73話 マリオネットの記憶
第73話 マリオネットの記憶
今から35年前――昭和26年3月3日。
秋津イサオの第四子、待望の長男として生まれた秋津ユタカは、心臓に疾患を抱えていた。
明日の命すら危うい息子のため、イサオは苦渋の決断を下す。
この国に古くから存在する幻の組織・玄武会の力を借りたのだ。
イサオは戦中、軍の任務で玄武会の計画に関わっており、禁忌とも呼べる人造人間の術を操る玄武会の恐ろしさを骨の髄まで知っていた。
それでも愛息のために、その禁忌を自ら冒さざるを得なかった。それが、息子――ユタカ自身を縛ることになると、分かっていたとしても。
こうして、秋津ユタカは生き永らえた。玄武会が用意した、複製人間の心臓を得ることによって。
「ここまでは、夏目さやか――キサマもおおよそ、パパから聞いているだろう」
蛍光灯が照らすパステルピンクの事務所で、桃華組組長・秋津ユタカが顔を上げた。
頷くさやかの横では、冬枝が眉間に皺を寄せている。
――玄武会?人造人間?複製人間……?
玄武会の噂は、冬枝も知らないわけではない。だがあれは一種の怪談、つまりはおとぎ話のようなものではないのか。
まるで現実味を感じられない冬枝をよそに、ユタカは話を進める。
「だが、ボクたち秋津一家と玄武会との因縁は、これだけじゃない。ボクが生まれる前にもう一つ、決定的な事件が起こっていたんだ」
そこでユタカは、初めて苦しそうな顔を見せた。自身の生い立ちを語った時よりも、余程辛そうだ。
「…パパたち四兄弟には、一番上の姉がいた。秋津アカネだ」
「それって…秋津タケル総長のお宅に、遺影があった人ですよね」
さやかが言うと、ユタカが「ああ」と頷いた。
「タケル叔父さんの奥さん…アズサ叔母さんはアカネ伯母さんと仲が良かったから、ああしてずっと遺影を傍に置いているんだ。アカネ伯母さんは、秋津一家の結束のシンボルでもあるからな」
非業の死を遂げたアカネのような犠牲を、二度と繰り返さない。その思いが、秋津一家の四兄弟を結束させ、秋津一家の『女には手を出さない』という厳しい掟となっている。
こうして語ると悲劇のヒロインのようだが、実際のアカネは精悍とも呼べる女丈夫で、弟たちが台頭するより前の大羽の英雄だった。男顔負けの膂力に悪知恵の持ち主で、ヤクザたちですらアカネには敵わなかったという。
「大羽には、こんな言い伝えがある。秋津家は代々、人間離れした能力を持って生まれる一族の末裔だと。その一族からは、知恵の秀でた者、容姿の秀でた者、そして腕力や体力に秀でた者が生まれてくる。だが、天与の能力に驕ったこの一族は、周囲から孤立し、長い歴史の中で衰退していった。パパたちはその分流も分流、先祖返りといったところさ」
「んなヨタ話、本気で信じてるのか」
思わず冬枝が突っ込むと、横目でさやかから睨まれた。
ユタカは至極冷静に「いや」と言った。
「こんな話、パパたちも知らなかっただろう。パパたちの両親は早くに亡くなって、家の歴史や系図なんて残ってもいなかったからな。だが、玄武会は知っていた」
玄武会への嫌悪感が、ユタカの眼差しから滲み出る。
「玄武会は、古くから人造人間の研究を行なっていたと言われている。いわゆるクローンと呼ばれる複製人間や、普通の人間よりも強靭な肉体を持つ強化人間、不老不死の研究にまで手を出していたらしい」
研究のために玄武会は、ただの実験動物としての人間ではなく、より特殊な人間を探し求めた。生まれつき人より優れた能力を持つ人間――そう、秋津一家のような。
「戦争中に旧陸軍と協力して行った『愛国のための強化兵士製造・養成計画』は、そういう特殊な人間を発掘するのが主目的だったようだ。この計画に参加したことで、パパと秋津家の特殊な血を玄武会に知られてしまった。戦争が終わった後も、玄武会はパパを訪ねて大羽に来るようになった」
そこで、玄武会の魔の手を跳ねのけた人間がいる。それが、イサオの姉・秋津アカネだった。
「アカネ伯母さんは、幾度となく玄武会を追い返してくれたそうだ。大羽にあんな化け物を入れてたまるか、とね」
だが、と言って、ユタカの表情が曇った。
「玄武会の狙いは、パパからアカネ伯母さんに変わった。パパよりも強いアカネ伯母さんは、玄武会にとって格好の研究対象だったんだ」
やがて、玄武会の訪問はぴたりとやんだ。
アカネは鉄壁だし、何より大羽は貧しい田舎だ。都会の組織である玄武会は、飽きて引き上げたのだろうと、アカネもイサオも少し楽観していた。
「その時、アカネ伯母さんは妊娠していた。玄武会は、アカネ伯母さんの子供が生まれるまで待っていただけだったんだ」
やがて、アカネの一人息子――栗林アキラが生まれる。
その1年後、アカネはこの世を去った。チンピラ同士のケンカの流れ弾が当たったのが死因だった。
「アカネ伯母さんの死は、不幸な悲劇なんかじゃない。だいたい、あの頃の大羽に、拳銃を持ったチンピラなんているわけないんだ。ただでさえ田舎なのに、戦争のせいで更に貧しくなっていた。鉄や金属の類はみんな、戦争のために国から取り上げられたんだぞ。玄武会は偶然を装って、アカネ伯母さんを殺したんだ」
そう話すユタカの唇は、蒼ざめて震えていた。身内を殺された怒りもあるだろうが、誰かのために憤っているように見えた。
さやかは、ユタカの話からさらに残酷な結論を導き出していた。
