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71話 恋人たちのナイフリッジ

第71話 恋人たちのナイフリッジ


 パタン。

 扉が閉まると、車は音もなく夜の住宅街へと消えていった。

「おーおー、紫鏡会の皆さんったら、やることなすことそつがないねぇ。葬儀屋みたいだ」

 さしずめ、監物を乗せて走り去った車は、霊柩車といったところか。嵐は、八百眼組の乱心若頭の末路に目を細めた。

 ――ヤクザってのはみんな、蟻地獄だな。

 監物は組長への反逆が失敗し、誇りも仲間も全て失った。唯一残ったのは仇敵である冬枝への復讐だけだったが、それが監物の破滅に繋がったのだ。

 嵐は、背後にある灘邸を振り仰いだ。

 この国に無数に巣食う蟻地獄を養い、ニヤニヤしながら観察日記を書いている傲慢で巨大な小学生――ならぬ、権力者。

 ――金もコネもあるんだから、女なんか向こうから寄って来るだろ。うちの鳴子やさやかを巻き込む必要なんか、どこにあるってんだ。

 源に二度も拉致された義妹・風間鳴子と、同じく源に拉致され、消息を絶ったさやかのことを思う。嵐にしてみれば2人はヤクザの立派な被害者だが、きっと警察も世間もこう言うのだろう。

 ――自分からヤクザに関わったあいつらが悪い、ってな。

 それは、一面の真理でもある。だが嵐は、かつて刑事として警察に身を置いていた頃から、こういう被害者を責める人間が嫌いだった。

 ――いじめられてるほうが悪いって言うなら、警察なんかいらねえじゃねえか。

 他人がどう言おうと、鳴子は嵐の義妹で、さやかは嵐の可愛い2号(予定)だ。2人を助けるのは、最愛の妻・鈴子の願いでもある。

 ――かっこつけてたってダンディ冬枝もジェントル秋津もいいトシだし、ここはピチピチのワイルド嵐クンが頑張らなきゃ。

 そういえば、冬枝はそろそろさやかと再会を果たしたところだろうか。

 本当はもっと冬枝とさやかの生存を喜び、奇跡の再会を噛み締めたいところだが、そんな暇もない。

 東京って忙しない街だな、と溜め息なんか吐いて、嵐が灘邸に戻ろうとした時だった。

「死体!?」

 いつの間にそこにいたのか、灘邸から少し離れた路上に、人が倒れていた。

 ここは天下の国会議員・灘氏の自宅をはじめ、錚々たる金持ちたちが住まう高級住宅街だ。しかもこのタイミングで、無関係の人間が灘家のそばで行き倒れているなどありえない。

 駆け寄った嵐は、倒れている人間の正体に気付いて仰天した。

「パパさん…!?」

 そこにいたのは、白虎組若頭補佐――霜田だった。

「おい、パパさん、しっかりしてくれ!」

 霜田の周囲に人はなく、犯人は一人だったようだ。

 嵐が何度か声をかけ続けるうちに、霜田が眼鏡の奥の瞳を苦しそうに開いた。

「うっ…」

「おい、大丈夫か。俺が誰だか分かるか?」

 顔を覗き込む嵐に、霜田が眩しそうに眉根を寄せた。

「く……朽木……」

「人違いだよッ!!!こりゃ駄目だ、救急車呼ぼう」

 嵐が霜田の肩を抱いて立とうとしたところで、ようやく霜田の表情がはっきりしてきた。

「お前は……どうして、こんなところに」

「そりゃこっちのセリフっスよ。パパもダンディ冬枝を探しに来たわけ?」

 と言ってから、嵐の背筋に不意に冷たいものが走った。

 灘家に乱入して騒ぎを起こした監物――灘邸の傍で倒れていた霜田――嵐の顔を見て「朽木」と言った霜田……。

 それらが頭の中で繋がった瞬間、嵐は「うわあ!」と両手を上げた。

「なんだよ、朽木が灘家に入ったんなら先にそう言ってくれよ!」

 嵐が手を挙げた瞬間に振り落とされた霜田が、忌々しそうにアスファルトの上から起き上がった。

「……バカの分際で、察しがよろしいことで。そうと分かったなら、とっとと行きなさい!」

「はぁーい!」

 霜田の金切り声を背中に、嵐は駆け出した。

 玄関の長すぎるアプローチを突っ切りながら、頭の中で事態を整理する。

 源によって身柄を押さえられている朽木が、恋人である鳴子の解放と引き換えに、さやかの拉致を命じられた。この流れを予期した霜田が朽木を止めようとしたが、一発お見舞いされて無念のノックアウト。嵐クンに選手交代、というわけだ。

 ――つまり、さやかとダンディ冬枝がピンチ!



 時を同じくして、青龍会四天王・桃華組事務所――。

 白や桃色など、甘いお菓子のような色彩で統一された室内は、真夜中だというのにパステルカラーが蛍光灯を反射して、不自然なほどに明るい。

 可愛らしい事務所とは不釣り合いな脂っこい声が、受話器越しに響いた。

「タカマガハラに行きたいぃ?こんな時に、何呑気なこと言ってんだ、お坊ちゃん」

 この部屋の主・秋津ユタカの電話の相手は、同じく青龍会四天王である難波だ。

 難波は愚連隊『ブルー・ワイバーン』の首領として世間に悪名を轟かせる一方、青龍会の機密施設『タカマガハラ』の管理者でもある。

 タカマガハラ自体は難波のものではないが、難波が率いる不良たちや、そいつらがさらってきた女たちなど、難波は最も多くの人間をタカマガハラに提供している。出入りの回数も多いことから、必然的に難波がタカマガハラと青龍会の窓口のようになったのだ。

