70話 月の輝く夜に
第70話 月の輝く夜に
彩北――榊原邸に、今夜は2人の女が訪れていた。
「はじめまして、響子さん。長女の瑞恵です」
「次女の奈々恵です。母と父がお世話になっています」
結婚して家を出たばかりの瑞恵と、大学の寮で暮らしている奈々恵。2人は、榊原と淑恵の愛娘たちだ。
つまり、響子は今、愛人をしている男の実の娘たちと対面している。
――こういう時、どんな顔をしたらいいのかしら…。
映画やドラマの中なら、お互い、嫌味や暴言をぶつけ合う修羅場になるところだろう。
だが、目の前にいる瑞恵と奈々恵は、心からの笑みを浮かべている。両親に似て、とても心の清い人たちだと分かる。
響子もまた、そんな2人に食ってかかる気にはなれない。かといって、2人の実家であるこの屋敷で、我が物顔で2人を出迎えるのも厚かましい。
戸惑う響子をよそに、淑恵はにこにことティーポットから紅茶を注いだ。
「お産の前に、どうしても2人を響子さんと会わせたくって、今夜は無理を言って来てもらったの。今頃、大輔さんが寂しがっているかもしれないわね」
新婚ほやほやの夫の名前を出され、瑞恵が紅色の唇を綻ばせた。
「大輔さんは今日は職場の飲み会だから、遅くなるんですって。私の留守ぐらい、気にしないわ」
「あら、寂しがってるのは瑞恵のほうだったのね」
「もう、お母さんったら」
うふふっ、と笑い合う声から、白いバラの香りが匂い立つ気さえする。淑恵と瑞恵は本当によく似た母娘で、響子には美しい女神が2人並んでいるように見えた。
対照的に、奈々恵は父の榊原似だ。形の良い眉を開いて、響子に気さくに話し掛けてきた。
「あの、響子さん。母がご迷惑をおかけしていませんか?何だかお母さん、響子さんにはすっごく甘えてるみたいだって言うから、心配で」
「えっ?そんな…大丈夫ですよ」
一体、淑恵は響子のことを娘たちにどう説明したのだろう。響子は反応に困った。
――父親の愛人が、妊娠中の母親のそばにいるなんて…私だったら、耐えられないわ。
響子の懸念とは裏腹に、奈々恵は無邪気に響子に顔を寄せた。
「響子さんみたいに美人で優しい人が傍にいてくれたら、私でも甘えちゃうな。響子さんが私たちの家族になってくれて、本当に嬉しいです」
「奈々恵さん…」
榊原にそっくりな顔で言われると、響子の胸が疼いた。切ないような、愛おしいような、不思議な気持ちになる。
――家族なんて……私には、そんな風に言ってもらう資格は……。
奈々恵は「聞きましたよ、響子さん」と、いたずらを打ち明ける子供のように楽しそうに言った。
「響子さん、夏目さやかさんと麻雀友達なんですって?」
「あ、はい…奈々恵さんも、夏目さんをご存知なんですか?」
「ええ。真面目でいい子ですよね」
組の代打ちと、若頭の娘。肩書きとは裏腹に、さやかも奈々恵も爽やかな女性だ。その辺の不良より、よほどすれていない。
――夏目さんって、交友関係広いのね…。
そのさやかは今、青龍会に追われて消息を絶っている。一瞬、響子の気は沈みかけたが、笑顔で語り合う姉妹を前にして、表情を切り替える。
「私にもいつか、麻雀を教えてくださいね。響子さんと夏目さんと、お父さんと私で打ちましょうよ」
「えっ…」
淑恵の目の前でそんな話をしていいのだろうか、と響子は面食らったが、姉の瑞恵も続く。
「そうだわ、私にも麻雀を教えて、響子さん。大輔さんがよくお友達と打ってるみたいなんだけど、お話を聞いても私にはさっぱり分からなくて」
「えーっと…旦那さんから教えてもらえばいいじゃないですか」
「ダメよ。大輔さんったら、『みーちゃんはお嬢さんだから、麻雀は分からないだろ』なんて言うのよ?大輔さんに麻雀を教えてもらったら、ケンカになっちゃうわ」
「あら…」
確かに瑞恵は透き通るような色白の肌に、ふわりと波打つ髪がいかにも深窓の令嬢で、麻雀なんてタバコ臭い遊びとは縁遠く見える。
――でも、こういう人が麻雀で強かったら、きっと男の人はびっくりするわね。私がちょっとコツを教えて差し上げれば、旦那さんを見返してあげられるかも…。
そんなことを考えかけて、響子ははっと我に返った。
――私ったら、相手は若頭のお嬢さんなのよ。調子に乗っちゃいけないわ。
夏目さんの麻雀狂いが伝染ったのかしら、と響子は頬に手を当てた。
淑恵がふふっと笑って話に入った。
「2人とも、良かったわね。いいお姉さんが出来て」
「うん!これから妹か弟も生まれるし、大輔お義兄さんもいるし、私たち、一気に大家族だね」
「そうだわ、私と大輔さんに子供が出来たら、響子さんも会いに来てね。きっとその頃、お母さんとお父さんは赤ちゃんのお世話で大変でしょうから、響子さんしか頼れないの」
「瑞恵ったら、気が早いんだから」
母娘3人の笑顔から、温もりが広がる。響子は、自分がいつの間にか瑞恵と奈々恵を好きになっていることを悟った。
――そうね。淑恵さんと若頭のお嬢さんたちを、嫌いになれるわけないわ…。
女4人のお茶会はごく短い時間だったが、まるで古くからの友人と語らっているかのように心の通うひと時だった。
タクシーで帰る瑞恵と奈々恵を玄関先で見送ってから、響子と淑恵は邸内に戻った。
娘たち2人の去ったダイニングは、しんと静まり返っている。
夜風が、ひゅうと心の扉を押した気がした。響子は、淑恵に尋ねた。
「ねえ、淑恵さん。そろそろ教えてくれてもいいんじゃないですか」
「教えるって……何を?」
淑恵は既に、響子の返事を知っているようだった。
響子は言った。
「あなたの本心よ。愛人である私を主治医や娘たちにまで紹介するなんて、普通の奥様のすることじゃないわ。あなたは悪ふざけでこんなことをする人じゃない。理由があるんでしょう」
「………」
淑恵は「響子さんは、どうしても理由が欲しいのね…」と呟いた。
「…そうよね。理由もなく私の傍にいてくれなんて、虫が良すぎたわね。私たち、元は一人の男の人を取り合っている仲なのに」
「…そうです。どんなに仲良くなったって、それは変わらないわ。私は、若頭のためにここにいるんですから…」
言いながら、唇が震えているのを響子は感じた。何か、この先の展開を恐れている自分がいた。
淑恵は、庭を望む大きな窓に目を向けた。
「富樫さんの言っていた通り、私と赤ちゃんの経過は順調よ。私の年齢から言えば、恵まれていることでしょうね」
お腹に触れながら、淑恵の穏やかな横顔に影が差した。
「けれど…いつ何が起こってもおかしくない身体なのは変わらないわ。万が一のことだってあり得る」
そこで、淑恵は響子に目を向けた。
「そうなった時、忍さんは一人きりになってしまうわ。娘たちには自分の人生がある。だから、忍さんに寄り添ってくれる人が必要なの。私の分まで…」
淑恵の痛切な声が、窓に映る暗い景色の向こうに消える。
瞬間、響子の中で何かが音を立てて割れた。
「それじゃ、私に淑恵さんの身代わりになれって言うの?だから、富樫先生や娘さんたちにも紹介したの?」
「…そうよ。私に何があってもいいように…私がいなくなっても、響子さんのことを受け入れてもらえるように」
「……っ!」
響子は、ワンレングスの長い髪を左右に振った。
理屈は分からないが、熱いものがこみ上げてくる。気が付けば、感情のままに叫んでいた。
「そんなの嫌よ!淑恵さんの嘘つき!」
「響子さん…」
「ひどいわ!淑恵さんはただ、私を自分の後釜にするためだけに優しくしてたんでしょう?若頭にあてがうのにちょうどいい女だから!」
「待って、それは違うわ」
反論しようとする淑恵を遮り、響子は言った。
「信じてたのに…。淑恵さんの傍にいられて、私がどれだけ幸せだったか…」
涙が一筋、頬を伝う。響子は、ふっと自嘲の笑みを浮かべた。
――そうよ。私は淑恵さんに許されて、大切にされて嬉しかったのよ…。
榊原の妻と愛人、という相克など、本当はとうの昔に2人の間から消えていた。いつの間にか、榊原淑恵という女性の傍にいることが、響子にとってかけがえのない時間になっていた。
――だけど、淑恵さんは違ったんだわ。私のことなんて、若頭にあげるお人形みたいに思ってただけだったのよ…!