「……玄武会は、アカネさんを殺して、その遺伝子を盗んだということですね」
「ああ。とことん卑劣な奴らだ」
卑劣――と口にして、ユタカは一瞬、目を伏せた。
アカネの死は、確かに秋津四兄弟に深い悲しみを与えた。
ただ、イサオは、ほんの少しだけ安堵もしていた。これで、玄武会はもう自分を狙わない――玄武会との繋がりは切れた、と。
ずるいかもしれないが、それが本音だった、と語った父を、ユタカは責められなかった。その頃、イサオはすでに三人の娘を持つ父親だったのだ。
だが、イサオが安堵出来たのも、束の間に過ぎなかった。ようやく生まれた待望の長男であるユタカが、心臓に欠陥があったのだ。
ユタカの話を聞いたさやかが、「まさか」と顔色を変えた。
秋津アカネの血を手に入れた玄武会。心臓に疾患のあったユタカ。
「そうだ。ボクの心臓は、アカネ伯母さんの遺伝子から作り上げられたものだ」
さやかが息を呑む音が、夜の静寂に吸い込まれていった。
朱雀組の東京支部は、貿易関係の会社が多く並ぶベイエリアにある。
霜田と共に帰還したミノルは、そこで朱雀組5代目組長・柘植から思わぬ報せを受けた。
「本当ですか、5代目」
思わず聞き返したミノルに、柘植は慇懃に頷いた。
「明朝、海堂会長との会合をお約束しました。場所は都内の『ラウンジ・コバルト81』」
指定されたのが青龍会系の店なのは当然として、ミノルは驚きを隠せなかった。
――あんな形で対談が流れたのに、もう再会を許すなんて……。
栗林の身柄を巡る『セレスト・キャッスル』での対談が、柘植・ミノルの誘拐という形で破談になったのは、つい数時間前のことだ。
あの時、突如として現れた謎の青年――彼は明らかに、亡きイサオに似ていた。
――恐らく、彼は玄武会の……ですが、何故、僕と5代目をあの場から遠ざけたのでしょうか。
それについて、ミノルと共に『セレスト・キャッスル』から拉致された柘植から、何かを口にする様子はない。
今は明日の海堂との対談に心が傾いているのか、或いは別の考えがあるのか。柘植の眼差しは影を塗りこめたように暗く、ミノルにも読み切れない。
だが確かに、あの椿事について柘植と話し合うのは、海堂との取引が決着した後でいい。ミノルは一旦、亡き兄によく似た男のことは頭から追い出すことにした。
――少なくとも、彼の出現は青龍会にとっても想定外だったということが、これでハッキリしました。
海堂らにしてみれば、柘植・ミノルの退席を理由に、今度の件を白紙にすることも出来たはずだ。栗林のいるタカマガハラは、青龍会と玄武会の極秘施設。宿敵である朱雀組に見られたい場所ではないだろうが、海堂たちは朱雀組の申し入れを受け入れようとしている。
ミノルは、ダークカラーのネクタイをぎりっと握り締めた。
――やはり、海堂はそこまでして僕の首が欲しいということですか。わざわざ栗林を奪ってまで…。
ミノルの蘇芳色の瞳に、苦い無念の影がよぎる。
あの『セレスト・キャッスル』で語ったことは、建前ではない。因縁の相手である青龍会に、亡き兄の息子・秋津ユタカを囚われていることに続いて、姉の忘れ形見である栗林まで奪われたことは、ミノル、ひいては秋津一家全体にとって屈辱の極みである。
――どんなことをしてでも、栗林とユタカのことは取り戻します。それにあたって……。
ミノルは、東京にいる次兄の顔を思い浮かべた。
本来であれば、ここでミノルや柘植と共に今後のことを詰めるべき立場でありながら、社長業を優先してほとんど顔を見せない兄――秋津ススム。
――もしも、僕の身に何か起こった時……さやかさんと冬枝君のことを託せるのは、ススム兄さんしかいない。
仕事が忙しいのは理解するが、仮にも朱雀組の相談役という立場なんだから、もう少し働くべきだ。そんな風に考えながら、ミノルは受話器を取った。
ユタカの話は玄武会との因縁から、少年時代の思い出話へと移った。
「秋津一家の跡継ぎ候補は、ボクのほかに2人いた。若頭だったタケル叔父さんの息子である秋津リキ、そしてアカネ伯母さんの息子である栗林アキラ」
3人の中では栗林が最年長だが、当初、栗林は秋津一家の本拠地である大羽にはいなかった。
「アカネ伯母さんの死に深く傷ついたノボル伯父さんは、息子を連れて大羽を離れたんだ。それから15年ほど、彩北にいたそうだ」
「そうだったのか」
へー、とまるっきり他人事のような反応をする冬枝を、ユタカがじろりとにらんだ。
「ハッ、しらじらしい。クリリンが彩北にいられなくなったのは、誰のせいだと思っている」
「クリリン?」
「栗林さんのことですね」
さやかが横から補足し、ユタカがさらに話を重ねた。
「……クリリン…栗林アキラはその頃、苅屋という刑事と手を組んで、彩北で改造した拳銃を売っていた。そのせいで、地元のヤクザである白虎組に目をつけられたんだ。20年前のことだ」
「20年前……あーっ!」
ようやく思い出したとばかりに、冬枝が指を鳴らした。
「そうだ、確かにあの頃、危険な改造拳銃でぼろ儲けしてるガキがいるっていうんで、そいつの家の周りを見張ったりしてたな。そうか、あれが栗林だったのか…」
まさか、刑務所に入る前に追いかけていた高校生と、最近になって知り合ったミノルの運転手が、同一人物だったとは。