 ――でなければ、こんなヤンキー上がりが玄武会の秘密になど触れられるはずがない。

 内心、嫌悪感を抱きながらも、桃華組組長・秋津ユタカは努めて愛想の良い声で話した。

「逆に言えば、今しか頼めないじゃないか。成滝はもう彩北に向かっているんだろう?」

 ユタカが予想を告げると、電話の向こうの難波が口笛を吹いた。

「相変わらず、勘が鋭いことで。そうだよ、成滝さんは先行してる。どうせ、今回は成滝さんが主役で、俺は狂言回しってところだからな」

「なら、ボクをタカマガハラへ連れて行く時間ぐらいはあるはずだ。そこに朱雀組の奴がいることは分かっているんだ」

「ははーん、昔の仲間がタカマガハラに連れて行かれたってんで、焦ってんのか」

 難波が核心を突いたが、ユタカは反論しなかった。

「そうだ。ボクはそいつをタカマガハラから連れ出したい」

「おいおい、冗談だろ。あいつをタカマガハラに連れてきたのは会長だぜ。いくら俺でも、会長の連れてきた人間をはいどうぞ、って引き渡すわけにはいかねえよ」

「キサマが考える必要はない。とにかく、ボクをタカマガハラに連れて行ってくれ」

 そこでユタカは、ものすごく、ものすごーく嫌だったが、渾身の媚びた声音でこう言った。

「ボクたち、友達だろ?このぐらいのワガママは、聞いてくれたっていいじゃないか」

「…………」

 絶句した難波がどんな表情を浮かべているのか、ユタカは考えないようにした。

 たっぷり30秒の沈黙の後、難波は「分かった」と言った。

「ただし、条件がある」

「夏目さやかか」

「なんだ、分かってるじゃないか。お坊ちゃんとは駆け引きのし甲斐がねーなぁ」

 そう言いつつ、難波はこの取引に満更でもなさそうだ。そもそも、青龍会に対してもタカマガハラに対しても、難波がそこまで真剣ではないこともユタカは分かっている。

「夏目さやかをキサマにくれてやる。キサマの手柄にして、会長にお褒めいただけばいい」

「そいつは嬉しいねぇ。でもいいのか?パパの仇を、そんなにあっさり俺に譲って」

 真意を探るような難波の言葉にも、ユタカは飾らず、ただ正直に答えた。

「何かを犠牲にしなければ、欲しいものは得られない。また連絡する」

 ユタカが電話を切ると、源が音もなく背後から現れた。

「若頭。灘家には、例の男を行かせました」

「そうか…。ご苦労」

 ユタカには既に、この後、夏目さやかがこの場所に来る映像が見えている。

 ――これで、ボクの用事は片付いた。後は……。

 ユタカは、源の蒼い双眸を真っ直ぐに見上げた。

「源。キサマはクビだ」

「は?」

 訝しむ源に対し、ユタカはストレートに告げた。

「もうすぐ、成滝と難波が彩北を襲撃する。無数の兵隊を連れてな」

「彩北が…襲撃される?」

 長年、裏社会を渡り歩いてきた源をもってしても、それは信じがたい話だった。

「あんな田舎を、天下の青龍会四天王が2人がかりで攻めるって言うんですか。何のために」

 さやかは既に東京におり、彩北の白虎組が手を出せる状況ではない。今、白虎組を潰したところで、青龍会に何のメリットがあるというのか。

 ユタカの超然とした瞳には、その答えがはっきりと見えているようだった。

「彩北は囮だ。本当の目的は、別のところにある」

「別の場所…まさか」

 源の返事を待たず、ユタカは話を続けた。

「だが、成滝たちは本気で彩北を血の海にするぞ。白虎組の男たちは勿論、女も巻き添えにされるだろう」

 そこで、源の脳裏によぎったのは、彩北にいる響子の横顔だった。

 ――そうか。だから、若頭は俺を……。

 源が全てを察したところで、ユタカは諭すように告げた。

「桃華組の女たちは、ボクと組員たちで守る。キサマは、キサマの守るべき女を守れ」

「分かりました」

 即答した源に、ユタカが苦笑した。

「キサマ、少しは遠慮したらどうだ。若頭を置いては行けませんとか、そのぐらい言えないのか」

「すみません。頭の中がもう、響子のことで一杯なもので」

「はははっ。お互い、必死だな」

 危機的状況でありながら、ユタカも源も何故か、緊張の中に一抹の幸せを感じていた。

 ――守りたい奴のために、命を張れる。ボクたちは今、人生で一番大事な闘いをしているんだ。

 源は手早く旅支度をしながら、ユタカに忠告した。

「若頭。夏目さやかには油断しないでください。あの女は普通の人間じゃありません」

 桃華組のヘリが墜落した直後、源の前に現れた『もう一人のさやか』――そいつは源を昏倒させ、姿を消した。

 源が『もう一人のさやか』に会ったことも、母・秋津カグラから全てを話されたことも、ユタカは知っている。ただ、静かに頷いた。

 ――女好きの源に、ここまで言わせるとは……確かに、夏目さやかはただならぬ女なのかもしれないな。

 だが、運命は既に動き始めている。さやかもユタカも逃れられないほど、大きなうねりを帯びながら。




 灘邸内を走り回っていた冬枝は、意味ありげに扉が開いた部屋を見つけた。

「……!あれは…」

 部屋からは灯りが洩れており、人の気配がある。

 冬枝は、反射的に部屋へと飛び込んでいた。

「さやか!」

「おや?君は…」

 ところが、そこにいたのはさやかではなく――若いうらなり男だった。