「私、帰るわ」
踵を返す響子を、淑恵が慌てて追いかけようとした。
「待って、響子さん!あっ」
動揺したせいか、椅子から立ち上がろうとした拍子に、淑恵は床に倒れ込んでしまった。
「うっ…」
「!淑恵さん!」
苦しげな淑恵の表情を見て、響子は反射的に駆け寄っていた。
自分で起き上がろうとする淑恵を制し、両腕でそっと抱き起こす。夜の床は冷たく、淑恵の身体から温もりを奪ってしまいそうだ。
「ベッドに行きましょう。歩けますか?」
「…大袈裟ね、響子さんったら。臨月じゃないんだから、このぐらい平気よ」
ほろ苦く笑う淑恵を支えながら、響子は寝室へと向かった。
彩北の秋は寒い。
妊娠中の淑恵の身体を冷やさないよう、寝具は温かな冬のものを揃えてあった。
柔らかなシーツの上に、2人並んで腰かける。響子が傍らからブランケットを淑恵の膝にかけてやると、淑恵がブランケットを広げて、響子にもかけてくれた。
ブランケットを通して、淑恵の体温が響子に伝わる。響子は、自然と口を開いていた。
「ごめんなさい、淑恵さん。取り乱したりして」
「いいのよ、響子さん。私の言い方が良くなかったの。あなたを傷付けてしまったわ」
いつもそうするように、淑恵の指が響子の頬に触れる。思わず頬ずりしたくなるほど、優しい指だ。
――実の母親相手にだって、こんな風に感じたことはなかった。
響子の母は身勝手で、いつも金のことしか考えていないような女だった。響子に母の愛を教えてくれたのは、他ならぬ淑恵だ。
――淑恵さんはもう十分、私に愛を与えてくれた。疑う必要なんてなかったのに…。
或いは、失うのが怖かったのかもしれない。もしも淑恵のくれる優しさが偽りだったらと、心のどこかで恐れていたのかもしれなかった。
淑恵は優しく、響子の心に染み込ませるように言った。
「私の代わりにするために、響子さんと一緒にいたわけじゃないの。確かに、私に何かあった時、忍さんの傍にいてあげて欲しいというのは本当よ。だけどそれは、響子さんがご自身で決めること。私はただ、私に何かあっても、響子さんと私の家族がばらばらになってしまわないように、繋いでおきたかったの」
「淑恵さん…」
淑恵は、自分亡きあとの家族全員のことを考えていたのだ。しかもその中に、当たり前のように響子を入れている。
――打算で考えていたのは、私のほうね…。
己のさもしさが、つくづく嫌になる。結局、響子もまた、あの身勝手な両親と同じなのだ。
などと考えていたら、淑恵から頬をふにふにとつつかれた。
「それより、響子さんのほうこそひどいわ。私が優しくしてるのが嘘だなんて」
「あっ、それは…すみません」
「私、響子さんのことが大好きよ。娘たちには言えないようなことでも、響子さんにだったら言える。もしも忍さんが響子さん以外の女の人を選んだら、私、化けて出てやるんだから」
そこで響子は「ちょっと、淑恵さん」と淑恵の肩を引き寄せた。
「さっきからその、縁起でもない言い方はやめてください。私、淑恵さんに何かあるなんて嫌ですからね」
「そうはいっても、高齢出産ってやっぱり危険なことなのよ。色々な病気にかかる可能性だって…」
「万が一の時の覚悟は、確かに必要かもしれません。だけど、淑恵さんがそんなに弱気でどうするんですか。お腹の赤ちゃんが、不安で出てこられなくなってしまうわ」
「響子さん…」
響子は淑恵をぎゅっと抱き締め、半ば自分に言い聞かせるように言った。
「私と淑恵さんは、2人で一つです。どちらが欠けてもいけません。若頭は美女を2人侍らすのに慣れてしまったから、一人じゃもう満足できないわ」
「ふふっ。響子さんったら」
「それに、私は源さんのお嫁さんになるんです。若頭の愛人でいるのも今だけですよ」
「もう、まだそんなことをおっしゃるの?響子さんが源さんと結婚するなんて、きっと忍さんだって反対するわ」
淑恵の柔らかな身体が、響子の身体を包み込む。その温もりを感じながら、響子はふと思った。
――そうね。私は本当に、若頭の愛人を辞めてもいいのかもしれない…。
榊原の愛を失うのが、怖くないと言えば嘘になる。だが、その不安に飲み込まれそうになる自分を冷静に見つめている、もう一人の自分がいた。
――私がずっと欲しかったものは、もう心の中にある。そうでしょう?
窓の外に、月が明るく浮かんでいる。形を変える月のように、自分も変わる時が来ていることを、響子は悟った。
月は、彩北から遠く離れた東京――灘邸をも煌々と照らし出していた。
灘家の長男・灘敬一によって庭のプレイルームへと案内されたさやかは、広間の階段から2階部分のギャラリーへと連れ出された。
「上のほうが、会場を広く見渡せる。それでいて、客からは見つかりづらい」
敬一がギャラリーを一歩進むたびに、居並ぶメイドたちが整然と頭を垂れる。さやかの存在を咎める者はいなかった。
敬一の配慮をありがたく思う反面、さやかは、事が順調に進み過ぎているのが気になった。
――まるで敬一さん、冬枝さんをこの屋敷から追い出したがってるみたいだ…。
いや、考えすぎか、とさやかは憶測を否定した。元より、表社会とも裏社会ともつかずはなれずの距離を保ち、独自の世界を生きる上級国民の考えなど、さやかには分かりようがない。
やがて敬一は、プレイルームの雀卓が見下ろせる場所で立ち止まった。
「あの辺りが麻雀コーナーだ。もう始めている人たちもいるようだね」
「すごい…」
状況を理解してはいるのだが、目下に並ぶ5つの雀卓を見て、さやかは溜息を吐いてしまった。
――5つ全部自動卓、しかも最新モデルだ。お酒や食事は呼び鈴一つでメイドが運んできてくれるし、ピアノとハープの生演奏までついてる。これじゃ、『こまち』は完敗かも…。
だいたい、客の身なりからして、彩北の雀荘『こまち』とは大違いだ。遠目にも分かる上等なスーツに、嫌味のないタイやピン。ここの客なら、現金ではなく着ているもので賭けが成り立ちそうだ。
――たっくんが敬一さんとよろしくやってくれれば、僕もここのサロンにお呼ばれするかな…?
