治めた男こそ、4代目を襲名した秋津イサオだったこと。だが、それが柘植にとっては、必ずしも歓迎すべき結末ではなかったこと。
朱雀組の下には多くの地方ヤクザがおり、多種多様な利害が複雑に絡んでいること――。
イサオと柘植の間にあるのは、さやかが一言で片づけてしまえるような、簡単な亀裂ではないのかもしれない。ただ、さやかは言っておきたかった。
「過去にあったことが、朱雀組の未来よりも大事なことですか。朱雀組の人間は、過去にあったことをずっと引きずっていかなきゃいけないんですか」
口にしてしまってから、さやかはハッとした。
これでは、柘植の娘の死をないがしろにしたようにとらえられかねない。さやかは、柘植の個人的な過去まで忘れろと言うつもりはなかった。
流石にまずかったかと身構えたが、続けて発せられた柘植の声音は、温かなものだった。
「…そうですね。若いあなたたちにとっては、過去を引きずるのは年寄りのする愚かなことに思えるでしょうね」
「いえ、そこまででは…」
「未来、ですか。思えば、大事なものを失ってから、私は一度も未来というものを前向きに考えてこなかった気がします」
柘植の言葉に、さやかは考えさせられた。
――最愛の娘に、後ろ盾だった上司。柘植さんは、二度も大事なものを失っているんだ。
「私の娘については、小鳥遊が話したようですね。あの事件以降、私はこの世界から足を洗うことも考えました。私のせいで娘が命を落とし、世間からいわれなき非難を浴びたのは事実ですから」
「柘植さんのせいじゃありません!」
さやかは、そこは何としても断言しておきたかった。悪いのは、無関係な柘植の娘を犠牲にした青龍会だ。
柘植は微かに微笑んでから、真剣な目付きになった。
「娘の仇を討つまでは、この稼業を続ける。それが、私と妻が娘に立てた誓いです」
青龍会への復讐――。
柘植の目的を知った瞬間、さやかは、柘植とイサオの対立にある根本的な原因を悟った。
――柘植さんは、本当は自分が朱雀組のトップに立ちたかったんだ。
娘の仇を討つ。そのためにも、柘植自身が陣頭に立ち、青龍会と全面対決したいに違いない。
だが、イサオには、柘植ほど強い青龍会への憎しみはない。そこが、2人の間に大きな温度差を生んでしまっている。
「ですが、私の復讐劇に、未来ある若者たちまで付き合わせるというのは、確かに愚かしいことかもしれませんね」
4代目に私と和解する気があるかは分かりませんが、と前置きしてから、柘植はこう言った。
「娘の無念を晴らした先にあるものは、明るい未来が望ましい。そのためにも、私は4代目に歩み寄るべきなのでしょうね」
やがて、車は坂の上にある教会へと辿り着いた。
聖メリエンヌ教会は、青空を背に白亜の外壁をくっきりと浮かび上がらせていた。
庭には秋咲きのバラが咲き乱れ、丁寧に刈り込まれた木々に彩りを添えている。
「ここって、僕が昨夜の勝負で負けたら奉仕活動をすることになっていた教会ですよね」
さやかが言うと、柘植は穏やかに「ええ」と頷いた。
「今は、バザーの後片付けが終わったところです。この美しい景色を、夏目さんにもお見せしたくて」
中に入った柘植は、聖堂の上部にある真っ青なステンドグラスを手で示した。
「わあ…」
それは天空の高さと、海の煌めきを併せ持つような、何色もの青がちりばめられたステンドグラスだった。
このステンドグラスを見ていると、自然と心が遥かなものへの憧憬へと向かう。まさに、神を想う場所に相応しい一枚だ。
そこから差し込む青い光に照らされながら、柘植とさやかは向かい合った。
「ここは、娘が…亜里沙がとても気に入っていた場所なのです。夏休みに海に行ってから、彼女はとても青という色が好きになって…」
娘の話をする時、柘植の横顔にうっすらとだが明るい笑みが浮かんだ。
これがきっと柘植の本来の顔なのだろうな、とさやかは思う。
「夏目さんが麻雀で生きていきたい気持ちは、昨夜の勝負を見て強く伝わってきました。あなたに、それを実現できるだけの能力があることも」
ですが、と言って、柘植はさやかの肩に手を置いた。
「私や4代目が若かったころとは、時代が違います。これからは、裏の世界などを渡らなくとも十分、あなたの力を発揮できる世の中になっていくでしょう。あなたには、それを待つだけの時間があるはずです」