 夜風に靡く薄紫色のカーテンを背景に、窓辺に細い脚を投げ出している。片手には読みかけの本。冬枝を見て、細面に好奇心の色を浮かべている。

 男のキザったらしいポージングに驚くよりも、さやかではなかった、という失望が冬枝の中で勝った。

「誰だ、てめえは!」

 自分から侵入しておいて誰だも何もないが、さやかが見つからなくてイライラしている冬枝はつい言ってしまった。

 冬枝の無礼にも怒らず、うらなり男は鷹揚に笑い、窓辺からふわりと飛び降りた。

「そういえば、挨拶がまだだったね。僕は灘敬一。妹が世話になっているね」

「ああ…?妹って…」

 つまり、佳代の兄か。言われてみれば、フニャフニャした笑い方や、遠回しな物言いが、佳代というよりその父である灘純一を思い出させる。

 今は佳代の兄なんぞと喋っている場合じゃない、と踵を返そうとした冬枝に、敬一が「冬枝さん」と声をかけた。

「……!」

 自分でも分からないが、何故か、冬枝の足は止まった。

 敬一は、とても穏やかに、だが有無を言わせぬ圧力を放っていた。いうなれば、貴族の風格とでもいったところだろうか。

「一つだけ、聞いてもいいかな」

「何だ」

「冬枝さんは、我が妹とサヤカ・ナツメ……どちらの女を選ぶつもりなんだい?」

「ああ?」

 面妖な質問に、冬枝は思わず顔だけ振り返った。

 敬一はにこやかに笑うばかりで、周囲に若草色の春風でも吹いているかのようだ。冬枝がどちらと答えようとも、関係ないといった顔をしている。

 ――何が言いてえんだ、こいつ。

 敬一の考えはさっぱり読めないが、冬枝はただ、今思っていることを率直に答えた。

「俺が探してんのはさやかだ。じゃあな」

 冬枝が大股に部屋を去ると、背中に敬一の微かな笑い声が聞こえたような気がした。



 さやかもまた、冬枝の姿を求めて灘家を歩き回っていた。

 ――プレイルームには冬枝さんはいなかった。一体どこに……。

 まさか、藤浪に捕まってしまったのだろうか。そうも考えたが、さやかはいや、と否定した。

 ――産城大橋から転落した後、冬枝さんはずっとこの屋敷に匿われていた。藤浪が冬枝さんのことを始末するつもりなら、とっくにやっているはず。

 この屋敷には藤浪と灘家、双方の思惑が錯綜している。どちらの考えもさやかには計り知れないが、双方の意志によって、冬枝は生かされている――今のところ、それがさやかの推測だ。

 とはいえ、行けども行けども美しいだけの窓と廊下が続くだけの屋敷内を歩いていると、さやかの胸を不安と理性が行ったり来たりする。

 ――冬枝さんが生きてるのに。やっと、ここまで辿り着いたのに。冬枝さんと会えないまま、また離れ離れになっちゃうの?

 喉元までこみ上げてくる弱音を、さやかはキッと眦を決して飲み込んだ。

 ――諦めない!勝つまで打てば勝てるって、ミノルさんが言ってたんだから。

 事態が物凄いスピードで動いているこの東京で、立ち止まることは許されない。さやかは、早足に邸内を進んだ。

「……!」

 さやかは、不意に足を止めた。

 そこにあったのは、ひときわ、大きくて目を引く真っ白い扉だった。そこから、人の話し声が聞こえてくる。

 ――もしかして、冬枝さん!?

 意を決して、さやかは扉を開けた。

「冬枝さ――」

 しかし、そこでさやかの思考はぷつんと途切れた。

 何故なら、そこに広がっていたのは――汚れた俗世から分厚く隔たれた、乳が湧き、蜜が流れる楽園だったからだ。

「わあ……」

 口から、自然とそんな声が漏れる。目に映る全ては白く光り輝き、芳しい花の香りが、瞼の裏まで染め上げていく。

 迷い込んだ蝶のように、さやかはふらふらと部屋の中へと足を進めた。

 芳しさの中心にいるのは、裸体の美しい女神たちだ。

 シルクのシーツよりもなお艶やかな白い肌に、さやかは吸い寄せられそうになる。

 並んでベッドに横たわっている女神のうちの片方が、さやかを見て相好を崩した。

「あら。誰かと思ったら、庶民のお嬢さんじゃない」

「佳代…さん?」

 女神、もとい佳代は、縦ロールの髪をくるんと揺らして立ち上がった。

 画家の手で描かれたような形の良い胸もぷるんと揺れて、さやかの目がついそっちに向かう。

「うふふっ……ずいぶん不躾ですこと。庶民のお嬢さんはバストも貧相ですから、わたくしのような恵まれた身体がうらやましいのかしら?」

「はい。羨ましいです」

 さやかが正直に認めたからか、佳代が得意げにふんぞり返った。

「ほっほっほ、素直で可愛いじゃない。そんなに羨ましければ、触ってもよくってよ」

「ありがとうございます」

 しめた、とばかりにさやかが手を伸ばすと、ふにょん、とした柔らかい感触が指に伝わった。

「すごい。マシュマロみたい…」

「あはん。もう、そんなに強く揉まないで」

「すみません」

 と口では謝りながらも、さやかはついつい佳代の胸に没頭してしまう。

 ――鈴子さんも大きいけど、佳代さんは若いからか、感触が全然違う。弾力がある中にもしなやかさがあるというか……それに、お肌のこの吸いつくような手触りが……。

 悲しいかな、同じ女でありながら、さやかには手で揉めるほどの脂肪がほぼないため、他人の胸を触るのが楽しくてたまらないのだった。

 お陰で、後ろからもう一人の侵入者が近付いてきていることにも、さやかはさっぱり気付いていなかった。

「この、ばがけ!」

 ゴン!