雀荘で市井の打ち手と打つのも好きだが、こういう上流階級の遊び場で打つ、というのもさやかの虚栄心を刺激する。あんな足が沈み込むような毛足の長いカーペットの上で麻雀を打ったことなんて、19年の人生の中で一度もない。
――灘純一の友人とくれば、医師や代議士、作家に学者と、各界の著名人が集まっているはず。そういう相手と打ったってだけで、僕の麻雀歴に箔が付くんだけどなぁ。
目をキラキラさせて雀卓を見下ろしていたさやかは、敬一の声で我に返った。
「…何?そうか。思っていたよりも早いな…予定が変わったのか?」
いつの間にか、メイドが敬一に何事かを耳打ちしていたようだ。メイドは必要なことだけ伝えると、音もなく元の配置へと戻っていった。
さやかは敬一の顔付きから、事態を察した。
「藤浪が戻って来たんですね」
「…流石はタクミ・ナツメの妹、察しが良いな。ああ、その通りだ。今夜は戻らないはずだったんだが…何かあったのかもしれないな」
敬一はさやかなら何か知っているだろう、と言いたげな目でこちらを見たが、さやかにも心当たりはない。十河から事前に青龍会と朱雀組、白虎組の現況をおおよそは聞かされていたが、東京のヤクザたちの動きは速い。さやかの予測にも限界はあった。
敬一は、さやかの肩をポンと叩いた。
「僕は一旦、屋敷に戻る。聡明なタクミ・ナツメの妹なら大丈夫だと思うが、下手なことはするなよ」
「はい。ありがとうございます、敬一さん」
そこで敬一は、ふっと微笑んだ。瞳に、幻の木漏れ日が映る。
「愛するタクミ・ナツメの妹のためとあれば、当然のことさ。君は、僕の妹でもあるのだから」
あの嫌味ったらしい陰気な兄と比べたら、こちらの兄のほうがさやかにとっては使い勝手が良いかもしれない。そんなことを思いながら、さやかは敬一の背を見送った。
「冬枝さん…」
ギャラリーの手すりにつかまりながら、さやかは内心、冬枝の姿を見るのを怖れていた。
――産城大橋で、冬枝さんが落ちていく姿を見てから……ずっと、冬枝さんのことを考えるのが怖かった。
冬枝は絶対に生きている。そう信じていながら、あの夜のことを思い出すことを避けてきた。夜の川へと転落した冬枝の姿を思い出してしまったら、冬枝が生きているなんて信じられなくなってしまうからだ。
だからずっと、冬枝の顔を心の奥底に封じ込めてきた。さやかはただ、機械のように己をコントロールし、この場所まで辿り着いただけだ。
――今、冬枝さんの姿を見てしまったら……自分がどうかなってしまいそうで、怖い。
冬枝に会いたいのに、いざ会えるとなると、どうしようもなく身体がすくむ。コンピューターの自分と女の自分が、心の中で闘っているのかもしれない。
だが、その瞬間はさやかの意志とは関係なく――本当に突然に、ばんとさやかの前に叩き付けられた。
「冬枝さん…!」
唇が、勝手に名前を呼んだ。その時、世界から冬枝以外の全てが消えた。
――生きてる!冬枝さんが、そこにいる…!
他の客たちと並んで、冬枝が雀卓の傍にやって来たところだった。他人の話をどこか眠そうに聞いているところも、端正な横顔も、全部そのままだ。
もっと冬枝の姿が見たいのに、視界が潤む。涙が奔流のように目から溢れて、止まらない。
「冬枝さん…冬枝さん…冬枝さん…っ!」
手すりにつかまりながら、さやかは小声で泣いた。ぼとぼとと零れ落ちる涙に、感情の全てを託して。
ギャラリーにびっしりと並ぶメイドたちに見られないよう、そっと顔を隠す。何故なら、きっと今のさやかは、大泣きしながら満面の笑みを浮かべているからだ。
――泣いてるだけなら『敬一さんに振られたせいだ』って思ってもらえるだろうけど、笑ってたら変に思われちゃう。
そんな心配も、本当はどうでもいい。涙が頬を伝うたびに、さやかの身体に温度が戻ってくる気がした。
――冬枝さんが生きてる。僕も生きてる。僕たちはまだ、何も終わっちゃいない!
巨大な希望が全身に満ちた瞬間、さやかの頭がすうっと冷えた。
コンピューターのさやかと、女であるさやかが、頭の中で一つになる。
――解はもう見えている。僕のやるべきことは…。
涙をそっと拭い、さやかは雀卓へと目を向けた。
卓にメンツが揃い、冬枝がちょうど打ち始めるところだった。
冬枝の対戦相手は、黒縁眼鏡をかけた学者風の男と、レンガ色の背広を着た作家風の男、そして灘純一だった。
天下の灘議員の友人だけあって、どいつもこいつも中年親父だがこざっぱりしている。まあ、彩北の雀荘『こまち』ではお目にかかれないようなタイプばかりだ。
見知らぬチンピラの冬枝がメンツに混ざっていても、皆、嫌な顔一つしない。事前に純一から言い含められているのだろうが、こういった如才のなさも、東京のオッサンのほうが田舎のオッサンより一枚上手だ。
卓は自動卓で、スイッチ一つでジャラジャラと勝手に洗牌してくれる。椅子の座り心地も良いし、誰かさんがいたらさぞかし羨ましがるだろうな、などと思ってしまう。
――本当は俺じゃなくて、あいつがいたほうがお似合いだってのに…。
そう考えかけて、冬枝は首を左右に振った。どうも、今日は油断するとセンチメンタルになってしまう。
――今夜は、オッサンたちのお遊びに付き合うだけだ。何も変わらねえ。何も…。
配牌が一通り済むと、純一が場を仕切った。
「冬枝君は、彩北で雀荘を経営するほどの麻雀好きと聞いてね。ここには、私の友人たちの中でも選りすぐりの麻雀巧者に来てもらった」
「はあ」
「今夜は皆、思う存分打ってくれよ。特に、冬枝君は頑張ってくれたまえ」
純一が、意味ありげに冬枝にウインクした。オッサンからウインクされるなんて初体験の冬枝は、ぞっとして顔を背けた。
――勝敗なんざ、どうだっていい。このお屋敷から自由になったところで、俺に行くあてなんかねえんだ…。
とは言うものの、産城大橋から転落してからしばらく、この屋敷で面倒を見てもらっているのは事実だ。佳代の父親でもある純一の前で、露骨に手を抜くのも不義理だろう。
そう思って、それなりにお貴族たちのお相手をしようとした冬枝だったが――何だか、思うように牌がまとまらない。
――んん?