「柘植さん、僕は…」
さやかには時間などない。放課後になれば男に身体を売る三船がいて、工学の世界で華々しく活躍する兄がいる。
柘植は「それと、もう一つ」と言った。
「あなたが麻雀で生きたいのであれば、男の格好をするのはおよしなさい。それが、本来のあなたの姿というわけではないのでしょう」
「それは…でも」
確かに、さやかは普段から男装をしているわけではない。好きこのんでこういうファッションをしているわけではないのも事実だ。
「己を偽った姿で勝ったところで、本当に勝ったと思えますか。夏目さんは、自分の好きな姿で、自分の好きなことをしていいのですよ」
柘植の言葉は優しい。
だが、自分より遥かに年上で、朱雀組の若頭でもある柘植からそんなことを言われると、「素直になれ」と宥められているような気もして、抵抗がある。
そんなさやかのプライドを、今度は挑発するように柘植が笑う。
「それとも、男の格好をしていなければ、怖くて麻雀が出来ませんか」
「そんなことありません」
反射的に答えてしまってから、さやかは慌てて自分の口を塞ぐ。
「自分自身を、窮屈な場所に閉じ込めてはいけません。いつでも、どこにいても、あなたらしい姿でいれば、賢明な判断が出来ることでしょう」
青みを帯びた光の中で、柘植の声音はどこまでも温かく響いた。
別れ際、柘植はワインレッドのスーツから、革の財布と名刺を取り出した。
「これをどうぞ。私からのささやかな贈り物です」
ささやか、と言うには、さやかの手に渡された財布はずしりと重かった。しかも、名刺は柘植自身のものだ。
困惑するさやかに、柘植はにこりともせずに言った。
「下賤の輩を黙らせるには、それで十分でしょう。何かあったら、私の名を出しなさい」
これを受け取ってしまったら、完全に柘植に取り込まれたことになってしまうのではないか。そうは思ったものの、さやかは礼を言って財布と名刺をバッグにしまった。
――僕に、自分の身を守る力がないのは事実だ。利用できるものは、素直に利用したほうがいい。
さやかが帽子を外して頭を下げると、柘植は窓の向こうで微かに笑ってから、サンタナで走り去っていった。
自分自身を窮屈な場所に閉じ込めてはいけない――。
柘植は結局、さやかにイサオの言いなりになるな、と説得したいだけだったのかもしれない。
それでも、さやかの心は動いた。
――僕は、自分を窮屈な場所に閉じ込めることに慣れていたのかもしれない。
家や学校だけではない。自分と兄を比べる連中への諦め、売春する三船を引き止められないという弱気。男装しなければ行けない雀荘。
今まで、こんなにもたくさんの窮屈さの中に自分を追い込んでいたことに、さやかは気付かなかった。
――僕はただ、そうやっていろんなものから逃げていたんだ。闘っているふりをして、本当は安全圏にいただけだ。
認めたくはないが、兄の怒りはある意味、正当なものだったのかもしれない。さやかは何に対しても、100%の本気で向き合うことを避けていたのだから。
――僕は弱い。だけど、もうそれを誤魔化さない。
放課後、さやかは一旦、自宅に戻って着替えてから、雀荘『ジャンジャン』へと向かった。
長い髪には、いつも学校で付けているのと同じ、真っ白なリボン。
服は襟付きのシャツに紺のトレーナー、長めのスカート。雀荘のタバコ臭さが移るのは嫌なので、数年前に買ったちょっとくたびれた服を選んだ。
それでも、ちょっと緊張する。こんなにも「素」の、「女」の格好をして雀荘に行くなんて、ほぼ初めてだからだ。
追い出されたらどうしよう、などと考えながら『ジャンジャン』の前に立ったさやかは、そこでとんでもない美女を発見した。
――わあ。綺麗な人……。
外側にパーマをかけた長い髪に、キラキラと光を弾くような長い睫毛。大きな瞳は黒瑪瑙のように濃く、顔立ちは幼げなのに、つんと尖った唇が色っぽい。小柄だがボディラインは完璧な曲線を描いており、胸の開いた赤いペアワンピが様になっている。
派手な出で立ちから察するに、水商売だろうか。それにしたって、雀荘『ジャンジャン』は軽食喫茶も兼ねるような店で、こういう女性が来るところは見たことがない。
――ていうか、こんな美人を連れて来るような甲斐性のある客、このお店にはいないと思うんだけどな。