「いったぁ!」

 後ろから頭を小突かれ、さやかは悲鳴を上げた。

 我に返って振り返り、さやかはハッと驚いた。

「冬枝………さん?」

「………」

 たっぷり「…」を挟んだのは、そこにいたのが冬枝「らしき」人物――すなわち、タキシードのジャケットをすっぽりと頭から被って、顔を隠した不審者だったからだ。

 冬枝(らしき人物)はさやかの両肩をぐいっと掴むと、自分のほうに振り返らせた。

「ったく、情けねえ!やっと会えたと思ったらお前、夢中になって佳代さんの胸なんかまさぐって…」

「そこに胸があったから…」

「登山家みたいなこと言ってんじゃねえ!いくら自分に胸がねえからって、やっていいことと悪いことがあるぞ!」

「むっ」

 それを言うなら冬枝だって言っていいことと悪いことがある、とさやかは反論しようとしたが、その前に冬枝に頭を掴んで下げられた。

「ぐっ」

「すみません、佳代さん!こいつ、女の癖に女に目がない病気でして…」

「よくってよ、おじさま。恵まれない方に奉仕するのも、貴族の義務ですもの」 

 さやかが冬枝によってぶんぶん頭を振り下ろされている間にも、佳代のまばゆいばかりのヌードが目を引く。どうやら、冬枝は佳代を見ないようにするために、自分に目隠しをしているようだ。

 ――どういう状況なんだろう、これ。

 佳代ともう一人の人物が放つ美貌とオーラに圧倒され、すっかり夢見心地になっていたが――さやかはようやく、意識がはっきりしてきた。

 佳代はこれまた形の良いお尻を見せて、ベッドに座したままのもう一人の美女の胸に飛び込んだ。

「わたくし、いつもこうしてお母様と過ごしているの。夜だけは、赤ちゃんの頃と同じように甘えさせてくれるのよ」

「はあ…」

 笑顔で抱きつく佳代の髪を、無言で撫でているのは――無表情すら溜息が出るほど美しい、静謐な雰囲気を湛えた女性だった。

 ――ちょっとだけ、敬一さんに似てる。

 どうやら、佳代は父親似、兄の敬一は母親似らしい。もっとも、2人とも性格は父親似のようだが。

「佳代、今日はあのおかしな人に捕まって、すっごく怖かったの。だから、今日はいっぱいお母様の胸に抱きしめてもらったの。うふふっ」

 佳代の笑顔はとことん無邪気だ。その佳代を抱きしめる母――詩子もまた、眼差しの奥にとても優しい光を秘めている。

 監物が起こした騒ぎや、敬一の話などを思い出したさやかは、そうか、と納得した。

 ――灘家の皆さんは立場上、おおっぴらに仲良くすることが出来ないんだ。だからこうして、誰も見ていないところでだけ、たくさんの愛情を分け合っているんだ…。

 佳代や敬一は高慢なところはあるが、根はとても純粋な人たちだ。それは、両親からちゃんと愛されて育っているからなのだと、さやかは知った。

「佳代はもう16なのに、こんな風にお母様に甘えていたらダメかしら?」

 上目遣いに呟く佳代に、さやかは「いいえ」と言った。

「僕は、佳代さんらしくていいと思います。だって、そうしてる時の佳代さん、すごく綺麗だから」

「あら。あなたって、たまにはいいことをおっしゃるのね」

 実際、世辞ではなく、さやかの目に佳代はとても美しく映っていた。どんな宝石をまとうよりも、佳代自身が真珠のように輝いて、虹色に光を帯びて見える。

 ふと、さやかは八重子が孫である佳代のことを特別視していたことを思い出した。

 ――あの人の話はよく分からないけど……佳代さんには、確かに天性の素質を感じる。

 それは頭の良さや身体能力のように、一般的な物差しで数値化できるものではないのかもしれない。だが、そんな目に見える数字よりも確実に人を惹き付け、魅了してやまないものだ。

 そこで、横にいた冬枝が「佳代さん」と言った。

「俺は、こいつを連れて帰ります。世話になりました」

「おじさま……もう行ってしまわれるのね」

「はい。俺のせいで、佳代さんには迷惑をかけてしまいましたから」

 佳代は詩子から離れると、妖精が花へと舞い降りるような足取りで、ふわりと冬枝に近寄った。

「佳代、おじさまのおそばにいられてずっと幸せでしたわ。またお会いできるのよね?」

「約束はできませんが…」

 弱気になる冬枝に、さやかが横から口を挟んだ。

「会いましょうよ、また」

「ああ?さやか、お前、何言って…」

「次に会ったら、みんなで麻雀でもしましょう。ねっ、佳代さん」

「でも、お母様が麻雀はしちゃダメって言ってたわ」

 後ろの詩子をちらりと伺う佳代に、さやかはウインクしてやった。

「僕が教えてあげるから、大丈夫です。女同士でやる麻雀に、後ろ暗いところなんてありませんよ!」

「お前が言うと信用できねえんだよ…」

 冬枝がぼそっと言ったが、さやかは肘鉄して黙らせた。

「おじさま。佳代のこと、忘れないでね」

「はい。佳代さんも、お元気で」

 大きな瞳をうるうると潤ませる佳代と、物静かな詩子のしっとりとした無表情に見送られ、さやかと冬枝は部屋を後にした。



 コンコンコン――。

 重厚な樫の木で出来た扉を、慇懃にノックする音がした。

 プレイルームから執務室に戻っていた純一は、「はい、どうぞ」と鷹揚に答えた。

 父・灘孝助が使っていたこの部屋を譲られて十数年――と言っても、外で過ごす時間が長い父にとって、この執務室はほとんど飾りのようなものだったが――純一は、すっかりここのノックの音を聞き慣れていた。