結局、東一局は作家風の男が1位、学者風が2位、純一が3位、冬枝が最下位で終わった。
――まあ、最初はこんなもんだよな、うん。
久しぶりの麻雀だし、初めて打つ相手だしな、と冬枝は自分に言い聞かせた。
だが、東二局、東三局、と同じ状況が続くにつれ、冬枝はちょっと焦り出した。
――おいおい、こんなに勝てないもんか?いくらブランクがあるっつったって、彩北じゃこんなオッサンたち相手に負けたことなんて……。
そこまで考えた冬枝は、ハッとした。
――違う!ここにいるのは、地元の雀荘で馴染みの相手としか打ってねえ田舎のオッサンどもじゃねえ。
冬枝の前にいるのは、金も人脈もたらふくあるブルジョワたちだ。つまり、彩北より遥かに雀士の層が厚いこの東京で、様々な相手と打ってきた経験のある、雀豪が揃っているというわけだ。
――彩北の麻雀は、10年も20年も時が止まってるってことを忘れてたぜ…。
浦島太郎でも勝てる彩北の麻雀と違い、東京の麻雀は時代の最先端だ。冬枝は、すっかり勝負の場から置き去りにされていることを自覚した。
南一局では、力量の差がより顕著になった。そもそも、場の動き方が冬枝の知る麻雀とは違う。
――あーあ、しょせん、経済でも麻雀でも、田舎より都会のほうが上だってか。どうせ俺は生まれも育ちも田舎者、東京人の皆さま方になんか勝てっこありませんよーだ。
冬枝はもう、真面目に打つのがバカらしくなってきた。大人のゲームに子供が一人混ざっているみたいで、やればやるほど無力感が募る。
差があるのは、麻雀だけではない。純一とそのご友人方は、酒が入っていることもあって至極和やかに、優雅に談笑なんぞしていらっしゃる。
時折、こちらにも話を振ってくれるが、冬枝は生返事しか出来ない。冬枝は、どうしようもなく温度差を感じた。
――なんつーか、孤独だな。いろんな意味で。
温かな友人たちの輪の中で、一人、冬枝だけが冷え込んでいる。灘家に来てからずっと冬枝を蝕んできた孤独が、ここに来てまた頭をもたげ始めていた。
――こいつらに勝てば解放とか、もうどうでもよくなってきたな…。
冬枝は、おもむろに点数表を覗き込んだ。
負けが積もりに積もって、5万点差になっている。ここまで一人負けをしている冬枝のことを笑いものにしないのだから、純一とその友人たちは品がいい。
――いっそ倍にして、10万点差で負けりゃ面白いんじゃねえか。はっはっは。
首をぐるりとひねれば、後ろの卓で純一の友人たちと打っている嵐の背中が覗けた。
冬枝と嵐は、別々の卓に着けられていた。知り合い同士で共謀して、ズルされることを防ぐためだろう。
あの雀ゴロが、東京の猛者相手にどんな闘牌を繰り広げているのかは分からないが、少なくとも背中からは負けの気配は感じられない。つくづく、マイペースな男である。
ガタッ!
麻雀スペースから離れた壁のほうで、何やら物音がした。
どうやら、ここから離れた壁際に飾られた大きな絵が、壁から外れて落ちたらしい。黒い燕尾服を着た使用人たちが、慌てて直しに向かっている。
純一が「ああ」と少しだけ困ったように眉を下げた。
「また落ちてしまったのか。お気に入りの絵なんだがなあ」
「夏に、額縁を新調したばかりでしたよね」
現在トップの作家風の男が言い、純一がうんうんと頷いた。
「前は、家に昔からある額縁にそのまま入れていたんだが、絵に相応しい額縁を新しく職人にしつらえさせたんだ。どうやら、お気に召さなかったようだが」
肩を竦めてみせてから、純一はぼーっと絵のほうを見ている冬枝に水を向けた。
「いいだろう?あの絵」
「はあ」
「名画で『いかさま師』という作品があるだろう?あれを模した絵なんだ。絵の中央にいる、赤い派手なドレスを着た女がいるだろう?あの女が、カードゲームの最中にこっそりイカサマをしている様子を描いた絵だよ。ほら、テーブルの下で、女がこっそりカードを横の男に渡しているのが見えるかな」
冬枝は、元ネタの絵を知らない。そのいかさま師らしき赤ドレスの女が、ゆで卵みたいにつるんとした不自然な目玉で、隣の坊主にぎょろりと目配せしているのがとにかく不気味だった。
――あんな露骨に合図を送ってたら、誰にだってイカサマしてるのがバレバレだろうが。
尤も、ギャンブルに骨を抜かれた連中なんて、あんなものかもしれない。欲に目がくらんで、周りの視線を警戒することすら出来なくなる。
――この金持ちどもの遊び場には、確かにお似合いの絵だ。
などと格好つけて吐き捨てたところで、冬枝がその金持ちたちに惨敗している事実は変わらない。何なら、イカサマなんて悪あがきをする気すら、今の自分の中にない。
額縁事件で、場の空気が少し緩んだ。卓にいる面々が、めいめいタバコをふかし始める。
「冬枝君もどうだい?しばらく、禁煙していたんだろう」
「ああ…」
確かに、この灘家に来てから煙を吸う機会はなかった。産城大橋から落ちる前に自分が着ていたものや持っていたものは、未だに手元に戻って来ていないし、冬枝に与えられた格調高い部屋のどこにもタバコやライターの類はなかった。
純一が呼び鈴を鳴らすと、察しの良いメイドが銀の盆にタバコの箱とマッチを乗せてやって来た。
「どうぞ。君の好きな銘柄じゃないかもしれないが、遠慮なく」
「…どうも」
断るのも何なので、冬枝は、差し出されるがままにタバコとマッチを受け取った。
――銀の盆に乗せられたタバコなんて、初めて吸うぜ…。
白に赤いロゴの箱は、冬枝が愛飲しているキャスターではない。そこまでこだわりがあるわけでもないから、適当に火をつけて吸った。
「はー…」
久しぶりのタバコなんだから、もっと感動しても良さそうなものだが――タバコの熱も味も匂いも、ちっとも身体に届かない。
――このお屋敷でおままごとみたいな暮らしをしているうちに、本当にお人形にでもなっちまったのかな、俺は…。
雀卓に吐いた煙すら、他人のもののようだ。何なら、眩しすぎるシャンデリアのせいで、煙がキラキラ光り輝いて見える。
「………ん?」
いや、光っているのは煙ではない。チラチラと何かを訴えかけるように動くその光は、冬枝の手牌を照らしていた。
瞬間、冬枝の脳裏に、閃光が走った。
――これは……あの時と同じ……!
今からおよそ半年前――ここから遠く離れた、彩北の廃ホテル『リトルオールドホテル』。
ホテルの跡地の利権を賭けた麻雀勝負の最中、卓にいたはずのさやかが消えて代わりに冬枝が打つことになった。
冬枝がホテル側に負けそうになった時、これと全く同じことが起こったのだ。
――さやかが生きてる。さやかがここにいる……!
今すぐ、後ろを振り仰ぎたい衝動を、冬枝は堪えた。
――さやかは青龍会に追われてる身だ。ここにいて、俺のサポートをしてることがバレたらまずい。
恐らく、さやかは2階のギャラリーから、コンパクトミラーを使って、冬枝の肩越しに牌を照らしているのだろう。一体、どうやってこの屋敷にまで辿り着いたのかは分からないが、つくづくしぶとい女だ。
――麻雀小町の名に偽りなしだな。お前以上の麻雀狂いを、俺は知らねえよ。
さやかが照らす牌を、冬枝は持ち上げた。
手に触れた瞬間、牌が燃えるように熱く感じた。
――牌が生きてる。
いや、違う。生きているのは、熱を持っているのは自分だと――冬枝は気付いた。
――さやかが生きてる。2人で、ここから脱出してやる!