世間は狭ぇな、などと感心している冬枝とは対照的に、ユタカはぷんぷんと怒り散らしていた。
「見張ったりしてた、なんてレベルじゃなかっただろう!毎日のようにクリリンの家に押しかけたり、ノボル伯父さんがやってる時計店に嫌がらせをしたりしていたそうじゃないか!そのせいで、ノボル伯父さんは息子の身が危ないと思って、クリリンを大羽に預けたんだぞ」
「もう覚えてねえよ、んな昔のこと!第一、改造拳銃なんか作る栗林が悪いんじゃねえか!」
屁理屈といえば屁理屈だったが、ユタカはそこでぐっと詰まった。
「……そうだ。悪いのは、そんな危ないものを、まだ高校生だったクリリンに作らせた苅屋だ。クリリンは時計職人のノボル伯父さんに似てすごく器用だったから、押収した拳銃の横流しをしていた苅屋に狙われてしまったんだ」
栗林に関することになると、ユタカはやけに栗林を擁護する。さやかはそれに気付き始めていたが、冬枝にはそんなデリカシーはなかった。
「じゃあ、秋津一家は改造拳銃も作ってんのか。知らなかったな」
「今はもうやってない!クリリンだって、拳銃の改造なんてやりたくてやっていたわけじゃないんだ。ただ……」
今のユタカに無神経な冬枝と話させるのが気の毒になってきたさやかが、そこで助け舟を出した。
「栗林さんは、お母様であるアカネさんがお亡くなりになってから、ずっと父一人子一人のご家庭だったんですよね。しかも、アカネさんが亡くなったのは、栗林さんがまだ赤ちゃんの頃。栗林さんは、記憶にないお母様の死を、ずっと背負ってきたことになりますよね」
「…ああ、そうだ。ノボル伯父さんはずっとアカネ伯母さんを想い続けていたけれど、アカネ伯母さんを覚えていないクリリンとは、徐々にぎくしゃくするようになっていた。家に居場所を見つけられなくなったクリリンは、不良のような生活をしていたんだ」
そうして拳銃の改造に手を出し、白虎組に狙われるに至った栗林は、亡母の実家である秋津一家の庇護を受けることになった。
「ボクたちは、そこで初めて、もう一人の従兄弟であるクリリンと出会ったわけさ。ボクは15歳だった」
年齢の近い従兄弟3人は、程なくして打ち解けた。栗林は最年長だが威張ることもなく、『御曹司』のユタカと『若』のリキを素直に慕ってくれたという。
「クリリンは根がすごく純粋で、優しいんだ。だから、アカネ伯母さんのことを覚えていない自分を、悪者みたいに責めていた。そんなことないのに」
「ユタカさんは、栗林さんのことが大好きなんですね」
「うん!」
満面の笑みで答えてから、冬枝の引きつった表情に気付いたユタカが、慌てて居住まいを正した。
「…まあ、なんだ。秋津一家の血を引く従兄弟同士だからな、助け合うのは当然のことだ。ボクとリッキーとクリリンは一応、権利で言えば対等な後継者候補ではあったが、まあ皆がボクが継ぐものと思っていただろう。ボクはパパの長男だし、リッキーにはそもそも、ヤクザを継ぐ気はなかった。リッキーはタケル叔父さんと反目してるから、タケル叔父さんと同じ道は選ばないって言い張っていた。実際、リッキーはお見合いしてすぐに結婚、堅気になって就職した。今はモミジとカエデという2人の娘を持つ父親さ」
「モミジさんとカエデさんのお父さん…!」
大羽で会った美少女麻雀双子姉妹の顔が、さやかの脳裏をよぎった。
「クリリンにも秋津一家を継ぐつもりはなかったし、ボクはこの通り、今は青龍会に籍を置く身だ。かつての後継者3人は、すっかり空中分解したってわけさ」
「それと、てめえが秋津イサオを殺したかもしれねえって話が、どう繋がるんだ」
長すぎる昔話に、冬枝はすっかり飽きていた。
イサオの名前が出て、さやかはふと、イサオだったらユタカたちの関係をどう思うだろうか、と想像してみた。
目に入れても痛くないほど可愛がっている息子と、最強だった姉の忘れ形見である栗林。
さやかはそこで、恐ろしい事実に気付いてしまった。
「……もし僕がイサオさんだったら、栗林さんのことは脅威に感じると思います」
「ああ?なんでだよ。あのガキは秋津一家を継ぐ気なんざねえんだろ」
それに、栗林は別に腕っぷしが強いわけでもない。それは、大羽で冬枝自身が確認済みだ。
だが、さやかは首を横に振った。
「ユタカさんの心臓は、栗林さんのお母様であるアカネさんの遺伝子から作ったものです。もしそれを栗林さんが知ったら……」
「そうだ」
さやかの言わんとすることを、ユタカが引き継いだ。
「ボクがアカネ伯母さんの遺伝子を奪い、その心臓で生き永らえているとクリリンが知ったら、必ずボクに復讐するだろう。パパは、本気でそう思っていた」
或いはそれは、姉の血から作った心臓で息子を生き延びさせた自分自身に対する、イサオの後ろめたさの表れだったのかもしれない。
だが、パパが恐れたのはそこじゃない――と、ユタカは自嘲するように笑った。
「もしもクリリンに銃を向けられても、ボクは抵抗できない。クリリンはボクを殺せるが、ボクはクリリンを殺せない。だから、パパはクリリンを殺そうと考えたんだ」
ユタカの瞳から、今にも涙が溢れそうに見えて――さやかは、何も言えなくなった。
――そうだ。イサオさんは、そういう人だった。
愛情深く、同時に冷酷でもある。明るい笑顔の裏で、何人もの犠牲を強いてきた。