 ゆえに、顔を見ずとも来訪者が分かる。ただ、開いた扉から覗く顔が、一人ではなく2人だったのはちょっとだけ意外だった。

「藤浪さん、ご苦労様です。おや、敬一も一緒だったか」

「お疲れ様です、純一さん」

 頭を下げる藤浪の後ろで、敬一が軽く手を挙げた。

「父さん。今、大丈夫ですか」

「ああ、平気だよ。ちょうど、お前と藤浪さんと話がしたかったところだ」

 純一は一人掛け椅子から立ち上がると、藤浪と敬一を手で促して、ソファに向かい合って座った。

 どうやら、藤浪は敬一に引っ張って来られたらしい。最初は多少、戸惑った様子を見せていたが、話の口火を切ったのは藤浪だった。

「困りますねえ、純一さん」

「冬枝君のことかい」

 藤浪の人質である冬枝を、純一が勝手に解放した。今頃、この屋敷のどこかをさまよっていることだろう。

「それに、敬一さんも」

「サヤカ・ナツメのことかい」

 青龍会の標的である夏目さやかが、自らこの屋敷に乗り込んできたのだ。藤浪にとっては絶好のチャンスと言えたが、これまた、敬一が勝手に逃がしてしまった。

「そうだね。彼らをこの家に留めておいたほうが、藤浪さんの利益になるのだろうね……」

 純一はあれこれと藤浪に言い訳を用意してはいた。朱雀組の5代目から、春野嵐という珍客をねじ込まれたのも事実ではある。

 ただ、敬一の顔を見たら――息子も自分と同じ考えなのが伝わって。

 余計な言葉は捨て、純一はストレートに口に出した。

「藤浪さん。私たちは、君のためにやったんだよ」

「私のため…?どういう意味でしょうか」

 藤浪が、いつもの糸目を更に細めた。

「確かに、冬枝君は悪い男ではないよ。でも、佳代の相手としては不釣り合いだ」

 純一が言うと、敬一もうんうんと頷いた。

「あんな田舎者がいつまでもこの家にいるなんて、屈辱でしかないね。妹の趣味の悪さにも困ったものだよ」

 何より、と言って、純一と敬一は目を見合わせた。

「私たちは、藤浪さんにこそ佳代を守って欲しいんだ。他の男じゃ駄目なんだ」

「純一さん、敬一さん…」

 藤浪が、少しだけ細い瞳を開いた。切れ長の瞳は、世間で思われているよりもずっと澄んで見える。

 それを知る数少ない者として、純一は言わずにはいられなかった。

「藤浪さんは我々の家族だ。我々が藤浪さんを頼るのは、青龍会の人間だからじゃない。私たちの一部だと思っているからだよ」

「佳代もまた、藤浪さんのことを誰よりも頼みにしているよ。血の繋がった僕たち家族には言わないようなことも、きっと藤浪さんには伝えているだろう。だから佳代は、無邪気さと狡猾さを同時に併せ持つことが出来ている」

 純一は、溜息を吐いた。

「佳代は将来、この国を背負う人間だ。今はまだ信じがたいがね――母が言うなら、そうなんだろう」

 この灘一族で最も聡明かつ、深淵を抱く女、灘八重子。

 父も自分も、所詮は母の手のひらの上で踊らされているに過ぎないのだろう。純一は、早くからそう悟っていた。

 だが、佳代はその八重子の手のひらから、空高く羽ばたく翼を持つ。まだ何も知らない、世間知らずで弱々しいお嬢さんでありながら、佳代は無限の可能性を秘めている。

 ――いや、佳代のような女こそ、この国にものを言うべきなのかもしれないな。

 ワガママで、高飛車で、甘ったれ。だからこそ、この国にこびりついた『当たり前』に従わず、因習を新しく塗り替え、この国に封じ込められてきた力を見つけ出す。

「そのためには、藤浪さんの力が必要だ。佳代がここで今、他の男に目移りするのは得策ではない」

「我が妹ながら、気まぐれなものでね。藤浪さんがいるのが当然だと思って、平気で他の男に心移りしようとするのさ。最後の最後には、藤浪さんに縋るくせに」

 灘父子に口々に言われ、藤浪は静かに首を横に振った。

「……私のような者には、過分のお言葉です。私はただ、佳代さんの願いを叶えるために仕えているだけのこと」

 藤浪の脳裏に一瞬――遠い記憶がよぎる。

 戦争で全てを失い、『あの男』への復讐だけを目的に生きてきたこと――。

 何も持たない己に、遠縁に当たる灘家が手を差し伸べてくれたこと――。

 尤も、藤浪も、そして若き日の灘孝助・八重子夫妻にせよ、この世の闇を見過ぎていて――互いに、利害関係以上の絆を結ぶには至らなかった。

 代議士一族・灘家という巨大な後ろ盾。裏社会でのし上がるには、それで十分だった。

 だが、戦争を知らない世代である純一や敬一は、驚くほど純粋だった。藤浪の素性が何者だろうと受け入れ、無条件に愛する懐の深さを持っていた。

 平和ボケと言ってしまえば、それまでかもしれない。ただ、戦争という深すぎる傷に病み、復讐心に取り憑かれたこの国に――藤浪に――必要な希望が、彼らには見えていた。

 そして佳代が生まれ、藤浪の主になった。

 誰に命じられたわけでもなく、佳代は藤浪自身が選んだ主人だ。藤浪は、はっきりと言った。

「佳代さんは、この国で――この世界で、最も得難い女性です。この藤浪に出来ることがあるなら、何なりとやらせて頂きます」

 その返事を聞いただけで、純一と敬一には分かった。

 この家で最も佳代の資質を信じ、佳代を愛しているのは、純一たち家族ではない。ここにいる、藤浪なのだと。

「お二人の仰ることは、よく分かりました。確かに、佳代さんのお心を惑わす者がこの屋敷にいてはいけませんね――」

 フッ、と藤浪は、諦めたように笑った。

「いずれにせよ、我々青龍会が獲物を逃がすことはありません。冬枝誠二と夏目さやかのことは、別の狩場で捕らえることに致しましょう」

 元より、本当はあの2人のことなどどうでもいい。藤浪にとって重要なのは佳代に仕えること、そして『あの男』への復讐だけだ。

 執務室を辞し、藤浪の瞼に浮かんだのは、やはり佳代の顔だった。

 ――屋敷をお暇する前に、佳代さんにご挨拶をして行きましょうか。今夜はさぞかし、お母様の胸に甘えていらっしゃるでしょうね……。

 コツコツという足音すら、どこか軽快に響く。それを聞きながら純一と敬一がこっそり笑い合っていることは、流石の青龍会四天王も知らなかった。



 佳代たちの寝室から出ると、廊下が一気に暗く、殺風景に感じられた。

 ――佳代さんとお母さんが並んだだけで、天国みたいに輝いて見えてたんだなあ。やっぱり、上流階級の女の人たちってすごい。

 さやかは若干、敬一や灘純一が気の毒になってきた。佳代に詩子、それに八重子と言った強烈なパワーを持つ女性たちがいるこの家では、男性陣はさぞかし肩身が狭いに違いない。