さやかが入り口の前に立つと、女性がきらっとイヤリングを揺らして振り返った。
「あっ!あなただね!」
「えっ?」
「夏目さやか。私たちのボスのお気に入り。そうでしょ?」
真っ赤に塗られた唇から名指しされ、さやかは胸がどきっとした。
「そ、そうですけど…あなたは?」
「私、ヒナ!雛子っていうの!」
女性――雛子は、にこにこと顔いっぱいに笑みを浮かべた。
「ああよかった、あなたに会えて。お兄ちゃんったら、あなたはいっつも男の子の格好をしてるから、ヒナには見分けがつかない、なんて言うんだよ?でもヒナ、あなたのことを一発で見つけちゃったもんね!ラッキー!」
そう言ってはしゃぐ雛子は、よく見ると大きな瞳が――澄んではいるが、どこかガラス玉のように虚ろな瞳が、あの男によく似ていた。
「もしかして、斑鳩さんの…?」
「うん!ヒナとお兄ちゃんはね、双子の兄妹なんだよ!」
そう言うと、雛子はさやかに抱きついて、頬にキスをした。
斑鳩の双子の妹が、何故ここに――などという疑問は、身体に当たる胸と唇の柔らかい感触によって、綺麗さっぱりさやかの中から消え去った。
雛子のはつらつとした魅力にのぼせ上がっているうちに、さやかは繁華街にある店に連れて来られていた。
クラブ『ハーピー・ナイト』――黄色い地に朱色のネオンが、まとわりつくような色気を放っている。
客たちがめいめいに着飾った女に囲まれて飲む店内をすり抜け、さやかと雛子は奥の個室へとやって来た。
「コンコーン!ボス、夏目ちゃんを連れて来たよー!」
ノックは声だけで、雛子はいきなりドアを開けた。
中にいた斑鳩が、能天気な雛子を見て顔をしかめる。
「お前な、ノックするならドアを叩けって言ってるだろ」
「やだもーん!ドアを叩いたら、ヒナのおててが痛くなっちゃうもん。ねーっ、夏目ちゃん」
雛子に柔らかな胸を押し付けられ、さやかはちょっと夢見心地になりながら「ええ、まあ」と適当に答えた。
艶のある壁に囲まれた個室は、密談をするのにぴったりの大きさだった。テーブルの上には酒瓶とアイスペール、豪勢なつまみなどがずらりと並べられている。
ヴェルヴェットのソファに腰かけたイサオが、鷹揚に手を上げた。
「おー、雛子。お前、ちゃんとそいつを迎えに行けたか」
「うん!ねっ、ヒナにもちゃんとできるって言ったでしょ?」
自慢げにさやかを抱く雛子に、イサオがうんうんと頷いた。
「お前なら、柘植も警戒しねえからな。あいつ、ロリコンだから」
柘植の名を出され、さやかはようやく我に返った。
――柘植さんと会った直後に、4代目からの呼び出し。これは…。
「おいお前、大丈夫だったのか?若頭からまた呼び出されたって聞いたが」
斑鳩に切り出され、さやかはここに自分がいる理由を察した。
「…確かに昨日、若頭とお会いしました。ですが、僕は何もされてませんし、朱雀組で麻雀を打ちたいという気持ちにも変わりありません」
さやかがはっきりと答えると、イサオがぱんと膝を叩いた。
「ん~っ、いい返事だべ。いやー、マジでミノルの嫁に来て欲しいなや」
イサオはごそごそと赤いスーツの懐を探り、1枚の写真をテーブルの上に置いた。
「ほれ、見れ。この端っこさいる眼鏡かけた髪の長い奴が、秋津ミノルだ」
「この人が…」
イサオの指さす先にいたのは、ボルドーレッドのスーツに同色の中折れ帽を被り、波打つ黒髪を一つに結んだ、洒落た雰囲気の男だった。
家族写真らしく、一葉の中にはミノル以外にも何人か映っている。イサオは、順々に説明した。
「俺の隣にいるべっぴんが俺の嫁のカグラ、隣にいるうるわしい美青年が俺の息子のユタカだ。なんださやか、ユタカに惚れたか?そうだ、ユタカの嫁になってもいいぞ」
「ボス、その話は…」
斑鳩に渋い顔をされ、イサオが「さいっ。んだったな」と己の額を叩いた。
斑鳩の妙に深刻な調子が、さやかはちょっと気になった。
――このユタカって人、ワケありなのかな。
写真に写る秋津ユタカは、色白の肌に七三分けの前髪がくっきりと映える、母親似の青年だ。
「まあ、ユタカのことはさておいて、こっちゃいる眼鏡かけた奴が、俺のすぐ下の弟のススムだ。あの秋進コーポレーション、って会社の社長やってんだぞ。こっちの目付き悪い奴が、3番目の弟のタケル。俺の後を継いで、大羽で秋津一家の総長してるんだ」