「パパにそんなことを考えさせてしまったのは、ボクが弱いせいさ。クリリンはボクの気持ちなんて、知りもしないのにな」
自虐するユタカに対し、さやかは思わず「ユタカさんは悪くありません!」と言っていた。
「僕がこんなことを言うのはおこがましいですが――イサオさんも、必死だったんだと思います。あの頃の僕には分からなかったけれど…青龍会や玄武会の怖さを知った今、イサオさんがどんな思いで闘ってきたか、僕にも少しだけ分かりました。イサオさんには、守りたいものがたくさんあったんですね。だから、手段を選んではいられなかった」
言い募るさやかに、ユタカがふっとほろ苦い笑みを浮かべた。
「キサマのような小娘に慰められていたんじゃ、青龍会四天王の名折れだな。キサマ、こんな状況になってもまだ、ボクやパパを庇っていていいのか?」
「…僕だってプレーヤーです。僕に僕の事情があったように、イサオさんやユタカさんにも、どうしようもない事情があった。他人事だとは思えないです」
それは、さやかの偽らざる気持ちでもあった。こうしてユタカの本心を知った以上、なおさら、イサオとユタカを責めることなどできない。
さやかとユタカは相互理解に至ったが、冬枝にはまだ疑問があった。
「おい。結局、秋津イサオを殺したのはてめえなのか、違うのか」
「冬枝さんっ!」
「だって、ここまで引っ張っておいて、一向に結論が見えてこねえじゃねえか」
冬枝は、ユタカの顔を正面から見据えた。
「てめえに、親父を殺したい動機があったのはまあ分かった。だが、実際のところはどうなんだ」
冬枝は、ユタカの気持ちや背景などどうでもいい。
知りたいのは、さやかに何をしたのか、何をするのかだ。
ユタカはそこで、酷薄な笑みを浮かべた。
「さあ。それは、ボクにも答えかねる」
「ああ?何言ってんだ、てめえ」
ユタカの白い手が、紺青色のスーツの胸元に添えられた。
「イザナギ――それが、玄武会の造った心臓を与えられたボクの、もう一つの名だ。イザナギが目を覚ます時、ボクにはその記憶がない」
二重人格、とさやかが小さく呟いた。
ユタカは、まるで他人の腕を眺めるかのように、自分の腕を広げて見つめた。
「ボクが――イザナギがパパを殺したとしても、ボクは覚えていない。だから、青龍会は夏目さやかの行方を血眼で追っているのさ」
さやかのような小娘が天下の朱雀組4代目・秋津イサオを殺したなどと、誰も本気で思ってはいない。少なくとも、青龍会ではユタカがやったと考えている。
さやかは、玉榧のホテルで柘植と交わした会話を思い出した。
『青龍会の目的は、4代目の死を己の手柄にすること。組の中から適当な犯人を出頭させ、朱雀組を討った最強の暴力団として名乗りを上げるのが狙いです』
あの時、柘植が言っていたのは――ユタカのことだったのだ。
「それを裏付けるために、青龍会には夏目さやかが必要なんだ。あの日、あの場所にいた、唯一の目撃者であるキサマがな」
遠い1月の東京から吹く風が、さやかの全身を冷たく吹き抜けた気がした。
同じく桃華組事務所内、『プリンセス』と書かれた札の下がった部屋。
義理の妹・風間鳴子と再会を果たした嵐は、ふと思い出したようにピンクの革ジャンを探った。
「朽木。これ、お前のだろ?」
それは、丸いコンパクトミラーだった。
鏡面にマジックで書かれた『めいこ』の文字に、細かなひび割れが入っている。
東京に来る前、縫琴の産城大橋で拾ったものだ。このコンパクトミラーに朽木の執念を感じて、嵐はずっとジャケットに入れて持ち運んでいた。
朽木は鏡のひび割れに顔をしかめたが、ためつすがめつ手の中で眺めた。
「なんで、てめえがこれを…そうか、あの女か」
「ん?さやかのことか?」
「ああ。これはあの女に渡したはず…」
それを聞いて、嵐の中の悪い虫が騒ぎ出した。
「あーっ!お前、鳴子にもらった鏡、さやかにプレゼントしたのか!この浮気者!」
「ああ!?違ぇよ、プレゼントなんかじゃ…」
「ほんとなの、貴彦さん?」
鳴子が、唇を尖らせて朽木を見上げる。
もうとっくに30過ぎ、世間じゃ「トウの立った」なんて言われる年頃だが、鳴子は昔と変わらず可愛らしい。義兄のひいき目かもしれないが、朽木も鳴子には甘い。
「違うよ、メイちゃん。メイちゃんからもらった大事な鏡を万が一にもなくしちゃ大変だから、麻雀小町に預けただけなんだ」
猫撫で声で言う朽木に、鳴子は「そうなの」と一応は納得してみせた。
「でもメイコ、心配。小池さんのお家で会った時、さやかちゃんも貴彦さんのことをすっごく気にしていたもの。きっと、一緒にいるうちに、さやかちゃんも貴彦さんにときめいちゃったんだわ」
「鳴子、それはさやかに失礼というものだと思うぞ」
さやかの名誉のために、嵐は横から否定しておいた。
だが、朽木と再会してすっかり恋愛モードの鳴子は、そのまま恋人の胸に頬を寄せた。
「わかってるわ、さやかちゃんには冬枝さんがいるって。さやかちゃんが、とっても一途な女の子だってことも。でも、貴彦さんはかっこ良すぎるから…」
「メイちゃん…」
完熟した桃よりもなお濃い桃色のオーラをまとう朽木と鳴子に対し、嵐は砂漠にでも取り残された気分になった。
――ついこないだまで行方不明男女だったってのに、今じゃどこにでもいるアベックだな。
呆れるのと同時に、胸に温かいものが満ちる。
時間はかかったが、どんなに遠く離れていても、鳴子は鳴子で、朽木は朽木だ。