その瞬間、冬枝を覆っていた、薄く冷たい膜がぷちりと破れた。
会場の煌めきも、生演奏の音色も、タバコの匂いも卓を囲む面々の顔も、全てがくっきりと冬枝の感覚に入ってくる。
ざっと卓上を見回した冬枝は、改めて河を見て鼻白んだ。
――なんだ、こいつら待ちが見え見えじゃねーか。なんでこんな連中に負けてたんだ、俺は。
結局、最初から勝つ気がなかったから、見えるものも見えていなかったのだろう。今の自分なら、さやかの援護なしでも勝てる自信がある。
――だが、今はお前と打ちてえ。なあ、さやか。
さやかが、また別の牌を照らす。その牌を切り、少しずつ手牌が形を成していく。
自然と、流れる演奏と手の動きが同調する。冬枝は、さやかと踊っているような錯覚にとらわれた。
――これが、俺たち流のダンスなのかもしれねえな。きっと…。
牌を通して、さやかと手を取り合う。互いの温もりが心の中に流れ込み、何もかも忘れるようなひと時だった。
冬枝とさやかが一緒に打ち始めて、どのぐらい経っただろうか。
穏やかな空気を引き裂いたのは、甲高い悲鳴だった。
「きゃあああああああっ!」
――佳代さんの声だ!
反射的に立ち上がった冬枝をはじめ、その場にいた全員が声のしたほうに注目する。
そして――目を疑った。
「動くな!ヘタな真似をすれば、この娘の首が飛ぶぞ!」
そう言って、佳代を羽交い絞めにしているのは――褌姿の長髪の男。
「監物…!」
それは、この東京から遠く離れた東の街、縫琴の八百眼組の若頭だった男だった。
――嘘だろ…!?あいつ、こんなところまで来たのかよ…!
嵐の登場といい、さやかの生存といい、ほんの数十分の間に大事件の連発だ。
ここ数日、このお屋敷でずっと時が止まった生活をしていた冬枝は、外界のスピードに頭がくらくらした。
「おじさまぁっ!」
「…佳代さん!」
佳代の悲鳴で我に返れば、こちらを睨みつける監物と目が合った。
「てめえ、よくも佳代さんを…!」
監物とは(冬枝は忘れていたが)因縁の相手だ。またしても、冬枝を狙ってここに来たのかもしれない。
「……」
だが、監物は冬枝を一瞥だけして、ここにいる全員に聞かせるように怒鳴った。
「夏目さやか!ここにいるのは分かってるんだぞ!表に出ろ、夏目さやかあっ!」
――さやか!?
監物の口から意外な名前が飛び出し、冬枝は驚いた。
――何故、こいつがさやかがここにいることを知っている?まさか、青龍会が背後にいるのか…?
「おじさま、助けてえっ!」
佳代が叫ぶと、監物が無理やり佳代の頭を掴み上げた。
「こいつの命が惜しければ、今すぐ出て来い!牌を握って待っているぞ!」
「くそっ…」
さやかの居場所を気取られてはまずいため、2階のギャラリーを見ることはできない。だが、冬枝は雲行きのまずさを感じていた。
――さやかの性格じゃ、佳代さんを助けるために飛び出しかねねえ。ここは俺が…!
身構えかけた冬枝の横を、薄紫色の塊が猛スピードで駆け抜けていった。
「ワイルド嵐ストーーームッ!!!」
「ぐあっ!」
嵐の体当たりが、モロに監物を直撃した。
倒れ込んだ監物を嵐が組み伏せ、いつの間にか集まっていた紫鏡会の連中が、音もなく2人を押し包んでいく。
「おじさまぁっ!」
「佳代さん!」
監物から解放された佳代が、真っ直ぐに冬枝の胸に飛び込んできた。
震える佳代を、そっと抱き締める。周囲の目が気にならないわけではなかったが、そうしてやりたかった。
「佳代、お母様と一緒にお夕飯のお片付けをしていたの。そうしたら、いきなりあの方が現れて…」
よく見れば、佳代は白いフリルのエプロンを身に着けている。縦ロールの髪には、白い三角巾を被っていた。
すんすんと嗚咽する佳代は、とても幼く見える。冬枝はふと、慈愛のようなものを佳代に抱いた。
――胸がでけえから忘れてたが、佳代さんはまだ16なんだよな。そんな子供が、あんなイカれた野郎にひっつかれたら、そりゃ怖いよな…。
いやらしい意味でも、面倒を見てもらったという義理でもなく、佳代を守ってやりたいと思う。冬枝は、初めて等身大の佳代に触れた気がした。
――いや、こういうのは俺じゃなく、実の親の役割じゃねえのか?
佳代の頭を撫でながら、そっと純一のほうを伺う。
この騒ぎで一声も発しなかった上級国民はと言えば、冬枝の腕の中にいる娘のほうは見もせずに、紫鏡会の連中と何やらひそひそ話している。
「佳代さん」
会場のざわめきの中でも、その声は何故かすっと耳に染み込んだ。
「お母様…」
静かでしっとりとした声は、佳代の母――灘詩子のものだった。
詩子はその濃い黒色の眼で冬枝をちらりと見てから、佳代を冷たく見下ろした。
「何ですか、先ほどの取り乱しようは。警視総監の孫娘が、情けないとは思わないのですか」
「お母様…」
「お祖父様が見たら、さぞお嘆きになることでしょう。警視総監の孫娘であるならば、もっと毅然としていなさい」
詩子の淡々としたお説教に、佳代がしゅんとうなだれる。それを見たら、冬枝は頭にきた。
「ちょっと、あんた。警視総監だか何だか知りませんが、そんな冷てえ言い方することないじゃないですか。佳代さんが気の毒だとは思わないんですか」
しかし、詩子は冬枝など見えていないかのように、不透明な眼差しを娘に向けている。
佳代は、そっと冬枝の胸から離れた。
「…いいのよ、おじさま。お母様の仰る通りですもの」
「佳代さん」
「佳代はもう行きます。おじさまも、今夜はゆっくりお休みになってね」
佳代は切なげに笑うと、詩子に連れて行かれてしまった。
娘の危機に背中を向ける父親に、冷酷な母親――。
冬枝は、佳代の家庭環境にすっかり同情してしまった。
――けっ、何が上級国民だ!自分の娘が殺されそうになったってのに、あんな血も涙もねえ親がいるかってんだ!
一人、毒づいてから、冬枝はハッとした。
――しまった!さやかは!?