家族のことを語るイサオは、とても楽しそうだ。家族想いなんだな、とさやかは思う。
そこで、イサオがようやくさやかの格好に気付いたように、大きな眼を瞬かせた。
「あん?お前、今日はやけにめかしこんでるでねが。なした?」
「めかしこんでるって……これが普通ですよ。男の格好をするのは、もうやめることにしました」
雛子から酒を注がれていた斑鳩も、さやかの服装に気付いて手を止めた。
「やっぱりお前、若頭にたらし込まれたんじゃないのか。愛人になれとでも言われたとか」
「たらし込まれてません。これが僕の普通です」
ぶすっと口を尖らせたさやかは、いつの間にか背後に忍び寄っていた雛子に触れられ、ぎょっとした。
「このおっきなリボン、かわいーい!モンシロチョウみたいっ」
「そ、そうですか」
間近で笑う雛子は、あまりにも無邪気で愛らしい。どぎまぎして、さやかはぎこちない返事しか出来ない。
「リボンか」
イサオは呟くと、「よし!」といきなり声を上げた。
「お前は今日から『リボン』だ!」
「は?」
「そのほうが呼びやしべ?よし、決まりだ!」
イサオに勝手に決められ、斑鳩まで「よろしくな、リボン」と肩を叩いてきた。
「リボン……」
――漫画雑誌みたいだけど、通り名みたいなものだと思えばかっこいいか。
無理やり自分を納得させたさやかに、雛子が零れるような笑顔でもたれかかってきた。
「リボンちゃん、リボンちゃんもお酒飲む?」
「いえ。僕はまだ高校生ですから」
「マッジメだなー。雀荘さ通ってるくせして、酒は飲まねえってか」
さやか自身もそうは思うが、飲み慣れない自分が酒を口にしても、ろくなことはない。
雛子が、いつの間にか空になった銀の盆を手に立ち上がった。
「じゃあヒナ、リボンちゃんのためにジュースもらって来てあげるね!お菓子も持ってこよーっと」
「俺も行く。ボス、日本酒でも飲みませんか」
「んだな。ビールばっか飲んでたら飽きてきた」
そう言いつつ、イサオは傍らのビール瓶から手ずからグラスに注いだ。
雛子と斑鳩が退室すると、部屋にはさやかとイサオの2人きりになった。
「あの…、4代目は、今日は護衛の皆さんはお連れしていないんですか」
先日の『金糸雀』での麻雀の時は、イサオも柘植も大勢の若衆を引き連れていた。ものものしい空気にさやかは閉口したものの、朱雀組の幹部という立場を考えれば当然だろう。
イサオはローストビーフを手でつまみながら「いんや」と言った。
「大勢で動けば、青龍会だの柘植だのに嗅ぎつけられっからよ。今日はお前が柘植となんた話したのか聞きたかっただけだし、わずらわしいのはいらねえ」
「そうだったんですか」
わざわざさやかを呼び出すあたり、イサオは相当、柘植の動向を警戒しているらしい。
仮にも同じ組の組長と若頭なのに――そう思いつつ、さやかは、イサオに柘植から聞いた話を語った。
「若頭は、亡くなったお嬢さんの復讐にこだわっているようでした。だからこそ、4代目とは隔たりを感じていらっしゃるのかと」
さやかの話を黙って聞いていたイサオは、「知ってる」と言った。
「青龍会は惨いことをする。柘植が青龍会を恨むのは、当然だ」
そう言ったうえで、イサオは「だども」と話を転じた。
「ここだけの話だが、俺は青龍会と手を組むつもりだ」
「青龍会と…!?本気ですか」
朱雀組と青龍会と言えば、この国を二分する不倶戴天の間柄だ。
首都圏をメインに、手段を選ばぬ強引さで勢力を拡大する青龍会。それに対し、朱雀組はイサオや柘植のような地方の雄が多く、横の繋がりで青龍会に迫ろうとしている。
両者の間では、さやかが生まれる前から大小の抗争が相次いでいる。その一つが、柘植の娘が命を落としたあの事件でもあるのだ。
数多の禍根を持つ青龍会と朱雀組の間に、和睦する道などありえるのだろうか。
「出来るか、出来ねえかじゃねえ。俺たちは、手を結ばなきゃならねえところまできているんだ」
イサオの眼は、ひどく真剣だ。そこまでイサオに言わせる何かが、さやかの知らない場所で起こっているのだろう。
「だが、柘植にしてみりゃ到底、呑める話じゃねえ。だから、困ってる」
さやかは、イサオがさやかを代打ちにした背後にあった事情をようやく理解した。
――4代目と若頭は、青龍会との協力を巡って対立してる。その決着を、麻雀勝負でつけようとしているんだ。