この温もりを、遠い彩北にいる鈴子にも分けてやりたい。嵐の脳裏に、愛妻の快活な笑みと、はじけるようなバストが浮かんだ。
忘れたわけではなかったのに。
ここが東京という、この国で最も危険な暴力団・青龍会が根城にする地だということを、嵐はいつだって頭の隅に留めていたのに。
頬を染めて微笑み合う、朽木と鳴子。
目の前の光景が、この先もずっと続くのだと、嵐は信じてしまっていた。
「…が」
と言って、ユタカはソファに座った脚を組み直した。
「その様子だと、パパを殺したのはボクじゃなさそうだな」
「えっ…」
唖然とするさやかの鼻先に、ユタカは指を突きつけた。
「キサマの顔を見れば分かる。キサマが事件の関係者として念頭に置いているのは、パパとミノル叔父さん、あとはせいぜい柘植だろう」
というよりも――ユタカは、すぐに核心を突いた。
「パパを殺したのは、キサマの『生まれ変わり』であるサクヤだ。キサマは、そう考えているんじゃないのか?」
「……!」
さやかは、とっさに目を伏せた。人の考えを見抜く力は、ユタカは秋津一家の誰よりも強いのかもしれない。
「『生まれ変わり』…?『サクヤ』……?」
冬枝が、ちんぷんかんぷんといった様子で首を傾げている。
それを見て、さやかの胸に今更ながらの罪悪感が重くのしかかってきた。
――ああ……僕は、この期に及んで、まだ冬枝さんに隠し事をしていたんだ。
今まで色々な事実を伏せてきたのは、冬枝を巻き込まないためだった。だが、冬枝が青龍会四天王・桃華組の事務所まで共に来てくれた今、さやかの態度はフェアじゃないだろう。
「冬枝さん」
さやかは、意を決して冬枝を見つめた。
冬枝の灰色の瞳が、不思議そうにさやかを見返す。
「冬枝さんに、知っておいて欲しいことがあるんです。僕と――イサオさんの間に、何があったのか」
冬枝の眼が、怪訝そうに細められる。
過ぎたことはどうでもいい、これからどうするかが問題だ。
そう言いたげな冬枝は、ある意味すこぶる合理的だ。
だが、青龍会の権謀術数が渦巻くこの東京で、何も知らずにその渦中に飛び込むというのは、あまりにも無鉄砲すぎる。
何より、これはさやかが――冬枝の代打ちとして、冬枝の隣にいる人間として、冬枝に対して果たさなければならない責任だ。
さやかは、朱雀組4代目組長・秋津イサオとの出会いを語り始めた。
昭和60年10月。
都内にある市民ホールに、大勢の制服姿の高校生が集っていた。
『全国高校生機械工学大会』と書かれた看板の下で、幾人かの高校生が表彰を受けている。
審査員特別賞、奨励賞、銅賞、銀賞、――そして、金賞、の声がマイク越しに響く。
多くの高校生たちが、ごくりと固唾を飲んだ。
ここにいる高校生たちは皆、ものづくりを志して日々、勉学に励み、技術を磨いている。展示スペースにずらりと並んだロボットたちは高校生たちの汗と涙の結晶であり、分身と言っても過言ではない。
やがて、ある有名な工業高校の生徒の名前が呼ばれ、客席から歓声が上がった。
ステージに上がり、賞状を受け取った生徒は、はにかみながらも誇らしげだ。
他の生徒たちと共にパチパチと拍手をしながら、さやかは乾いた気持ちで自分の心の中を眺めていた。
――僕は、どうしてここにいるんだろう。
大会自体は、有意義なものだったと思う。他校の生徒の優れた作品には素直に感心したし、その中で自分の作品を発表出来たことは、一人の高校生として光栄だった。
ただ、どこか他人事のようにそれを眺めている自分もそこにいた。
自分のレベルが表彰には届かないことぐらい、出場前から分かっていた。それを悔しいとも思わず、さやかは淡々となすべきことをした。工業高校ではない葵山学院の生徒――それも女子――にしては上出来の回路を搭載した小型ロボットを作り、会場でまずまずの評価を得た。
――せめて、優勝者の顔でも見れば嫉妬の一つもするかと思ったんだけど。
さやかは、静かな気持ちのままで会場から出ようとした。
「さやか」
それを呼び止めたのは、陰気な男の声――その声音を聞いただけで、次にどんな嫌味が言われるか予想がつく。
ゆっくりと振り返ると、そこにいたのは眼鏡をかけた若い男――さやかの兄、夏目たくみだった。
友達のいない兄にしては珍しく、取り巻きをぞろぞろと引き連れている。いずれも兄と同じ、葵山学院ロボット研究部のOBたちだ。
「残念だったな、さやかちゃん。さやかちゃんのロボットも、いい線いってたんだけどな」
「どうも」
さやかの不愛想にも気づかず、OBたちはわいわいと慰めの言葉を並べた。
「しょうがないよ、さやかちゃんは女の子なんだから。兄貴みたいにすごい作品を作れなんて言われたって、なあ?」
「さやかちゃんが出場してくれたってだけで、俺たち大盛り上がりだったよな。葵山学院ロボット研究部、女子部員一号の、記念すべき晴れ舞台だったわけで」
「夏目なんか、小学校の頃から工学オタクの間じゃ有名人だったもんな。企業からも声をかけられるほどの技術者で、工学系のコンテストや大会は総なめ。しかも、こんな可愛い妹と一緒にやってる、って」
「大会は残念だったけど、さやかちゃんの技術力は十分示せたと思うよ。これからも、お兄ちゃんの助手として頑張ってくれよ」
勝手に盛り上がるOBたちの声を聞きながら、さやかは冷めていく己を感じていた。