監物の乱入のせいで、プレイルームはすっかりオッサンたちの立ち話の場と化している。冬枝が思いっきり2階のギャラリーを振り仰いでも、見咎める者はいなかった。
プレイルームの上空を縁取るように並んでいたメイドたちは、すっかり散り散りになっている。白い手すりの向こうに、さやからしき人物は見当たらなかった。
「畜生っ!」
吐き捨てて、冬枝は後ろも見ずにプレイルームを飛び出した。
「あっ、冬枝君…」
純一が思い出したように冬枝を呼び止めたが、冬枝が弾丸のように走っていくのを見て、諦めて手を下げた。
「…まあ、いいか。今夜の勝者は彼だ。約束は守らないとね」
そう言って、純一は雀卓を見下ろした。
冬枝の席には、それは綺麗な大三元が出来上がっていた。
丁寧に刈り込まれた常緑樹が、月の光を反射する。
芝生をさわさわと鳴らした夜風が、さやかのスカートをひらりと揺らした。
「ミノルさん…」
「…お久しぶりですね、さやかさん」
靡いた銀髪から、蘇芳色の瞳が妖しく覗く。ミノルは、薄い笑みを浮かべた。
「君なら、僕のメッセージに気付いてくれると思っていましたよ。もっとも、今回は少し急いでいたもので、気の利いたフレーズも作れませんでしたが」
「…『牌を持って待っている』。それだけで、僕には十分です」
さやかは、『百塔』の牌を取り出した。
1月――秋津イサオの命を奪った犯人が、さやかとミノルに残していったもの。
ミノルの牌は、先日、監物に斬られて粉々になってしまったが――中に入っていたおみくじは、まだ手元にあった。
「僕は凶でした。フフッ…いつもこうなんです。麻雀でツイている代わりに、くじ運は最悪」
「…イサオさんも、そう言ってました。だから、ミノルさんの代わりに僕に…」
「強引な方でしたね。僕の代わりがさやかさん、そのさやかさんの代わりに、イサオお兄さんが引く…それでは、イサオお兄さんが引いたのと変わらないじゃないですか」
ミノルとさやかは、今も秋津イサオの手のひらの上にいる。互いに、禁忌の引き金に指をかけたまま。
雲が晴れ、月明かりが2人を照らす。スポットライトを浴びたかのように、2人の影がくっきりと庭に刻み込まれた。
「ああ……今夜は月が綺麗ですね」
そう言って――ミノルは、瞬時にさやかとの間合いを詰めた。
「!」
見開かれたさやかの眼いっぱいに、ミノルの冷たい面差しが映る。
ざざっと、さやかのドレスが庭の土に塗れた。同時に、ミノルの五指がさやかの首に食い込む。
「……!」
さやかは一瞬、ミノルの腕を振り解こうとして、びくんと震えたが――すぐに、身体から力が抜けた。
夜風が止まる。恐ろしいほどの静寂が、2人を包む。
「君はイサオお兄さんの仇……」
ミノルが小さく呟く。
終戦直後、東京から戻ってきたイサオの笑みが、大きな手が、ミノルの中で明滅する。
――僕はずっと、イサオお兄さんに守られてきた。今度は、僕がイサオお兄さんの仇を…この手で…。
さやかはしばらく、凍り付いたようにミノルを見つめていたが――やがて、苦しげに呻いた。
「んっ……ぐっ……」
少ない空気を駆使して、唇を動かし、どうにか言葉を紡ぐ。
「んんんっ…麻雀っ……麻雀っ……!」
「……麻雀?」
最期の言葉にしてはいささか不釣り合いなワードに、ミノルが少し眉を上げる。
さやかは、渾身の力で言葉を吐いた。
「麻雀っ……続き……まだ……終わってないっ……!」
麻雀――続き――まだ――終わってない……。
ぼんやりとした復唱したミノルは、不意に、イサオの大きな笑みをそこに見た。
――イサオお兄さん!
それは、遠く色褪せた40年前の思い出ではない。まだ1年も経っていない、冬の夜の悲しい記憶。
『南三局からだぞ、ミノル。待ってろよ』
血塗れになりながらも、イサオはそう言って笑った。最後の最期まで、兄は明るく強い兄のままだった。
今夜、ミノルにさやかを殺せと命じた兄とは、何かが違う。あれは、兄の顔をした別人……。
――そうだ。あれは、本物のお兄さんじゃない。僕は……。
ミノルは、ハッと自分の今の状況に気付いた。
さやかの上に馬乗りになり、首を絞めている。さやかはもう、息も絶え絶えだ。
「さやかさん!」
「………」
ミノルはすぐに止めようとしたが、両手がさやかの首から外れない。まるで、五指がさやかの皮膚に貼り付いてしまったかのようだ。
――この僕から……『秋津の魔法使い』秋津ミノルから、10本の指を奪おうって言うのか…!
口元が、笑みの形に歪む。普段は末っ子という立場上、大人しくはしているが、こう見えてプライドの高さでは兄たちに劣らぬ自信があるのだ。
――イサオお兄さんを殺されたうえに、今度はこの手で、好きな女の子を殺させられようとしている。ここまで僕を愚弄する相手は、他にいませんよ。『百塔』…!
自身を操る何者かを振り払うように、ミノルは首をぶんと振った。
中折れ帽が夜空に舞い、銀髪がうねって乱れる。
反動をつけてから、ミノルは――さやかの首を絞める自分の手に、思いっきり噛みついた。
犬歯が皮膚を食い破り、血の味がする。不快さに眉をひそめながらも、顎の力を緩めることなく自分の肉に歯を食い込ませる。
「っ!」
ミノルはそのまま、口で自分の手を引っ張り上げた。
だらだらと血を流しながら、両手がさやかの首から離れた。
「…っ!げほっ、げほっ!」
ようやく解放されたさやかが、勢いよく咳き込む。
「…すみません。苦しい思いをさせてしまいましたね」
「…ミノルさん!手が…」
「平気ですよ。君は優しいですね」
自分の首を絞めてきた相手の心配をするなんて、と若干の呆れを込めてミノルは言ったのだが、さやかはよろめきながらこちらに近寄って、ミノルの手を握った。
「だって、ミノルさんの手が使えなくなったら…!麻雀の続きが打てなくなっちゃうじゃないですか!」
「………確かに、それは由々しき問題ですね」
さやかは未だに、夏に『こまち』でミノルと打った勝負の続きを熱望しているようだ。
雀狂として、ミノルにもさやかの気持ちがわからなくはない。分からなくはないのだが、兄たちに劣らぬミノルの高いプライドが、がっくり折れそうにもなる。
――さやかさんの中で、僕はあくまで『麻法使い』に過ぎないんですね…。
きっと、先刻のセリフも、さやかはイサオを思い出させようとして言ったわけではないのだろう。偶然の電流が走ったのは、あくまでミノルの記憶の回路が繋がったからだ。
――だけど、今は君と2人だけ……。
ミノルは、腕をそっと伸ばしてさやかの肩を抱き寄せた。
星々が瞬きを止めたかのように、優しい暗闇だった。40年前でも、今年の1月でもない、今、ここにいるさやかの温もりだけにミノルは集中した。
「さやかさん」
「はい」
「君は、生まれ変わりを信じますか?」
さやかの肩が一瞬、ぴくりと震えた。
それから、さやかの髪が左右に揺れた。