しかし、はっきり言ってさやかにはあまりにも荷が重い。柘植の悲しみも、イサオの本気も、麻雀で解決していいような簡単なものではないだろう。
「若頭に事情を説明するわけにはいかないんですか。4代目がそこまでおっしゃるような事情なら、若頭も理解してくださるんじゃ…」
「お前、ホントにミノルみてえな口の利き方をするなあ。中にミノルが入ってるんじゃねえか?」
冗談めかして笑ってから、イサオは後ろ手を組んでソファにもたれた。
「説明なんかしたって無駄だ。どんな言葉を使ったって、もう柘植の心は血を流してるんだ。誤魔化しは効かねえ。だったら、とことん憎まれたほうがいい」
「そんな…」
「とことん憎み合って、いがみ合って、やり合って、その結果なら、柘植も承知するだろ。俺たちは、力で答えを出すしかねえんだ」
力で答えを出すしかない――。イサオが考えた結果、最も平和的な『力』が、麻雀なのだろうが。
――誰かを無理やり屈服させるために利用されるなんて、僕は嫌だ。
それに、イサオも柘植も、本当はそんな解決方法は望んでいないのではないか。
さやかに対して一度も乱暴なことをしなかった男たちなら、分かり合える方法があるのではないか――さやかは、そう思えてならなかった。
しんみりとした空気に割り込んだのは、ガチャリとドアが開く音だった。
「遅かったじゃねえか、斑鳩――」
と言いかけたイサオの口が、あんぐりと開けられた。
そこにいたのは、斑鳩と雛子ではなく――ワインレッドの洒落たスーツに身を包んだ、柘植と小鳥遊だった。
「柘植。お前、なしてここに…」
驚いて立ち上がるイサオを、柘植は冷ややかに見下ろした。
「何故、とはこちらのセリフですよ、4代目。このような場所で、夏目さんと何をなさっていたのでしょうか」
小鳥遊が扉を閉めると、一気に空気が張り詰めた。
「お前、俺のケツなんか追っかけまわして何が楽しいなや。それとも、そったにリボンのことが気に入ったのか。ロリコン伯爵」
悪態をつくイサオに対し、柘植の表情が険しくなる。
「4代目が夜の店に若い女性を連れ込んだとあっては、私が憂慮するのも当然のことかと。夏目さんのことを狙っているのは私ではなく、4代目なのではありませんか」
「やがまし!誰がこんなちゃっけー胸狙うかってんだ」
「むっ」
さやかは目を釣り上げたが、天下の朱雀組の4代目と若頭の言い争いに口を挟む度胸はない。
「それはそうと4代目、聞くところによれば、最高顧問と何やら内密に国際電話で連絡されたそうですね。若頭たる私にも、ご相談の一つもしてくださればよろしいのに」
柘植の嫌味ったらしい含みに対し、イサオは「うだてぇ~っ」と顔をしかめた。
「俺が俺の弟と喋って何が悪ぃってんだ。勝負のあんべについて聞いただけだ」
「そうでしょうか。随分と高額な電話代の請求が来たそうですが、そんなに長話をしたのですか?」
「お前、なしてそれを…。ススムか!」
ススム、というのはイサオのすぐ下の弟だったな、とさやかは頭の中で確認する。
柘植は顔色を変えずに「ご想像にお任せします」とだけ言った。
「最高顧問とは、勝負のことだけでなく、この夏目さやかさんのことや、青龍会とのことまでご相談になられたのではありませんか?4代目」
「なんだ、青龍会とのことって」
――まさか、さっきまでの話が聞かれていたのか。
内心ハラハラするさやかをよそに、柘植は更に先を行っていた。
「4代目が極秘に青龍会の人間と連絡を取っておられると、出入りの記者が目撃していましたよ。記事にするのは止めましたが、それもいつまで保つことやら」
「ブンヤか。あい、腹悪ぃ」
「それはこちらのセリフです。4代目はよもや、あの悪魔の手先たちと手を組もう、などとお考えではありませんか?」
柘植は既に、自らのルートでイサオの企みに辿り着いていたらしい。イサオの目が泳いだ。
「さあ、どうだかな」
「誤魔化さないでください、4代目。もしも本気で青龍会と手を組むおつもりならば、私にも考えがあります」
「どったな考えだ、そりゃ」
ぎろり、とイサオが柘植を睨む。イサオも柘植も、完全に喧嘩腰だ。
思いもよらない修羅場に、さやかは肝を冷やしていたが――別の疑問も頭をよぎった。
――斑鳩さんと雛子さん、やけに遅くないか?