――ちょっと前までは、こういう奴ら全員、蹴飛ばしてやりたかったのに。
工学の天才・夏目たくみのおまけとして扱われることは、かつてのさやかにとって耐え難い屈辱だった。しかも、自分の実力が兄に及ばない現実があるだけに、ますますさやかはプライドを傷つけられた。
今は、彼らは自分とは違う世界の住人だとしか思っていない。実際、彼らのほうだって、女で工学技術も兄以下のさやかを、「自分たちと同じ世界の人間」だとは思っていないだろう。
眼鏡越しにこちらを睨み据えている兄――たくみを除いては。
兄は今にも怒り出しそうな目付きをしていたが、そんな自分を誤魔化すように、ふんと笑った。
「見るに堪えない作品だったな。あれよりだったら、お前が小学生の頃に作った割り箸ロボットのほうがマシだった」
「そう。ありがとう」
そっけなく答えるさやかに、たくみはイライラと眉間に皺を寄せた。
「僕の嫌味が通じなかったか?ここは、工学に夢と希望を抱く人間が、今自分の出来る技術の全てを駆使して戦う場なんだぞ。それなのにお前、本気じゃなかっただろ」
流石に、兄上様は妹の心情をよく見抜いている。さやかは、内心で毒づかずにはいられなかった。
――『夢と希望』だの、『本気』だの、たっくんにしては暑苦しい言葉を使うじゃん。
さやかをペット扱いしてやまないOBたちは、兄上様ほどさやかの心情を見抜けない。消沈している妹を責める兄、の構図に気まずくなったのか、宥めるようにたくみの肩に手を置いた。
「まあ、そう言うなよ夏目。さやかちゃんだって、生徒会の活動とか、受験勉強とか、色々ある中で大会に出てくれたんだからさ」
「そうそう。ほら、こんなに可愛いんだから、ボーイフレンドでも出来たのかもしれないし。そっちに夢中になって、制作に身が入らなかったとか」
何気ないOBの発言だったが、さやかの頬がピクリと上がった。
――ボーイフレンド、か。
「うん、そうなの。『わたし』、ボーイフレンドが出来たの」
さやかがカンニングペーパーでも読み上げるように言うと、兄が眉を吊り上げた。
「は?」
「恋人が出来たのよ。だから、ロボット作りにはもう興味がなくなっちゃったの。『わたし』、女の子だから」
兄の生白い顔が、みるみる歪んでいく。
さやかの言葉が、自身のこよなく愛する工学への冒涜だということは、しっかり伝わったようだ。
兄たちに背を向けて、さやかはこっそり舌を出した。
会場を出ると、参加者の保護者で賑わう駐車場で、一人の少女がさやかを待っていた。
「お疲れ様、夏目」
「…三船!」
そこにいたのは、さやかの同級生であり、生徒会では相棒を務める三船亜弓だった。
三船は、眼鏡の奥の切れ長の瞳を少し細めた。
「我らが生徒会長は、また兄妹喧嘩かな?」
「…見てたんだ」
大人びた三船から揶揄されると、さやかはちょっと照れくさくなった。
先刻の自分の振る舞いが、急にガキっぽく思えてくる。
――たっくん相手に、余計なことを言った気がする。
工学への熱は冷めたとはいえ、自分の中から、兄に対する対抗意識まで完全になくなったわけではないようだ。
三船はその話は深掘りせず、別の同級生の名を出した。
「越智も来たがっていたよ。夏目の応援がしたいって」
「ああ…。簿記の試験を差し置いてまで来るようなものじゃないでしょ」
生徒会きっての俊英である越智は、今頃は試験中だ。越智は特に、さやかに恩義を感じている。
越智に限らず、さやかは今日の大会への応援は全て断っていた。兄の言う通り、本気で出たわけではないからだ。
さやかが今日、この大会に出場したのは、いうなれば決別のためだ。
「未練はある?」
内心を見透かしたかのような問いに、さやかはハッとする。
三船の酷薄そうな瞳が、笑みの形になってこちらを見つめていた。
さやかは、首を横に振った。
「ない。今日、それがはっきりわかった」
「そう。それは良かった」
三船は、至極軽い口調で言った。さやかの考えなど全てお見通しのようなことを言いながら、実際、三船はそこまでさやかに興味があるわけでもないのだ。
「夏目はこれから、『恋人』に会いに行くの?」
さっきの兄との会話を聞かれていたのだろうか。さやかはふと、自分に執着する兄よりも、自分に全く興味のない三船のほうがさやかの内心を知っていることに気付き、何だかおかしくなった。
――どっちにしろ、三船もたっくんも僕の趣味は理解しないだろうけど。
「うん。バカな兄貴と喋ってたら、なんかイライラしてきちゃった。気分転換してくる」
「今日の対戦相手に同情するよ。我らが生徒会長の飢えを満たすのは、敗者の吠え面だけなんだから」
おどけて大袈裟に言う三船に、さやかは噴き出した。
「人を悪魔か何かみたいに言わないでくれる?」
「間違ってないでしょう?」
「まあね。否定はしない」
そう言って笑いながら、さやかは泣きたい気持ちになってきた。
――このまま、三船とずっと一緒にいられたらいいのに。このまま……。
そんなさやかの視界で、三船は、不意に横顔から眼鏡を外した。
三船の明るい色の髪が、風に靡いて透ける。
一瞬、軽く五指を動かした先には――車の横で意味ありげに笑う、スーツ姿の中年男がいた。
「じゃあね、夏目」
悲鳴を上げたくなったさやかを遮るように、三船はステップを踏んで階段を降りた。
――三船!