「…いいえ。僕たちは、死んでしまったらそれっきりです。『生まれ変わり』は、僕たちじゃない」
震えるさやかの髪を、ミノルはゆっくりと撫でた。
「…僕も、君と同じ意見です」
ようやく、ミノルとさやかは同じ地平に立てた。相手の本当の姿を、はっきりと見ることが出来た。
――イサオお兄さん、その背後にいた玄武会に翻弄された僕ら……もっと、違う形で巡り会えたら、どんなに良かったでしょうか。
だが、ミノルもさやかも運命を嘆き、足を止めるつもりはない。お互い、未来を目指し続けてきたからこそ、すれ違い、傷付き合いながら、ここまで辿り着いたのだ。
「僕たちは、『生まれ変わり』を見つけ出し、倒さなければならない。そうですね」
「はい」
さやかの眼差しは、湖面のように澄んでいる。最初から、イサオの仇――『百塔』に狙いを定めてきたのだろう。
ミノルは、にっこりと微笑んだ。
「勝ちましょう。勝つまで打てば、負けることはありません」
「勿論です」
ミノルはすっと立ち上がり、さやかの手を引いて起こした。
「僕は、ここで失礼します。君は、冬枝君の元へ」
「ミノルさんは、どちらに…?」
「ちょっと野暮用に」
からかうように言ってから、ミノルは笑ってさやかの肩を叩いた。
「もうじき、紫鏡会の藤浪が、ここに戻って来るでしょう。僕がいるのがバレると、色々と厄介ですから」
「そう…ですか。お気を付けて」
「君もね。ここには、冬枝君を誘惑する、魅惑の美少女がいるでしょう?」
ミノルがウィンクすると、さやかが苦笑した。
さやかに背を向け、ミノルは灘邸の裏口へと歩み出した。
冷たい夜風が、今は心地いい。やっと、自分の中に巣食っていたもう一人の己が消え、自分一人になれた気がする。
――さやかさんとデートでもしたいところですが、叔父さんというのは忙しいものですね…。
タカマガハラに連れて行かれた栗林を救出するため、体勢を立て直さなければならない。さやかと冬枝、それに嵐のことは、賽の目に任せるしかなかった。
ミノルと別れたさやかは、くるりと周囲を見回した。
――まるで、作り物みたいに静か。
すぐそこにあるプレイルームでは監物の騒ぎがあり、今さっき、ここではさやかがミノルに首を絞められた。だが、灘家の庭園は、何事もなかったかのように、綺麗に整えられた木々が月光に照らされているばかりだ。
灯りに吸い寄せられるように、さやかはプレイルームの窓辺へと歩を進めた。
窓から漏れるプレイルームの煌びやかな照明も、あの浮世離れした美形の敬一も――このお屋敷は、何もかもが夢の中のようだ。
――でも、ここには紫鏡会の連中が潜んでいる。
ミノルも言っていたが、さやかもここに長居していてはまずい。一刻も早く、冬枝と合流しなければ――さやかが、そう思った矢先だった。
「夏目さやか」
鼓膜に響いた瞬間、目の前が真っ暗になった。
耳を通じて、さやかの意識にその男のどす黒さが流れ込む――そんな声だった。
足が、一歩も動かない。後ろを振り返ることすら、さやかの身体が拒んでいる。
危険を察知した脳が、思考を目の前一点に集中させる。だが、何も考えられなくとも、その男の正体だけはさやかにも分かった。
――藤浪京!
そこにいたのは、まさにさやかが最も恐れていた相手――青龍会四天王・藤浪だった。
笑みすら声に滲ませながら、藤浪は言った。
「一つ質問があります。玄武会の複製人間計画について、どこまで知っていますか」
「………!」
いきなり核心を突かれ、さやかは動揺した。
――青龍会は、そこまで把握しているのか…。
イサオの顔が、脳裏をよぎる。
何も知らなかった頃のさやかが、信じてしまった明るい笑顔。
さやかの動揺を察知したのか、藤浪が「ああ」と冷ややかに言った。
「言い方を変えましょう。秋津イサオは、玄武会の計画についてどこまで話しましたか?夏目さやか」
「………」
空気が、みしみしとさやかの全身を圧迫する。藤浪の見えない手が、さやかを羽交い絞めにしていくかのようだ。
冬枝の顔が頭に浮かんだ瞬間、さやかは自身が危機に陥っていることを察した。
――躊躇している暇はない。
さやかがここで話を逸らしたり、誤魔化したりすれば、藤浪は一瞬でさやかを殺すだろう。そう確信した。
冬枝が生きていると分かった今、さやかが優先すべきは己の命だ。
解を出したさやかは、緊張で重くなった顎を、ぎこちなく上下させた。
「…『愛国のための強化兵士製造・養成計画』……旧陸軍の『第百八部隊』において、玄武会主導で行われていた人体実験……参加していたのはイサオさんや、イサオさんと同じ地方出身の若者たち……それと……」
ぐっと、言葉が詰まる。
これを言ってしまえば、藤浪が今この場で、さやかの首を刎ねる恐れがあった。
――言っても死ぬ、言わなくても殺される。だけど……。
もう一度、冬枝の顔が頭に浮かんだ。さやかは、逡巡を振り捨てた。
――僕が、自分で背負った業だ。ここで死ぬなら、それが僕の限界なんだ。
深呼吸し、さやかは続きを口にした。
「……海堂玖門。海堂も、自分と同じくあの実験の場にいたと……イサオさんは言っていた」
イサオたちは様々な実験を強制され、中には命を落とす者もいた。海堂は被験者を統括する軍人で、その冷酷な相貌は、憎しみと共にイサオの記憶に刻まれた。
戦争の激化によって、実験に関わった軍人・被験者共に戦地に駆り出されるようになり、『第百八部隊』は空中分解した。イサオも内地での任務に転任され、そのまま終戦を迎えたという。
だが、これらの話を、藤浪は聞かなかった。
海堂の名が出た途端、藤浪はあっさりと退いた。
「そうですか。では、これにて質問は終わりです」
全身を覆っていた気圧が緩み、さやかの身体から息が漏れた。
――解放…されたのか……?
しかし、安心したのもつかの間だった。
今度は、本当に藤浪の腕が、さやかの首を押さえたのだ。
「ぐっ…!」
「貴重な情報、感謝しますよ。お礼に、海堂会長が待つお茶会にご招待して差し上げましょう」
物腰はどこまでも優雅だが、藤浪の腕はびくともしない。振り解こうとすればするほど、力を吸い取られていくかのようだ。
――ダメだ……手も足も出ない…!
このまま、青龍会に連れ去られてしまうのか――万事休すと思った、その時だった。
「藤浪。そのお嬢さんを、放して差し上げなさい」
声がしたほうを見て、さやかは一瞬、ハッと目を見開いた。
――佳代さん……?
そこにいたのは、豊かな黒髪をシニヨンにまとめ、眼鏡の奥に聡明そうな眼差しを湛えた、美しい女性だった。
藤浪と同じぐらいか年上の、年配の女性と思われるが、峻厳な雰囲気はどこまでも清らかで、年齢を感じさせない。
だからだろうか――顔立ちなのか、まとうオーラが似ているのか、何故かさやかは女性に佳代を連想した。
「大奥様」
さやかを押さえつけたまま、藤浪が軽く戸惑うような声を上げた。
――大奥様ってことは……この人は、佳代さんのお祖母さん……?