「!」

 急に明るくなったと思ったら、そこは月明かりが差すバルコニーだった。

 背の高い木々に、夜露が星屑のように煌めく。アーチによって丸く切り取られた庭の景色は、そこだけ童話の一場面めいていた。

 さやかは、冬枝が未だにジャケットを被っていることに気付いて、苦笑した。

「冬枝さん。もうそれ、取ったらどうですか。歩きにくいでしょう」

「なんか、気まずいんだよ。見ちゃいけねえもん見ちまったみたいで」

「見たんだ」

 冬枝もきっと、あの部屋に入った時に佳代と詩子のヌードをちょっとだけ見てしまったのだろう。まあ、まさか部屋の主が全裸でうろついているなんて思わないだろうから、さやかも冬枝を咎める気はないが。

 すると、冬枝は「違ぇよ」と否定した。

「俺が言ってんのはお前のことだよ」

「えっ?僕ですか?」

 僕は服着てるけどな、と自分の格好を見下ろしたさやかに、冬枝は説明した。

「俺は、雀卓を照らす光でしか、お前のことを確認してねえから……対局中に露骨に振り返ったりしたら、お前がいるのが皆にバレちまうだろ」

「あ、そうか…」

 そういえば、監物のせいで冬枝と灘純一の対局がお流れになってしまった。せっかく、さやかがコンパクトミラーの光で援護して、冬枝が有利になったところだったのに、と思い出したさやかは悔しくなってきた。

 頭の中が麻雀一色のさやかとは逆に、冬枝は真剣だった。

「だから…お前の顔を見るのが、怖いんだ」

「冬枝さん…」

「このジャケットを取ったら、お前が消えていなくなっちまうんじゃねえかって……そんな、バカみてえなこと考えちまう。おかしいよな」

 冬枝の言葉に、さやかは胸がいっぱいになった。

 ――冬枝さんも、僕と同じことを思ってたんだ。

 さやかもまた、敬一にプレイルームへと連れて行かれた時、冬枝の顔を見るのが怖かった。産城大橋から転落した冬枝が生きているはずがない、と無意識の不安が頭をもたげて、会いたいのに冬枝を見るのをためらった。

 ――だけど、もう大丈夫。

 さやかは、思い切って冬枝から黒いジャケットを奪い去った。

「あっ――」

 小さな悲鳴を上げて、冬枝がこちらを見る。

 その顔を見た瞬間、さやかの目に涙が溢れた。

「冬枝さん…!」

「さやか!」

 冬枝の胸が、腕が、指先が、さやかに触れる。

 冬枝の腕の中で、さやかは涙がとまらなかった。

 ――やっと会えた。冬枝さんに…。

 2人が触れ合ったところから、温かなシャボン玉がいくつも生まれて飛んでいくような気がする。それらは虹色にきらめいて、幾重ものプリズムをさやかと冬枝の瞳に映す。

 言いたいことがたくさんあるはずなのに、互いの温もりが言葉を溶かしてしまう。会話よりも、今はただ抱き合っていたかった。

 ――でも、そんな場合じゃないんだよね。

 こういう時、頭の隅がどこか冷めているところも、さやかと冬枝は似ていた。危機的状況であることを、お互い痛いほどに分かっているからだろう。

 しかし、心が震える再会の後に、いきなり作戦会議というのも味気ない。話のクッションとして、冬枝が選んだのは共通の知り合いの名前だった。

「あー…嵐がここに来てるぞ」

「ああ、いましたね。嵐さん、なんであんな格好をしているんですか?」

「さあな。得体の知れねえ奴だよ、相変わらず」

 いつも通りの会話をして、くすっと笑みを交わす。それだけで、2人を隔てるものはなくなった。

「とにかく、外に出ましょう、冬枝さん。ここは危険です」

「ああ。裏口かどっかに回るか……いや」

 言いかけて、冬枝は紫鏡会の存在を思い出した。冬枝が脱出しようとする度に、音もなく包み込んで弾き出した、あの紫色の壁。

 ――下手なところから逃げようとしたら、あいつらに押し出される。

 さやかは、冬枝の言わんとするところをすぐに察した。

「ここはあえて、正面玄関から出ましょう。今日は客も多く来ていますから、紛れることが出来るかもしれません」

「そうだな」

 頷いてから、冬枝は「ところで」と言った。

「正面玄関って、どっちだ?」

「………僕が案内します」

 このお屋敷にいた時間は、冬枝のほうがよほど長いはずなのに。冬枝の不自由な監禁生活に同情しつつ、さやかは足早に玄関へと向かった。



 春野嵐、32歳。

 普段はピンクの革ジャンに身を包んでいても――まあ、今は着慣れない、淡いパープルのスタンドカラーのスーツなんか着ちゃっているが――これでも数年前までは、いっぱしの刑事として彩北の平和を守ってきた。

 その頃の勘は、今も衰えてはいない。むしろ、雀ゴロ生活や、最近のヤクザたちとの攻防を通して、かえってオールラウンダーになってすらいる。彩北の街中から、雀卓の上の勝負の行方、乙女心の繊細な機微まで、嵐の野生のレーダーは幅広い気配をキャッチできるように進化したのだ。