声にならない声で三船を呼ぶのは、もう何回目だろう。その度に、三船は何故かさやかの心の声を聴き付けて、ちょっとだけ振り向くのだ。
残酷な笑みを浮かべて。
男と共に車に乗って去る三船を、さやかは悄然と見送った。
『金糸雀』は、都内にある雀荘の中でも、高級な遊び場として知られている。
床は顔が映りそうなぐらいピカピカに磨き上げられ、店内にある柱には鏡が張られ、ライトを幾重にも反射して輝く。椅子やソファにはタバコの焼け焦げなんて一つもなく、客たちの身なりも良い。
これまで、紫煙で壁も空気も灰色に汚れ切った不潔な雀荘でばかり打ってきたさやかには、かえって居心地が悪いほどの別天地だった。
――ていうか、高校生が来る場所じゃないと思う。
まあ、雀荘通い自体、教師や警察にバレれば厄介なことになるのだが、この『金糸雀』はそういう次元の場所ではない。
完全会員制、雀荘というより秘密クラブか高級バーの雰囲気に近い。どこの店もガキが大きい顔をしてのさばる都内にあって、『金糸雀』にはさやかのような若者など、店員を含めても一人も見当たらない。
さやかが『金糸雀』に来ることになったきっかけは、こことは全く別世界の、普通の雀荘『ジャンジャン』――汚くて下品なオッサンだらけの店――で、よく打っていた相手の紹介だった。
「お前、腕試ししてみないか」
「腕試し?」
相手は20代くらいの青年だ。斑鳩と名乗ったが、本名かは分からない。
ツンツンと尖った短髪に、まだ幼さの残る顔立ち。スーツがあまり似合ってはいないが、立ち振る舞いは妙に落ち着いている。
見た目こそチンピラっぽいが、斑鳩はその辺の不良とは違った。
――なんていうか、目が濁ってない。
雀荘に通うオッサンたちや、それこそ欲に塗れた葵山学院の生徒たちのほうが、よほど目が濁っている。
しかし、斑鳩のその清らかな眼差しは、さやかには却って面倒なものだった。
――まさか、仮面補導員とかじゃないよな。警察官が潜入してるとか……。
巷では未成年のパチンコ、飲酒、非行が当たり前のようになってはいるものの、警察とて手をこまねいているわけではない。さやかも雀荘通いの最中、何度かひやりとした覚えがある。
斑鳩とは何度か店で一緒に打つうちに、世間話ぐらいはするようになったものの、「斑鳩って何してる人なの」なんて聞けば、藪蛇になりかねない。
そのため、斑鳩とは雀荘で会って雀荘で別れる、単なる麻雀相手に過ぎなかったのだが。
腕試し、と言われて、さやかは興味半分、警戒半分と言ったところだった。
斑鳩のほうも、さやかにどこまで喋ったものか、言葉を選んでいる様子だ。
「うーん、なんていうか――うちにはめちゃくちゃ強い麻雀打ちがいるんだが、その人以外は烏合の衆でさ。こんなこと言ったら叱られるだろうけど、事実なんだからしょうがないよな。でも、そのめちゃくちゃ強い人だって、よそとの交渉とかいろんな都合があるから、麻雀ばっかりやってられないんだ。誰かもう一人ぐらい、その人と同じような実力のある打ち手がいればいいんだけどなーって…うちのボスがこぼしててさ」
斑鳩の話はたどたどしいが、さやかはすぐに言わんとするところを察した。
――どこかのヤクザが、力のある代打ちを探している、と。
さやかのような子供にこんな話をするぐらいだ。斑鳩の『ボス』とやらは、恐らく雀荘でもよく見かけるような、スーツだけ派手な三下だろう。
そんな輩の言う『腕試し』なんかに行ったところで、身ぐるみを剥がされるのがオチだ。さやかは、斑鳩に冷ややかな目線を向けた。
「そういう話なら、他を当たってください」
「待てよ。お前、俺がうまい話でお前を釣って、店に呼び出して袋叩きにでもするつもりだと思ってんだろ」
「違うんですか?」
さやかが真正直に返すと、斑鳩は深い溜息を吐いた。
「…まあ、名乗りもしないで信用してくれ、って言うほうが無理か。戸籍のある連中は面倒臭いことが好きだな」
斑鳩の言葉の後半はさやかには意味不明だったが、斑鳩はスーツの懐からそれを取り出した。
「こんなこともあろうかと、ボスが名刺を作ってくれたんだ。見るだけ見てくれ」
「…どうも」
さやかは、ちょっと驚いた。というのも、真っ赤な名刺なんて初めて見たからだ。
朱雀組構成員・不破斑鳩――。
吸い付くような手触りの上質な用紙に、金箔で印刷されている。ペテン師の内職にしては、手がかかりすぎていた。
――まさか、本物の朱雀組……?
朱雀組と言えば、国内でも青龍会と並んで恐れられる有数の暴力団だ。
ヤクザらしく、抗争絡みのトラブルの話題も多いが、朱雀組は慈善活動などの金の力を見せつける活躍も目立つ。
さやかがヤクザの話題にそれなりに詳しいのは、知っていないと自分や生徒の身を守れないからだ。
特に青龍会は『ブルー・ワイバーン』と呼ばれる愚連隊の活躍が著しく、彼らにカツアゲされたり、売春を唆されたりする高校生が後を絶たない。うっかり青龍会絡みの人間に近寄らないよう、どの店や企業がどこの組と繋がっているか、それなりに把握しておく必要があるのだ。
この『普通の雀荘』には、そういった大型のヤクザと関わっている気配がなかったため、油断していた。しかもその本物が、自分自身に接近してくるなんて。
「………」
断ったほうがいい、関わり合いにならないほうがいい、とさやかの頭の中では警報が鳴っていた。
だが、さやかの脳裏には、どうしても昼間見た、三船と男が連れ立って消えていく様子が、こびりついて離れなかった。
自分を冷ややかに見る兄の陰気な横顔も、ついでのように明滅する。
三船を、兄を、凌駕する力が今、さやかの元に降ってきた。
頭がくらくらするようなチャンス。それを自覚すると同時に、ふと醒めた感情もよぎった。
――これって、身投げみたいなものかもしれないな。
ここでこの誘いを断った場合、さやかは再び、ただの平凡な女子高生として過ごすだろう。そして、それなりの偏差値の大学に通って、就職して、ありふれた日常を過ごす。
だが、ここで斑鳩の誘いを受けたら――違った人生が拓けるかもしれない。
さやかが愛してやまない、麻雀で身を立てる道。
雑誌やテレビに書かれている『誰か』の物語をなぞるような人生ではなく、本当にさやかがやりたいことで生きていけるかもしれないのだ。
あまりにも虫の良い夢想だ。この先、さやかを待ち受けているのが、奈落だったとしてもおかしくない。