つまり、あの灘孝助の妻であり、淑恵の母親に当たる女性ということになる。確か、名前は――とさやかが考えかけたところで、女性が再び口を開いた。
「もうご用は済んだでしょう。そんな年端もいかない若い女性を捕まえていたら、佳代に誤解されてしまいますよ」
女性がからかうように言ったので、藤浪もふっと笑った。
「大奥様にそう言われてしまっては、敵いませんね。仰せのままに」
藤浪の腕が離れると、ぐん、と重力がさやかを襲った。思わず、その場にへたり込んでしまう。
「あら…。可哀想に」
女性はストールを翻しながら、さやかの元に跪いた。
さやかの顔を覗き込み、前髪をそっと直してくれる。指先の優しさが、淑恵に瓜二つだった。
「藤浪。私は、このお嬢さんとお話があります。あなたは佳代のところに行っておあげなさい」
「かしこまりました。では、失礼します」
藤浪は折り目正しく一礼すると、あっさりとその場から引き上げていった。
「………」
呆然と藤浪の背を目で追うさやかに、女性がふわりとストールを羽織らせた。
「ここは冷えるわ。中に入りましょう」
「あ、あの、あなたは……」
成り行きに戸惑うさやかに、女性はにっこりと眼鏡の奥の瞳を細めた。
「私は灘八重子。あなたとはいつかお会いできる気がしていたわ、夏目さやかさん」
八重子はさやかを連れて、灘家本邸にある自室へと向かった。
「プレイルームのほうが騒がしかったから、心配になって見に行ったの。そうしたら、中の騒ぎはもう収まっていたけれど、あなたが藤浪に捕まっているのが見えたものだから」
はい、と言って、八重子は温かい紅茶の入ったティーカップをさやかに勧めてくれた。
「…助けてくれて、ありがとうございます。それで、僕にお話って…?」
美しい調度品に囲まれた部屋には、さやかと八重子の2人きりしかいない。
青龍会のようなヤクザならともかく、八重子のような貴婦人に招かれる理由が、さやかには分からなかった。
八重子は自身もティーカップを手にすると、香りを楽しむように口元へと運んだ。
「……まずは、あなたには謝らなければいけないわね。夫……灘孝助のしたことで」
「それは、灘先生と青龍会が結託して、彩北の女の子たちをさらって、海外へ売り飛ばそうとしていた件でしょうか」
優しそうな八重子に対して胸は痛んだが、誤解や間違いを避けるために、さやかははっきりと言葉にした。
――敬一さんといい、このお屋敷は曖昧な物言いが多すぎる。
八重子は気を悪くした様子もなく、「ええ」と頷いた。
「あの事件で、淑恵と忍さんからは縁を切られたわ。淑恵は昔から潔癖な子で、あの人のやり方に反発していました。無理もないと思っています」
政界の大物だった夫が失脚した事件だというのに、八重子の口調は淡々としている。続いて、さやかのほうを見た時も、さやかを責めるようなニュアンスは感じられなかった。
「あなたも、あの人の所業には憤りを感じたのではなくて?夏目さやかさん」
「…ええ、まあ。女ですから…」
ぎこちなく答えるさやかに対し、八重子はどこか遠くを見るような眼をした。
「そうね。だけど50年前、あの人だけが私の味方だった」
八重子の微笑みの奥に、底知れぬ悲しみが隠れている。さやかは、何も言えなくなった。
「私の父は代々続く政治家一族の長男で、権威や家門をとても重んじる人だった。母はそんな父を心から敬愛していた。男は強く、女は清く。それが、両親の信じる神様だった。だから、私が他所の男に乱暴されたと言った時、2人は心から私を軽蔑した。家の恥だと言って、私を屋敷の奥深くに閉じ込めた。使用人たちですら、私を汚らわしい女だと言って忌み嫌った」
孤独な八重子の前に現れたのが、父が養子に迎えた孝助だった。
「孝助さんは私の窮状に同情し、両親の仕打ちに憤ってくれた。私たちは手を取り合って、大人に立ち向かったわ。そして父は死んだ」
さやかには、八重子と孝助が共謀して八重子の父を殺害したように聞こえたが、気付かないふりをした。
「私たちの間には、純一と淑恵が生まれた。あの人は戦争でぼろぼろになったこの国のために、文字通り身も心も砕いてきたわ。あの人の志は、私の志。戦禍を招いたこの国の病んだ心を浄化するために、私たちは手段を選んではいられなかった」
八重子はふふっと笑って、ティーカップをテーブルに置いた。
「だけど、『竜宮城計画』は性急だったわね。少なくとも、今はまだ国民が納得できる段階ではないもの」
八重子の言い方に、さやかは不穏なものを感じた。
――この人は……見た目は似ているけど、淑恵さんや佳代さんとは違う……。
黒々とした瞳は、この世の闇を全て吸い込むブラックホールのようだ。それはいずれ、八重子自身をも飲み込んで消える、巨大な暗黒なのかもしれなかった。
「この国には今、未曾有の脅威が迫っています」
八重子は、不意に口調を改めてそう言った。
「それは優しい顔をして私たちを抱き締めながら、その腕で私たちの息の根を止めるでしょう。私たちは、抗わなければなりません」
さやかは、彩北の船上で灘孝助が言っていたことを思い出した。
――内側からの脅威が迫っている。確か、そう言っていた…。
孝助と八重子は、その『脅威』からこの国を守るためなら、どんな犠牲を払ってもいいと考えている。たとえ、青龍会の汚い手を借りようとも構わないのだ。
だが、さやかには未だに、その『脅威』の正体が見えなかった。
頭上を照らすシャンデリアが、八重子の自嘲の笑みを照らしあげた。
「純一と敬一は、使命を果たすには浅はかすぎます。あの子たちが整えた道を行くのは、佳代の役目です」
「…佳代さんが?」
佳代が、父親や祖父のように政治の道へと進むというのだろうか。高飛車なお嬢様というイメージしかないさやかには、想像もつかなかった。
八重子は、どこか誇らしげに笑った。
「佳代が一番、私に似ているわ。いいえ、あの子は既に私を凌駕している」
そこで、さやかの背に戦慄が走った。
『竜宮城計画』の真の黒幕は、孝助ではなく八重子だったのではないか――。
このお屋敷を夢の中のように飾り立て、隙間なく蜘蛛の糸を巡らす人物。さやかは今、その目の前に座っていた。
「あなたは…」
言おうとしたさやかを遮って、八重子は楽しげに語った。
「夏目さやかさん。あなたもまた、数奇な運命の持ち主ね。佳代が手にするのが光り輝く栄冠なら、あなたが手にするのはこの世で最も危うい知恵の実」
「………!」
さやかは、反射的に立ち上がっていた。
戦争は、海堂やイサオと言った怪物を生んだ。八重子もまた、その一人なのかもしれない。
――憎むほどじゃない。だけど、友達にもなれない。
「お話、ありがとうございました。僕はこれで失礼します」
さやかが話を切り上げても、八重子は引き止めなかった。
「さようなら、お嬢さん。お会いできて光栄だったわ」
そう言って微笑む八重子の姿は、後光を帯びて見えた。
扉をぱたりと閉めて、さやかはふと思った。
――神様がいたら、八重子さんのような存在なのかもしれない。
どこまでも美しく慈悲深いが、その手のひらの上では数多の血が流れる。
一方、プレイルームを飛び出した冬枝は、灘家本邸を駆け回っていた。
――くそっ。さやかの奴、どこ行っちまったんだ!
せっかく再会できたというのに、ここでまたはぐれるなんて御免だ。焦燥は募るが、さやかとの再会を阻むかのように、お屋敷は無駄にだだっ広い。
月明かりに照らされた長い廊下を、冬枝は走り抜けた。