 つまり、当てずっぽで駆け戻った灘家で、早々にお目当ての男に鉢合わせしたのは、そういうことだった。

「朽木…!」

「………」

 朽木は、落ち窪んだ眼でぎろりと嵐を睨んだ。少し見ない間に、随分やつれたようだ。

 しかも、朽木は腕の中にとんでもないものを抱えている。嵐は、慎重に言葉を選ばざるを得なかった。

「朽木、久しぶりだな。お前さんの生きてる顔が見られて、俺も嬉しいぜ」

「………」

「お前の目的は分かってる。鳴子を助けに行くんだろ」

「ああ、そうだ」

 ようやく朽木が発した声は、驚くほどかすれていた。

 朽木の様子に痛々しさすら感じながらも、嵐は明るい調子を崩さずに言った。

「じゃあ、俺たちは仲間ってことだな。俺もこれから、鳴子を助けに行こうと思ってたところだ」

「………」

「一緒に行こう。2人で手を組めば、ナルシー源なんか目じゃないぜ」

 だから、と言って、嵐は朽木の腕に捕らえられた人物に視線を据えた。

「ミノルさんのことは、放してやってくれないか」

「ダメだ」

 鋭く言って、朽木はぐいっと乱暴にミノルの身体を抱え直した。

「………」

 ミノルはぐったりとして、意識がない。長い銀髪の狭間から、血が流れるのが夜目にも見えた。

 表面上は平静を装いながら――その実、嵐はちょっと混乱していた。

 ――なっして、ジェントル秋津がここにいるわけぇ!?しかも、なして朽木に捕まってるわけよ!?誰か、嵐クンにも分かるように説明してチョンマゲ~!!

 確かに、本来はミノルが灘家に乗り込む予定だった。朱雀組の最高顧問という立場を以てすれば、ごり押し出来ない話ではない。灘家は今は青龍会寄りとはいえ、朱雀組とも切れない仲だからだ。

 ところが、桃華組組長・秋津ユタカを説得しに行った栗林が青龍会会長・海堂に拉致されるという緊急事態が発生。ミノルは灘家に行くのを取りやめ、自身と栗林の身柄を交換するよう、柘植と共に海堂と談合することになった。

 その間、嵐は柘植の肝煎りで灘家に潜入。灘純一の理解も得て、紫鏡会の仮装なんかしながら、灘家に幽閉されていた冬枝と再会を果たした。

 途中、監物が乱入するというハプニングはあったものの、嵐の大捕り物によって解決。冬枝とさやかの再会を願いつつ、監物を護送する紫鏡会の連中に紛れて外に出たところで、霜田が倒れているのを発見し――…今に至る。

 ――つまり、ジェントル秋津がどっかからテレポートしてきて、朽木はたまたまそのジェントル秋津を見つけちゃったもんだから、ボコって人質にしたわけだ!合点承知の助!

 嵐が事態を無理やり飲み込んだところで、朽木がミノルにピストルを突きつけた。

「こいつは保険だ。万が一、あの女を捕まえられなかった時のためにな」

「あの女って……さやかのことか」

 鳴子救出に当たって、朽木は嵐などより余程優秀だった。さやかの居場所に乗り込んだ上、ミノルのことまで捕まえたのだ。いずれにせよ美貌中年は大喜びし、鳴子と交換してくえるだろう。多分。

「青龍会と取引なんかするなよ。あいつらが約束を破ったらお前、霜田のパパさんをぶん殴ったうえ、朱雀組のお偉いさんをノックアウトしちまったお尋ね者だぞ。どう落とし前つけるんだ」

「うるせえ!俺にはこれしか方法がねえんだ」

 朽木は手負いの獣のような声で吠えてから、ぼそりと吐き捨てた。

「青龍会からは、誰も逃れられねえ。だったら、俺はメイちゃんだけでも取り戻す」

「朽木……」

 朽木は、源から散々痛めつけられ、脅されたのだろう。嵐には、朽木の魂が血を流す様が見えるようだった。

 ぎりっと、嵐の指先が無意識にジャケットの胸元を握り締めていた。

 ――俺まで、身体のどっかが痛ぇよ。心だかハートだか分からねえが、お前の痛みが痛えんだ。

 まるで、嵐と朽木は合わせ鏡のようだった。互いに鳴子を助けるという共通の目的を持ちながら、どうしても譲れないものをその胸に抱えている。

 朽木の想いの深さは、嵐にも分かった。何より、嵐自身、朽木を救ってやりたくなった。

 ――ここで俺と朽木がケンカしたって、ナルシー源が笑うだけだ。かといって、さやかを渡すわけにもいかねえ。こうなったら、ジェントル秋津に頑張ってもらうしかない!

 ミノルには申し訳ないが、このまま朽木の人質になってもらおう。朽木にはミノルの身柄だけで我慢してもらって、3人で桃華組に行くのだ。

 ミノルは秋津ユタカの叔父だし、悪いようにはされないだろう。まあ、秋津ユタカは叔母である秋津マユミを狙撃したし、従兄弟である栗林のことも海堂に引き渡したが、そこは考えない、というかミノル次第だ。

 ――ジェントル秋津なら、口八丁でモモカちゃんを丸め込めるだろ。うまくすりゃ、タカマガハラにいるマロン林のことだって助け出せる。ダンディ冬枝とさやかは、ロリコン伯爵に守ってもらえばいい。うんっ、悪くないんじゃねえか?