斑鳩と雛子が部屋を出て行き、入れ違いのように柘植と小鳥遊がやって来た。まるで、誰かがそうなるように仕組んだみたいだ。
――でも、誰が一体、何のために?
そこで、イサオもふと、柘植とのにらみ合いから気を逸らすように口を開いた。
「それにしても遅ぇな、あいつら。しっこでもしてんだか」
イサオは、そう言って退屈そうにタバコを灰皿に押し付けた。
このままだと、イサオと柘植は今にも完全決裂しかねない。空気を変えるためにも、さやかはすっくと立ちあがった。
「僕、ちょっと見て来ますね」
そう言ってさやかがドアノブに手をかけた瞬間、イサオがハッと目を見開いた。
「待て!開けるな」
「えっ?」
バン!
さやかがドアノブを引くのが早かったか、ドアが外側から押されるのが早かったか――それはもう記憶にない。
確かなことは、さやかがその直後、突き飛ばされて床に倒れ込んだことだ。
「うわっ――」
という悲鳴は、部屋に飛び込んできた男の大声によってかき消された。
「動くな!お前ら全員、ここでぶっ殺してやる!」
驚いてさやかが顔を上げると、そこには大きな発泡スチロールの箱を抱えた男が立っていた。
箱の中からは、何やらカラカラという音がする。さやかは、ものすごく嫌な予感がした。
「貴様は……魚住!」
柘植の声音が、憎しみで掠れた。
魚住と呼ばれた男は、箱を抱えたままニヤリと口角を上げた。
「俺の顔を覚えていたか、柘植よ。娘の仇は忘れられねえってか」
小鳥遊に後ろから抱き起こされながら、さやかはまじまじと男を見つめた。
――この男が、柘植さんの娘の仇……青龍会!
「何故、貴様がここに…」
柘植の目線は、今にも魚住を焼き殺さんばかりに煮えたぎっている。
そんな柘植をいなすように、魚住はへへっと笑った。
「10年前のあの日、俺はてめえを殺して青龍会の若頭になるはずだった。だが、てめえは死なず、てめえのガキだけが死んだ。とんだ計算違いだ」
柘植の幼い娘を殺したことなどなんとも思っていないような魚住の口調に、さやかはぞっとした。
「世間からは青龍会はガキを殺した人殺しだと叩かれ、警察からも凶悪犯罪者として目を付けられた。俺は若頭になるどころか、トカゲの尻尾よろしく青龍会から切られた。こんなのおかしいだろ!」
魚住は唾を飛ばして怒鳴ると、片手で柘植の顔を指差した。
「柘植。てめえがあの時死んでりゃ、俺は今頃青龍会のトップになってたはずなんだ。こうなったのも全部てめえのせいだ。人殺しって言うんなら、俺よりてめえのほうが相応しいだろうが。実の娘を殺して、自分はおめおめと生き延びたんだからな!」
魚住の暴言に、柘植の表情が歪む。
隣にいた小鳥遊が、柘植を庇うように前に出た。
「言いたいことはそれだけでっか。朱雀組の若頭にこんな真似して、無事に帰れると思わないでくださいよ」
「おっと、動くなって言っただろ。朱雀組は今日で終わりだ。てめえら全員、地獄に叩き落してやる」
そう言うと、魚住は発泡スチロールの箱を開け、中身をその場にぶちまけた。
「うっ!」
悲鳴を思わず飲み込んだのは、これ以上、目の前の光景について考えたくない――思考を一切、遮断してしまいたい、とさやかの本能が命じたせいだった。
まだら模様を蠢かせながら、シューシューという音と共に身をうねらせる、無数の鱗たち。
「へ…蛇だあっ!」
小鳥遊の悲鳴を待たず、何匹もの蛇たちが、さやかやイサオ、柘植をめがけて、怒涛のように長い身体を滑らせてきた。