だが、さやかは迷いを振り切った。
――未練はない。三船にも、そう言ったんだから。
ここで、今までマリオネットのように生きてきた自分を殺す。
さやかは、この身投げに賭けることにした。
「『腕試し』の詳細を教えてください」
さやかが言うと、斑鳩はちょっと目を丸くしたが――自分で誘っておいて、受けてもらえるとは思っていなかったらしい――すぐに、詳しく説明してくれた。
そういう経緯で、さやかはこの『金糸雀』にいた。
「朱雀組の者だ」
斑鳩が名刺を見せると、カウンターにいたスーツ姿の男は「いらっしゃいませ」と言って、さやかを通してくれた。
卓を囲む客も富裕そうだが、店員もそこらの雀荘とは別格だ。喫茶店のマスターみたいな野暮ったいエプロン姿の店主などはおらず、パリッとした黒のベストに蝶ネクタイを締めた男たちが、颯爽と客たちに給仕している。
スーツでも着てくればよかったかな、とちょっと反省するさやかに対し、斑鳩は全く気にせぬ素振りで店内を進んだ。
「今日打ってもらう相手は、うちで長年打ってきた代打ちだ。雉丸という男だが――経験は豊富で、場を読んだり、相手に駆け引きを打ったりするのはうまい。だが、もう時代遅れの年寄りだ――というのが、ボスの本音だ」
「僕が勝てば、雉丸って人はお払い箱。僕がその後釜になる、ってことですね」
「そうだ」
斑鳩はすれ違いざまに店員に、水を注文した。さやかが酒を飲まないことは、斑鳩も知っている。
「雉丸は悪い奴じゃないし、長年の付き合いだ。ボスとしても、何の罪もない雉丸に、いきなり代打ちを辞めさせるのは忍びない。かといって、下手に仲が良いだけに、正面きって『お前はもう役に立たないから、引退してくれ』とも言い出しづらい。雉丸の人脈や交渉能力は、今後も利用していきたいしな」
そこでお前の出番だ、と斑鳩はさやかを振り返った。
「お前みたいな若い馬の骨にコテンパンに負ければ、雉丸も時流が変わったことを察するだろう。そのぐらいの頭はある男だ。麻雀で自信を失っても、他の部分でボスの役に立とうと切り替えてくれると思う」
「もし、雉丸さんが負けを認めなかったら?こんなのはまぐれだとか、イカサマだとか言ってきたら、どうするつもりですか」
麻雀打ちのオッサンというのは、軒並み、自分は頭が良くて観察眼が優れている、という根拠のない自信を持っている。そのくせ、さやかのような若者に負けると、言葉の限りを尽くしてこちらを罵ってくる。その様といったら、駄々っ子と大差ない。
まして、ヤクザから寵愛を受けているような代打ちなら、なおのことプライドが高いのではないだろうか。
さやかの懸念に対し、斑鳩はふと足を止めた。
「お前も、苦労してきたんだろうな」
「えっ?」
「大人が威張り散らかすのは、どんな世界も同じだ。表の社会でいじめられた奴が、ヤケになって不良の世界に飛び込んで、そっちでも力のある奴にいじめられる。結局、自分が強くなるしかない」
斑鳩は、ふっと表情をやわらげた。
「今日は、来てもらえないかと思ってた。雉丸のことも、うちのボスのことも、何も言わずに呼び出したからさ。お前、警戒心強そうだし」
「…まあ」
そう言われると、『金糸雀』までノコノコやって来た自分が向こう見ずに思えて、さやかは照れくさくなる。
「安心しろ。雉丸は、雀荘で小遣いを稼ぐだけの輩とは度量が違う。何十年にも渡って、鉄火場みたいな勝負を闘ってきた男だ。勝った数も負けた数も、俺たちとは比べ物にならないほど多い。卓の上で起こったことを、ちゃんと理解してくれるさ」
斑鳩の説明は、さやかの胸の深いところに染み入った。
そこで、斑鳩が少し誇らしげな表情を浮かべる。
「うちのボスは、雉丸に最後に面白い勝負をプレゼントしてやりたいんだ。若き無謀な挑戦者との、一騎打ち。自分を倒したのが、新しい時代の力だと分かれば――雉丸も、喜んで身を引くだろう」
斑鳩の口振りから、斑鳩の『ボス』――恐らく、朱雀組の上のほうにいる人間――が、情の深い男だということが伝わってきた。
この勝負の重要性が分かっただけに、さやかは純粋に疑問になった。
「そんな大事な勝負のお相手が、僕で良かったんですか?それとも、他にも雀士が来ているんですか」
「いや、お前ひとりだ」
既に、斑鳩の中では今日の勝負の相手探しは終わっているという。
「この勝負のために、俺は都内の雀荘をあちこち見て回った。『ボス』が俺に相手探しを命じたのは、俺と同じ――後ろ盾のない、自分の才覚だけで闘っている若い雀士が欲しかったからだ」
だが、と言って、斑鳩は肩を竦めた。
「雀荘ってのはどこもかしこも似たような奴ばっかりで、うんざりしたよ。目の前の小銭を掴むことしか考えてない、脂ぎった眼の親父が、養鶏場のニワトリが餌をつつくみたいに牌を追いかけてるんだから。ボスの命令は、俺にとっては掃き溜めに鶴を見つけるようなものだった」
確かに、さやかだって『ボス』が探し求めるような、若くて才能のある雀士にはお目にかかったことがない。それこそ、この斑鳩ぐらいだ。
「ボスは東北の出身で、そのせいでよく田舎者だ、成り上がりだと蔑まれて、苦労されてきた。だからこそ、自分のように、一人でがむしゃらに闘ってる奴を見たくなったんだろう」
「斑鳩さんは、ボスのことを尊敬してるんですね」
さやかが言うと、斑鳩が「よせよ」と照れたように鼻の頭をこすった。
「俺がこんな話をしたこと、ボスや雉丸には言うなよ。本来、お前みたいな部外者にするような話じゃないんだ」
「分かってます」
それでも話してくれたのは、斑鳩なりのフェアネスなのだろう。
ヤクザを警戒する気持ちは変わらないが、さやかは少し安心もしていた。
――この人の上司なら、信用出来るかもしれない。
やがて、2人は店の奥にある、金色の扉の前に辿り着いた。
仰々しく『予約者様限定遊技室』と書かれた小さな看板が掛けられている。ここが、今日の勝負の場だ。
「失礼します」
斑鳩がノックをし、扉を開けた。
さやかはそこで――太陽を見た。
「よう、斑鳩。そいつか、今日の相手は」
狭い部屋中を埋め尽くす、光のようにまばゆく巨大なエネルギー。
さやかは今まで、人間に対してこんな感覚を抱いたことはなかった。
――この人は、太陽だ。
近くにいるだけで、目もくらむばかりに照らされる。近付きすぎればきっと、この身を焦がされるだろう。
その男こそ、朱雀組4代目組長・秋津イサオだった。