 嵐が完璧な説得案を思い付いたところで、盛大な邪魔が入った。

「朽木さん…!」

「朽木…!」

 今、日本中のヤクザが探しているカップルが、揃ってお出ましになったのだ。

 嵐は思わず、真夜中だというのに叫んでしまった。

「なぁ~んで今来ちゃうかな、ダンディ冬枝、さやか!」



 嵐の悲鳴を完全に無視して、さやかがすい、と前に出ようとした。

「さやか!」

 鋭い声で止めたのは、冬枝である。

 状況はさっぱり理解できないが、さやかの硬い背中が全てを物語っていた。

「こんなバカに構ってる場合じゃねえ。さっさとずらかるぞ」

「冬枝さん…」

 夜風が、さやかの髪を左右に揺らす。それはまるで、首を横に振る仕草のように見えた。

「ミノルさんを放っていくつもりですか?」

「つったって、今はお前を逃がすのが先決だ。ミノルさんだって極道なんだ、朽木ごときに簡単に殺されやしねえよ」

「舐めんじゃねえぞ、冬枝!」

 そう吠えたのは、朽木である。

 今にもカラカラに乾いてひび割れそうな眼球を見開いて、ミノルの銀髪を掴み上げて見せる。

 冬枝はただ、無言で朽木を睨みつけた。

 砂漠すら凍てつかせる、氷雪の眼。それを見た瞬間、さやかは身がすくんだ。

 ――冬枝さんはいつだって、心の奥に止まない吹雪を閉じ込めてる。

 冬枝がほんの少しその扉を開いただけで、場が静まり返るほどの冷気を発する。それは殺気や憎しみで出来た冷たさだった。

 その眼で朽木を見据えながら、冬枝は言った。

「やれるもんなら、やってみやがれ。1秒もしないうちに、てめえの目ん玉をほじくり出してやる」

 対する朽木もまた、冬枝を睨みながら一歩も動かない。こちらの砂漠もまた、恐怖といった感情はとうに蒸発してしまったようだ。

 崖っぷちで睨み合うヤクザ2人に、割って入ったのは勿論この男だった。

「よせよ、ダンディ冬枝。ほら、さやかがブルって盛大にチビり散らかしてますよ」

「ち、チビってなんかいません!」

 思いもよらない方向からおちょくられて、さやかは声が裏返った。

 同時に、緊張がふっと緩んで――自然と、気持ちが言葉に乗った。

「朽木さん。ミノルさんを放してもらえませんか」

「いいぜ。ただし、てめえが俺と一緒に桃華組に来るならな」

 朽木のそのセリフで、さやかは全てを察したらしい。ふっと、顔に陰りが差す。

「…そうか。あのオッサン、また鳴子さんのことを……」

 未だに事情を理解していない冬枝が「あん?」と首を傾げる横で、さやかは決然と言ってのけた。

「分かりました。朽木さん、桃華組に行きましょう」

「おいっ、何言ってんだ、さやか!」

 泡を食う冬枝に、すかさずさやかはくるりと振り返る。

「僕一人じゃありません。冬枝さんも、一緒に来てくれませんか」

「あ……ああ?」

 ぱちんと指を鳴らして、嵐が「そういうことか!」と納得した。

「んだば、俺もついて行こーっと。ワイルド嵐とダンディ冬枝、そして麻雀小町、彩北の三大名物で、モモカちゃんを電撃訪問だ!」

「てめえらに用はねえ!俺様が欲しいのは夏目さやかだけだ」

 朽木が声を荒げた側で、それまで目を閉じていたミノルがゆっくりと瞼を開いた。

「……悪い話じゃないと思いますよ、朽木君」

「ああ!?てめえ、気が付いて…」

 と言った時には、ミノルはもう朽木の腕の中にはいなかった。

 あまりにも自然に、ミノルは軽やかなステップを踏んで、朽木から距離を取ったのだ。

 束ねられた銀髪の先が、遅れてくるりと弧を描く。朽木にはそれが、狐の尻尾のように見えた。

 ――こいつ、まさか…わざと俺に捕まったのか?

 朽木の推測をよそに、ミノルはわざとらしく中折れ帽を被り直した。

「ユタカの目的は、さやかさんと直接話すこと。たとえ海堂会長の命令があるにせよ、まずはさやかさんと会うことを優先するはずです。イサオお兄さんのために」

「だから、何だってんだ」

 鼻白む朽木に、ミノルは魔法の杖のように人差し指を振ってみせた。

「多少のおまけは容認してくれる、ということです。ま、冬枝君と嵐君が、お行儀よくしていればの話ですが」

「嵐クン、お行儀よくしてまーす!」

 笑顔で手を挙げる嵐ににっこりと頷いてから、ミノルは朽木に向き直った。

「本当は僕が同行できれば一番良いのですが、嵐君も言っていた通り、僕が動くとことが大きくなってしまいますからねえ。かといって、さやかさん一人で行かせるのは心配ですし」

 それから、ミノルの蘇芳色の瞳が、じっと朽木の目を覗き込んだ。

「君だって、大切な恋人を取り返した後に、さやかさんに何かあったら後味が悪いでしょう?」

「……んなこと、俺様はどうだっていいぞ」

「そうでしょうか。君も、鳴子さんも、もう十分汚れ仕事をやりました。これ以上、幸せな2人が手を汚す必要はないのではありませんか?」

 ミノルの言葉に、朽木の中で何かが揺れ動いた。

 秋津の魔法使いの手にかかれば、草木も生えない砂漠にだってオアシスが出現する。

 それは灼熱の風に焼かれても消えることのない、朽木自身の心の奥底から湧く感情の泉だ。

「そうだぞ、朽木!お前ひとりでカッコつけてんじゃねえぞ!」

「春野嵐、てめえ…」

 嵐もまた、ミノルの言葉で思い出していた。どうして自分が今、この東京の地にいるのかを。

「お前が前に言ってた通り、俺は鳴子に酷えことを言った。俺はあれからずっと後悔してる。ずっと、鳴子に謝りたいって思ってる。だから、俺にも背負わせてくれよ。お前と鳴子のこと」

 朽木の瞳が、小さく見開かれる。目の前にいるのが、敵ではないのだと気付いたかのように。

「僕も、鳴子さんと朽木さんには一緒にいて欲しいんです。3人で会おうって、約束しましたから」

 さやかと嵐は、すっかり朽木について行く気だ。

 残された一人――冬枝を、全員がじっと見る。

「あー…」

 面倒臭そうに後ろ頭をかきながら、冬枝は「事情は分かった」と言った。

「てめえには、さやかが世話になっちまったからな。借りは返させてもらうぜ、兄弟」

 かつての口癖を真似られて、朽木がふん、と顔をしかめた。

「…てめえに『兄弟』なんて呼ばれると、ぞっとするぜ。冬枝」

「お互い様だ」

 冬枝と朽木が、同時に口角を歪める。笑み未満の表情が、今はちょうどよかった。

 ――桃華組に行く。

 さやか、冬枝、嵐、朽木。これから何が起こるかは分からずとも、4人に迷いはなかった。

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